第24話

 そしてその姉の方は相も変わらず、夜居の僧として出仕しているところのあの坊主と、らちもあかないような問答を続けている。

「たとえば甲という経典には、凡夫のままで悟りを開くという。またしかし乙という経典では凡夫のままでは悟りは開けないとされている。ために様々な修行を積んで悟りを開くのだという。しかしまた別の経典では転じて煩悩している己の肉体のうちにこそ真理があるとして、その煩悩そのものまでも認めてしまう……人々は精々そこから、自分に一番都合の良い解釈を摘みとって、それを生活の指針として仮建てすることくらいしか出来ない……ですが、これは「考え方」という一つのものを持たないものの混乱でしかない。端からどんなことも眉に唾をつけてしまうものどもにとっては、このようなすべての言い分は転じて言い訳めいて聞こえてくるということもある……」女は言って、ちょっと笑った。「そしてひねくれものの脳のない人間、たとえば僕のようなものは、こうした有り難いお言葉の一つひとつをただ楽しんで見ているだけです。そこへ帰依の念や畏怖などといった聖なる感情が生まれるはずもない」

「はあ、なるほど」

「どの組織にも与せないというのは悲しいことです」彼女はため息交じりに言った。「法華経に帰依するならそれはそれで良いでしょう。しかしそれだけでは飽き足りず、大日経を見たり、理趣経を捲ってみたり……しかしそれらにもきちんと向かい合うこともせず、結局外から眺めて楽しむ以外に接触の方法を持とうともしない……中へ入ってみてはじめて分かることもある。一つのものをまるごと噛み尽くし、その中へと浸っていなければ見えてこないもの……そういうものに対する絶えざる憧れがあります。ですが僕にはそれが出来ない。一つのものの元へと跪き、一つのものの思想のみで体の中をいっぱいにしてしまう勇気が、僕には備わっていないのです」

「それは劣等感ですか」

 尋ねられた女はその言葉を吟味するように口の中を少しモグモグさせたが、うつむいて、「そうかもしれません」と肯定した。

「僕は人の考えというものを書物で読めば読むほど、分からなくなります。難しいというよりも……たしかにそれは難しい。しかし私はそれ以前に、どうしてそのようにいちいち言動に対して理由や理屈を付けていくのか、というのが、段々分からなくなってきたのです」

 女は続けた。「何もかもが既にして決められている。そしてみんな、その決まりごとに従って、一日の行動をきちんきちんと全うしていく。そしてそれを他ならぬ生活、労働と名付けて暮らしている……彼らにとって、決まりとは決まりです。そういうことになっているからそういうことになっている。甲は甲、乙は乙。それ以外はない。それで都合が悪くなれば、ただ甲は乙であると”決め直して”、その後には甲は乙であるという状態にしてしまい、次第にその状態に対する意味合いが、甲は甲であるという状態へと成っていく……このうつくしいまでの循環! この流れに上手く流されていけば、少なくとも自身が生きているところの”現代”というものは分かります。そしてその決まりごとに添うことこそが善く生きることなのだと信じることも簡単に行えてしまう……だけど僕には、それが難しいんです。ただ単純にこれは、頭が固いということなのだろうか。

 僕は何も知らなかった。何も分からなかったんだ。だから本を読んだ。人に話を聞いた。学問と呼ばれているものをすることにした……しかしそれによって益々私は世の中というものが分からなくなる。これは私がおかしいのでしょうか。私の方法が間違っているから、このような戸惑いめいたことが生じてしまうのでしょうか?」

「まあ、そうですね」

 女の必死な様相に対して、僧はのんびりとした面持ちで、彼女のその深刻げな表情をやさしく見つめた。「そういう向きもあるでしょう。しかしそれには幾つかの要因がありますね」

「要因」

「まず、あなたには余暇があるということです」

 僧は言った。

「暇があるからその生活余剰分で余計なことを考える。日々の生活そのものに追われるものにとっては、そのような”高級な”ものに心身を遊ばせているような暇はない」

「それは、そうでしょう」女は素直に頷いた。

「次に、世は末法だということです」

 僧は続ける。

「なぜ末法になったのか? 一つには時間の経過というものがある。お釈迦様が入滅してから随分と時が経った。正法、像法と来て、この世の中は既に末法の時を迎えている。このような時代において、指針を失い、その教えの不安定さに戸惑い悩むことは、もはや当然、万人の共通するところであると言えましょう。つまりあなたのそういった悩みというのは、時代的に言っても、立場的、年齢的に言ってみても、ごく当たり前のことであるということですね。

 そしてもう一つには、思想というものが高度化したからです。

 元来、この地には民間信仰というものがある。民人というのはそれを日常のものとして使用していますから、自分が信仰を持っているということも、もしかすれば意識していないかもしれません。そこへわれわれが、仏教などという高踏的なものを持ち込んだ。仏教には、あなたのおっしゃるように、「なぜ?」があります。なぜ姦淫をしてはいけないのか。なぜ殺生をしてはいけないか。なぜ盗みをしてはならないのか。なぜ……そのような”なぜ”が、複雑化していくと、次第にそれは難解なものになっていく。そしてそれを理解し共通認識として常識化する人々、出来る人々というのは限られていく。限られたものにしか行き渡らない「もの」「事物」などは、その限られた者たちの衰退とともに、勢力を鎮火させていきます。寺には人が住まなくなり、荒れ寺となる。そこへ道に迷ったものが救いを求めてやってくるとする。本来仏教というものは、迷えるものの道を正しく導いてやるために作られたものですから、彼の行動もまた、正しいわけです。しかし、世は末法だ。寺は荒れ果てている。彼を助くものの手は既に白骨と化し、あるいは形骸化して、彼の手を取ることはない。そこへ手を伸ばし、結局彼のことを”助けて”しまうのは民間の中に元からあった、”分かりやすい”民間信仰だ。鰯の頭でも信じて祈っていれば、いずれはそれが彼の助けになる。結局、最終的にはその信仰が彼に破滅をもたらすとしても、一時的には彼はそれによって現在というものを”慰められて”しまう……しかしそれも一時的なことです。なぜなら信仰とは現実への根本的対処ではありえず、それは大体において”逃避”を約束する、抜け道を示してやる程度のことしかできないからです。

 さあ、それでも、いくら末法とはいえ、僧侶は存在します(たとえばこの僕のような存在です)。そういった時に、われわれが、高度化して霧消してしまった教えの他に、人々を教え諭す、確実に民衆の手助けになるような”教え”とはどんなものか? それが法華経だ、南無阿弥陀仏だ。……つまり、お経を唱えるだけで良い。難しいことは一つも分からなくて良い。分からなくとも、あなた、法華経を唱えるあなたというものはそれだけで救われるのだと。これが一つ。しかし世は相変わらず末法だ。なぜ末法なのか? 釈迦の”正しい”教えが、時を経たことによって分かりにくくなってしまったからだ。釈迦の教えは分かりやすかった。しかしそれが議論されていくうちに複雑化し、一部の人々以外には簡単には飲み込めないものとなった。そしてその一部の人が命を散らし始める頃になると、その高度化されたものは誰の手にも渡らず、用無しとなった。しかしそうではあっても、民衆には何らかの人間的指標が必要だ。われわれは動物ではないのだから? そこで末法の世に生を受けた僧侶たちは、人々が分かり良い民間信仰に寄り添う形で、見る人が見れば「方便だろう、迷信だろう」としてしまうようなものを、一応採用することにした。それによって思想と実践が融合し、しかしそれと同時に仏教そのものが堕落していくことになる。僕たちは今、その堕落の中で、それを堕落ともおもわず、生活をしているわけです。

 そのような生活の中では、不邪淫は諒解され、不飲酒は飲酒諒解と変換されます。不届きとされているものこそ、本当のところは正しい。不届きなものこそ、実は最も清浄なるものなのだ、などとね。このような曲がりくねった思想のもとに教育されるこどもたちというのはどうでしょう。また、大人たちもこぞってまた別の大人たちを教育し、人々は教育し教育され、図体ばかりが大きくなった体をふんぞり返らせて、大股で今日も堂々たる態度で道を歩いているのですからね。

 われわれが生きている時代というのは、その様に猥雑と化した世の中です。まだ心のやわらかいあなたが、このような濁世に生きて、混乱してしまっても無理はありません」

 と、僧は彼女に対して深い同情を込めた目で見つめた。「ここから逃れる方法はいくつかあります。その一つを今あなたにご紹介します。それは実践をすることです」

 僧は言った。

「思想のみに溺れて、仏教は複雑化、類化しそのうつくしい花を無残にも散らせてしまった。

 それをあなた、防ぐためには、生活をすることです。本の世界以外に生きることです。人の間に入って、それらと善く関わることです」

「だけど、でも」彼女はあえぐように言葉を絞り出した。「僕には生活というものが分かりません。僕のまわりのもの、そしてまた僕も同じくして、毎日毎日、決められたことを決められたままに実行することのみに終始するばかりです。僕には、そのような行為が、あなたのお示しになるような”生活”であるとはとうていおもえません」

「それでは、その生活をお捨てなさい」

 僧は何を躊躇うこともなく、きっぱりと言った。「生活が分からないなどといった貴族的な感覚に毒されているのだとすれば、それまでのあなたの日常というものを否定する以外に方法はない。こんな爛れた場所にいるのは止してしまいなさいよ。そもそもあなた、なぜこのような場所にいらっしゃるのですか?」僧は不思議そうな顔をして尋ねた。「以前お会いしたときは、もっとはつらつとして、日々を楽しんでいる方だという印象があったんだがなあ……」

「それは……」

 それはあなたに会うためだ、あなたとお話するに値する自分になるためだ! と彼女は正直に打ち明けてしまいたかったが、できなかった。

 彼女が言いづらそうにしているのを見て取った彼は、「まあ人には様々なご事情がお有りでしょうから、特別訊き立てるようなことはしませんが」と言い、そして、「それでもあなたの考えたことは素晴らしい。ふつう、人というのはそこまでものを考えるというのはまれなんですよ」などと、彼女の行動そのものを、あけすけなまでに肯定してみせてしまうのだった。

 それは結局のところ悪手だったのかもしれないが、その時それはむすめの小さな体の中に染み込んで馴染み、そのまま取れなくなってしまった。そういうことの積み重ねによって人というものは他人のことを簡単に好きになり、それは彼女にとってもまた同じことだった。


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