第25話
そのようにして、流石は双生児と言うべきか、その姉の方でも、なかなか危険な場所へとその身を浸していくようになっていく。
きっかけというか、それはいずれ言及される運命にあったのかもしれないが、その行動の直接的な起因となったのは彼女の欠勤状況だった。
彼女は宮中では男性として通しているが、さすがに、その身そのものを男性としてしまうことは出来ない。であるからして、月に一回は数日程度、物忌と称して出仕を停止しなければならなくなる。その日、彼女はようやく月一回のものが終わって、実家から久しぶりに宮中へと出仕してきていた。
出勤札をひっくり返している彼女を呼び止めたのは、彼女の上司だった。
上司は彼女に軽い見舞いの挨拶などをした後、帝があなたを呼んでいると教えてくれた。ので、彼女はその足で清涼殿へと出掛けた。
普通、帝と話をするともなれば、昼御座との間に御簾が掛けられ、臣下は廂の間に控えるなどという距離が保たれるのが当然ではあるが、彼女はその御簾の内側への招待を受けた。
彼女は出来る限り端近に座り、御座から距離を取った。視線を上げると、御座の斜め後ろあたりには数人の内司が控えているのが見える。彼女はそこで、時候の挨拶もそこそこに、帝から直接の御小言を賜わった。
曰く、今回の長期に渡る欠勤理由は何ごとかと。「はあ。少し触穢に遭いまして」
「先月は?」
「先月は……」先月は、何と言って私は誤魔化したんだっけと彼女は考えながら、「家のものが体を悪くしておりまして。歳も歳ですし、何かと気忙しいと申しますか」
「女ですか?」
「……………」
「どうせそうなんだろう。年老いた両親などを持ち出して、それを単純な言い訳にするなど……あなたらしくもない。芸のないことですね」
「いいえ、私は……」
「どこか山深いところに囲った女のところにでも通っていますか」
「……………」
「あなたには浮いた噂のひとつもないと不思議にしていたが……以前から、怪しいとおもっていたんだ。超人のように、人々の恒常とするところから超然とした……でもそれは私の勘違い、買い被りだった。そういうことですか」
「いえ、違います」
「何が違うの?」
彼は彼女の無知を嘲るような言い方をした。
「何も違わないでしょう。どうせそんなことだろうとおもっていたんだ」
「なぜ、そのような」彼女は頭の中で言葉を選びながら、言うべき適切な言葉を探した。「突然そのような……何の話ですか」
「だから、あなたは私の目を盗んで、物忌と称してご自身のするべきことを怠っていたということだよ。私はずっと騙されていたんだ」
「そんな……」
彼女は無意識に首を振った。
「騙すだなんて、そんなこと。私がなぜ?」
「そんなことが私に分かるわけがないでしょう」
「誤解です」
「いい人がいるの?」
「いいえ、お主上、私は天命に誓って、そのようなものはおりません」
彼女がそのような理不尽に似た仕打ちで悪しざまに言われて、それでもまずはじめにおもったのは、ここまでのことを、帝御自らの口から言わせてしまったという、忠臣としての罪悪感のようなものだった。この世のすべてを照らし下ろす、類無き御方からこのような気遣いを受けるなど、なんと勿体ない……この世でただ唯一の御方にそのような気苦労を負わせてしまったという、自身の不明を後悔する念を、彼女は抱いたのだ。
彼女は彼女の中の、日々の生活からごく自然ににじみ出た忠誠心のみによってその否定を強くしたに違いなかったが、それはもう一方の話者にとっては、別の意味を持って、彼の人の心に重く、珍重な様子で響いていたらしかった。
「……………」
帝は脇息に凭れて、ほうとため息に似たものを吐いた。
「あなたが不在の数日を、私がどれほど寂しく、心枯れた気持ちで過ごすのか、あなたは理解できないでしょうね」
「……………」
「あなたは心の冷たい人だ」
「私は、そのような……」
「では、一度だって女を欲しいとおもったことはないの?」
「……………」
「そんなはずがないね。だってあなたは男なのだから」
彼は何かを諦めたような、乾いた声で言って、ぱちんと扇の音を一つ立てる。それを合図として、控えていた内司のひとりが、しずしずといざり足で帝の近くへと、一巻の巻物を捧げ渡す。
「あの姫宮の新作、あなたご覧になった?」
広げられた巻物から床しい香りが広がり、彼女の鼻孔を擽った。それは彼女のとっては、懐かしさを誘う香りだった。
「兵部卿宮などはこれを絶賛してね。会うたびに、あの物語は素晴らしかっただの感動しただのとわあわあ言い通しで、こちらは正直言ってへきえきするくらいなんだけど。しかしどうにも私にはいまいち理解が及ばないところがあるね」
「……そうですか」
「そういう話を、是非あなたとしようとしていて……」彼は巻物をくるくると丸めると、まるでちり紙か何かを放るかのように、脇息の隣にそれを放った。「それにもかかわらず、あなたは触穢だ物忌だと嘘を並べ立てて」「嘘ではありません」「ではどうして月に一度、決まったような時期に休みを取るの?」「……………」「まるで……」彼はその言葉自体に恨みを込めるかのように、静かに言葉を吐き出した。「まるで、女のように……」
彼女は顔を上げた。
帝は肩肘を脇息へもたせたまま、彼女を見ていた。帝は少し笑った。
「あなたは……ほんとうに『女にて見たてまつらまほし』ですね」
「……………」
「『かかる女のあらましかばと見るたびに、いみじく思はしきを……』、『女にていみじう見まほしうをかしうもあるかなと恋しきにぞ』……まあ何んでもいいですが」
帝は脇息へもたれたまま、閉じた扇で、側にあった巻物を弾いた。巻物はするするとその身を伸ばして御座から広がり、床の上に絢爛鮮やかな錦の川を作る。彼女はそれを見ていた。ああ、以前の作品より色使いが鮮やかになったなとかおもって。いや、鮮やかというんじゃないな。あれでは少し明度がキツすぎる。彩色をするのなら、もっとごく微細な……淡い色を使って、あれでは目にも優しくないだろう。やはり、色というものは、それを見るものを心和ませ、寛がせるような類のものでなければ意味がないのではないか……
「妹御は君に似ているの?……いや、訊くまでもないな」
「さあ、どうでしょうか……」彼女は言うべき適切な言葉を探したまま俯く。
「しかし君の口から言ってほしいという気持ちもある」帝は言った。「むしろあなたのうつくしさを参考として、あの姫宮の御尊顔についておもいめぐらせることの方が、どれほど現実というものを有意義なものにしてきたか分からない」今上の君はそう宣った。「あなたのすべてはこの宮中の女、男どもに輝けるほどの喜びを与えました。そのすべてを魅了する、まさに今、朕のめのまえにいるあなたの姿が、それを余すことなく証明し切っている」
「……………」
「しかしあなたは”男”だ。そうでしょう」
「……………」
「光源氏にみまごうほどの、光り輝く当代一の男、立派なおのこが……そうやっていつまでも独り身でいて。ご両親もさぞあなたのことを心配しているでしょうね」
「……………」
「あなたに会えないで淋しかった」
彼は言った。
「あなたをなくせば、この広い宮中においては共に語るものも居ない。誰も彼も、目を爛々とさせて、おのれの保身や出世競争、世継ぎの有無に血道を上げるばかりで、面白くも何ともない。私には、ただあなただけ在ればいいんだよ」
御座所の奥で内司共がさわさわとさざなみのような声を立て始めたので、彼女はそれらのさざなみの中からただしい言葉の意味を探ろうと聞き耳を立てていた。が、敵もさるもの……彼女たちだけには分かる、ごく微細な伝達方法を駆使して、そのさざなみの意味は彼女たちだけにしか通じない。
「今日は夜通し相手をしてくれますね。この巻物にもご興味がお有りのようだし」
「私はまだ、その絵物語に目を通していないのです」
「ああ、そうでしょう。そうだろうとおもった。だから今日は、あなたとは大いに語らうことにしよう」
それでふたりは会わない間のすきまを埋めるみたいに、あれこれについて、長雨のしとしとと秋の夜に降りなずむ中、夜通し語り合うが、そのような不適切な行為が、周囲に好意的に受け止められるはずもなく……
左大臣はぎっしぎっしと簀子縁をぶえんりょに踏みながら、然るべき相手を眼前とするために歩を進める。
彼のめあてのひとは唐猫を相手に手を遊ばせながら、内司に耳そうじをさせている。左大臣がそのような神聖な場所に土足で踏み入るようなまねをするから、猫は逃げるし、内司は耳を掻く動作を止めてしまうし、彼は彼で、そのやわらかなまどろみのなかから引き出されて、現実のろくでもない感情から生じた、他人の神経の襞を慰めてやらなければならないような羽目になってしまう。
「お目通り願います」
ウララカな秋の一日だった。外は秋晴れ、どのような不快もない。暑くもなければ寒くもない。風も強くはないし空気の乾燥もそれほどでもない。御簾はさらさらと揺れて、涼やかな音を立てる。御簾の向こうには彼のめあての人がいる。猫が御簾の下からにょりんと出てくる。そして、そのまま音も立てずに簀子縁の向こうに消えた。
「それで、お話とは?」
「あなたも情緒を解さない人ですね」
御簾の向こうの人はつまらなそうに言った。
「こんな素敵な朝なのに……ご機嫌伺いもしないで。そのように単刀直入に要件のみを口にするのは、どういう了見ですか」
「申し訳ありません。ですが、私を呼びつけたのはあなたの方でしょう」
「まあ、あなたの無粋さは今に始まったことではないですから? いちいち言い立てたところで無意味でしょうけれど」
「……………」
「いい朝ですね」
「ええ、本当に」
「昨夜はよく眠れた?」
「ええ、近頃は過ごしやすいようで」
「そうだね。すっかり秋めいて」
御簾の向こうでは衣擦れの音。彼はそれを聞いている。
「秋の除目……まあ、面倒なことも色々とあるけれど。あなたも色々とお忙しいでしょうね」
「いいえ。そのようなこと」
「色々と気苦労も多いでしょうけれども。日々、そのお取り組みには、敬意を払っているということをですね」
「勿体ないことを」
「それでまあ、苦労ついでに一つ面倒を見てほしいことが一つ」
彼は俯いたまま、膝の上に握りしめた拳を睨みつけた。胃の中がぐるると動いた。
「あの人に……良い人を見つけてあげなくては」
御簾の向こうの人は言った。
「そろそろあの人にも責任ある立場を任せたいでしょう。だけど、しっかり身の固まっていない男を要職に就かせるわけにもいかない」
「……………」
「あなたなら、幾らでもあてはあるでしょう。どこかに都合のいいような人はいないかしら」
「私に……」彼は静かに言った。「あの男と親戚になれと?」
「あれはなかなか付き合いのいい人ですよ。ちょっと見にはとっつきにくいようですが。親戚づきあいをして悪い相手ではないとおもうな。まじめだし、書き物も良くする。一族に一人居れば重宝でしょう」
「まじめねえ……」左大臣はひげを撫でながら、「果たしてそのような性格が、人物の長所と成り得ますかどうか」
「さてそこが問題ですよ」
彼は嫌味で言ったのには違いがなかったが、それを受け取った相手は我が意を得たりとばかりに膝を乗り出して、「まじめ堅物、浮いた話のひとつもない男など、一人前の男と認め評価することが出来るのか」
「出来ませんね」
「そうでしょ? 本来であるならばね。でも、この硬質を彼のみに当てはめてしまえば、この評価は得てして変わってしまう。つまり、長所でしかなくなってしまう」
「痘痕も靨と言いますからね」
「いや、そういうことではなくてね」
「なぜですか」彼は息を吐いた。「なぜ、あのようなものに執着を持つのですか?」
「執着?」御簾の向こうの人は、不思議そうな声で彼の吐き出した言葉を繰り返した。「奇妙な言葉を使うのだな。ちょっと、よく分からないようだが」
「分からないということはないでしょう」
「朕は、あの人に出来る限りのことをしてあげたいとおもっているだけです」
「ですから、なぜ?」
彼はそのような泣き言めいた言葉を口になどしたくはなかったが、その吐き出された言葉には水気が含まれ、勢いそれは彼の口調をひどく哀れっぽくさせた。それは発言者である彼にも容易にわかることで、だから彼は自身のそのような軟弱さを憎んだ。よりによって、彼にとっての唯一人の人をめのまえにしている時に限って……なぜそのような醜態を演じる羽目に?
だから嫌われるんだ。こちらからの感情が、過度に重くて鬱陶しいから。これは歓迎を受けない感情だ。そんなことは分かっている。このような感情を抱かれることを、相手は相手に求めてはいない。それにもかかわらず、この、臓腑から滲み出すような、焦りに似た欲求はどう処理すればいいのか? 相手に提示して見せれば嫌悪される。それを溜めておけば、腹の中に淀んだ空気充満するかのようで気分が悪い。なぜこのような感情が? こんなもの、俺だっていらないのに。誰にも必要とされない感情を日々ふつふつと溜め込んで、誰が一体得するっていうんだよ?
「止めて下さい。あのような下賤のものにこれ以上余計な関心を払うのは。おかしいじゃないですか。本来であるならば……」
違う! 本来であるならば、こんな言葉を吐き出すこと自体がおかしいんだ。誰に向かってこのような無様な……不敬極まりないことを……
「本来であるならば、あのようなものが重用されるということ自体が既存の概念からはすっかり外れてしまっているんだ。いくら優秀な人材とはいえ、そんなものは真っ当な理由にはならない。人材というのは、そういうものではなかったはずだ……私の言っていることはなにか間違っていますか?」
「いや、それは分からないけど」
「分からないということはない。あなたは分かろうともしないだけなんだ」
彼は全身の血が振動を伴いながら全身を駆け巡っているかのような感覚に陥って、心臓の音がよく聞こえるのをすごく不快におもった。なぜこのような……なぜこのような仕打ちを。本来であるならば、俺は、俺こそが、最も尊重されるべきなのに。俺はたった今、あの御堂関白と全く立ち位置を同じくするものであるはずなのに。このように、たった一人の大切な人にないがしろにされて、しかも何の後ろ盾も家名も家柄も、なにもかも自分より劣る、というよりも比べることすらあやういような、吹けば飛ぶようなものに足蹴にされて、どうして今までのように黙っていることなど出来るというのか?
「あなたはめのまえに新しい、まだ見たこともないようなおもちゃを差し出されたせいで、物珍しさに惑っているだけだ。いずれそれが恒常となり新鮮さが失われれば、すぐにでもあなたはその古くなったおもちゃに興味を失うだろう。そして、奇妙なことに時間を費やしてしまったと、過去の過ちを悔いることになるだろう……」
「そんなことにはなりませんよ」
御簾の向こうでは、彼の呪詛めいた言葉などそよ風のように木っ端なものとして扱って、彼の言葉は一人前の扱いを受けない。彼は吐き気がした。このような不名誉は……このような不名誉を受ける謂れは……
「自分のできる範囲のことで、その人のすべてを歓待してあげたいと望むのが、どうして咎め立てを受けなければならないのかというのが、そもそも疑問ですね」
「ですから、一見みりょく的なものでも、その内実までは知り尽くすことなどできない。外側、綺羅綺羅しい新しいもの、そういった、本来であるならば詰まらないものに……惑わされているだけだと申し上げているのです」
彼は言った。
「物珍しさに支配されているだけだ。それを正常のものとして扱うなど、私にどうして出来る?」
彼の乱暴な口調は御簾の向こうの人をまるで物狂い扱いするような様を呈し始めるが、それを言葉が過ぎると言って嗜めることの出来る者などその場には誰もいず、それは彼が左大臣というこの世の春を謳歌するはずの地位に立つものであるからだが、それならば……どうしてこのような理不尽な目に遭うのか?『この世をば……』あれを詠んだ左大臣と俺と、一体どこがそれほど違うのか?
「その様子だと……こちらの求めている花嫁探しに、あなたは相応しい人ではないみたいだね」
御簾の向こうの人は言った。
「当然です」
彼は握った両方の拳を見下ろしながら歯を噛んだ。「他を当たって下さい。これ以上私を愚弄するのであれば……」
「あなただから打ち明けたのにな」
数々の左大臣からの暴言にもかかわらず、御簾の向こうの人は特に気分を害した様子もなく言った。「他ならぬあなただから……こんなこと、他の誰にでも打ち明けられる話ではないということは、あなたなら分からないはずもないだろうに」彼は幾分失望を含んだ声で、「こんな話……誰にでも相談できる内容でもない。あなたの他に、一体誰に話せばいいというの? 賢いあなただから、もしかしたらそれを朕に教えてくれるんですか?」
「そんな……そんなことは」彼はあえぐように言った。「誤解……です。どうして私が?」
「かわいそうでしょう」
彼は深い同情を込めた声で言った。
「地位も家柄もない。頼りになる家族もなくて……あなたのように、はじめからすべてにめぐまれていた人には、到底彼の苦しみは分からないだろうな。それはあなたが幸福な男であるからです。今までもこれからもずっと幸福の渦中にある人は、それ以外の場所など思い描けもしないでしょう」
「……………」
「あの人は何も持っていない。あなたはすべてを持っている。そういう人が、持たざるものに同情しないでどうします? あなたの持っているほんのちょっぴりを分けてあげるだけで、与えられた方は何もかもが満たされるのに。たったそれだけのこともしないで……、朕には分からないな。あなたの考えていることが……」
「……………」
吐き気がする。このような幸福が……このような地獄を、どうして幸福と呼ばなくてはいけないのか?
さて、左大臣の心のうちはそのようにして目眩果てて、しかし打ち捨てられるばかりだが、帝その人があの讃岐の少弁の君に対してそのように示したものは、一種の愛情から発露したものだったのかもしれなかった、がそれは彼が彼としてまた別の彼に”示すべき”、言ってしまえば建前としての愛情に過ぎなかったので、その行為は結局未遂に終わった。つまり、帝は結局少弁の君に妻を迎えさせてやらなかった。
そして彼は彼が彼との素敵な関係をつなぐひとつの道具としてのその巻物を餌(?)に、今日もその人を自身の部屋に呼びつけて感心を買おうとする。薄暗い部屋は強い香りで満たされ、ここだけが現世より隔絶された異空間のようだ。
彼は幸福だった。なぜならこうして、好きな人と話ができるからだ。
めのまえにいる彼は彼以外のことは見ていないし、また見ることも出来ない。彼はだから幸福だった。そして彼のとてもきれいな、とても人間が作ったものではないだろうとおもわれるほどの細工の凝った顔を眺めるのは彼たった一人だけ。そういう状況に酔った。
でも彼の陶酔も完全に上手くいっていたとはいえない。何故かといえばそれは彼の心のなかにある言葉が引っかかっているからであって、この世の中に『愛をひっかけるための釘』があるとするのなら、そこへ愛以外のじゃまものがひっかかっていて、彼の全身からのその感情を、その釘にきちんとひっかけられないために生じる……もどかしさ、息苦しさ。しかしいま現在のめのまえの彼はどうだろう? ただ彼のみの話に耳を傾け、意見を述べ、ときおりかわいらしい顔で笑ったりする……それを見ているのは誰だ? 俺しかいないだろう!
夜の橙色に滲んだ灯りの中でその男の影を見つめながら、彼は以前護持僧と交わした会話をおもいだしている。
彼のことを考えるたびに、ため息をついているというのに気づくのに、随分時間がかかったんだと彼が話すと、護持僧はちょっと小首をかしげて、ああそれはこの世の春ですね、お医者様でも草津の湯でもと歌うように言った。
「あの人には浮いた話の一つもない。素振りすらも……毎日、きちんきちんと出仕して、やるべき仕事を全うして、絵巻物づくりに没頭し、本ばかり読んでいる……ほんとうにあの人は変わっているよ。この世に生まれたからには恋の一つでもしなければ甲斐がないというのはもうほとんど常識というよりも嗜み、礼儀に近いものでしょう。それにもかかわらず……それとも隠し上手なのか、あの人は恋の片鱗も誰にも見せないで、いつも忙しそうにあちこちを走り回っている。どうしてそんな奇妙な人のことをこれほど好きになってしまったのかわからない。とにかくあの人は誰でもないんだ。誰でもなく、ただ唯一の……あの人にしか、あの人であるというのをまざまざと証明してくれる人はいない……だから彼しかいないということになるんだ。分かるだろう? この気持?」
「分かりますよ」
護持僧は穏やかに、決して他人の心を台無しにしまいと努めるような声色で言った。
「私も、一度でいいからそういうおもいをしてみたかったな。最もこの歳では考えようもないことではありますが」
「そんなことはない。何んでも遅すぎるということはありません」
「坊主に恋を薦めますか」
「ああ、そうか。そりゃそうだな」
彼は納得して、「しかし……」とあまり上手でない本題への軌道修正を試みながら、「本当に……あの人にとっての良い人とは、一人たりともいないんだろうか」と言う。
護持僧は墨桶を火箸で突きながら、「さあ……どうですか。外界のことにはとんと疎くて」などと炭火を見つめたりしているが、彼はネタは上がっているんだとばかりに膝を進めて、「朕の知っているあの人は」と、護持僧の伏し目がちな目のあたりを、ぎらぎらとした視線で凝視している。「ただ一人の他人に固執しない人です。自分の意見は断固として持つが、それが特定の人物に対する賞賛のみ終始することは決して無い。でもそういう彼が……」
「ああ、これは大変なことだな」
護持僧は穏やかな調子で、短く滲むような炭の端に光る、赤い点滅を見ている。「あなたは惑っていられる。しかしそれがいいのか、悪いのか……」「悪いことではない。そうだろう?」「そうですかね」「悪いことではない……他人を求めることに忠実になることは……」「それならば私の意見など求めないでいればいい」護持僧は静かに言った。「それにもかかわらずあなたがこうして私を話し相手とするのはなぜですか」「……………」「あなたほどの人が、他人への感情をそれほど躊躇うのはなぜですか。あなたはすべてを欲求してもそのすべてが叶えられる立場にいられる御人であるにもかかわらず。あなたの欲求というものを制御し立ち止まらせる原因は何ですか。それほどの価値が、その者に、本当にあるとでもおもっているのですか」
「私は怖いんだよ」
彼は言った。「怖い……あの人に好意をぶちまけて、それを拒まれるかもしれないのが」「拒む? そのような権利が彼にありますか」「権利の問題ではないよ。気分の問題なんだ」「怖いなんて」護持僧は軽蔑の仕草をした。「あなたともあろう御方が……何という言葉遣い。そのような体たらくが、どうしてまかり通るとおもうのですか」「あなたには分からない」彼は泣くように笑った。「人を好いたことのない人が……この恐怖を分かるはずもない」「別に分かりたくありませんね」護持僧は淡々と言って、「意思というものは……」灰に火箸を刺して、袍の袖に両腕を入れる。「尊重される意思と、されるべきでない意思とがあるのは当然です。それぞれいちいちの意見や意思などを訊いて回って、それにハイハイ言って受け入れていたら、世の中なんか回っていくはずがないんだから。そうでしょう。そこへ来て、この世で最も尊重されるべき意思を持った者は誰ですか。私のめのまえにいるたった一人の人、あなたを置いて、他に誰が居るというのですか」
「あの人は私の意見など尊重しないよ」
彼はなぜか、その自虐めいた物言いの中に、必然的に混ぜたかのような諦めと、そしてなぜか自信のような力強ささえも含ませて、「そういう人じゃない。そして、そういう人じゃないと知っているから、私はあの人のことが好きなんだ」と、言った。
護持僧はそれを聞いて、恋に恋する年頃でもあるまいにとおもいながら、しかし「なるほどね」と短く頷く。「困りましたね、それは……」
「別に困ってないけど」
「困っているんでしょう。そうでなければこんな話」
「目の色素の薄い……話芸の達者な坊主が居るでしょう」
「………………」
「あれは誰?」
「さあ……」
「ここで白を切ってお互いに良いことある?」
「その者とこの話と、どういう関係が?」
「……分かるだろ?」
彼がうろんな声で言うと、護持僧は視線だけを上げて彼を見た。
それから護持僧は視線を下げると、再び炭をいじりながら、「さて、どうしたものか。正直言って僧坊でももてあましていますよ。破戒僧とまでは言わないが」
「奇妙な説教をするのでしょう」
「奇妙……というか……」部屋の灯りがジジジと心もとなく揺れる。「まあ、前例にはあまり見られませんですわね」「飼い犬が死んだ後、その犬も浄土の蓮の上であなたがたを見守っているはずですよ、などという粋なものでもないのだろうな」「まあ、そういう当たり障りのないというか。無邪気なものであれば構わないのでしょうが」短く息を吐く。「さっそくああいった手合いの者に感化される層が出つつあるというかね。一度こちらでも問題になったんですよ。果たして話が上手いからと言って、ああやって突拍子もないようなことを口にするものの自由を容認してもいいものかと。でもねえ、騙されちゃうというか。丸め込まれてしまうというか。納得してしまうんですね」
「何が?」
「彼の話にですよ」護持僧は火桶を見つめたまま言った。「どこかの屋敷だか、寺だかで、説教しますよね。すると必ずその説教の内容が話題になって、嫌でも耳に入ってくると。それが肯定的な意味のみを含むはずがないから、使いのものに言って聞かせて、ちょっとあなた行って話してきてくれないかと。こうなりますよね。で、話すわけです。これがまあ理路整然としているわけです。こちらが有る事無い事でっち上げて揚げ足取りしているとしか感じられなくなるわけ。そんなことが何度も続いてご覧なさいよ。こっちだっていちいち時間を使って自身の発言力の貧しさを痛感するばかりではうんざりしてしまう。また、実際に彼の説教を聞くと、結構良いんですよね。良いこと言っているんですよ。はあなるほどねとか納得してしまいそうになってね。いけないんですけど。それは。だって教義には反したようなことも言ってるわけだから。それを私のような身分の者が許容しちゃあまずいよねえ。それでも何か、何か暑苦しくないような、それでいて力強い何かがあるんですよ。あの者の言葉には……」
「強さというのはそれそのものが力でしょう」彼は言った。「強い言葉はそれだけで何か全く別の力を持つのでは? そのようなものが発言権を得さらに観衆によってその力が増幅されることによって新たな勢力が生まれるのでしょう。そのような怠慢な態度で、この現状を放置し続けるのはそれそのものが罪ではありませんか?」
「まあ、そのような……」護持僧は軽い咳払いをした。「考え方も、一理あるとはおもいますが」「一理も二理もない。これは自明のことです」「まあ……まあね」「ひょっとしてあなたも感化されている?」「まさか」「破戒僧まがいの男を庇い立てするのですか」「とんでもないことです。私は決してそのような」「反乱分子を放置するなど怠慢もいいところだ。職務意識の欠片もない……このような男が、よくも……」「ああ、誤解です、誤解です」
このままでは自身の首を切られかねないと警戒した護持僧が、彼の者が所属する寺の僧正に連絡をとったのは実に迅速で、それによってかの説教僧は、邪教の教えを悪意に広めたとして、寺から追放、そのまま流罪の憂き目に遭うのだった。
それを聞いて驚いたのは彼女だ。もっとも彼女がその事実を知ったのは、その追放から大分経った後のことではあったが。
彼女は相変わらず彼に手紙を書き送ってはいたが、いつもなら遅くなっても必ず返事は来ていたのに、それが突然途絶えたために、不審にはおもっていた。おもっていたがしかし、自身の日常的な忙しさにかまけていたせいで、その疑問を晴らすのが後回しになった。
彼女は、行事の一段落した頃を見計らって、改めてこちらから連絡を取ろうとおもっていた。ここ最近は何かと法要も多かったから、偶然会う機会もあるだろうなどと、楽観的に構えていたのも良くなかった。彼女はその日常的怠慢によって、彼と交渉の機会を持つ権利を、簡単に手放してしまったというわけだった。
しかし、人の口に戸は立てられないというのを地で行って、噂というのは感染力の強い病気のように、すぐに人の間に蔓延する。ここ平安京という場所ではなおのこと、噂は人の口から口へ、彼女のところへもやってくる。
「何処へ?」
開口一番に、彼女は尋ねた。「何処へ流されたのですか。何故、そのような理不尽なことが?」
「理不尽なんて」
彼女に尋ねられた相手は、びっくりしたように目を見開き、それから声を落とし、彼女の方へ少し体を傾けながら、「滅多なことを言うものじゃないですよ。上が決めたことに、理不尽もなにもないでしょうが」「しかし、どんな理由が……」「あなた、本当に何も知らないの?」
相手は幾分不審そうな素振りで言った。「側近中の側近のようなあなたが、何も知らないなんてことある?」「別に私は……」彼女は唇の端を歪めて、笑顔に似た表情を作った。「そのようなものではありません。何を誤解していられるのか知らないが……」「へえー」相手は途端に嘲るような、侮るような声色を隠さず彼女を見つめた。「そおお、ですか?」「で、何故?」彼女は多少苛立ちながら言葉を促した。「なぜ彼がそのような目に?」「彼、ね」
相手はニヤニヤと笑って彼女の言葉遣いの不味さを指摘した。彼女は内心臍を噛んだが口から一度飛び出した言葉は戻せない。甘んじて自身の不明を受け入れるしか無い。「それじゃあやっぱり、あの噂はほんとうなのかな」「…………」「表向きには、邪教を広めようと集会を頻繁に開いたからだそうですけど」「…………」「でも真相は藪の中、ですかね」
意味がわからない、意味がわからない。
で、その真相(?)は、他ならぬ、帝の口から聞かされた。
清涼殿には、帝が普段生活する場所としての昼の御座というものがあり、その奥には、当然のこと、夜の御座というのもある。後宮にはそれぞれの妃たちが住まっていて、そこでも秘事は行われるが、それだと帝がお通りになるというので『行幸』扱いになる。しかし夜の御座であるならば、帝が座所から動くことはない。行者をぞろぞろと連れ歩いて大仰な『行幸』行事としなくとも、帝は彼の愛する人達と楽しく触れ合える。
彼はそのような神聖な場所に、彼女を呼んだ。最も、彼女も一応のところは帝の側近ではある。そこへ用事を言いつけられて呼びつけられたとしても、強い不自然は感じられないのかもしれない。しかし今夜のそれはいささか勝手が違っているようだった。
帝は言った。話をしよう。そう言われて断れる者が居るか? 居やしない、なぜなら……
彼は実際浮かれていたし、しかし同時にまたその浮き浮きした気分を悟られまいとして、もちろん彼のような身分の者が自身の感情に偽りを付加させるなどということはそもそもが間違っていることではある……とした見解ならば、宮中の者であるならば百人が百人首を縦に振るだろう、が、あいにくここへは彼と彼女以外、他に誰も居ない。
そこには本当に誰もいなかった。
もともと従者や女房連などは『居る』という員数に数えられないものではあるが、そのような員数外の存在すらその部屋には居ず、ただ一人の男と女を数えるばかりの、ごく寂しい部屋の中には、たったふたりぼっちの彼女たちが居るばかりだ。
「あなたは妻を娶る気はないの?」
彼は言った。 「あなただってもう良い年ごろなのだから、妻帯していないというほうが不自然でしょう。これから官位を上げて、それ相応の役職に着くためには、何と言っても独身の身空ではいかにも格好がつかない」
「それは、そうでしょう」
彼女は彼を見つめたまま同意した。彼はその表情から、本当の彼女の感情を探りとろうとした。でもそれは、彼にとっては難しいことだった。「では、然るべき相手が?」
「居りません。あいにく、そのようなものは」
「それは何故?」
「何故……」彼女は問われた言葉を繰り返し、怪訝そうに端正な眉を顰めてみせた。「私は……」
「そういったことに興味を持てないにしても、体裁くらいは繕うべきでしょう」
「それは、そうでしょう」彼女はどんなこだわりもないように、再び彼の言葉に同意した。
「…………」
彼はそのような彼女の態度を憎んだ。抵抗して抗うようなまねくらいすれば、格好の着くものを。このように平然とした目をして、まるで日常みたいに彼を見つめる彼女の視線を、彼は憎んだ。まるで私の感情など、感情にすら値しないかのように、私の感情など……まるで枯れ葉のように意味のなく、くだらなく、注意を払うべきものですらないかのように!
「ご自身で探求されるのも億劫ならば、こちらがお世話して差し上げても良い」
「とんでもない。そのような、勿体ないことを」
「いや、あなたはそうするべきなんだよ。こういうことはすべて、事情に通じている者に任せるのが、本当に一番なのだから」
「……………」
蔵人は何も言わない。ただ黙って、是とも否とも言わず、ただ静かに黙って、少し伏し目がちに、口元を微笑に似た形に婉曲させているだけだ。「もしもそのような用意があるとして」彼は黙っている蔵人の代わりに、口を開いた。「あなたにはその準備がお有り? 妻を迎え、一人前の男としてひとり立ちする用意が」
「私は……」蔵人は彼の方を見ないままに、ゆっくりとその形の良い口を開いた。「お主上御自ら、お心を砕いて頂くような身分のものでは有りません。私には、そのような価値は無いのですから」
「それでは、まるで根無し草のようにして、いつまでもふらふらと、独りの身で居るというつもり?」
「……………」
「そのような奇妙が……まかり通るはずもない。まして、あなたのように美しい男が」
「……………」
「そのくらいのこと、ご自分でもよくご承知のはずでしょう。このようなことまで私に言わせるのかな」
「私は……」
「いや、分かった。分かったよ」
彼は明るく、ごくあっさりと言って、蔵人の言葉を遮った。「別に今すぐにというわけではない。それぞれの心持ちというのもあるでしょう。あなただってまだ若いのだから。そう焦る必要もない。そうでしょう」
すると蔵人は顔を上げて、まるで、助かった、とでもいうかのような明るい顔をして彼を見た。それだけで彼は、全身が生命の喜びに戦慄いて、くらくらとした目眩すら感じた。
それから彼らは全く別の話をした。季節の話、今度の行事の話、そして蔵人が作った今までの巻物についての話……
ずっとお話をしていたい、と彼はおもった。
彼の話は面白いし知己に富んでいるし、そのせいでおのれのなかの眠りこけていたような知的好奇心が刺激されてざわざわする。このままの自分ではもう一秒たりとも居られないと焦りに似た気持ちを抱く結果になる。そのままで居ると頭の中がふわふわしてきて、何故か悲しくなってくる。彼との時間が一秒一秒と消し飛ぶように消えていく現在が悲しくてたまらない。ずっとここにいればいいのに、どうして彼は俺から離れていくんだろう……
しかし、実際彼は幸福だった。それは彼が彼の好きな人とお話をしているからだった。夜はすっかり更けて屋敷の誰も彼もが魔法がかかったかのように眠ってしまって、起きているのはここにいるただ二人しか居ない、もしもそのような、完璧な夜が用意されるのだとすれば……
さて、その日も見事な満月夜であった。部屋の灯りを煌々と灯さずとも、全体がぼんやりとくすんだように、しかし淡い輪郭を持って仄々と明るい。彼は目を細めて、御簾越しの、もやもやと緩むような月を見上げた。
「少し風が出てきましたね」
その蔵人は言った。
「良い……そのままで」
立ち上がって御簾を巻き上げようとした蔵人の動きを制して、彼は言った。
蔵人が振り向く。
振り向きざまに蔵人のかおりがして、彼は持ち上がりそうになる口角を感じて少し顎あたりに手など当てて、脇息に凭れる素振りをする。何をしているんだろう? 馬鹿みたいだ……しかし、そうしないでは居られない。そうしないと、もう一秒も、彼と対峙し続けるなどということは……
「そのようなことは、あなたのやるべきことではないよ」
まだ格子戸も閉めていないせいで入ってくるやわらかな夜風が、はたはたと御簾を揺らした。「そのようなことは主殿司の人がやるんだから。あなたはやらないでいい仕事でしょう」
「そろそろ、人を呼んだほうがいいでしょう」蔵人は広廂の方を見つめながら言った。「第一不用心です、このような時間まで戸を開け放しのままにしておくのは……」「あなたも無粋な人だねえ」彼は笑って、「こんないい夜なのに。私を部屋の中に閉じ込めて、月明かりの一つも見せないで、大事な宝物か何かのように仕舞って置く気なの?」「大事な宝物」
その蔵人は彼の言葉の一部を取って、ちょっと楽しそうに短く笑った。「まあ、それもそうですが」
「私は……あなたの大事な宝物?」
「さあ……どうでしょうか」
「ああ、はぐらかされた」
「皆の宝物ですよ」
蔵人は柔らかい口調で言って、決して彼の心を逆撫でない。いや、逆撫でられない、はずだ。それにもかかわらず……この、何とも言い難い息ぐるしさはなんだろう? 『僕の宝物』だと言ってほしかったのか? 馬鹿な……
「もう寝る」
彼は言った。「だから、私を連れて行ってよ」
それで、連れて行った先で、彼は蔵人のことを掻き抱いたりしている。
その部屋には誰も居ない。部屋の中はとても静かで人いきれもないままに乾いている。
蔵人は四隅の燈台に灯りを燈火し、自身のするべきことを全うしていたに過ぎない。
香炉から流れる蚕の糸のような白い煙が、幾重にも重なって天井へと伸びていく。
それは粘るような白くやわらかな糸のようでもあるし、脆弱であえかなか細い綿のようでもある。それらは燭台の灯りの方へとその錦糸を伸ばし、ほのかな香りとともに、次々と中空へ姿をなくしていく。彼はそれを見ている。それは彼にとっては見慣れた風景だ。しかしいくら見ても見飽きない。それどころか、見れば見るほど不思議でたまらないようにおもえてくる。これはどういうことだろう?
それは、消えるからだ。
実体にごくそっくりなものが、あっさりと消えてしまう。白くやわらかな糸のようなものが複雑な模様を描いて浮き上がっているにもかかわらず、それが一度瞬きした後、あとかたもなく消え去り、また新たな綾模様を描きまた消えるさま、誕生から消滅の時間が極端に短いせいで、魔術にでも掛けられたかのような奇妙な感覚が残り続ける。それが不思議の正体だ。
沈香のあまいかおりのなかで、彼はじっとそのようなことを考えていた。四隅の火を灯し終わった男が、局の隅に居を正して言う。
「点火終了いたしました。お暇を頂戴したいと存じます。おやすみなさいませ」
彼はそれを見ていた。それからおもむろに口を開いて、「君も気の利かない人だね」と言う。男が顔を上げる。目が合う。彼は少し笑った。「ここにはあなたと二人きり、他には誰も居ないのに。こんな寂しいところに私を一人ぼっちにして、楽しいの?」
「楽しいなど……」男は小さく、ゆっくりと首を振った。「それならば人を呼びましょう。なぜ、誰も居ないのですか? 職務放棄と言っても、限度が……」男が片膝を立てた。立ち上がろうとするところを彼が制す。「静かに」
男の動きが止まる。部屋の中が静まり返る。男は彼を見ていた。そのごく真摯な、というより真剣な眼差しは、彼の望むような種類の感情を有していたとは言えない。彼にはそれが、宇宙よりも悲しく、寂しかった。
どうせ、この男は私と同じような感情など抱いてやしない。そうでなければ、このような部屋の中でたった二人だけで、このような暖色の灯りと甘やかな香りの中で、公的な目ばかりをして彼を見ているだけなどというのが……
だからそのようなことをしても無駄だ。分かっている。これからすることのすべてがその効果を十全に発揮するなどということは有り得ないことだ……
「あなたほどの人が、他人への感情をそれほど躊躇うのはなぜですか。あなたはすべてを欲求してもそのすべてが叶えられる立場にいられる御人であるにもかかわらず。あなたの欲求というものを制御し立ち止まらせる原因は何ですか。それほどの価値が、その者に、本当にあるとでもおもっているのですか」
いつかの護持僧の言葉をおもい出しながら、私にだって怖いものはある、と彼はおもった。だが、その恐怖というものは、”必要とされていないもの”には違いがない。還元すれば、それは彼が感じなくても良いもの、必要としなくても良いものだ。彼がそれを所有していると他人に知られれば、その不自然な所有によって首を傾げられるであろう類の、であるからして、その感情は彼にはふさわしくない。もっと傲岸な解決方法でも可能なはずだ、なぜなら彼は、この世のすべての……
私は間違っていなかった。この男の妹御を春宮に譲ったことは正しかった。それによって、彼は正しい思慕の対象を、こうして今現在めのまえにすることが可能になっているのだから!
彼はゆらりと立ち上がった。
焔が揺れて、彼の影もまた同時に揺れた。男は彼を見ている。彼は少し笑った。
「あっ」
花車な男の体を組み敷くのはとてもかんたんなことで、なぜこのような安易なことを、いつまでも渋っていたのだろうと彼はおもった。
男の声は不思議に高かった。それは違和感を彼に抱かせはしたがすぐに消えた。そんなことに脳の容量を使っている余裕はなかった。男の髪が乱れ、白い額に一筋の黒髪が流れた。四角四面な男の体を乱してやった。彼はそれに劣情を覚えた。「あなたが恋している男のことは分かっている」彼は恐怖に彩られた目をしたうつくしい男の手首を取ってその自由を奪ったまま、勝利者の高みに酔うような言い方をした。「でもそれももう居ない。あなたはそこから自由になったんだ」
「男……?」
組み敷かれた蔵人は眉を顰めて怪訝な顔をした。彼の言っている言葉の意味が一つもわからない。そういう顔だった。でも別に、分かってもらおう、理解してもらおうなんておもっていないから別にいい。彼は男のまっしろな頬に触れた。それは想像していたよりもごくやわらかく、彼の指を歓迎するかのようにしっとりと馴染んだ。「何を……」男の声。「何をなさる? 何を……」「あなたに拒む権利があるか」彼は静かに尋ねた。「私は全てを持っている。私は私の権利を行使してあなたの欲しい物をすべて与えてきた。その見返りがあっても良い……そういう時期じゃないですか」「見返り……」男は目を細めて、まぶしそうに彼を見つめた。「あなたは、そのようなことのために……」「…………」「そのようなことのために、あの人のことを遠くへ?」「ああ、やっぱりそうだったんだ!」彼は疑念が確信に変わったことで一瞬優越のようなものを抱いたが、そのような詰まらない感情はすぐに霧消して、めらめらとした苦痛が全身に滲みるのが分かった。「あなたにもそういう人が居ただなんてね。何も知らされていなかったから、知らないのも当然だったかもしれないが」「…………」「堅物のあなたが相手にしたのは坊主だったなんてお笑い草だな。どうせ手に入らないものに懸想して、その不可能性に酔う……としてみれば、あなたには似合いだったのかもしれないが」「止めて下さい」男は言った。「あなたのおっしゃりたいことは、もうすべて分かりました。ですからこのようなお戯れはお止しになって。冷静なあなたに戻って下さい」「私は、冷静です」「そうですか」硬い床に仰臥したままの男は顔だけ横に向けて、短く嘆息のようなものを漏らした。「それは良かった。では退いて下さいますね」「どうして」「……………」「どうして私が、あなたのために、そんなことをしてあげなくてはいけないの?」
まあ、それは当然か、と彼女がおもったかおもわないか、とにかく彼のその言い分は彼の立場からすれば当然のことで、だから彼女は彼からそういうことをされて、その身が女だというのが露見してしまう。
その時彼女が考えていたのは、恐怖とか、失望とか、羞恥とか、そういうこともあったかもしれないが、それよりも何よりも、彼女の考えていたことというのは、早くこのような下らないところからは出ていかなくては、ということだった。
こんな下らないことは……こんな下らないことを、他人への強い感情であると、そしてそれに過剰装飾したような言葉で甘く煮付けて人に押し付けてみせる……こんな下らないこと!
「恥ずかしいとはおもわないの? 女の身で、大勢の男の前にその素顔を晒すなど……」
彼の軽蔑を隠しきれないような憤りの声をよそに、彼女は淡々と答えた。
「なぜ己の身を恥じるのですか。私には分かりません。私の顔は、他人のめのまえに晒すには恥と映るようなものなのでしょうか?」
「あなたは見られたいとしたんだ。その体を、美しい顔を」男は言った。「だから男であることを選んだ……あなたはそのうつくしさを隠しておきたくない、見られたい、発見されたいと願ったからこそ、男になったんだ。違うか」
「そういうこともあるかもしれません」彼女は不自然に口元を歪めて笑った。そういうやり口は、彼の興を多分に削いだらしかった。その証拠に、彼は傷ついた顔をした。
彼女は彼を睨みつけた。すると、彼の方は彼女を軽蔑するように見つめ、それから口の端を曲げて、笑顔に似た表情を作って見せた。「そんな顔をして見ないでくださいよ」
「別に……」彼女は彼に似せた表情を浮かべながら、やはり笑顔に似た表情を作った。「したくてしているわけではないので」
「私が、あなたにそういった表情を強いてしまったということ?」
「ああ、さすがはあなただな」彼女は起き上がって、乱れた襟元と髪を整えながら、「私の考えていることは、何もかも分かってしまうのですね」「分かっていたら」彼は、乱れた彼女が乱れたものを整えていくさまを、幾分の焦燥を混ぜた目で見ながら、その体を無意識に彼女の方へと近づけた。「こんなことにはならない。そうだろう? あなたはずっと、私を騙していたんだ」「騙してなど」彼女は軽蔑の仕草をした。「私は、あなたを騙すなどというろくでもないことのためのみに、おのれの生活を偽装していたのではない」「ろくでもない? すごい言葉を使うんだな……」「ろくでもない? らちもない……必要でない……」「いいよ、もう。どうしてそうやって傷口にわざわざ塩を塗るようなことするの?」「適切な言葉遣いができないのは僕の落ち度です。それを正したかっただけです。どう言えばいいんだろう? あなたを傷つけるつもりはまったく無いんです。つまり……」「ああ、止めろ、止めろ」彼は手を振って、彼女の言葉を遮った。「こんなときに、あなたという人は……」
彼は彼女を非難するような口調を取ったが、しかしその声色は決して彼女を否定し切れるようなものでは到底なく、それどころか慈愛のようなものすら滲ませて、言った。
「あなたには……情緒を解するとか、そういう心を解すような考え方が皆無なんですか?」
「恐れ入ります」
「僕は……あなたと話をしているんだよ」
「それは、そうでしょう」
「あなたには何かが欠けている」彼は言った。「なにかが足りない。ご自身で、そのようなことをおもったことはない?」
「ありますよ」彼女はどんなこだわりもなく言った。「何かが、どころか、何もかもが足りない。それを一番に身にしみて知っているのがこの私です。でも、足りないからこそ多くを求めるんだ。少なくとも僕はずっとそうしてきた。それは何も、私のみのことではなく、多くの人に共通する行動基準ではありませんか」
「いや……そういう意味ではなくて」
「分かっているんだ。でも、分かっているだけでは解決にならないというのも、やはり”分かって”いる。これほどもどかしいことはありませんね。行動あるのみなのだろうが……しかし、準備が足りないところに行動を起こしてみてもそれは途中放棄の憂き目に遭う可能性の方が遥かに高い。”見る前に跳べ”という向きもあるにはあるでしょうが、それにしたって万全な準備運動も終わらないうちに跳べば、それは筋を違えてしまうだろうという未来は明白なわけで……」
「あなたねえ……」彼はうんざりしたように、「もう、いいよ。黙って」
「はい」
「私の言ったのは……そういう意味ではなくて」
「はい」
「もう……こうなったら仕方がない」彼は彼女との対話を諦めたように、そして無意識のうちにか、彼女の人の意見を意見ともおもわない語調を踏襲したように、「私と一緒にこどもを作ろう」と、言った。
「……はあ?」
彼女は首を傾げたが、彼は、構わず続けた。
「そうするよりするべきことは一つもない。それが一番の自然というものだ」
「意味がわからない」彼女はゆっくりと首を振った。「自然とは何ですか。私はそのような自然は知りません」
「知らないはずがない」男は不自然に、ある一点を見つめながら言った。「君は女なのだから」
「私はそのようなものとは関係がありません。性別がどうあれ、私は私のみにしか過ぎません。私の自然はそれです。それ以外に、私は自然というものを知りません」
「いいや、あなたという人は、どうせ、所詮、結局、女に過ぎなかったんだ」
彼は言った。
「私はあなただから、あなたこそ……だからこそあなたのことを好きになったとおもった。これこそが真の恋なのだと、身分も性別も何もかも飛び越えて……しかしあなたは、ただの女だった。私は、あなたが女だからこそ、女だったというだけの理由で、あなたに……
それならば私のあなたへの感情は、男から女に自然発生的に隆起したごく自然なだけの生理的な感情に過ぎなかったということだ。このような、詰まらない……」
「…………」
「私はあなた個人を愛しているとおもった。あなたがあなただからこそ、あなたのことを好きになったとおもったのに」
彼は悲しそうな目をして言った。「でもそれは間違いだった。あなたは詰まらないただの女だ。それをただの詰まらない男が、女だからという理由だけで恋しがっただけだ。私はただ有頂天になっていただけなのですね。あなたがただ一人の個人として私のめのまえに現れいでてくれたのだと、勘違いをして」
「…………」
「こうなったら、あなたは女に戻るべきでしょう」
と、男は言った。
こうなったら、ってどういうことだ? と彼女はおもったが、黙っていた。「そして女らしく私の子を産み後宮へ入る準備をしなさい。あなたがなぜ、男の身を装って、その御身を男のまがい物として疑似化していたのかは知らないが」
「私は……」
「いいえ、聞きたくもない」男はぴしゃりと女の言葉を遮った。「どうせ聞いても私などには到底理解の出来ない理屈を並べ立てられるだけに決まっている。私は今まで、のうのうと、あなた個人の策略に、まんまと騙されて」
「……………」
「私のことを心では笑っていたのでしょう。あなたに対する不適格な愛情でもってあなたを迎えようとした愚かな私を、嘲笑っていたのでしょう」「まさか」彼女は目を丸くした。「なぜ私がそのようなことを。なぜ?」
しかし彼が彼女の疑問に答えることはなかった。彼は彼女のことをもう見てはいなかった。ただ、鬱陶しそうに首元に指を入れて風を入れながら、香炉から流れる煙を見ている。
「その自然がただ自然に行われただけなら、その後にも不自然なことは起こらない」彼は言った。「だからこどもを作るしか無い。私の可愛い人。私はあなたとこどもを作れるということが、今とても、すごく悲しい」
そういう悲しそうな男の顔を見ながら、彼女はおもった。このようなくだらない場所に……
このようなくだらない場所には、もう一秒たりとも居られない。こんなことをしている場合じゃない。早く……早くしないと! あの人は、私を置いて、一体何処へ行ってしまったのだろう?
そして男でしか無い彼は女でしかないらしい彼女を再び組み敷こうとして、彼女の抵抗に遭いそのままもみ合う。彼女が、行動には、抵抗には不便ななよやかな着物を蹴散らし、蹴飛ばし、髪を振り乱し、逃げ惑うが、そのような姿の彼女を見る男は楽しそうだ。彼女は、男の、それほど楽しそうな顔を初めて見た。誰かの快楽に成り得る行動を、今現在の私は可能にしているのだ。そしてそれは、彼女が……私が、女であるがゆえの、うつくしい女であるというそれのみによって約束された他人への快楽の提供なのだ。彼女はそれをおもってかなしくなった。たったそれだけのことで、ただ生きているだけというだけのことで、私は他人の快楽へと成り得てしまう。なんて詰まらないんだろう! なんて下らないんだろう! ただ呼吸を繰り返し、生きているというだけの……それだけで存在を肯定される、歓迎される、快樂される……そのような、生き人形のように詰まらないものが私だというのに……それに耐えるだけのために、私は今までに、くだらない呼吸を繰り返してきたのではない!
彼女の振り乱れた直衣が部屋の四隅に灯る燈台に影を落とし、火影がまっしろな部屋に影絵を作る。その影絵の奇妙さ、めあたらしさも、彼にとっては快楽の一役を担っていたに違いない。そのおいかけっこの果てにあるものは? 女体の素晴らしさ、それを彼は知っている! しかし彼女の乱れた萎え装束は彼の腕のなかにやわやわと抱きとめられることなく、その火影を作る原因の上へとふんわりと掛かった。とたんに、火が上がった。火の熱さが、彼女の白い頬をチリチリと撫ぜた。彼女の眼球に真っ赤な火がめらめらと写る。彼女は自然に口角を上げた。ここには何もない。何もなかった。だから、燃えても、燃えなくても、どっちだって一緒だ。そして燃えるか燃えないか、どちらの方がより”良い”か?
というわけでその日のまだ暗いうちに、彼女は何もかもを振り捨てて、その屋敷から出奔した。厩から普段乗りつけている愛馬を蹴って、まだまだ誰も彼もが愛妻の胸や人妻の胸や召人や乳母やなんやかやの甘い胸でまどろみを貪っているあいだに、まだ誰もがその炎上に気づかぬうちに、朝露が草木を濡らす頃、最低限の装束と携帯食料だけを携えて、彼女は平安京から逃げ出した。
とにかく、西へ。
西へ!
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