第15話

「ああ、あなた」

 涼やかな声に呼び止められて、その画工は声のした方を振り返った。

 そこには色鮮やかな袍をまとった、見覚えのある青年が立っていた。「ちょっと、よろしいかな」

 画工は頷く。

 その会話は短く端的に行われた。曰く、あなたがたの作り上げた絵巻物の評価は上々で、とても素晴らしいものであった。帝からの賞賛の声も覚えめでたく、いたく画所の連中の仕事を褒めていた、と。

「そんな」

 画工は焦りを感じ、汗が全身からどっと吹き出すのが分かった。「畏れ多い。止めてください」

「止める? 何を」

「そのような……私たちはただ、指示に従って、然るべきことをしたまでのことです」

「それは、そうでしょう」

「たったそれだけのことをしただけにも関わらず、お主上が……私たちにそのようなお言葉を。目が潰れてしまいます」

「いいえ、あなたたちはそれだけのことを成し遂げたんですよ」その蔵人は目を細めて、とてもやわらかい、春の日差しみたいな笑い方をした。それで画工はその場に縫い留められてしまったかのように、じっとその男のことを見つめた。

「あれは僕のみの成果ではない。あなたがたの、あなたがた画工たちの仕事の結果です。あなたたちにはその成果によっての正当な賞賛と報酬を得るべきですよ」

「嘘です、嘘です」画工は怯えて、まるで恐ろしいものを目にしているように、彼の言葉を否定した。

 だっておかしいじゃないか、と画工はおもう。

 たった一月前まで、彼はずっと、桶を洗っていた。木工寮の連中が作業場から帰ってきて、足を洗う時の桶。連中は忙しぶっていて、日中に何度も足を汚しては拭くから、そのたびに汚れた洗い桶が放置されることになる。桶を洗って、桶が壊れれば(連中は平気で使い終わった桶を放り投げたり野ざらしにしたりしてすぐ駄目にしてしまう)桶を作る……この時勢において、絵の注文なんてめったに来るものではないから、彼は仕事の殆どの時間をそういったことで潰していて、自尊心などというものは育つ芽すらも土の中に仕舞われ、腐ってそのままなくなってしまったとおもっていた。

 それが、どうだろう。突然に嵐のようにやってきた絵物語づくり、それはもちろん大変な仕事だったけれども、その暴風雨のような日々は、彼の中に新しい種が蒔かれ芽吹くには充分で、彼はそのような日々の中ですっかり充実感に染まり、その温かく心地の良い疲れの中で、ずっと揺蕩っているような気分だった。それだけでもまんぞくだったのに。これ以上、このようなことが? 信じられない、夢のような、まるで……

「特にあなた。あなたの絵というものは素晴らしい」

 その蔵人は言った。

「とにかく線が素晴らしい。正直に申し上げれば、初めの頃はそうでもなかったが、それでも描くうちに、どんどんその線が洗練されていくのですね。いや、洗練とも違うな。なんて言うんだろう、『乗って』いったんですよね。徐々に、その線自体が。それらの演技であったり、感情であったり、気分であったりがね。そうしているとあなたの線は次第にあなたが乗り移って、線があなたそのものになった。見れば分かりますよ。

 今、あの絵巻の写本を作るので、第二図所を臨時に蔵人所の一角に設けていまして。完全受注生産でやっているところなんですが、やはり他の者の引いた線に、あなたのような霊感は出ませんね。あの絵巻を見る人達に、あなたの描いた本当の、本物の線を見させてやることのできないのは何とも惜しい。あの線がなければ、あの絵巻の良さは半分以上欠けてしまうでしょうから。そういうまがいものを本物と見てしまうのは、本来であるならば避けるべきことではあるんだけど……だから今、僕は、なんとかしてあの本物の絵巻を皆の目に触れさせてやることはできないかと画策中なんです。何かいい方法があるはずなんだ。これはお主上とも話していることなんだけど」

 そこで男は言葉を切ると、画工の方を見て、ちょっと困ったような顔をして微笑んだ。「あの御方も気の早い人でね。どうにかして第二弾をさっそく始められないかと、僕をせっついて仕方がないんですよ」

 そして、まるで物語から抜け出してきたかのような、美しい顔をした蔵人は言った。

「これからも僕のために、働いてくれますよね?」

 画工はそれに、一も二もなく頷くしかない。


 そしてその巻物の評判はその日のうちに、まるで流行病のように宮中へと広がった。巻物自体は容易に貸し借りできる類のものではなかったので、貴族連中は第二画所で制作された写本を貸し借りして、内容を把握した。

 その内容は、世を外れて生きているあの帥の宮にも届いたらしかった。

――宮は、あの作品をご覧になられましたか?

ああ、あれ?

――お読みになった?

まあね。目は通しました。

――いかがでしたか。

何? 感想を言えっていうの?

――あれほどのものを目撃してしまえば、沈黙を守るということも難しいことだとおもわれますが。

いやいやほんと。勘弁してください。隠居の身に向かって何を言ってんの。

――いや、あれだけのものを目にしてしまったものは、もう後には引けないんですよ。宮だってそうでしょう。

うーん。

――両者ともから、とても強い力を感じました。

両者? もっといっぱいあったじゃない。

――その中でもやはり傑出していたのは、あのごきょうだいのものだったかと。

まあね。そこはまた難しいものがあるけども。

――まだ一度も見たことが無かったものを見せられてしまった、というような虚脱感がありました。

虚脱? 君もオオゲサな人だね。

――宮はそうおもいませんでしたか?

おもいませんね。

――では、どうだった?

そうねえ。

――僕の同僚などは、図書寮のものがとなりで見張っているところで、写本を少しずつまた紙に自分で移しているものなどいるしまつです。

それは熱狂的ですね。

――熱狂そのものです。仲間内では作品にイカれてしまって、それを題材にして歌を作ったり、踊ったりするやつもいるくらいですから。

それは何かの病気なんじゃないの。

――熱に浮かされている、という点においては、恋のようなものに近いのかも知れません。

そうですか。そういうもんですか。

――とにかく、ここまでにして人心の掌握を一挙としたこの現象を何とすれば良いか。内裏でもこの話題でもちきりなんです。

ああ、そうですか。

――そして僕たちで話し合ったのは、こうした疑問にまっすぐに回答できるのは、宮、あなたをおいては他にありはしない、と。

なるほどね。

――僕たちのうちでは議論をし尽くした感があり、それでもこの不思議な現象について、まだまだ正解が出し切れていない。そもそも、以前よりの物語群と、あの二人のきょうだいが描いた物語とのこの圧倒的な違いはどうして生まれるのか? また、物語などは下らない、漢籍や、詩作のほうが何倍かも優れていて上等なものだと、物語なぞに血道を上げて、まるでそれが語る価値のあるものなどと勘違いをするのはおのことしてあるまじきことだ、などとしていた頭の固い人連中だって、今では目の色を変えて、写本を争って求めているんですからね。これは大変なことですよ。

ああ、そんなことになっているの? 全然知らなかった。

そもそもあの姫……いや、今は東宮妃というべきなのかな。女性でしょう? そして今では東宮妃としての確固とした地位がある。それにもかかわらず、そういった下々の者が従事すべきような内容に手を付け、それが一定の水準以上のものになった。もうここからしてこの話は異常なんだ。何もかも異例ずくめ。ほんとうに、話題に事欠かない人だね、あの方は。

――そういうことも鑑みて、他ならぬ宮の前で、避けるべき話題であるとはおもっていたのですが。

いやいや、良いんですよ。それはまったく過去のことだから。以前のことについて、僕はもう何んの拘りもない。ほんとこれはもう、強がりとかじゃなくてね。僕もそういちいち、過去のことばかり考えて過ごしているわけにもいかないんですよ。傍から見れば、暇しているように見えるかもしれないけれどね。(笑)

――宮から見て、そのような異例ずくめのなかでも、一番の衝撃だったのはどのような点だったのでしょうか。

そうねえ。どうだろうな。僕が感じたのは……いやでもこれはちょっと、答えになっていないのかもしれないけど。

――聞きたいです。

二人居たってことですよね。

――うん?

二人。わけのわからない才能が二人。それが絵の内容を競い合うというね。まったくお主上も面白いことをお考えになるよね。

――うーん。

そのうち好評を取って恒例化するんじゃないですか。何だかそんな気がする。別にああいったものは多いからといって困る類のものでもないんだし。

――僕たちの中でも、望む声はかなり大きいです。

そうでしょうね。

――その点、宮はどうなのでしょうか?

僕? 何か関係がある? なんもないじゃない。

――この物語合戦に参戦するご意向は?

無いでしょ。有り得ない。そもそもこういったものは古来より、帝の寵を少しでも多く得たいと願うものによる行為です。

――しかし、この世の中において、帝の寵を得たいとおもっていない人間が存在するなどということが有り得るでしょうか?

いや、それとは、別問題ですよ。とにかく、僕は関係がありませんから。


 などと、内外でも評判を取り、帝の企画した絵合わせは大成功のうちに終わった。

 それからは帥の宮の予想通り、絵合わせは定期的に、年中行事のあいまを縫って行われた。

 季節が何度か変わるごとに、彼女は幾つかの絵巻物を作った。『時路因間書』『長蔵物語』『永倉映像記』……そのそれぞれに賛否両論あり、写本あり、派生本が作られ、それを題にした歌会も開かれた。そうして季節を経るうちに、彼女も次々に重役への道を上っていった。今では彼女も正五位の位階を賜って、少弁兼五位蔵人として宮中のなかをあちらこちらと走り回っている。

 そんな彼女には、常に人からの噂話や毀誉褒貶がついて回った。

「どうしてだろうね?」

 彼女を重用した帝は、その日の朝拝が済んだ後に、彼女を相手にして世間話の一環として尋ねた。

「まあ……そうしたお話にも頷けないことはないですが」

「どういうこと」お主上はおっとりと視線を上げた。「話して」

「同じような程度の能力しか持たないとおもっていた同僚が、さっさと他を追い越して一人だけ出世するようなことになれば、他の人間はそれを憎むでしょう」

「そうなの?」

「良いところの坊っちゃんには始めから出世という点では敵わない。だから嫉妬心などは抱こうにも抱けない。しかし、自分と同じ様に平凡な生まれだからと同一視していたものが実は違ったということになったら、これは身の置き場がない」

「良かれとおもって、段階を踏んで出世させたんだけども。間違っていたということ?」

「まあ……どちらの選択を選んだとしても、最終的には多かれ少なかれこういった結果になっていたでしょう。そもそも私の身の上というのはちょっと他では考えられないようなものには違いがないんですから」

「なるほどね」帝は幾分億劫そうな嘆息を漏らした。

「すべての人を納得させるというのは難しいね」

 彼女の周りには自然に人が集まった。彼女はどんな話題にもその豊富な知識によって柔軟に応じ、議論の輪にも積極的に加わった。彼女が話の中に入ると話がややこしくなるので嫌がる者もいたが、一部の人々はそれをかえって気に入って、彼女を見つけては議論の種を吹っかけて、そこから侃々諤々やりあうのを楽しみにする者も現れた。が、同時に、そういった彼女の一連の行為を、知識をひけらかす、まったく貴族的でない行為だとして、流石は下賤の生まれだと蛇蝎のごとく嫌うものもいた。

 彼女の特殊な出自には人それぞれの様々な評価がついて回って、彼女のその存在に肉付けがされていく。そういう生活の中で、彼女は弁官として書き物作業に、蔵人として帝周りの雑務に奔走し、また暇を見つけては絵巻物の構想を練り、木工寮に通って画工と話し合い、またその更に隙を縫って漢籍の読みかけていたものを少しずつ読んでいく、というまさに八面六臂の活動をし、そのそれぞれに走り回っていた。そして彼女はそのせいで、またしても本来のやるべきことを忘れ果て、日々の生活に没頭するばかりの身となってしまうのだった。


 一方、その妹の方はどうなっていたのか。

 その姉は今や宮廷生活の栄華を恣としていたが、妹の方はそうでもなかった。それどころか、彼女の孤独は益々強まり、そのせいで彼女は、まったくのひとりぽっち、太平洋の真ん中に一人投げ出されてしまったかのような、まっくらやみの孤独の中に居た。

 彼女の作った絵物語は、ちょっと今までの常識では考えられないくらい、宮中の人からの歓迎を受けた。誰もが彼女のことを称賛したし、それに伴って現春宮の評判もうなぎ登り、それまで暗愚の才だと謗られたことこそ無かったが、別に名君と讃えられたこともない、まだまだ十五歳のちいさな少年は、最近では専ら、才気の者と誉れ高くあちこちでその才を囁かれた。曰く、先見の明がある、すばらしい名君であると。

 それに対して面白くないのは周囲にその他とされてしまった姫君たちで、これは比べられるのも気の毒というもの、なにしろ乳母日傘でそだてられた深層の姫君たちが、下々の者が生活の手段としてやむなく手に職をつけるために習得しなければならないような「絵を描く」などという下賤な行為を容易に行い得るはずもない、絵合わせということで各殿舎ごとに見様見真似で絵巻物提出したは良いが、それだってまともに見られるものが二三という程度、とうてい彼女の才には敵いようもなく、そうなれば新参者のでしゃばりを少しは自覚すべきということで、物語でいうところの桐壺いじめみたいなことが始まって、彼女は身分不相応に時の帝に寵愛された桐壺更衣のように事々に様々な方法をもっていびられるようになる。するとどうなるか。いびられる彼女は益々自身の殿舎にこもって絵ばかりを描き続け、そこから出てこないようになる。こうなればまた詰まらないのは春宮の君だ。あの手この手で手をこまねいて、彼女のご機嫌取りに一生懸命になったというのに。これ以上、何を望むというの。僕にどうしてほしいの?

 だけどやっぱり彼女は首を振って、何んでも無いとうつむくだけ。

 ああ、女って、こんなに面倒な生き物だったっけ?

 彼は彼女のそのうつくしい顔をきちんと眺められないために、その美の恩恵をうまく受けることができない。だけどそのまますごすごと、ああそうですか、じゃあお大事に、気分が悪いのだったらこちらから余計なちょっかいは出さずに居るよ、などという譲歩が何日も続けられるはずもなく、それどころか彼の心は、益々、おもいどおりにならない、彼女のつれない態度に縫い留められてしまうようになる。

 彼女の心のすべてが手に入らないからこそそれに執着が生まれるという例の悪い癖だ。おもいどおりにならない美しい女……それを無いものとして捨て置くのは容易い。他にいくらだって、しずかでおしとやかであまやかな、彼のことだけを第一に考えてくれる女などというものは望まなくても既に与えられている……でもそのようなものはほんとうの美しさじゃない。彼女はそのような態度を示すことによって、僕に真実のものを、このまがいものでたくさんあふれている濁世のなかで、真実のものを教えてくれようとしているのだ……から?

 そうやって殊勝な考え方をすることも可能だったかもしれない、そして実際に彼はそう考えるように努めた。しかし頭の隅ではその殊勝で懸命な判断についての抗議の声が上がっていて、それはこういうことだった。

 どうして彼女は僕を否定するんだろう。僕とあなたはまったくの対の人だった、前世から決められていたはずの……だってそうだろう?

 あの時あなたは僕の手を取った。それでまるで、そのままはかなく消えてしまうみたいに、あえかな、それでも玻璃の粉を振りまいたような、するどくて短い、うつくしい顔で、僕に微笑みかけたくせに。

 どうしてそのあなたが、僕をすべて拒んで、泣いたりなんかするんだよ!

 しかし意固地な彼女は、そのような彼の気持ちとは裏腹に、益々局にこもりきり、手紙を書いたり、絵を描いたり、爪をばりばり噛んだり、している。


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