第20話

 法華八講では四日に分けて朝と夕一日に二回、少しずつ法華経全八巻を読んでいく。

 講師はその講座によって代わる。説教の程度によっては、人気の講師、不人気の講師も出てくる。今回の講座を担当したその講師は、僧位もそれほどでない、ただの読経坊主だったには違いない。しかし、なかなか愉快な説教をするとして、一部では評判を取っているらしかった。

 そして、その評判を受けて、この屋敷でもくだんの彼の登壇と相成ったわけだった。主催者は時の左大臣、場所は彼の住まう二条の屋敷。

 彼の登壇はその最終日、四日目の午前の法要であった。彼女はそこで彼と再会した。

 最終日はその法要のいちばん重要な人物に対する供養の日であるから(この日の場合は亡き女院のために催された)、あだなおろそかな人物が講師や読師として登壇するわけもない、ので、それ相応の実績や評価はあるのだろう、彼の懐かしい声はよく通り、きびきびとして清々しかった。聞いていて心地の良い声、ずっとそのまま、いつまでもその声色の中でぼんやりとまどろんでいたいような……

 相変わらず蝉の声は喧しいが、まだまだ夏の朝特有の照り緩むような日差しの中で、時々吹き付ける涼やかな風が心地良い。彼女は目を瞑った。部屋の中には大勢の公達連がその姿を連ね、廂は女房連の色鮮やかな夏着で埋め尽くされ、華やか極まりない。

 そのような人々が屋敷の一室に入り込んだその隙間のなさ、詰め込みの密度というものは凄まじく、人いきれで苦しくなってしまうほど。幸い彼女はそのような脂粉ふんぷん、様々な香のかおりがいりまじった女くさい場所からは離れて、簀子縁の近くに控えて、読師坊主の読む法華経に耳を傾けていた。

「眠くなってしまった?」

 目を瞑ったままで居ると、隣に座っていた同僚がささやくように彼女に尋ねた。

「いいえ」彼女はまぶたを上げ、短く答えた。同僚は口元を夏扇で隠すと、そのまま声までも隠すように小さな声でひそひそと言った。「それにしても女房たちの今日のはりきりようというのはどういうんだろうね。このはりきりようでは、火取りの香炉からの床しい荷葉の香りもすっかり醒めてしまうというもの。全く、近頃の若い女というのは、男のことしか考えられないものなのかしら」

「男ですか?」彼女は尋ねた。

「なんでも、ほら」同僚が顎をしゃくる。「物の本にもありますね。『説教の講師は、顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説くことのたふとさもおぼゆれ』……とかなんとか」

「ああ、なるほど」

「随分噂になっているみたいですよ。説教もうまくて。あちこちからお声がかかっているらしい。どんなもんですかね。ここはお手並み拝見と行きましょうよ」

 で、彼女はまた黙り込んで、お手並み拝見と洒落込むことにする。

 さて、その説教である。

 たとえばの話、話のうまい校長先生などというのは想像しにくいだろう。校長先生の”講座”を聞くのは往々にしてまだまだ未成熟の子どもたちが多いから、退屈するのは当然なのだ、という向きもあるかもしれない。しかしだからといって大人が聞けばおもしろいということでもないだろう。大勢の聴衆をまえにして、講説を打つ。多数の耳目がたったひとりに集中し、その人のみの一挙手一投足に集中する……などということは、元々が行われづらいものなのだ。

 で、翻って考えてみると、法華八講を打つ講師というのはどのようなものか。

 登壇者というものは否が応でも注目される。注目されるために、他者とは一段違うところに立っている。そして、他者と隔絶されているということは、ほんのその時ばかりでも、彼は他の者とはまったく違うものになる。つまりどうしても無思想ではいられなくなるのだ。

 他者と隔絶される、それはひとつの孤独かもしれないが、ひとつの自立でもある。登壇者は聴講者とは違い、発言を許される。その発言は、発言者のそれぞれによって、三者三様の体を成すはずだ。聴講者は登壇者の発言を聞くために、彼の登壇を望んでいる、というより、許している。であるからこそ登壇者は無口ではいられない、そして、登壇したからには、発言したい何かを、かならず持っているはずなのだ。

 そのように望み、望まれて登壇したはずの発言者の発言が、なぜか聴講者の耳に届かないことがある。これは両者の利害の一致が測られなかったためで、なぜこのようなことが起こるかというと、それはやっぱりお互いがお互いを望まないために起こるのだ。

 校長先生は、別に生徒に講話を聞いてもらわなくても構わない。もちろんそうおもっていない校長先生もいらっしゃるでしょうが、とにかく「校長先生のお話」というのは、彼の職務の一部ではある。職務の一部であるからそれは全うされなければならないが、全うされてしまえば、その内容に対してとやかくされることはない。生徒が聞いていようが、いまいが、その内容に感銘を受けようが受けまいが、職務が遂行されたということには変わりないからだ。

 もちろんのこと、百人の生徒が退屈した内容でも、一人の生徒がその内容に感銘を受けて、「校長先生はいい話をする人だ」と内心感心しているばあいもあるかもしれない。が、大人でも子供でも、興味のない内容を話している登壇者というものは、往々にして退屈なものだ。

 で、あるからして、法華経を読む講座、というのも、登壇者次第で面白くも詰まらなくもなる。この場合の面白い講座というのは、話の面白いことで有名な名物校長先生のようなものだ……としても良いが、他に当てはまるものがあるとしたら、それは”スター”なのだった。

 たとえばあなたの好きなアーティストがいるとする。その人が、リサイタルでも、ライブでも、とにかくなまの演奏をする、と。このような場合に、登壇者に対する聴講者の興味の大小、望みの大小とはいかばかりか?

 聴講者は登壇者の言葉を、一言も聞き逃すまいと耳を凝らす。その一挙手一投足に視線を飛ばし、その指先の流れの意味を、マイクを持つ手の意味を、その伸びた小指の意味を、ふともらした笑顔の意味を、いちいち記憶し理由づけして、それによって登壇者のすべてを見聞きしたいと望む……

 立派な、すべての人がむちゅうになるような、気づいたら法要が終わっていて、茫然自失となってしまうような講座をする法師というのが、この類の登壇者である、と考えてみるのはどうか。

 彼の言葉は、まるで音楽のようだ。言葉のえらび方に説得力があり、切れがある。余計な修辞は使ったりしない。誰にでも彼の話している内容の意味が取りやすく、またその一つひとつの言葉が確かな情熱によって彩られているというのがその口説からも分かるので、彼のことを知らない人でも、彼の話を聞いているうちに、ついその調子に取り込まれてしまって、じっと彼の話に耳を傾けることになる。たとえば、彼が経験談、たとえ話などを交えて故事を話す。すると、それまでざわざわとそこかしこで勝手に話をしていた人々が、段々と自分勝手の話をするのを止めてしまう。それは、周りの雰囲気に飲まれるとか、そういうことではなくて、そんなことをしている場合ではないと、自ずからが気づくためだ。

 たとえば、その日その座に居た藤式部丞という男は、昨日いっしょに遊んだ女のことについて、となりに座る左馬頭に話に話して聞かせていた。いやー昨日の女がまたものすごくてさ、かみさんに作ってもらったばっかの服着ていったんだよ、新しい服新調してもらえてうれしくてさ、それを見せたくて。でもさー、その女ときたら最中に、おれの服びりびりひっちゃぶいちゃったんだぜえ。ひどいとおもわない? そのくらいむちゅうになってくれたってことなら嬉しいけどさあ、でもそういうのって一過性のもんじゃん。後の祭りっていうか、そのびりびりになった新しい服を着て帰る俺の身にもなってよって話で。結局枝に引っ掛けて不注意で破っちゃったってことにしたけどさあ、でも、かみさんも気づいているだろうな、まあ、いいけど……などと、べらべらやっていたが、相手の左馬頭がなぜかそれに取り合わない。いつもだったら、こんな話にもへらへら笑って、ちょっと他の人とは話せないような尾籠な話も楽しく聞いてくれる気のいいやつなのに、と不思議がって相手を見ると、彼の目はまばたきをする時間ももったいないというように、一点のみに注がれているのだった。

 彼は奇妙におもって、左馬頭と同じ方向を向いた。それからしばらくじっとして、その話を聞いていた。

「……地獄には様々な形態があるといいますね。地獄の形態というものは、さまざまな描写で、そこへ入るかもしれないふとどきものの小心を、これでもかというほどに脅しつけてきます。

 さて、仏教の根本思想には、苦諦というものがある。諦とは真理のことです。そして苦諦とは読んで字の如く、この世は苦そのものであると。これを逃れるにはどうするか? 苦という状態を認めることだ。すべてはそこから始まり、われわれの土台が今ここへと築かれる。

 われわれは苦という土の上に根を下ろしている!

 普段の生活から享楽を約束された人には、この感覚は疑問でしょう。これほど楽しい世の中を、苦のみで結論づけようとしそこへ縛りつけようとするというのはなぜ? そのような、めぐまれないものの考え方を矯正され、それがまるで生き物すべての根本であるかのような言い方をされるのはがまんならない。そのような考え方もあるでしょう。

 しかし、どんな享楽者の身にも、絶望者の身にも、とても平等に、つまりわれわれの生というものには、どうしても苦というものがつきまといます。それは何故でしょう?」

 藤式部丞は、首をかしげた。

「それは、この世にあるすべてのものが、永遠ではいられないからです」

 登壇者は涼やかな声で言った。

「たとえば皆さんは、たまたまそこにあらわれ出でたうつくしいものを、いつまでも見ていたいと望んだことはありませんか?」

 ある、と藤式部丞は口の中で答えた。

「でもなぜかそれは叶えられない。何故でしょうか? 何故、と考えてみることからすべては始まります。そのようなことは、さまつなことであって、いちいち気にしているわけにもいかない。われわれには、もっと他に考えなくてはならないことがたくさんあるはずだ。だから、そんなくだらないことに思考を砕いているひまはない……と、いった考えも分かる。もちろん、そのような考えた方だって、可能です。決して間違っているわけではない。しかし、皆さん。ここにたった今座っている皆さんは、そのようなことを考え始めてしまいました。それでは、ここから僕たちは、どうしていけばいいのでしょう……」

 登壇者の話は続いた。

 藤式部丞はぼーっと口を開けて、それをずっと聞いていた。

 講座が退けて、ぞろぞろと帰り道につく集団のなかに紛れながら、彼は帰り支度をしている左馬頭の近くに寄っていって、尋ねた。「ちょっと、あれはどういうの? あんな説教する坊主いた?」「君も遅れているねえ」左馬頭は彼を見くびるかのように、ちょっと眉を動かしてみせた。「まさか知らないとはいわないでしょう。今、都中で評判を取っている人ですよ。僕なんか聞きながらおもわず武者震いをしてしまった」左馬頭は大仰なそぶりで、自身の両腕を抱いてみせた。「苦は苦であるというところから始めるというのはよかったなあ。それを前提としてしまえばすればなんとなく気が楽になるようなところがありますからね。苦痛を感じている今まさにその状態こそが生の通常の状態なのだから安心せいってかんじですかね」

 でも、それって法華経とどんな関係があるのですか? と藤式部丞が聞くこともない。ただ彼は、ははあなるほどと感心するばかりだ。「僕の昨日の女から受けたしうちも、やはり苦諦というやつなんでしょうかね?」「苦諦というやつですよ、それは」左馬頭は神妙に頷く。「ああ苦諦というやつだ。まったく女というものは苦の権化のようなものですね。いいですかあなた、女などとというものには、出来得る限り近づかないことですよ。近づくと噛みつきますよ」「まさかそんな」

 どこまでが冗談なのかよくわからない左馬頭の話を聞きながら、乗り付けてきた牛車に乗り込んだ後も、藤式部丞は考えていた。

 それにしても、どうして今までこのおれに、あのような話を誰もしてくれなかったのだろう? あのような話を知っていれば、昨夜のように野蛮な(?)女にひっかかることもなかったのに。

 わたしらというものは一体なんなのだ? 藤式部丞は牛車にゆられながら考えた。幸い、その思考に身を浸すのに適した時間はたっぷりあった。彼ら貴族にとって、時間というものは有限でありながらしかし、無限のようにして広がっている。実際のところ、官位従六位下相当に値する藤式部丞という男は、こうしたことを、生まれてからはじめて考えてみたといってよかった。彼のそれまでの生活というのには、どんな矛盾もなく、どんな疑問もなかった。ただ生まれた家の家格に従って、それ相当の役職につき、それ相当の仕事をし、それ相当の女を追っかけ……それらすべてに、彼は特に何か違和感を感じたということもなかったのだ。

 今日の八講だって、四日間丸々、熱心に通うつもりもなかった。ただ、お友だちに誘われて、もっともその誘ったお友だちはその日来ていなかったみたいだけど、とにかく別にすることもなくて暇だったので、のこのこと、出向いてきただけだった。誰か知り合いに会えばそれとおしゃべりするのでも良かったし、坊さんのありがたい説法でも聞きながら、のんびりうたた寝するのでも別にいいかな、という程度のきもちで、出掛けてきたのだ。それがこんなことになるなんて。やはり、人生というものは他人次第で、どう転がるかわからない。元々の彼は、そういう偶然の積み重ねの結果生じる諸々のこと丸ごとを引き受けて、人生を楽しんでいるようなところもあったので、人生そのものが苦であるなどといったことは、一度では飲み込みにくいことだった。しかしそう言われてみれば、思い当たる節はある。そう考えてみれば、あれも、これも、悲しいことばかりだった……

 かみさんはおれに着るものを作ってくれるけど、べつに取り立ててびじんというわけでもないし、良家の子女というわけでもない。昨日だって朝帰りをして腕を、後でみみずばれになるくらい引っかかれたし、ハナタレのがきどもは将来を期待できるような顔をしていないし、家刀自はまいにちあそこが痛いここが痛いといっておれを煩わせるし、役所での仕事はくそおもしろくもないし……

 あれ? おれはいままで、このような生活に、一体どんな快楽を見出していたのだろう?

 考え出してみれば、すべてが不思議だった。おれは今までの生活のどこにまんぞくを得て、このようなみじめな境遇に身を甘んじていたのか? それどころか、楽しいとさえ……

 女に服をだいなしにされたって、みみずばれができるくらい引っかかれたって、彼はへいきだった。それをかなしく辛いことだ、くるしいことだ、などとは考えなかった。それは甲斐性だ、男冥利だ、名誉だ、友人に話す話題ができて幸運だった、そう考え、昨日からのできごとを、楽しんでいた……

 しかしそれはすべて、苦の種に過ぎなかったのではないか。

 ガタガタと牛車が揺れた。道に埋まった石ころが、牛車を傾かせ、揺らした。

 むかしは、そういう振動が、味のあるものとして彼は好きだった。女の家から帰るあいだに、そういう揺れの中で詩情に暮れ、歌の一つもひねったこともあった。牛車の揺れとは、そういった詩情を呼び起こす、あまい陶酔を温めるものに他ならなかった。

 それなのに今は、ただその揺れが不快だった。なぜもっと平らな場所を選んで通らない? 彼は、牛車を引く年老いた牛飼い童(牛引きは年をとっても童と呼び称される)の怠惰をおもって舌打ちをした。主人のことを全然考えていない。雇い主のことを心から考えているものならば、もっと細やかに頭を働かせて、石の出ていない場所を選んで通るはずだ、ああなんておれは不幸なみのうえなのだろう。気の利いた雑色の一人も置くことができず、かみさんには引っかかれ、女にはつれなくされ、家に帰れば古びたばあさんが、「痛いよう痛いよう」と、しゃがれた魚臭い声で、どこまでも迫ってくる……

 ああ世の中というものはなんと苦で満ちていることか!

「写経するんだよ写経」帰りしなに、彼の同僚は言っていた。

「そしたら解説してもらうのとおんなじ功徳が得られるってさ」

 だから彼はその日から、写経を始めたそうだ。

で、話を彼が帰路につく前に戻すと、その坊主の説教が終わった後は、読師坊主によって法華経が読まれた。

 十数人の坊主たちの声が部屋にわんわんと響き、香炉から荷葉の香りが人いきれのするムンムンとした部屋の中にさわやかな夏の香りを振り撒く時、たくさんの人々がひしめきあった部屋で、坊主たちがのんのんのんのん読経していると、観衆は次第にそのグルーヴ感に酔って、軽いトランス状態に陥るようになる。経文を大勢で読み合わせるという行為には、そうした共同体での一体感、他者との混じり合い、他者とひとつのものを共有するという、得難さがある。

 ライブ会場に入る。ちいさなライヴハウス。繁華街の端っこ、狭い階段を降りていくと、そこには現世とはあきらかに隔絶した世界が現れる。そこでは現世など、もはや夢だ。それもとてもつまらない、断片的なくだらない夢だ。そのようなつまらないものをうっちゃって、本来であるならば生きてみたかった夢のような場所へ、多数の、多く感情を共有しているもの同士が、”登壇者”のパフォーマンスを堪能する……、法要とは、葬式仏教の末の、木魚の音と抹香臭さと親戚の子どものむずがりと足のしびれの苦痛ではない、それは、天にも昇るような快楽の一種なのだ。

 彼女は、そういうライブ会場のごく端っこで、壇上に立ったその男を見ていた。

 彼の声は通りやすく、とても澄んでいた。よく鍛錬された彼の声色には、どんな甘えも媚びも自己陶酔も無かった。

 登壇者はそれぞれにそれぞれであったから、それは様々な声色使いが居た。乾いて燻したような声のするもの、自分の甘い声に酔いしれて蓮っ葉な声を出すもの、ガサガサ、ボソボソして聞き取りにくい声を出すもの、様々だった。その中でも彼の声はどんなにおいも、含みも、気取りも気負いもなかった。必要以上に自分の声を飾り立てようとか、重厚さを演出しようとか、そういった小手先の声の出し方ではない。ただ彼の声は淡々としていた。淡々として、それで必要な場所に感情が込められていた。それは仏の言葉であり、そして彼の言葉だった。彼は仏の言葉を代弁しているに過ぎない。そしてそこには、どんな飾り立ても必要にはならない。彼はそれを知っていた。だからこそ、ああいう声を出せるのだ、と彼女はおもった。

 法要が終わった後、彼女は彼に声をかけた。

 彼は彼女のことを覚えていてくれた。


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