第21話
さて、そのような念願の再会を果たした姉とは裏腹(?)に、またしてもその妹は、その身にみどりごを授かっていた。
そういう彼女はとても不機嫌で、とてもゆううつだった。
大好きな絵もまんぞくに描けず、お筆も紙もすべてむしり取られて、こんな時に力になってくれるのは親族ばかりだと、両親に手紙を書き送ったり、姉に手紙を書き送ったりもしてみるが、両親などというものは元々からしてあまり頼りにならないし、こっちが頼り切りにしている姉などは、なにやら他のことに掛かりきりになっているようでこちらもあまり役に立ちそうもない。彼女は姉からの素っ気ない手紙を見るたびに、爪をちくちく噛んで爪先を傷ませるので、それを咎め立てた彼女の良い人によって白い包帯を巻かれてしまい、おのれの爪に憂さを晴らすことさえも禁じられてしまう。
「こどもが出来たとなると、それまでなりをひそめていた怨霊、物の怪のたぐいが姿をのぞかせると言うね。でも大丈夫だよ。だってこの僕が居るのだから」
彼は使命感と陶酔に満ちた声で彼女に言って、彼女も女らしく妻らしく、それにはにかむように答えて、その言葉をまるで最上のものとして受け取るしぐさをするはするが、しかしそのような意に反した行動をとっているうちに、彼女はどんどん元気がなくなっていく。
そういう彼女が近ごろ頼みにしているのは、たったひとつのちいさな慰めだった。
彼女は夢を見ていた。眠る時に見るそれである。そしてその夢は、あの人に会うという夢だ。
夢というものが現代よりもより重く、現実感のあるものとして見られていた時代のことだ。その実感のある、しかし目を覚ましてしまったらそれは塵とはかなく消えてしまって見る影もない、そういうあいまいで、しかし不思議な輪郭をもったそれに、彼女はしばし酔った。彼女のことを夢見るために、彼女は目を瞑った。日中も御帳台の中でウトウトとまどろんで、少し暑さに汗をにじませた額をさらさらと夏の風に遊ばせながら、彼女の夢を見た。
むかしから、彼女の見る夢といえば、それは決まって自身の姉の出てくる夢ばかりだった。彼女が見る夢といったらそればかりで、彼女もそれが当然だとおもっていたから特に不思議がることもなかったが、そのうちに別の声が、彼女のなまえを夢の中で呼ぶようになる。
その人は夢の中で、遠くから彼女に手招きをしていた。彼女はそれに誘われて、彼女の元へ歩いていった。
それにしても、こうして出歩くなんて! 一体何時ぶりなのか、こどもを腹の中に住まわせてから、彼女はほとんどその足でおもてを歩いたことなど無かった。
むかしはそんなこともなかったのに、むかしは、お姉さんと一緒にそこらじゅうを、何の不思議もなく歩き回って……
「何をしているの?」
誰も聞いたことのないようなうつくしい声で、その声の主は彼女に呼びかけた。
「早く、こっちへ来て!」
彼女は、足を早めた。いけない! とおもったからだった。あの人が私を待っている。わたしはあの人のことを待たせているんだ、それにもかかわらず……こうしてのろのろと、かめのように。わたしは非道なまねを。
だから彼女は走った。走ろうとした、しかしその行為は彼女には難しいことだった。というよりも、高貴であるとされた女にとっては……
女が走るということはどういうことか? それは人間ではなくなるということだ。そんなはずがない、しかし彼女は貴族のお姫様なのだ、貴族のお姫様が、どうしてその御御足をみずから使用して、走る、急ぐなどといった非貴族的な行為を働く必要がある?
貴族の女が地べた、地面を歩くなどということはない。もしもそんなことが起こるとしても、そこには筵道といったものが、使用人の手によって敷かれるはずだ。その上を歩く。それ以外に、地面の上を歩くなど、まして、走るなどということは!
彼女はすっかり貴族の女に慣れきっていたせいで、走るという行為がうまく行えず、その水っぽい足を絡ませて、その場に転倒した。彼女は体を強か地面に打ち付けて、ギュウと潰れたカエルみたいにその場にへばりついた。
しばしの時間が流れた。彼女はムックリと顔だけを上げた。その視線の向こうにははるかなる地平線、そしてその先に、点のようにポツンと立ち尽くす何者かが見える。「何をしているの?」その点のようなものは再び彼女に尋ねた。
「はやく、こっちへ来てよ!」
彼女は走った。走って、転んで、起き上がって、また走った。
走る女というのは既にしておかしな存在だ。なぜなら走るという行為をするものは女ではないから。女ではなくなるから。それならば、女でなくなったものをどのような名前で呼びつければ良いのか? 走る女というのは鬼になるものだ。そういうことに、この世では決まっている。だからそうやって、好きな人のもとへ走る彼女という女は、その時それとは知らぬうちに、既に鬼になっていたのだ。
「斎宮様!」
鬼になった彼女はその点だったものに飛びついた。たしかに彼女はそれをその身に抱きすくめた。「ずっと会いたかった。ずっと、こうして直接会って、楽しいおしゃべりを。私はそればかりを頼みに、今まで、こうして……あなたをあんな場所から取り去るために。私をあんな場所から取り去るために……それだけのために、私は」
彼女は確かにその体を抱きしめたはずだった。だけど抱きしめすぎたせいかもしれなかった。その淡淡しい、不確かな生き物は、彼女の腕の中でぱちんと泡のように散消した。彼女はたくさんの泡になったそれを見上げた。めのまえで虹色を帯びたまるい泡が、いくつもいくつも彼方へと消えていく。
「どうしたの」
このごろは御帳台のなかでとろとろと眠っているばかりだからと安心していたところに、まためそめそし始めているので、彼女の様子を見に来た春宮は尋ねた。彼女は首を振って、なかなか涙の理由を彼に教えなかったが、彼が熱心にそれを探ったために、とうとう、「絵が描きたい」と言った。
「またそれですか」
ほうと彼はため息をつく。「姫のご病気が始まった。これは祈祷師を呼ぶしかないかな」
「……………」
「そんな目で見ないでくださいよ」
彼は口の端をちょっと上げて笑った。「冗談です。僕がそんな、あなたの嫌がることを積極的にするはずないでしょう」
彼は優しく言って、彼女の汗でぬれた丸い額をやさしく指で撫ぜる。
「よく考えてください」彼は言った。
「あなたをおもう私の心を。それに並び値するものが、一体あなたの中にどれほど眠っているというのか?」
「……………」
「ご自身のことを、今一度よく考えてみなさいよ。あなただけでいるだけで、充足できるものなど、端から有りはしない。そしてそれはあなただけではなく、僕にとってもそれは同じことなんです。つまり……分かるだろう? あなただけではだめで、僕だけでもだめだ。二人で一緒でなくては? あなたという一人の身のみにどんな価値がある? 僕だってそうだ。僕ばかりではどうしようもない。僕ばかりではただの……着飾って……富んだふりをしながら……あなたがいなければ私は無意味だ。そしてあなただって、ですから、だから、僕をそうやって拒んで、自分のしたいことばかりを突き通そうとするのはお止めなさい。さあこっちへ来て。いつまでそんならちもあかないことをしているの? 宇宙よりも孤独な僕。この僕こそが、同じように孤独なあなたのことを分かってあげられる。孤独を噛んだものだからこそ、その孤独をまた持つものの苦しみも分かるというもの。この苦しみを、ですから……あなたもまた同じ様に、理解することが出来るはず」
「……………」
彼女は彼には気付かれないように、深く静かに息を吐きだした。うつむいていた彼女はそれから顔を上げた。
「ええ、それは、とてもよく分かりました」彼女は見るものの顔をおもわず緩ませてしまうような柔らかい笑みを作って、彼の言葉を肯定した。「あなたが私のことを大切にしてくださるというのは、海があることよりも山があることよりも確かなこと。それは今さら確認するまでもないことです。ですからお紙とお筆を持ってきて。私のことを一番に考えてくださるのなら」
彼女は着々とふくらみ続けるお腹を抱えて、世話女房たちにそれを咎め立てられながらも、一日中机の前に座って書き物をしている。その集中力、気迫たるや、周りには容易に人が寄りつけないほど、新米女房などはその殺気立った様子に怯えて、食事の支度の云々すらも彼女に怖くて訊けないというような状況が二ヶ月ほど続き、その結果、彼女が久しぶりに手掛けた絵巻物は完成した。
で、梨壺サロンではそのように新作の絵巻が出来上がったというので、清涼殿のサロンではそれにぜひとも対抗しなければならないとして、彼女、梨壺サロンでのお抱え画師たる東宮妃の姉君であるところの少弁の君は、パトロンであるお主上のせっつきによって、新作の絵巻物について目下構想中なのだった。
しかし、正直言って彼女はその制作自体にあまり乗り気でなく、それよりもついに再会した意中の人との会話に興じたり、その会話によって生まれた疑問について考えを巡らせるのに忙しく、とてもじゃないけどなにか新しいものを創造するなどといったことには手が回らない。というよりも、最近になって彼女は、以前には当然のようにして抱いていた、創作というものについての考え方に、多少新たにおもうところがあったのだ。
つまり、あれほど苦労して、実作者たちの時間や神経や才能をすりへらしてまで創造するものに、一体どんな価値があるというのか。
一度考えだしたら隅々までその疑問について審査しなくては気が済まないらしい彼女は、その新しく生まれ出でた疑問の前に立ち尽くしたまま動けなくなってしまった。しかしパトロンであるお主上にとっては、そのような内情など知ったことではない。新しい作品が世に出なければ、彼は息子に負けを認めたことになる。そのようなことが許されるはずがない、今や既にしてサロン同士の絵合わせというのは仲間内、後宮内だけの問題ではない。宮中全体の問題なのだ……というのが帝のお言葉である。彼女は滾々と自身が創作物に関係したくない理由を縷々としたためた冊子とともに説明を試みたが、むだなことだった。彼の人の意向は変わらない。新しい巻物を作れとの一点張り。
「それはぜひ作るべきですよ」
画所の画工は言った。
木工寮には頭や助などといった役職についているものいたが、実務にあたっていたのはその下の名もない職人たちで、その職人たちを現在束ねているのが、今彼女の話し相手になっている職工だった。
「ですが、僕はほとほと愛想が尽きているのですよ。創作というそれ自体、そのものに」
「しかし、人々はあなたの作ったものを望んでいる」
「でもそれも、過去のことでしょう」彼女はゆううつそうに視線を揺らした。「人にはそれぞれ、受容量と供給量というものがある。僕のばあいは、完全にそれを両方とも超えてしまいました。もう言いたいことも表現したいものもなにもない。空っぽになってしまった蔵の中から、なにか宝物のようなものを見繕おうったって、これは無理な話で。そのようなちりあくたしか残っていないものの中から、むりやりなにかを引っ張り出したとしても、やはりその中身は空洞、張子の虎、見る価値もない空虚で下らないものが出来上がるだけです。そのようなものを、一体誰が見たいとおもう?」
「私は……見たいですよ」職人は言った。「限界から生まれるものというのもあるでしょう。何もないとおもっていたところから、ひょっくりと出てくるものもある。例えば蔵が空っぽだったとして、その板張りを剥がしてみたら、地下室があって、そこに仰山と宝の山が積み重なっているのかもしれませんよ。むしろ、そのように蔵を空っぽにしてからが、本番なのではないですか」
「あなた、それは、傲慢というものですよ」
彼女はきっぱりと言った。「あなたは、人というものの価値を高く見積もりすぎですね。人というのもはもっと、儚く、つまらないものです。そのような、枯れ木も山の賑わいとして本来であれば捨て置くであろうものに、無理矢理に価値を付属させてみても、結局つまらない結果しか引き起こしませんね」
「それは違います」対する職人も、きっぱりと言った。「あなたは作品を作るべきなんだ」
彼女は片眉をちょっと上げて、奇妙な生き物を眺めるかのように、職人の顔をうろんげに見つめた。
「人々はあなたが何かを作ることを望んでいる。そしてその作品は、大勢の人の慰めに、楽しみになっている。それは僕にとってもそうなんです。
画所なんて、大した名前がついていますが……あなたと関わり合いになる以前には、酷いものでした。私は職人としても誇りも、矜持も、みんな忘れ果てて、他の施工人たちの後ろにくっついて、精々それによって糊口を凌いでいるような……しかし今では違う。私のこの手によってでも、人を楽しませ、寛がせるもの、なにか価値のあるものを作り出すことが出来るんだ。それを思い出させてくれたのはあなたです。そのようなあなたが、そんな弱気なことを言っていてはダメだ……それは損失です、損害です。そのような脆弱なことでは、しょうがないじゃありませんか」
「しかし……私には、もう言いたいことなんか無いんだ」
「あります、少なくとも、人々はあなたからの言葉を望んでいる。その希望の心を、あなたが無視することはもはや罪です、犯罪です」
「ひどいな」彼女は唇の端を歪めて笑った。「僕は……そんなつもりは。ただ、特別言いたいこともない、やりたい表現も持たない者が、創作などというだいそれたことにわざわざ手を染めて、それを手に取る人々の時間を徒に消費させるようなまねは、極力避けるべきではないかと言いたいだけなんです」
「あなたにはやるべきことがある。ですから創作すべきです」
「そんな無茶な……それじゃまるで」彼女は呆れたような声で言った。「私はまるで、作品の奴隷じゃないですか!」
「ああ、そうでなくて、どうします?」
画工は言った。
「人間、どうせ、多かれ少なかれみんななにかの奴隷になって生きているんだ。雇い主とか、世間とか、子どもとか、その父親とか、母親とか……恋人とか? みんなどうせ誰かの奴隷です。それならば、自身の作品下に跪いて、そればかりに心身を披露させるというのも、また生活の営みのひとつとせずして、何としましょう?」
「まあそれも理屈だけれどね」
「いいえ、理屈ではありません、なぜなら……」
それから二人は酒も入れずに侃々諤々と画所の隅に座って議論をやっていた。その結果、今回のことはあちらがわに対しての対抗措置として作るのだから仕方がない、今回のところはこちらも巻物を作ることにする、しかしその内容は、全面的に画所の連中の創意工夫に任せるとして、一旦話は終わった。
彼女たちはそれで、だいぶ時間を掛けてその巻物を作った。彼女も、旺盛に作品を作っていた頃とは違って、本職の方も忙しかったから、時間配分そのものにも苦労があり、日中に政務、夜になって宿直をしつつそこで書き物をしたり画所のものと打ち合わせしたりと、忙しくしていたせいで、会議中につい船を漕いだり、お主上の話し相手になっているときについぼんやりしてそれを咎め立てられたりと、色々あったが画所の連中の協力もあって、予定を二ヶ月ほど押してしかし、作品は完成した。
そして予定より二ヶ月遅れて、絵合わせは行われた。その会では、清涼殿のサロンで制作された絵巻物の方に軍配が上がった。しかしこれが世に広まれば、どちらに人気が出るかは分からない。絵巻物は書き写され、人々の間に流布する。とりあえずやるべきことはやった、と彼女はおもった。ひとつの作品をみんなと一緒になって完成させた、という達成感は不思議とわいてこなかった。そういうものは後からじわじわと実感するものなのかもしれない? などと、自身を誤魔化しつつ、しかし彼女はやっぱりもっと別のことを考えている。
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