第19話

 さてしかし、他人にはそうやって良く映る姉も、その体の中をすべて清廉に保っていたというわけでもない。

「宮中のお仕事をしてみてどうでした?」

「はあ」彼女はあいまいに頷いた。

「たいくつだったでしょ?」

「……………」

「あなたを眺めていると」

 帝は御簾の向こうで、猫が気持ちの良い場所を撫ぜられている時のような面持ちで、目を細められた。「気が清々します。まるで朝の冷たい空気の中で、張り詰めながらも体の端から解けていくような」

「……はあ」

「昼の明かりや夜の灯りのなかで見つめ安心する類のものとは違いますね。もっと、なにか……多数のものを容易に寄せ付けない冷たさがある」

「……………」

「あなたはいい人だ」

 彼は言った。

「また、是非お話を聞かせてください」

 さてそのように『先生のお気に入り』となった彼女はそういった職権を濫用(?)して、自身のしたいことをし仕放題していて、そのせいでと言うべきか、周りの目はもちろん彼女の動向を常に窺って彼女を影で色々と噂するものは跡を絶たなかったが、それとは反対に彼女に面と向かって忠告してくれる有り難い御仁も居た。

「君はもう少し退屈に慣れなければいけませんね」

 有り難い御仁こと頭の弁は言った。

 彼は彼女の直属の上司に当たる人で、それ故に言葉や意見を交わすことも多かった。

「退屈」

 彼女は静かな調子で、上司の言葉をそっくりそのまま口から吐き出した。

 まだまだ真夏の暑い盛りだ。太陽はぎらぎらと照りつけ、庭木の大きなやつには大量の蝉が張り付き、日がな一日みんみんみんみんやっている。

 彼女は蔵人所の一室で漢訳の経典を読んでいた。校書殿の西廂は熱くも寒くもなかったが、時々風が吹き抜けると、居心地の良い場所になった。そこにさやさやとした空気を纏わりつけて現れたのがくだんの頭の弁だ。

 彼ははたはたと扇を扇いでなまぬるい空気をかき混ぜながら、彼女の隣りに座って盂蘭盆会当日についての諸事項について話した。そして話し終わると世間話に、彼女の繙いていた本について尋ねた。彼女がそれについてまたべらべらとまくし立てていると、頭の弁は初めのうちはフンフンと相槌を打って聞いていたが、彼女が手振り身振りを交えての法華経講義に入ろうとするところで片膝を立て、ウンウンという相槌が段々とお座なりになり、膝に肘を置いて閉じた扇で後頭部あたりを掻き、彼女の言葉の速度が早まり勢いが増していくにつれ、扇でぺんぺんと膝を叩き出し、そして、言うのだった。

「あー。一つ聞きたいのだが」

「はい、何でしょう」

「君は、どうして、そういうことに熱心になっているのかね」

「そういうこと?」

「だからつまりね、」ぺん、と扇で床を一度叩き、「以前は白楽天にイカれていただろう。それは分かる。しかしその次は絵巻制作、そして仏典と来た」

「ええ、よくご存知で」彼女ははにかんだように微笑んだ。はにかまれたほうの頭の弁はちょっと顔を赤くして、視線を下げた。「いやつまり。だからね」「はい」「あなたねえ」

 彼は言った。「一体何が目的なのよ。なぜそうも、いつだって色々なことに掛かりきりになっているの」

「はあ」彼女は、おもわぬことを訊かれた、というかのように目を丸くした。「目的ですか」

「だってそうでしょう。ただでさえ蔵人なんて名前だけは良いみたいだけど、雑用係もいいところ。あ、これここだけの話ね。僕などは夜中から日中まで走り回って、とてもじゃないけど他のことに気を回す余力などない。それにもかかわらずだね」「僕はあなたほど忙しくはありませんから」彼女は穏やかに言った。「いや、そういう問題ではなく。業務以外に注げる体力がこっちは無いというだけの話で、そうではなくて」「好きでやっているんです。道楽のようなものです」

「道楽って、君ね」頭の弁は呆れたように、「……その、何だろうな」頭を掻き、「まあ、いいんだけどさ」顔を上げる。

「道楽ね。道楽といえば大分聞こえは良いようですが」

「はい」

「仮にあなたはそう考えていたとしても、周りはなかなかそうは捉えてくれないというかね」

「はあ」

「老婆心ながら申し上げるんだけれどね」

 彼は片眉を上げて、彼女の様子を窺うように見た。彼女は表情を崩さない。それを好機と捉えて、彼は付け加えるように言った。「怒っちゃ嫌だよ。僕だって憎くて言うのじゃない。同僚である君が、のちのちひどい目に遭わないようにと、忠告……いや、ちょっとばかしお話したいことがあるというかね」

「分かっています」

 彼女は彼の方を向いて正座をしたまま、相手にごく深い信頼を寄せているかのような声で言った。「中弁の君が、私のことを貶める目的で何かを図るはずがありません」

「いやー、その」頭の弁は多少へどもどし、「そんなにまっすぐな信頼を寄せられても、面映いようなところはあるんだけれどもね」とかなんとか言い、幾分脂下がってしまったことを自覚したのか、エヘンと短く咳払いをして居住まいを正し、「そうやって様々なことに首を突っ込んで、ああでもないこうでもないと色々な人とやりあっているだろう」と改まった様子で言葉を続けた。

「はあ」あいまいに頷く。

「ああいうのは、よくないね」

「はあ、そうですか」

「なにか野心があるのではないかと捉えられてしまう場合もある。そうなれば、痛くもない腹を探られて、嫌な目に遭うのは結局あなた自身でしょう」

「……………」

「例えばの話、あなたが政界の中心部に属していないのであれば、特に用心するようなこともない。現に、ひなびた宇治の屋敷でブツブツ言っても独り言で済ませられる人もいる。しかしあなたはそうじゃない」

「うーん」

「それにあなたはいつだって、誰かから意見を問われれば、誰彼構わず滔々と意見を述べてしまう」

「いけないのでしょうか」

「いやいや、決していけなくはないんだけれどもね」ぺちぺちと扇で膝を叩く。「真っ当すぎる。正論すぎるんだよ。ちょっと気が利いた奴ならそれにも応じることが出来るだろうけど、大抵はそうじゃない。それに、ある種の正論というのは吐かれた方に嫌悪感を生じさせることもある。特に、なにごとも穏便に済ませたがるお歴々にしてみればね」

「しかし僕は……」そこで彼女は言葉を取って、「違う考えを持った者同士でも、話し合うということはとても大切な……」「そう、それがいけないのだよ君」ビシ、と彼はその言葉を指摘して、「議論なんかする必要ないんだよ。自分のほんとうの意見なんかも、本来ならば出来得る限りは隠したほうが良い。こんなの常識だよ? 本心を知られて得になることなんて何にも有りはしないんだ。それどころか、方方に作らなくても良い敵を作る羽目にもなりかねない。僕はね、聡いあなたが、どうしてこのような赤子でも分かりそうなことを分からないでいるのか、と、甚だ疑問なのだよ」「そんな……」「それにね。傍から聞いていると、あなたは議論そのものを楽しんでいるかのようにも見受けられますぞ」「……………」「甲の意見にみんなの考えがまとまろうとしているところに、もう検討し終わったとおもわれる乙案をまた引っ張り出してきて、終わりかけた会議を混ぜっ返す。そういう現場を何度も見てきました」「それはどうも、すみません」「ただでさえ君は他とは違うのだから、わざわざその存在を特別せしむるために動くこともないでしょう。どうしてそういうことをするの?」「ですから、意見というものはそれぞれが持つもので、そしてそれらは一つ一つが精査されるべきものであり、であるからこそ私はそれぞれの意見をですね」「だからさ、そういうことはしないでもいいことなの。分かる?」彼はかんたんな足し算もまんぞくにできないようなこどもを叱るときのような口調で、「意見なんてもんはないの。通すべき事案があるだけ。それを僕と頭の中将でちょちょっと通りが良いように言葉の按配を考えるだけでいいんだから。だれもそんな……ねえ、特別な意見なんてもんは端から持っていないんだから」「……………」「もっとも、こんなことを言うのは君の気分を害するものでしか無いというのも分かるけれども」「いいえ、分かります。議論などは歓迎されていないということは……」「何だよ、分かってたの?」「まあ……」「それならばどうして会議のたびに混ぜっ返すようなことをするのよ」「それは……」彼女は顔を上げて、「やはり、良いものは良い。悪いものは悪い。それを皆で考えていくということが、会議ということの本来だと考えたためです」「そういう態度が」彼は噛んで含めるように言った。「周囲の反感を買うんだ。周囲の憤懣の原因になるんだ」

 彼は言った。「君はそうでなくても特別な人なんだ。あの宮姫の兄であり、普通の出世街道は通ってこなかった人だ。以前は益体もない職についていたから大したことがないとおもっていれば、蓋を開けてみればいつの間にかお主上の一番のお気に入りに収まっている。それに加えて漢籍や絵物語への造詣も深い。君と話していると実に楽しいよ。時間が経つのも忘れて、あなたの知識の豊富さに神経が掛かりきりになってしまう……」彼は半巻になっている御簾越しの、乾いた空気の流れる夏の庭を、夢見るようなぼんやりとした顔で見る。「君の様々なことへの関心の強さには舌を巻く。その向上心の強さには、僕のまわりのものもみんな烏帽子を脱いでいると言っていい、しかしそれは身内のみのこと。他の人が、そういった旺盛さを、別の旺盛さと捉えたとしても、何んら不思議なことはないだろう」

「ああ……なるほど」彼女は納得したように頷いた。「そうですね。分かります」

「言いたくないんですよ、僕だって。このような……お小言のようなことは」

「分かります」

「どこで誰が誰の話に聞き耳を立てているかなんてことは分からないんだから。この話だって……本当はもう少し声を落とさないといけないんだけど」頭の弁は嘆息を漏らす。「君はあやういんだ。そして僕は、あなたのそういう身の上が、心配でたまらないんだよ」

「どうも、ご心配をおかけして」

「君は……その」多少言いよどむ。「事務仕事もよくやってくれているし、気配りも細やかだ。側に置いておいて、害になるということもない」「はあ」「とにかく、そういう君がだね。あらぬ噂を立てられて、影であることないことヒソヒソコソコソやられている、この如何ともし難い現状に、僕などは、もう、我慢がならないのだよ」「恐れ入ります」「あなたねえ」頭の弁は呆れて、「ご自分のことでしょ。もう少し自覚というものをお持ちなさいよ」「でも」しかし言われた方の彼女も口を閉ざすことなく、「僕はただ……するべきことと、したいことの両方をどうにか工面しながらやっているというだけで。それ以上のことは……」「君はもう少し、つまらないものに耐えることを覚えなきゃ」

 頭の弁は言った。

「好奇心はいずれ身を滅ぼしますよ。出る杭は打たれる、雉も鳴かずば撃たれまい、能ある鷹は爪を隠す、なにごとにつけても、目立たず、騒がず、いつも静かに笑っている……そのようなデクノボー精神が、何よりも大切になってくるのです」

「ご忠告、痛み入ります」

「僕の言うことなんて、テキトーに聞き流しとけとかおもってるんでしょ」

「いいえ、それは違います」彼女は言って、彼のことをじっと見つめた。「ほかならぬあなたのおっしゃることだもの。胸に刻んで、お守り代わりに大切に留めておきます」

「……………」

 頭の弁は居心地が悪そうに膝のあたりをそわそわさせると、首元に指を入れ、直衣のなかに風を入れた。「……まあ、僕が言いたいのはそれだけなので。これはごく個人的な意見なので、この後は忘れていただいても構いません」「それはどうも、ご親切に……」「君は……」

 彼はくるしそうに彼女を見つめた。「君という人は、どうしてそうなんだろう」「そう……」「そう、というか。なんというか」

 頭の弁は後ろ首を手のひらで撫でるようにしながら、少しうつむいて言葉を探している。「君と話しているといつもそうだ。今まではどうとも、何ともおもっていなかったのに。君と話しているときだけそうなる。自分がごくつまらなく、野蛮で、卑怯で臆病な、ねずみ以下の生き物だとおもいしらされるというか……」

「何ですか、それは」

「ごめん。そうだよね。忘れて」

「いいえ、忘れません」

「ああ、忘れてよ」頭の弁は恥ずかしそうに笑って、立ち上がる。「違うんだよ。何だろう」立ち尽くした彼の足元を、彼女は見ている。「君はどんなことにも興味を持つ。他の人が、どうだっていいじゃないかと捨て置くこと、価値を置かないもの、置くもの、何だって興味を示して……その賢い頭で何でも噛み砕いてしまう。そしてその賢い頭で、僕達などといった慣例に従うだけのお役人連中のことなど見下しているんだ。いや、違う、見下すなんて……僕は君のことが怖いんだ。もっときちんというと、君に軽蔑されることが……ああこんな下らないこと、口に出すはずじゃなかったのに」

 彼はちょっと何かを諦めるかのように笑ってから、こう言った。「君は、もう分かっているんだろう?」

「は。何を」

「………………」

 彼は口元に不明瞭な笑みを浮かべたまま、明後日の方向に視線を飛ばし、それからちょっと小首をかしげ、彼女に言って机上にあった墨をちょいと拝借し、手持ちの夏扇にさらさらと歌を書いた。ぱたぱたとそれを扇ぐと、馥郁とした、丁香に似た香が舞った。

 差し出された扇を彼女は受け取った。それを開く前に、彼は彼女の手を握って、彼女がまだ何も言わないでいるうちに、今日のことは全部忘れてくれ、明日からはいつもどおりに、私と楽しくお話をしよう、いつもどおりだよと言って局を出ていった。

 彼女は丁香の香りがするその夏扇を、ぱた、ぱた、ぱたと少しずつ開いていった。


月の宮 帰る足音往く足音

  甲斐なき人々 会する人や


次の日、その人からまた短い手紙が届いた。添えられた一輪の花は河原撫子。


六条の 風舞う花々山越えて

  見ずも知らずも 今日の浅水


「それにしても、なんでブッキョーなんか」

 ヒグラシの鳴き声が聞こえる。庭先から伸びる陽光は、次第に赤みを帯び、部屋の中をぼんやりと染めはじめる。彼女は手紙をくれた男のことをおもいだしている。

「御仏にお縋りするというような歳でもないじゃない」

「世は末法ですよ」

 彼女は言った。「来たるべき日のために、ただ日頃から準備をしておくというだけのことです」

「死んだあとのことなど考えるのはお止しなさい」彼は言った。「蓮の上に生まれ変わるために、ひたすら念仏を唱えてそれのみを頼りにするなどということは……」

「僕は、良く死にたいからという理由で仏の道を知りたいというわけではありません」

「末法、末法とはいいますがね」頭の弁は言った。「確かに仏様の教えからはだいぶ月日が経ってしまったのかもしれない。しかし世の中を見てくださいよ。相も変わらず平らかであるし、豊かで穏やかだ。このような上天気の日に……このように曹司に籠もって、抹香臭い仏典などを開いて眺めているなどいかにも不釣り合いで不健康だ。そうじゃありませんか?」

 澄ました顔で言う頭の弁に、女は頷いて答えた。「まあ、そうかもしれません」「そうでしょう? この世にはもっと楽しいことがたくさんあるのに」

 彼は言った。

「それらを無視してまで掛かりきりになるようなことが、その他にありますか? 死んだ後のことに考えをめぐらすなどといった意味のないことにかかずらうなど、あなたのような人には似合わない」

「……………」

 彼女はぱたんと経典を閉じた。

 そして、来たるべき日というのが来る。


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