第16話
で、そういう彼女は廊下で滑ってころんだ。
すてーんと彼女は転倒し、きゃあ、と短い悲鳴があちこちから聞こえた。
なぜ、そのようなことになったのだろう? 本来であるならば、そのようなことは起こりようがない。第一に、お姫様というものはめったに出歩くようなことはしないから、転びようがない。正しい女というものは、部屋の中でじっとしていて、みだりに動いたりなどしないものだ。では何をしていれば良いのか? 何もしない。何もしないでいるべきだ。本を読んだり……女房連と噂話に興じても別に構わない。しかし特別推奨されるようなものでもない。
たとえばそこに、高貴な淑女が座っているとする。さてその淑女のめのまえに、三つのものが並んでいる。一、琴の琴、二、和漢朗詠集、三、香炉。このなかで、高貴な人が一番手に取るべきものとは次の内どれか? 正解などはない。どれでもお好きなものをお好きに手に取れば宜しい。しかしそれもやっぱり、推奨はされない。最も懸命な道を選ぶ高貴な人なれば、この三つの選択肢の中には正解はないというのを知っている。
何もしない。それが一番正しい。
誰もそれを強制などはしない。しかしちょっと自分の頭で最善を考えることができるくらいの御人であれば、それらはすべて二義的なものに過ぎないということが分かる、というより理解していることだろう。
つまり、自分の本当にすべきことというのは、待機であると。
彼女たちの、その先に広がる膨大な時間のそのほとんどは、何もしないことに費やされる、費やされるべきだ。天にも等しい人からのお渡りを待つ、それだけのために費やされるべきだ、なぜなら彼女たちの時間というものは、決して彼女たちのみの時間ではありえないのだから。
この世のすべてのものが、一番に尊い天子様のお膝元にあるのだとすれば、その御子のための母胎となる女の全てとは、一体どこへ還元されるのか? それはまごうことなき天子の元である、そして、その国母となる可能性を多分に含んだ自身の体、存在のすべてが、そのまま自身のみの体として自由されるなどという傲慢が、果たして実行できるのかどうか。よくよく考えてみるが良い、なぜわたしたちが、このような、暗くて寒くて、他の誰もが容易に彼女たちを発見できないような場所に閉じ込められ、自由を奪われ、それどころか、自由などという状態や概念すらも知らず、ただ一人の男に寵愛されるもののみとして価値を置かれ、かつ他ならぬそのことによって自身のただ「女である」というだけの体に、それ以上の価値を付加されているのかということ……彼女たちはその体だけであればただの女であって、そこら中に御簾の向こうまで顔を出して平気な顔をしている”高貴という価値を付加されない”女達となんら変わりがない。しかし、ほかならぬ帝に寵愛される強力な権力を有した家の娘というだけで、そういった”価値のない女達”からは外され、それ以外という形で、大切に薄暗がりの中に仕舞われ続ける結果になる……そしてその他ならぬ収納こそが、いいや収納され続けることこそが、大切にされるものとしての価値、生き様であると。
後宮の殿舎に住まう姫たちは、いわば生きながらの高級人形だ。ジュモーやブリュなど高級なビスクドールが野ざらしになったり、かばんの中に乱暴に入れられて乱雑に持ち運ばれるなどということが自然か自然でないか?
彼女たち人形の仕事とはなんだろう。それは大切にされること、人の手によって愛でられることの他に何があるだろう? 美しく貴重で高価なものは、それがそれであるだけで、それをそれとし、それに大多数の人々が価値を与え、またその価値を利用するために存在する。高級なお姫様というものはそういうものだ。だから美しい人形は、何をしていなくてもいい。ただそこに在るだけでいいのだ。
で、そういう、美しくて貴重でそして高価なものに、いつの間にかなってしまっていた彼女は、だからしてめったに殿舎の外へは出ていくことができない。出ていくとすればそれは、雅人に呼ばれて彼の人の殿舎に向かうときだけだ。もちろん一人で出歩くわけもない、大勢の従者を引き連れて、何十人もの行列でぞろぞろと、十二単衣のあでやかな色彩に後宮のなかを華やかにきらきらとさせて、しゃなり、しゃなりと歩いて行くわけである。
そのようなうつくしい行列であったはずなのに、彼女はなぜかその中心で、つるりとひとりだけ滑ってころんだ。前日の、床磨きが徹底しすぎていたためか? それとも早朝の露で濡れた簀子縁が、まだ朝露で濡れていたとか……いやいや違う、彼女は、もっと尾籠なものによって、その素足を滑らせてしまったのである。
まさにそれは必殺桐壺殺しとでも命名されても良いような残酷さ、残忍さ。彼女は誰やらがどこやらかから盗んできた樋の中身によって、その足を滑らせたのである。
それには芳しいにおいが振りかけてあって、それ自体の胸がむかつくようなにおいはほとんどしなかった。しかし彼女はこの世でもっとも高貴な身の上にもかかわらず、その足先で、ちゅるんとそれを踏み潰してしまったのだった。
時刻は子の刻、昨日の晩には霜が張って、息を吐けばそれが簡単に白く濁るような気温、真夜中になってのお呼びがかかるのは別に珍しいことでもない。足元や前方の暗闇を照らす女房が二人。彼女の介添をする女房が一人。その後ろにつく女房が二人。彼女の手を取ってしずしずと一行は、つめたく冷えた廊下を進む。一歩、二歩、三歩……暗闇の中では分かりづらいが、普段なら閉められているはずの妻戸(観音開きになる戸)がほんの少し開いている。先払いの女房はそれをちょっと不審におもったが、構わず通り過ぎた。そこから何かがチョロチョロと流れ出す。既に通り過ぎた女房は気づかない。いちばんに大切に、真心を込めてお世話されている人、その人が通る瞬間をじょうずに狙って、両手に樋を持ったその人は、その中身を簀子縁へと流しだす。「あっ?」短い声。一番に大切にされるべき人が均衡を崩したせいで、その近くにいた女房も一緒になって転倒した。妻戸はそれで何事もなかったかのように音もなく内側から閉められ、また音もなく掛けがねが降ろされた。当然きゃあきゃあと、夜中であるのにも関わらず騒いでいる女達に、そのような微量な音は聞こえない。すわ一大事かと警邏のものがやってくる。まだまだぼんやりとその粗相されたもののうえに座り込んでいる姫の腕をとっているものもいれば、その原因を確かめるべく紙燭で照らしてみているものもいる。しかし後宮女房というのも大したもので、すばやくその仔細をはあくすると、近くに居た女房はその尊い御方の身を自身らの十二単衣で隠し、警邏のものには夜露によって転倒してしまったことを何も問題はないのだと説明した。警邏のものが姿を消したと同時に内々に人を呼び、口の固い女房を叩き起こして簀子縁の掃除を命じ、急いで局に戻ると湯を沸かし、宮の体を洗った。
「小侍従の君、一体どうしましょう?」
火桶に炭を入れて暖を作っている女房に向かって、局に入ってきた使いの者が言った。
「宮はどうしてもご気分が優れず、そちらには行けないと伝えたの?」
「ええ、でも」尋ねるが使いの女房はもじもじして、「はっきりしなさい」「ええ、ですから」使いの女房は言った。「こちらへいらっしゃるというのです。それほど……動けないほどお辛いというのならば、心配だからと」
「まさか」小侍従の君は目を丸くして、「このような状態で、一体どうやってお迎えできるというの。馬鹿も休み休み言いなさい」「ええ、ですから、私が言ったんじゃないですよう」「それをどうとでも言い含めるのがあなたの仕事ではないの? この仕事何年やってんの? あんたどこの家の人? 名前は? いつからお勤めに出てるの? そのままのこのこと帰ってきたの? 嘘でしょ?」「そんなあ」使いの女房は泣きそうになって、「弁の君がお話していますよ。私は弁の君に言われて、とにかくお渡りになるようなことになってはいけないからというので、急いで報告しに来たんですよ……」「では、もたもたしていないで、宮の髪を拭くとか、香をどんどん焚くとか、どうにかしなさいよ。いつまでそこに突っ立っているの? 立つだけならウドでも竹でもデクノボーでも親でも立派にその役割をこなすのよ」「すみません、すみません」
などといった騒動があり、結局心配性な春宮の君は彼女の殿舎にやってきて、何かと気を配り、彼女の健康に気を遣った。
「君がどうしているかだけが気になって。ずっとねむれずに居たんだ。さみしくはなかった? 健康を害したときというのは、とかく人寂しくなるものだからね」
「ええ、本当に」
「僕が来たから、もう寂しくないよ。そうでしょう?」
「ええ、本当に……」
誰か、誰か。
誰か私を助けてよ!
このような状況下において、一体彼女の姉というのは何をしていたのか? 帝に認められてその周囲をちょこまかと走り回り、工房の連中を使って新しい絵巻物を次々と発表し、周囲の者に剛のものだ業のものだと精々おだれられて、アハアハ笑っていただけだと? 確かに一方的な目で見ればそのような観察も可能であったのかもしれない。しかし彼女だって、決して遊んでばかりいるというわけでもない。とにかく目的がまずひとつあって、その目的を達成するための一歩として日常生活に従事しているだけには違いがないが、しかしその、今では大変に煩雑と化した忙しない日常に忙殺されているばかりで、いつの間にか彼女は宮中の重要な駒の一つとなってしまい、そこから身動きが取れなくなってしまっている。夜中、書き物仕事をしているうちについウトウトしてしまって、我に返る。警邏のものが時刻を知らせる声が遠くから聞こえる。頬杖をついて、ジーンと耳に染み込んでくるような静寂を聞きながら、彼女は考える。私はいつまでこのようなことに甘んじているつもりだろう? 仏典の勉強はどうした? 早くしないと……私はこのようなことをするために、ここへ来ているのではない。もっと別のことをするために、もっと別の人に会うために……しかし未だにその人については何の消息を知る手立てもないし、今彼がどこでどの様に暮らしているのかも知らない。でも彼女は、彼が必ずいつかまた会えると言った言葉を信じている。あの人が嘘を付くはずがない。だってそうだろう? あの人は……今まで彼女が会ってきた人々の中でも、特別に洗練していて、特別に穏やかで、特別に優しく……
妹から手紙が届く。彼女はそれを開く。早く内裏に行かないと。お主上が呼んでいる。彼女は目をこすりながら、その長い手紙を読む。目がまだしょぼしょぼしているし、頭はぼんやりしているし、なんだか見慣れたその続け字もよみづらい。はやく、局を出ていかないと……
「……あなたは私のことをまるで無視して過ごしていますが、一体私がこの殿舎のなかでどんな目に……」
「……安易な誘いに乗るのではなかった、私は毎日なきくらして、今までのことを後悔……」
「……私が一生懸命描いたものを、あなたは評価もしてくれなかった……」
云々、云々、云々……
「少弁の君!」
同僚が慌てた声で彼女を呼んだ。彼女は読んでいた長い長い手紙の文面から顔を上げた。
「いつまでこのようなところでぼんやりしているんですか。もうお主上はお食事を済ませて、少弁はまだかとお待ちですよ」
「ああ、ハイ、ハイ」
「いやハイハイじゃなくて」
「はい、はい……」
彼女は緩慢な動作でゆらりと腰を上げ、長い長い手紙を文机の上に放す。白い紙は波を描いて、緩慢な動作でゆっくりと落ちていく。
彼女はその夜に、妹に向けて手紙を書く。
「お手紙ありがとう。最近はお互い忙しく、またみぶんも全く違ってしまったため、以前のように気安くお話できなくなってしまったけれども、またこうして時々、手紙で近況を教えてもらえたら嬉しい。
そちらでは酷いことになっているそうだね。可哀想に。あなたの境遇に強く同情します。けれどどこかに、必ず解決策はあるはずだ。現状が辛いからといってそこから逃げ出すのはあまり奨励されるようなものでもないということは聡いあなたならばよく分かっていることだろう。一緒に解決策を考えよう。しかし……それよりもまず、あなたにはもっとやるべきことがあるのではないかな。
それは作品を作ることだ。あなたの絵巻物は拝見しているよ。実に楽しいものだった。冒険あり、恋あり、苦難あり、ハラハラあり……おせじ抜きで、今までに本朝で書き記されてきたどんな物語にも見られない新しさだとおもったな。あなたの物語は素晴らしかった。この調子でどんどん描いてください。あなたがここへ来た理由をおもいだして。それは僕たち家族のためだった……しかし同時に、あなたのためでもあったということ。
あなたは源氏に飽き足らない物語が描きたいと言った。ここにはそれを達成するための条件、人材、道具その他が揃いぶんでいる。その境遇を利用して、あなたの本来すべきことをしてください。あなたは人形などではない。他の女性たちとは、全く違う何かを、あなたは有しているはずだ。ただあなたのそういった個性や成功をやっかむ人の妨害などは、モノともしないことです。あなたはやっかまれることが仕事でここにいるのではない。あなたのしたいことをする、そのためにいるのだということ。それを忘れないでください。また何かあったら手紙を出して。僕は出来る限り、あなたのためになることをしたいとおもっているから」
次の日の朝、すぐさま返事が来る。例によっての長い長い手紙。そしてその最後に書かれた一文。
「あなたは私のために何んでもして下さると約束してくれました。それならば私を、早くここから連れ出してください」
彼女はそれに返事をしようとおもっていたが、書こう、書こうとおもっているうちに日常に忙殺され、なかなか返信を書けないままに時間だけが過ぎていく。
そして彼女のそういった判断によって、彼女の妹は益々その身を、厭世観によって支配されていくようになる。
そのせいかどうか知らないが、妹姫は何かに取り憑かれでもしたかのように、日夜文机に向かって絵を描いた。その横顔はすさまじく、悪霊か悪鬼が取り付いたのでは? とおもわれるほど。祈祷師が呼ばれ護摩壇が置かれ陀羅尼が唱えられ、彼女の個室は香のにおいと祈祷僧の低い声の輪唱いっぱいとなりすさまじいありさまであったが、それでも彼女はそのようなものはまったく意に介さず、すべてを無視して真っ白な紙に筆を走らせていた。彼女は彼女に与えられているほとんどの時間をそうしたものに捧げていたが、それでも絵巻物はなかなか完成せず、反故紙となったものが曹司の隅にうず高く積まれるようになった。それを女房たちが暗にじゃまがると、「じゃあ護摩壇の中に入れて焚付にでもすればいいでしょ」などと甚だ罰当たりなことを言い出すので、寝不足によって隈を作り出したその形相から鑑みても、あの天女のようなおかわいらしいお姫様に悪魔が憑いたに違いないと言って、宮中の雅やかな人たちは、今日も今日とてヒソヒソコソコソと噂話に余念がないのだった。
が、そろそろ彼女のそういった反故紙制作の現場もだいぶ逼迫してきて、彼女一人きりでは立ち行かないようになってきた。そもそもの話、ある程度量のあるものを描くというのは組織的に役割分担を組んでいくものであるというのに、彼女は今までに、ほとんどそれを一人でこなしてきたのだった。これは尋常なことではない。しかし何作か作っていくうちに彼女の方でもこだわりが出てきて、以前のようにはいかなくなった。次回の帝主催の絵合わせはもう間近、しかし作品は出来上がっていない。どぉすればいいんだろう?
彼女はそれを春宮の宮に相談した。久々に彼女から頼られた彼は張り切って、宮中のものにまた相談したところ、一人の男が引っかかった。彼は春宮の宮以上に張り切って、「まっかせてください!」などと、腕まくりをして、彼女の手足となることを約束した。
その甲斐あって、近日中に絵巻は完成した。名付けて『秘本禁中絵巻』。なにやら桃色めいた題ではあったが中身はいたって健全だった。これも絵合わせでは好評を取った。
彼女は就労の疲れからまる三日御帳台から出られず、滾々と眠っていた。しかしそこへ忍んでくるものがあって、彼女はそれを受け入れなければならない。なぜなら彼女はそれこそが、彼女本来の”お仕事”であるからだ。憑き物が落ちたようにおとなしく静かになった彼女に、彼は御帳台のなかで優しくささやきかけた。
「機嫌は直った?」「…………」「あのようなことに掛かりきりになって……帝の命でもあるから、仕方がないことではあるかもしれないけど、それでも、君があそこまですることはないんだよ」「…………」「辛い目に遭わせているという自覚はあるんだ」彼は苦しそうな表情を浮かべて言った。「ねえ、もう止そうよ。こんなことは」「…………」「上には僕から言っておくから。こんなこと……あなたのたいせつな体を壊してまで、することではないよ」「…………」「君は、もっと大切にされなければならない人のはずだよ」「…………」「ねえ、そうじゃないの?」
そういう、良い人の世迷い言を聞きながら、仕事をしなくては、と彼女はおもった。
仕事をしなくては。そうしなければお姉さんは、私のことを認めてはくれない。私は女で、身分もなく、ただうつくしいだけのでくのぼうで、だから、ここで”仕事”をしなければ、その場所をなくしてしまえば、姉は私のことを見向きもしなくなるだろう。詰まらない、彼女の退屈も満足に癒せないようなどうでもいいものとして処理され、忘れ果てられ、必要とされなくなってしまう……お姉さんが。お姉さんに褒めてほしいのに。あなたこそが私の称賛する、一番におもう人だと言い切ってほしいのに。でもここに”居る”ための努力を欠いて、またくだらないだけのただの女になってしまえば、姉からの関心は削がれ、私は無きものとされてしまう。そんなのは嫌だ!
私はここへ何をしに来た? お姉さんの役に立つためだ、あの人の大志をお手伝いするため、その大志を持ったあの人に、ただ一人のあの人に、認めてもらうためではなかったのか……
彼女は目を強く瞑った。下半身に疼くような、何かが擦れて燃えるような感覚があった。目を薄く開ける。くらがりのなかに、ぼんやりとした影のようなものが見える。あれは何だろう? どういう理屈が通ったら、人というものはこのような奇妙に甘んじるようなことになってしまうのか?……
「大切にするよ」
暗闇の中で、男はそういうことを言っている。
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