第23話
で、姉の方はそうやって浮かれたり疑問におもったことを捨て置かれたりして相変わらず思索に耽けるばかりだったが、思考即行動をモットーとするところの彼女の妹は、まだまだ病床の身といってもいい体で、また余計な活動を始めようとして、彼女の良い人の不興を買っている。
「そんなことをしていないで、ご自分のことにもっと熱心になりなさいよ」
彼は自分の不愉快を一切隠そうとせず、言った。 「あなたはご自身のこどもたちに毛ほどの興味もないの? 少しは女らしく、母親らしい態度で……」
彼女が彼女の夫に提案したのはつまりこういうことだ。
あなたの姉君の歌は素晴らしい、私は彼女との手紙のやり取りを通じて、そのことを知った。私家集を作るべきです。豪華版で小数部から始めれば、そこから徐々に噂が広まり、彼女の名声は一躍宮中の人々の口端に上がるようになるはずです。あの人の突飛な才能をこのまま埋もれさせておくのは惜しい。私ばかりが彼女の価値を独占して、きれいな箱の中に収めておくわけにもいかないでしょう。私は手紙で、すでに前斎宮とそのような話をしている。しかし、前斎宮はそのような話には乗り気ではなかった。静かな場所でひっそり暮らしていたい人のことを中央に無理やり引っ張り出すことが、良いことか悪いことかくらいの違いは私にも分かる。しかし私はそれ以上に、前斎宮の身に注がれているものを雪ぎたかった。くだらない、根も葉もない噂などを吹き飛ばすような力が、彼女の歌にはあるはずだ。であるからこそ、あなたからの助力がほしい。なんとか、彼女をその気にさせるお手伝いをしてもらえないだろうか……云々。
しかし春宮の君は、当然のように首を振った。また姫宮の酔狂が始まった、と真面目に取り合うこともない。それどころか彼は自身の異母姉のことを、悪しざまに言って軽んじた。
「あのような人の身に心を遊ばせるようなことは、もう一切止めてしまいなさい」
春宮の君は言った。「君のような人には不釣り合いな……似合わない人だ。確かにあの人には教養がある。歌も書もよくする。しかし……」
「なぜですか」彼女は声を絞るように言った。「なぜあの人に同情しないの。あのような素晴らしいひとを、一人閉じ込めて……」
「確かに、あの人は気の毒な方です」彼は眉をしかめ、「しかし、それとこれとは全く別の話だ。あの人のしたことは……僕の口からは……とてもじゃないけどお話はできない。特にあなたのような方に向けては」
彼は、彼女にも理解を示してほしいというように、ちょっと困ったように微笑んだ。
春宮の君に言下に反対された彼女は悔しくて悔しくて、その行き場のない憤りのままに、前斎宮に手紙を書き送る。あなたの歌は世に出るべきだ。それをお手伝いできるのは私しかいない。春宮は間違っている。あなたのような存在をまったく無いものとしてしまう判断のまずさ……それをどうして、みんな分かってくれないのか。
彼女はそのようなことを、一種の正義感から行ったには違いない。しかし、一方の視点からの正当も、他方から見れば害悪そのものということもある。今回の彼女のばあいもそれに近いようだった。そして彼女は前斎宮から受け取ったその手紙を読みすすめるうちに、自身の行動の罪悪におもい至るようになる。
「罪を犯したものが罰を受けるのは当然のことではありませんか?」
彼女の手紙には、そのようなことが書いてある。
「あなたのやさしい気持ちは嬉しい。けれどそれとこれとは別のこと。私という人間は……あなたのような高貴な人に目をかけていただくようなものでは決してありえないということ。このようなお話をするのは本意ではありませんが、あなたには……知っておく必要があるのかも知れません」
そのように語りだされた前斎宮の短い話を、彼女はふるえる視界の中で追っていく。
「斎宮という存在は、それそのものを、身も心も神の身許に捧げ尽くすということです。それ以外に必要はなく、また必然もありません。私の生活や行動、その身の上などはすべて私個人や家のためにあるわけではない。それは、ただ神の御前に跪いて、人々の日々の安寧のために、日夜お祈りに、決まりごとに励むというのが、そもそもの私の役目、私がこうして呼吸し思考し筆を執り、あなたにらちもあかないくだくだしいことを書きつけるようなこと、それらすべてはしなくても良いことであり、またしてはならないことでも有り得てしまう……つまり、神に祈りを捧げる以外の私の行動そのものは、まったくじゃまものであり、本来であるならば生活の一部として採用すべきものではないということですね。私には……神様との直結以外は、すべてが必要とされていない。それどころか、排除されるべきものなんです。
私は既に神の御座から下りて、すっかり堕落しきっている身の上だからして、あなたにこのような言葉を書き付けて、あなたの思考を鈍麻させたり不利益を被らせるようなことをしても、特別咎め立てられるようなことはないのかもしれません。でも、推奨されるべき行動でもありませんよね。そういうところから……つまり、自分に与えられたものに結局満足をせず、それ以外のことを積極的に求めようとしてしまう浅ましさ、そういうものが、本来の私の中にあったということ。そういった生来の邪悪さ、不遜さ、不真面目さというものが……ああいった魔を呼び寄せて、そして生来の自己と、そして他ならぬ神の身許に飾り立てられたまがいものの私を等号させてしまった……そういうことだったのかもしれません。
彼は狩りの使いでした。都の大盤所で使う鳥獣を狩りに来るついでとして、こちらの情勢を確認しに来るための、ごくつまらない役目を背負ったものです。でも彼は悪くはないの。私が、うかつだっただけなのよ。
「あなたも、一人ぼっちなんだね」
その男は言いました。でも私には分からなかった……その、一人ぼっちであるという感覚が。その男はまるで、そのたった一人であるということが全くの苦しみであり、その苦しみを僕ならば分かってあげられるといったふうだった。でもやっぱり、それも私には分からなかった。なぜって私は、一人であるということに、何らかのくるしみを抱いてはいなかったから。
でも、そういうのって、たたるのね。なんというか、他人との感情のすり合わせというものを日常的に行っていないと、たたるのよ、そういう時に……自身の日頃の怠惰というものが。
その日は、夕日がとてもきれいだったの。だから私、御簾越しではなく、なまの目で夕日を見たいとおもったのね。それがいけなかったのよ。
端近に近づいた私は、その人のことを「見」ました。そこにその人は立っていた。おおきな黒い目をまんまるくしていてね。まるで恐ろしい物の怪か何かに出くわしてしまったような顔をして。私のことを見ているの。
私は逃げようとしたわ。でも、待ってくれと言われて、それを聞き入れてしまった。私には耳がきちんとあって、それは他人の声を認められる、意味がきちんと分かる、というのを、それによって示してしまった。私というものは、そういうものではあってはならないという規則があるにもかかわらずよ。
神に仕えるものが、それ以外の人間……というよりも、声を発する生き物ね、そういうものをこちらから認識することはありえない。そういうはずだった。それにもかかわらず、私はその規則を破って、他人を、他人の言葉を私の中に取り込んで受け入れてしまった。そうしてしまったら、もう、だめなのね。もう、何もかもが遅かった。彼は私を認めたわ。そして認めた彼を、私もまた認めた。そのせいで、彼は私が、会話可能の”生き物である”と「認識」してしまったのよ。そして認識された私は……彼と会話を。意思の疎通を……そのような俗めいた女に、清浄な神への奉仕が、それ以降もまかり通るとでも?
彼はそれからも毎日私を訪ねたわ。彼はひとりぼっちの私を……もちろん、みのまわりのお世話をする人たちは居たけれど。それでも私と会話を交わすようなことはない。彼は私の話し相手になったわ。夜になると忍んでくるの。それで、その行為によって……寂しい、ひとりぼっちの私を……慰めているなんて。
彼、使命感に駆られたような顔をしていたわ。自分のしていることは絶対的に正しいことだって。ひとりぼっちのさみしい女の子を慰める、正しくて優しくて頼もしい男の子。彼はそういう人だったわ。だから私に、あなた「も」なんて、自身の中に私を含めたのよ。
私は彼の気持ちに沿ってやりたかったわ。彼の描いている私に似合うように。一人で居るというのはとても寂しいことであって、それを慰めてくれる他人がいるというのは素晴らしいことであって、それならば、喜んでそれにお縋りしようと。でも、だめね。どうしても彼の言うようにはなれないの。私はひとりぼっちでも、ちっとも、寂しくなんかなかったの。
彼のこと、好きだったわ。だって彼、とっても優しかったもの。私の境遇に同情して、斎宮としてのつまらない役割としての私ではなく、ただの女としての私に優しくしてくれた。さみしい一人の女としてね。私は……彼にしてみれば、寂しさを埋めてくれるような誰かのみを待ち望んでいる、たったひとりの、彼の対になるべき女の子だったのよ。
誤解しないでね。私、彼とはお話するだけだった。彼は一度も私の手を取ったり、体を抱いたりはしなかったわ。でも、世間がそんなことを諒解するかしら? 私たちの、関係とも呼べないその関係は、すぐに世の中に広がって、私は退下するしかなくなった。まあ……それだけの、話です。
その男の子? どうなったかなんて知らないわ。太宰の方に流されたって話も聞くけど……本当のところは知らない。私には……もう関係のないことだから。
これ以上あなたに、私のことについて話をすることは何もありません。ただ、わかってほしいことが、いいえ、覚えていてほしいことがひとつだけあるの。
私は寂しいというのを知らない。知るつもりもなかった。でもそれが今ならわかる。なぜなら私はあなたというたった一人の人を知ってしまったから。
ああ、私のあなた! 私は詰まらぬことを覚えてしまいました。一人でのんきに暮らしていれば、このような目には遭わなかったものを……
あなたが悪いのではありません。私は私の中の孤独というものの種を、今までに発芽させなかっただけ。しかし、私はまったくの種無しなどではなかった。誰の体の中にも、その種はねむっていたのよ。そして、それが、必要に応じて、発芽したり、しなかったりするだけ。私はそれでも、種が自身の身に宿っているということも知りもしないで……、今ならそれが分かる。それはとても不幸な、くるしみです。だけど私はその耐え難いものを得てなぜか、夜、一人でふと笑っていたりするんです。おかしいでしょう? こんな私は……
もう、私のことなど忘れて下さい。私はみにくく汚れ果てているの。私は、あなたが今までに一生懸命になって考え巡らしてきたような美しい女ではないの。私の本当の姿を見たら、あなたは私を嫌いになるわ。今のこの私に、あなたほどの人に、そこまで心を砕いていただくような価値はありません。
こんな詰まらない女でも生きていた。そして、詰まらない一生を送るはずだった女が、あなたという一人の他人によって、少しでも現世においてのその詰まらない生を慰められた、それだけを覚えていて下さい。あなたは素晴らしい人。こんな私のくだらない生にも幸福の粒を蒔いた……あなたというのはそういう人。それだけを、覚えて、私のことなんて、さっさと忘れるのが宜しいの。
すてきなあなた、さようなら! もう二度とお手紙しません。どうぞいつまでもお元気で。いつまでも、あなた方の御多幸を願う嵯峨野から、たくさんの愛を贈ります」
手紙には焚き込めた伽羅の香りと、それから薄いすみれいろの花びらが一枚。
神の森 眠る子供ら 祈り待つ
為れず 火に入る 我共々に
彼女はその場に蹲って泣く。
こんなものは、それじゃあいらなかったんだ。
いらないものの捨てる先はどこだろう。これは誰にも必要とされていなかった感情なのに、いつまでもどうして持っていなければいけないんだろう。こんな、誰にも必要とされていない、強い他人への希求を自身の中に押し込めてまで!
彼女が半乱狂になってあえぎ苦しんでいるので、それを見咎めた女房たちが慌てて梨壺へとやってくる。彼女との共同生活によってすっかり彼女本位になっている東宮妃付きの女房たちは、梨壺にいる春宮の都合などはもうほとんどそっちのけで、主人の狂乱と共鳴したようになって彼の救援を求めてくる。
彼には彼の都合があったし、彼個人の時間もあった。そこは更に彼のプライヴェート空間なのだから、本来であるならばもう少し、女房たちも段階を踏む必要があるはずだ。
しかし、他ならぬ姫宮の一大事であれば仕方がない。彼だって、彼女たちがひいひい泣きながら彼に訴えかけてくる前までは、気の置けない召人を召し入れて、隣に寝そべった彼女の鎖骨あたりを撫でながら、とろとろと深夜のまどろみを楽しんでいた。そういう、なんてことのない時間が、彼には生活の中のかけがえのない楽しみでもあった。生活というものは……彼に言わせれば、こういった何気ない仕草の一つ一つに楽しみを覚えることだ。欲をかかないことだ。求めすぎないことだ。でも、吾が姫にはそれが分からないらしい。もう既に何もかもは満ち足りているのに、それでも足りないと駄々をこねている。あの人はまったくの赤ん坊だ。何も知らない……まっさらな……だからこそ手のかかる……かわいらしい……
彼は片肘をついてそこに頭を乗せ、となりで不安そうにしている召人を眺めながら、御帳台の向こうの女房たちに「はいはい、分かりましたよ」と気乗りしない声で言う。それからめのまえの女だけに聞こえるような小さな声で、「まったくお姫様というのは手が掛かるね。何もかもご自分のおもいどおりになるとおもっていらっしゃるのだから。ねえ?」
その言葉を受けた女は少し掠れたように微笑んで、早く行って差し上げませんと、などと彼の行動を促すが、彼はそれでも彼女の体に未練がましく触っている。「お前と楽しいことをしていたのにね。それを台無しにしてまでして、何かを成すなんてことが本当に正しいことなんだろうか」
彼は言って、けれど彼女のふっくらとしたさわり心地の良い顎辺りを指でなぞると、それから大義そうに起き上がって、彼女の方などもう見向きもしないで、御帳台の中を出ていく。
「………………」
それまで笑みを浮かべていた女は、それをする必要がなくなるのを知ると、はあとため息を付いて、その場に突っ伏す。そして、大嫌いな女のことをおもって、また深い溜め息を吐いている。
何なの? あんな女、あんな馬鹿みたいでくだらない女のどこがいいの?
一人取り残された女は正しくない感情を抱いて、自身の火照った身を不正解に燃やすが、それはどこにも発散されないので不燃に終わり、彼女はそのやりきれない体をもてあまして、ぐるぐると自身の唇を噛む。
どれだけ自身のすべてを注いでも、その甲斐は得られない。得ようなどとおもうことがそもそもの間違いだ。このような感情を持つこと自体が間違いなのだ。しかし誰の体の中にも、感情はある。捨て置かれる女でも、男でも、その中には一人前の感情がある。だけどしかし、それが何になるというのか? 誰一人にも顧みられないのだとすれば、このような感情などなぜ生まれる? 憎い、憎い……しかしその感情は間違っている。なぜなら、そのような感情などは、本来であるならば”無い”とされるものだからだ。召人などというものに感情は無い。無いから、私の抱いているこの感情は間違っている。無いものを有るとすることは出来ないだろう……そういうことだ。
「あんな女、早く死んでしまえばいいのに」
そうおもう私の感情も、きっと間違っている……
「やれやれ、やはり手紙など書き送らせるべきではなかった!」
春宮の君は春宮の君で、最近はややもてあましぎみになっている自身のかわいい人のことを、どう扱ったものかと悩んでいる。
「どうしたの?」
彼が彼女の御局までやってくると、部屋の中は千切られた紙やら几帳に引っ絡まった着物やらなんやらで散らかっている。彼はその有様に嫌悪感を抱いた。
盥に水を用意したり散らばった紙を片したりしていた女房たちに視線を落とすと、それに気付いた一人が彼女の惨状を説明する。
「もうお終いにしよう」
で、彼は短く、言葉を地面へ放るかのような言い方をした。
肝心の彼女は御帳台のなかへ丸まっていて出てこない。ただ女のすすり泣く声だけが時々聞こえる。彼は部屋の入口あたりでそれを冷たく見つめながら、庭から聞こえる秋の虫の声を聞いている。誰も何も言わない。ただ、彼の一挙手一投足を眺めて、じっと息をこらしている。
「遊びは終わりだ。絵巻物も手紙もみんなお終い。これからは、あなたの本来するべきことに集中しなさい」
彼は足元に落ちていた千切られた紙の一片を手に取ると、それに目をやった。連綿とした女文字と、それから知っている香の香り。それから彼はその香りの記憶をおもいだした。それは、彼女が時々嵯峨野からの手紙をもらった日に、いつまでも彼女の体に染み付いて離れないあのにおいだった。
彼は気分が悪くなって微量に顔を顰めた。自分の女から、別の女のかおりがするなんて! 彼は彼女の着物の奥から、その嗅ぎなれない香りの残滓を聞くたびに、まるで二人だけの御帳台に間男を引き入れているかのような感覚を得ていた。そのたびに彼は使いのものに香を焚くように言って聞かせて、彼女に「これほど噎せ返るほどの香を焚かずともいいでしょう」などと咎められることも屡々だったのだ。
こんな不快なおもいは金輪際したくもない。彼女も先方からつれない返事をされて、ようやく目が醒めただろう。どうせ女同士の友情など儚いものだ。男女同士の、絶対的な結びつきが、女同士にもまた有効に働くはずもない……
彼はその紙片を燈台の火で焼いてしまうと、手を払って、御帳台の中へ入る。そこでは女が暗がりで、一人寂しく泣いている。それを慰めるのは誰だ? この俺しか居ないだろう。それ以外に、このかわいそうな女の子を助けてやることの出来る男など居やしないんだ。「あなたはもう既に立派に、女としての仕事をなしているではありませんか。なにをそれほど悲観することがあるの? 僕のお母さんだって褒めていたと言ったじゃない。あなたは神のこどもを産んだのだ。あなたほど素晴らしい仕事をしたものはこの世にいない。それを誇らしいとはおもわないの? ……それでも、産んだら産みっぱなしというわけにもいくまい。僕たちの手でそれを、りっぱなおのこに育てるのですよ。それを手伝ってくれるのはあなたしかいない。そうでしょう。さあ、いつまでも泣いていないで。あなたが泣いていると、僕までもが悲しくなってしまうよ」
などと、彼はまだまだ言葉を連ねて彼女をかき口説いていたが、肝心の彼女はその殆どの言葉を聞いていないで、嵯峨野の人のことを考えている。
彼女はこんなときに、母という存在が話し相手となる人をどんなにか羨んだかしれない。
確かに、彼女には母親がいた。彼女は今、二条にある新・讃岐邸の家刀自として屋敷に居、娘の出産の際には事細かく世話は焼いてくれたがそれだけだった。彼女の母親には、彼女の本当の気持ちは分からない。その不安が分からないのだ。
いつもそうだった、あの人は、影が薄くて、三歩下がって師の影を踏まず、家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従い……を地で行くような人で、彼女の良い人(この場合は竹取の翁)が「そうだ」といえばすべて「ああそうですか」で済んでしまうような人なのだ。男がなにかを言う。彼かがその隣の女に”その人の”意見を伺う。すると女はぼんやりとした顔で、しかしその声色にははっきりとした意志を漲らせ、「私も主人と同じ意見です」と堂々としている。彼女の母親というのはそういう人だった。だから彼女には、そうでない母親像を持っているらしい他人のみのうえが、この上なく羨ましかった。何ごとにつけても、「さあ、家の母に相談してみませんと」とか「この間母と話し合ったのですけれど」とか「母がそう申しておりますものですから、私も負けじと言い募って、それで喧嘩のようになってしまって」とか……私には胸の裡を明かせるような、その身の全てを打ち明けるに足る母親などというものは、一人だって居やしないのに。だから彼女の中には、いつしか理想の母親像というものが生まれ、育まれた。その結果は大なり小なり彼女の描く物語に反映され、一つの形として世の中に残った。そしてその幻想としての母親像というものが、ある種の人々の理想の形としても同時に彼らの胸の中に刻まれ、それによって生じた様々なものによってまた、現実世界においての被害を受けるものも出てくるわけではあるが……これはまだ先の話だ。
彼女には話し相手に足る母親は居ないが、姉は居る、はずだ。彼女は姉に手紙を書いている。彼女の感情を分かち合ってくれるのはまた彼女しか居ない。そうでなければ、どうして片割れとして生まれてきた必要がある?
でもその人は、彼女のほしい言葉を絶対に書き送って来てはくれない。
「それは気の毒なことだったね。でもきっと、相手方にも理由はあるのだろう。何ごとにつけても、こちら側の考えだけではなく、それはなぜ起こったのか……相手側の考えも想像して、全体像のあいまいなところを補完するよう努めなければいけないね。そのような行程を取るのを怠ることがあるから、余計な想像をして、その空白を不正解に埋めてしまうような愚を働くことになる。つまりあなたが今するべきことは無駄に現状を悲観することではない、現状を把握することだ。それは君が考えるべき問題だよ。他人に回答してもらうようなことじゃない」
彼女はその冷たい言葉にゲロゲロと嘔吐して、そのせいでまた祈祷師だの読経僧だの調伏師などを呼ばれてドンドドンドと今日も今日とて局の中は抹香の臭いと読経の声と弦弾きの音などで喧しいことこの上ないが、それでも彼女の中からいわゆる”悪霊”などというものは出てこず、芥子の臭いを染み込ませて髪を振り乱した女とか、首が百八十度回転して口から異様なものを吐き出す少女とか、それによってトランス状態に陥る憑坐童子も、窓から飛び出してその身を地面に叩きつけるカラス神父も、全然出てこず、ただ彼女は閉じられた御帳台の中で、ぐずぐずと泣いてばかり居る。
ここから抜け出して、自分の足で彼女の元へ駆けつけては? もう二度と手紙を書かないでと言われたけど、こっちから勝手に書き送ることはできるだろう。返事はもらえないかもしれないけれど、自身の感情くらいはそれで満足させることが出来る。どうして泣いてばかり居るだけで、行動をしないの? "Don't think, feet it." と誰かは言ったがそれは違う、今私に必要なのは、"Don't think, Do it! " の方だろう! ……しかし、そのような鼓舞も今では虚しい。そのような内省はし尽くした。そして今になって彼女は分かる。
私だって、他人の愛を要らないと言ったじゃないか。
要らない愛を押し付けられた相手が、どんな気分に陥るのかを知っているのは、他ならぬ自分自身ではないか? 要らないというものを、無理やり押し付けることは出来ない。物であるならば、押し付けられたほうは、あとでこっそり捨てることも出来るだろう、しかし人間そのものは、後でこっそり捨てるなどという便宜を図れるようなものでもない。彼らには意思があるのだから。
他人に思慕を寄せるだけならまだ良い。それによって、他人へと何らかの結果を波及させるようなことはない。しかし、その感情を契機として、実際に行動を起こしてしまったら? 行動にはどうしても結果が伴う。こちらから気持ちの向かない他人に、いくら行動でその”意思”を伝えたところで、それが健全なものになるとは限らない。そして彼女は寝そべって爪を噛みながら、始終思考を巡らせるうちに、彼女が最近重い腰を上げて読み終わった、しかし結局理解できないままだった、『光る源氏の物語』の、あの『薫大将』の気持ちが分かる。優柔不断でふにゃふにゃしていて、ぐちゃぐちゃ言わずに行動しろ! でおなじみのあの男。
きっとあの男は行動することで起こるすべてのことに、意味を見いだせないままでいたのよ。
だから宇治でウジウジ悩んでかびが生えたように黙りこくって、「なんで浮舟は俺のことを拒んだんだろう?」と不思議におもうだけで、物語は物語るのを止してしまう。彼の疑問だけは宙に浮いて、それに回答するものは誰も居ない。でも別に、回答なんて提示する必要がなかったのよ。大将には浮舟が必要ではなく、浮舟にも大将は必要でなかったというだけ。あの人にも、前斎宮にも、私は必要ではなかった。必要でないものは、その生活の中においてひとつひとつ退けられる。私はその一つになって、たった今退けられたというだけ。それだけのことじゃないの。それだけの……
あーあ、現実をこうして生きることで他人ないし物語上においての登場人物の心象を理解できるんだから立派なもんよねこれが教訓とかいうものですかと彼女はおもうが、別に薫大将の気持ちなんて分かろうが分かるまいがそんなことはどーでもよかった。そんな奇妙な男のことなど分かりたくもない、しかし分かってしまった。それは自分自身があの、今までに嫌悪してきた男と同じようなものであるというのをまた知ったということだ。
私は私に求婚してきた、あの五人の男たちと同じなんだ。それと同時に薫大将と同じ性格を有して……要らない愛を、さも貴重で得難く、うつくしいものとして他人に押し付ける……押し付けられた方は、たまったものではないという視点を欠いて……
必要とされていない愛の捨てる先は? これは要らない感情なんだ。でも、ここにある。どうしてもそれがあるのが分かる。でも、それを受け取ってくれる人は、欲しいと言う人なんか、誰も居やしない。
この身の薄汚い、誰にも望まれていない感情をそれでも有しているというのが苦しい。このように「いらないもの」によって全身を支配され、身動きが取れずにいるというのに、その他ならぬくるしみによって、何も益するものがないというのはどういうことだ?
誰かを恋しいとおもう、それはもっと確かなもので、しかもそれのみを、私は今までに憧れ続けてきたのではないのか。しかし、果たして生まれたこの感情とは何だろう。私の憧れていたもの、それはこのように薄暗い感情ではなかったはずなのに……
あっ! と彼女はおもった。
私は今、源氏にさえもなっている!
桐壺を惑わせ誘惑し、困らせたあの源氏のように。
その時、彼女はぐらりとめまいを覚えた。
誰かが誰かの何かを欲しいと望んでいる。それはただの接点であったり、会話であったり、肌と肌の接触であったり、また肉体そのものであったりする。
しかしその望まれた他方は、その一方を望まないのだ。
源氏のいやらしさが、薄汚さが……たった今、自身のみのうえにある。
こんな体は最低だ。欲しくないとおもわれている他人に向かって、その欲しくないものをむりやり口の中に詰め込ませようとしているおのれの肉体など……でも私はあの人とお話がしたいのに。もっとあの人のことを知りたい、体に触れてみたい。目と目を合わせてみたい……御簾の中に入って、彼女の体を見つけて、目を合わせたら、そうしたら……
ああ私は源氏と同じ生き物になってしまう!
だから彼女は絵を描き、益々それにのめり込むしか無い。絵の中の人物に、愛情を注ぐ以外に方法を無くしてしまう。
そこに他人は居ない。彼女を受け入れる他人も居なければ、彼女を否定する他人もまた居ない。彼女はその真っ白な陸奥紙のなかで、まったく一人ぼっちの孤独の中にある。しかしそれは今の彼女にとっては、この上ない慰めだ。ここで一人ぼっちで居る限り、好きな人に要らないと言われる危険はない。ここは安全で、やさしくて、誰も私のことを否定しない。だから彼女は彼女だけの物語を描いている。それ以外に……それ以外に、こんな場所に居ることの意味が、どこにある?
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