第26話

 そして姉が尻尾を巻いて花の都の大伽藍から逃げ出したその頃、彼女の妹という人は、何処で何をしていたか。

 姉は自分のすべきことで頭が一杯で、一緒に平安京に連れてきた家族のことなどはすっかり頭から抜けているが、普段は姉のことばかりちくちくと考えている妹の方も、今はまた自分のすべきこと、いやせざるべきことについて考えていた。

 つまり、会うか、会わないか。

 今現在の彼女は、自分自身がどのような場所で、どのような身分で、どのような待遇を受けているかというのを、実感を持って知っている。そして、彼女、つまり自分自身以外の人間が、どのような場所で、どのような身分で、どのような待遇を受けているのかというのも、様々な他人の話によって、なんとなくではあるが知っている。その待遇差たるや、よくよく考えてみれば理不尽極まりないことである(なぜ同じ人間同士であるにも関わらず、傅く側と、傅かれる側に分け隔てられてしまうのか?)、が、それでも、衣食住満ち足りて、伴侶や地位や名誉や子宝にめぐまれて、そのうえに創作上の技能的才能にもめぐまれて、これ以上何を望むのか、いや、この燦々たる、輝かしい現状に、どんな不満が? 彼女がもしも近しい人に、少しでも自身の現状について不満を述べたら、十中八九、人は彼女のことを邪険におもうだろう、これほどめぐまれて、すべてに長けている人が、何を……私なんか、もっとひどい目に。それでもこうやって、文句一つ言わずに働いているのに。なんてぜいたくなんだろう、なんて傲慢なんだろう……

 しかし彼女からしてみればまた、そのような嫉みに似た感情を抱かれたとしても、このおのれのなかの真っ黒な憤懣がすべて霧消してくれるわけでもない。他人からおのれの現状を妬まれて、嫉まれて、恨まれた結果、それらすべての自身に降りかかる現状が御破算にでもなるようなことがあれば……そうなれば、他人の感情もまた、気を配るに値するものになるだろう。でも実際はそうじゃない。妬まれて、嫉まれて、それで終わりだ。それならば他人にどうおもわれようと、どうだって構わない。誰に贅沢とたしなめられても、誰に傲慢だと指摘されても、それでも彼女は今の現状に不満がある。不満があるどころか……すべてが気に食わない。何もかもが下らない。こんなものが欲しいというのなら、欲しいという人に全部くれてやる。地位も名誉も身分も顔も配偶者も子供も……才能も?

 才能……

才能とは何だろう。それは自らの技能によって、他人を快の方向へ導いてやることのできる手段のことだ。

 歌の才能。書の才能。音楽の才能。人は、様々な種類における技能の結果によって他者の感情に刺激を与え、その優劣によって人を愉快にしたり、不快にしたりする、と。前者を選択し続けることのできる者は幸いだ。彼らはその結果によって多くの他者からの称賛と評価を得、それが多量であればあるほど、他者によって自身の価値や存在が広範囲に浸透するのだと、そしてそれによって、みずからの生の正しさ、「ボクハココニイルヨ」というのを、多数の他人に認めてもらえ、他者によってその他者の見る、「他者性を有した」自己というものが、無限に増幅していく……才能は自己を増幅させる。そして自己という、実は儚くて壊れやすく、実際には触ったらモヤモヤと泡のように煙のように消えてしまう実態のないものに、色を付け、形を作り、強固な像を作り出してくれる。才能とはそういう素晴らしいものだ。それを手放す? 地位も名誉も身分も顔も配偶者も子供もどうでもいい。そんなものは犬にでも食わせておけばいいものだ。でも才能は違う。絵は……私が描いた、絵というものは……

 あの人が言ったんだ。

“あなたの描いた絵は素晴らしい”。

 別にそれが、死ぬほど好きだったわけじゃない。三度の飯よりも好きだったわけじゃない。でも、あの人が言ったんだ。あの人が言ったくせに。私の絵が良いと言ったくせに……言ったから、だから、それだから私は今まで、絵ばかりに欲求を見出してきたのに。

 それなのに、その絵を良いと言ってくれる彼女は、もうここへはどこにもいなくなってしまった。残ったのは残骸のような(失礼!)地位と名誉と身分と顔と配偶者と子供だけ。

 このような目に遭って……

 この期に及んで、何が才能だ? と、彼女はおもった。

 彼女は地位と名誉と身分と美と配偶者と子供と才能を有し、それもその一つひとつがとびきり上等なものばかりだ。その綺羅綺羅しいものの一つひとつが、他人からの賞賛の対象であって、誉の的であって、永遠のあこがれのものである……そういうものを全部詰め合わせにして、きれいな女体で包装したのが、彼女という存在そのもののすべてだ。でも、だから? だから何なのか? そんなことはすべてが下らない。なぜか? そんなものは決まっている、それらすべての綺羅綺羅しい、包装され尽くしたものは、すべて他人に奉仕するための、他人の快にしかならないものだからだ!

 全身から快感を出し尽くして、出した本人は出がらしのようにしぼんでいく。実際に彼女はすでにカラカラで、その全身は水を吸ったように潤って、それを見るものを楽しませ快感を誘うが、しかしその快感が彼女自身へと還元されることはない。人を楽しませ和ませて、接触するもののすべての快楽を約束する彼女自身は、孤独で、乾いていて、いつも悲しくて、寂しい。それは彼女を潤してくれるものが、彼女の絵以外に、なんにも存在しないからだ。だから彼女は絵を描いた。絵を描いて、自分の描いたその絵に、なぐさめを見出した。では、なぜ彼女の描いた絵のみが、彼女自身の孤独を潤し、慰めてくれたというのか? それは彼女の姉のせいだ。彼女の姉が、彼女がこの世の中でもっとも尊敬していて、もっとも愛していて、もっとも必要としている姉が、彼女の描いたものを”良い”と言ったから。

 お姉さんが良いと言ったんだ。あの人の良いといったものが、間違っているはずがない。私の中にはお姉さんが良いというものが必ず存在する。それが絵というものだ。

 私にとって絵とは何だったのか?

 私にとって絵とはそのものすべてが私自身であったのだ……と、いうことにすればいい、と彼女はおもっていた。だから彼女は最後まで、絵というものを、才能というものを手放すことができなかった。だから、そのせいで自身の生命の花を散らすような結果を招いたとして、それを後悔するなどということが、どうして起こりうるだろう? 彼女にとって、絵とは自分自身であり、武器であり、手段であり、そして他人の、というよりも、たった一人の人の関心を誘うための、あまい蜜に違いがなかった。

 でもそれも今はどうでもいい。だって蜜をいくら溜め込んだって、それを舐めに来る蜂が、どこかへ行ってしまったんだから。

 お姉さん、あなたはさいていね。わたしを一人、こんな地獄に閉じ込めて……


 それでも彼女は唇をかみながら、絵を描き続けた。

 もうこんなことをするのもこれで最後だコレデオシマイだ、とおもいながら。

 なぜだろう?

 つまり――私は姉の愛を受けるというだけのために、絵を道具として使用してきたのではない!

 あの人など今や、居ても、居なくても同じことだ。たしかにあの人は私の頭に火を灯して、それを真っ赤な炎から青い炎に変えてしまったかもしれない。だけどそれも過去の話だ。あくまでもそれはきっかけに過ぎない。火のないところに煙は立たない……のだとすれば、それを煙として昇華させたのはこの私だ。それならば、この才能の使用目的は、もっと別の場所に注がれるべきだろう……

 私は姉からの評価それのみに執着しているのではない。私の執着したのはもっと別の……もっと別にある、もっと良いものだ。

 そして、彼女はその最後の絵巻物を完成させた。時々ご機嫌伺いに文を送ってくる兵部卿宮も巻き込んで、彼に指示を出して線画を描かせたり着色を手伝わせたり、彼の人脈を率いてそれとまったく同じ複製品を百部用意させて、しかるべき場所へ寄進したり進呈したりした。

 その絵巻物はそして、これまでにないような評判を取った。

 聞こえてくる声の中には、作品を賛するものばかりではなく、それを頭から否定する声も少なくなかった。しかしそれも当然だろう、と彼女はおもった。私は描きたいことを描いた。そして、そこへ描いたのは彼女の望む楽園の似姿だった。いわば個人的な桃源郷、個人的な遊園地だ。そこへ用意された快楽は、万人のためのものではない。一方の人間、というよりもその快楽を快楽だと自認することのできるものにとっては、この上ない快楽をもたらしてくれるが、他方のそうでない人々のことは、まったく置き去りにしてしまい、それどころかある種の不快を持たないではいられないほどの嫌悪を催さざるを得ないほどの……

 ある一定の人々は、彼女のその作品を表といわず、裏といわず血気盛んに悪罵を浴びせたが、それでも彼女は平気だった。

 平気だった……というよりも、彼女は、どーでもよかったんであった。

 ここへは誰も入って来られない。他人も、親も、男もこどもも、あの人ですら。

 ここは完成されていて冷たい。それは触れるものをその冷たさによって拒むが、それゆえにどこまでも澄んでいてうつくしい。

 この世界では誰にも邪魔されることがない。そしてそこは私が創った。ここではたった一人、あのお姉さんをも介入できないほどの……

 そうだ、このもっともうつくしいものを、この世でもっともうつくしい、あの方に見ていただこう。


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