第14話
「絵物語ですか……」
彼女は半ば呆気にとられて言った。
急にそのような話をされても、何が何だか分からないが、要点のみを掻い摘んで話せばこういうことになる。
今度内裏で絵合わせをすることになった。既存の物語などでお茶を濁すことも可能ではあるが、それでは片手落ちだろう。それよりももっと大々的にこの遊びを盛り上げたい、ついては、新しい物語を作り出す必要がある、と。
「たのしいことを考える人だろう? それを聞いた時、朕も久しぶりに、心が踊ってしまってね。このたのしみを皆さんと共有したい、と、こういうことになったわけです」
「はあ」彼女はあいまいに頷いた。
「なぜこの私が? と問いたいのでしょう」
帝は、彼女の疑問を決め打ちするかのように尋ねた。
「ええ、そのとおりです」
「そうでしょう、そうでしょう」なぜか楽しそうに笑って、「朕は、ずいぶんと昔から、あなたとは一度お話をしてみたいとおもっていたんですよ」
と、万乗の主はおっしゃった。
部屋の隅の燈台の灯りがジジジと音を立てた。うつくしい衣装をまとった後宮女房がどこからともなく音もなくスススと現れて油を足した。部屋の中が心なしか多少明るくなった。
夜の清涼殿、昼御座、御簾の内。本来であるならば、彼女のような身分もなにもないものが、容易に入り込めるような場所ではない。しかし彼女は御簾の中への侵入を許された。廂の間と本殿を隔てる御簾の向こう。それはたった一枚の、ぺらぺらとした仕切り一枚の隔てでしかない。でしかないがしかし、その空間と空間の遮断は、どんな壁の効力よりも厚く遠い。なぜならその薄い隔ての向こうには、この世の中で最も尊い御方の御座があるからだ。天子様の普段住まう空間へ、その神聖な空間への共同、入場を許される、となれば、これは天子様により近い身分の者しか預かり得ないというのは自明のことだろう。それにもかかわらず、彼女はそのような身分もなくして、神聖な場所への入場を許可されてしまった。これは、どういうことだろう?
彼女は空間を少し隔てた場所にある、御帳台を見ていた。そこへ天子様はあらせられる。その暗がりから、声は聞こえているのだ。「もう少しこちらへ」御帳台の中から、たしかにそのような声は聞こえた。
「…………?」
「顔が見えないでしょう。もっと近くへ。こちらへ来て」
「……………」
彼女はあたりを見回した。控えていた女房が、「お主上の仰せのままに」と彼女の行動を促した。それで彼女は、いざり足で、御帳台の近くへと寄った。
「もっと」御帳台の中から、声がした。「もっと近くへ」
「……………」
彼女は衣擦れの音とともに、自らを御帳台へと近づけていった。香りが強くなった。甘い、しかしどこか辛味にも似た、生暖かい感覚が……
御帳台の半巻にした御簾の向こうから、ヌーと白い手が伸びてきた。彼女はギョッとしておもわず身を引いたが、その手は彼女の顎を捉えて、ぐいとその顔を引き寄せた。
「もっと良く顔を見せて」
低くそして艶のあるあまやかな声で、その御方は彼女に命じた。
「(痛い!)」
なぜこのような乱暴なまねを?……彼女は不快なおもいに顔を歪めそうになった、が、堪えた。「……これが」
くらがりのなかで何かが光ったような気がした。彼女の半身はそのくらやみのなかに浸された。まっくらで何も見えない。ただ相手からは彼女の顔がよく見えるようだった。
その白い手は彼女の顔をためつすがめつするかのように、顎を持ったまま横を向けたりななめに向けたりとし、そのたびに彼女の視界はぐらぐらと動いた。絹のこすれるシュルシュルという音が、嫌に耳に響く。甘いにおい。けれどそのかおりは決して重たくもなく、軽々しくもなく、冴え冴えとするようでその実になにか脳髄のしびれるような感覚を覚える。ふしぎに人の感情を揺さぶるかおりだ。このような感覚には、一度も囚われたことがないような……
「戻っていいよ」
彼女は開放され、もとの位置についた。じっとその御簾の向こうを睨みあげる。相手は笑っているようだった。
「あなたの妹姫については、いろいろとお聞き及びのこともあるだろうけど」
御簾の向こうで、相手が螺鈿細工の脇息に凭れる。「あなたは見たことがある? あのすばらしい……」
「なんでしょうか?」
「絵だよ、絵!」御簾の向こうの相手は大きな声を出して言った。「今日も少し見せてもらったけど、あれは素晴らしい。女の身であれほどの……誰かの代筆じゃないかと疑ったんですがね。でもあなた、春宮に訊いてみれば、その場ですらすらと筆を動かしたというのだから驚くじゃない。実際にその筆さばきを目の当たりにしてしまえばね、これは代筆を疑うなどという失礼千万な態度は、容易にはとれないというわけで」
「はあ」
「月次の祭りも終わったところではあるし……」御簾の向こうの相手は、とても穏やかな声で言った。「これから内裏もこれといった行事がないでしょう。それで、時期としても丁度いいとおもうんだよね」
「はあ」
「以前から、そういう話は出ていたんだよ。宮姫の画才が話題に上がった頃からね。それで、春宮の後宮と、それからこっちの後宮の幾つかの家どうしを競わせて、合わせものとして一興を設けよう、と」
「……………」
「あなたも、もちろんそれに協力してくれるよね?」
「……………」
詳しい説明は部下に、ということで、彼女は清涼殿を後にしながら、その道中でひとりの後宮女房から話を聞く。
おもいがけず、唐突にこのような話に巻き込んでしまって申し訳ない、と。しかし、あなたは最早この仕事を拒むことはできない。あなたが突然蔵人所に配属されたのも、こちら側との今後のやり取りが少しでも円滑に動けばとの帝の有り難いご配慮なのだと、あなたはこの境遇を、本当は有難がらなければならないのだと、なぜなら、この宮中で働くものすべての一番の誉れは、少しでも近く、帝のお側で奉に従ずることであるのだから……と。
彼女は女房の長い長い口上を話半分で聞きながら、久しぶりに、吾が妹のことを考えている。
こちらへ来てからはお互いに顔をつき合わすこともなかったが、文を交わすことはあった。初めの頃は頻繁にそのやりとりがあったような気がする。しかし、そのうちに彼女は他のことが忙しくなり、面白くなり、あまり妹からの文に返信をしないようになった。自然交流は途絶えがちになり、現在に至っているというていたらくではあるが、しかし……
「他ならぬ宮姫様が、とにかくあなたの参戦をおのぞみなのです」
「いや、僕は絵が描けないし、無理ですよ」
「それはみなさま同じことです。皆、題材の提供程度はしますが、後はすべて画所へ任せますの。第一から、宮御自らが筆を執るなどというのが、そもそもからして……」
「不自然?」
「いいえ、そのようなことは、決して」女房の持つ紙燭がゆらゆらと揺れる。
「けれど、お主上のおっしゃったことは本当です。このような異例のこととはいえ、最早既にあなたがこの条件を飲まないなどという選択肢はありえないことなのですよ」
「まあ、そうでしょうね」
「このようなことは私が申し上げるような類のものではありませんけど」
「そうですね。今の東宮妃の立場からすれば、そうした特技によって宮中での地位を少しで上げておくというのは懸命なことでしょう」
「分かっていただければそれで良いのです」
簀子縁に出たところで、その女房は振り返った。
「合わせものというものは往々にしてそういうものですからね」
その名前も知らない女房は、淡々とそう言った。
その日から木工寮の端にある画所は大わらわとなり、朝から夜まで、その寮には火が灯って、その中では何十名もの職人たちが、紙漉きに筆付けに絵付けにと忙しくしていた。
元々画所というのは別の寮にあったが、年月とともにそれほど重用されることがなくなったので職場自体が縮小し、今ではほとんど稼働していないも同然だった。そこへ、まだ多少その職場に残って他の仕事を割り振られていた職人たちが再び本来の職種に戻って、せっせせっせと絵を描くことになったのだから、職人としてもこれは張り切りざるを得ない。彼らは日を忘れて、我を忘れて、しばらくその作業に掛り切りになった。
作業を始めた頃は、まだそれでよかった。しかし、少しずつ時間が経つに連れ、職人たちはその、自分たちが得ていた久しぶりの充実感とか、使命感などが、徐々に削られていくようなうきめに遭うことになる。
とにかく、やたらと修正が入る。ときには、色つけまでしたものを突っ返される。「リテイク」「これ……リテイク」「リテイク」「リテイク」「リテイク」スッスッスッ。次々と突き返されてくる紙の山。当時、紙などはまったくの貴重品だ。唐墨だって高価なもの、それでなくても書き物の多い宮中においては、墨の消費量も甚大だ。しかしそれを、人々は惜しみ惜しみ、大切に使っている。帝に献上するものであるのだから、紙だって上等な陸奥紙を使って、それでも足りないから工房の端っこで紙を梳いて作っているのだ。そしてそれ以上に、岩絵の具というものがどれだけ貴重なものか……? 緑青や瑠璃、嵯峨野の山の湧水の近くでしか取れない貴重な青など、贅を凝らして作った貴重な粉を膠で溶いて塗りつける、その雅やかな完成したものを、何だ、「リテイク」とは……? 冗談も休み休み言ってほしい。しかし、画工がその監督者たる蔵人に奏上しに出掛けると、そのうつくしい顔をした、まばゆいばかりの美青年は、冷静沈着な態度できびきびと、その絵のどこがどう駄目なのか、といったことを滾々と言って聞かせてくるのだった。「演技ができていない。絵というものは表面的なものです。しかしであるからこそ表面的以外の表現がほしい、というのは分かりますか? 表面的であるものがそのまま表面的であるのならその対象を描く必要などない。そうでしょ? 何かを改めて描き出すということは、それまで一切この世に存在していなかったものを改めて創造するということです。この絵はそれを億劫がっている。つまり、絵というものはそこに描かれていればそれでいいのだと。そうじゃない。そんななまぬるいことで絵を描くのなら、いっそ描かないほうがどれだけ他人のためになるかわからない。そうでしょ? だってさ、考えても見なさいよ。これらは人に見せるために描かれた。しかしそれを見た人に、「なんだただの絵か」とおもわせるだけのために、あなたはこの絵をわざわざ、労多くして描いたのか? どうせ描くならばまったく新しいものを描かなければ。そんじょそこらにあるものを、というより、絵は所詮絵に過ぎない、であるから演技も表現も何もなく、ただあるがままを描けばいい、などということになって、あなたはどうしてこの絵を描くという行為に甲斐を見出すのか、ということが問いたいんですよ。あなたはこの、自分の描いた絵を見て、そういうことを僕に答える用意があるの? ないでしょ?」
そのようなあんばいの、ものすごい剣幕でまくしたてられた画工は目を白黒させるばかりで、その絵は私の描いたものじゃありません、別の男の筆です、と言い出すことすらできない。
「とにかく、描いた後にいろいろ言ってしまった僕も良くはなかった。それは認めましょう。でもね、これって何度目かな。僕は何度かこの場面を目にしたことがあるよ。何度も言っているんだ。ここの姫の手の動きはおかしいって。ここで姫は、今までに感じたことのない恐怖にとらわれて、それ以外は何も考えられないでいるんだよ。それにもかかわらず、このふにゃふにゃした手の、緊張感のなさは……どういうこと? 何を考えて、この手の形を描き続けるのか? なにか理由があるのだろう! その理由を言いなさい!」
「すいません、すいません、すいません」
その画工はその夜徹夜で泣きながら絵を修正して、明け方になってようやくそれを提出する。日中彼が工房で紙を漉きながらウトウトしていると、後ろから凛とした声が掛かる。「これ」「えっ」
振り向くと、健康的につやつやとしたうつくしい肌をした美青年が平然と立って居て、一枚の紙を険しい表情で見下ろしている。
「どうおもう? これ」
「はあ……」
「やっぱりさあ、ここは引きじゃなくてもっと全面に表情を押し出す形のほうがいいかもしれないとおもうんだよね」
「…………」
「どうおもう?」
彼はちょっと戸惑いの仕草をした後、手ぬぐいで手を拭いて、その蔵人の隣に立つ。「ここなんだけれどね」その細い、女のようななよやかな指が指し示したのは、昨夜彼が必死になって”演技させた”登場人物の姫君の右手だった。
「やっぱり、ここは姫の気持ちが主体だから……これだと、見下ろしちゃうみたいになるだろ?」
「はあ、まあ……そうかもしれませんね」
「それで心配になって。ここは絵の専門家にきちんとお話を伺おう、と」
「(専門家? 俺のこと? えええ……)」
「どうおもう?」
涼し気な、そしてきらきらとした生気のある目で見つめられる。どうおもう? と言われても……
しかし時は流れた。そして一月ほどの時間が経過し、その絵巻物は完成した。題して『本朝本髄演目』。
「君は天才だ!」
と、その絵巻をひととおり眺めた彼女のパトロンは言った。「これで絶対に梨壺には勝てるぞ。いや勝たなくてはならない。もはやこれは義務ですよ。必然ですよ」
言われた彼女もまた満更ではなかったが、その出来栄えの代償は甚大だった。四十人ほどいた画所の職人はその絵巻が完成する前に十人が夜逃げし、十人が過労で倒れ、三人が物の怪付きになって寝込み、二人は情緒不安定になって涙が止まらなくなり、その他二十五人も昨日から休養をとって、宮中には出仕してきていなかった。
そして、明けて今日。その御代始まって以来の、後宮においての絵合わせが行われた。
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