第13話
そして彼のおもうような”正しい行い”によって、彼女は今日もせっせと前斎宮へと手紙を書く。
さて、そもそも、なぜ前斎宮は退下をしたのか? 退下とは普通、御代の交代とともに行われるものではあるが、彼女のばあいはそうではなかった。彼女が退下したのは醜聞ゆえだ。果たしてそのようなことがほんとうに起こったのか? 真実のところは誰にも分からない。しかし彼女は退下した。本来の、正規の手順を取ること無く、その異例のことゆえに、それを必要以上に悪し様に言い立てる風潮は当然のように出来上がって、憶測が憶測を呼び、相手方が発言できないことを良いことに、平穏平らかで優雅な毎日を送る人々は、その噂を香辛料の様に噛み付くし、弄んでその暇をつぶした。そしてその噂によって彼女は宮中にはいられなくなり、今は母親とほんの少しの使用人たちとともに、嵯峨野に暮らしている、と。
彼女、妹姫にも噂によって様々に自身を翻弄されてきた過去があったから、前斎宮の心中は、少しは分かるはずだった。しかしその手紙の全面に、同情を示したり、私こそがあなたの唯一の理解者などと傲慢な態度を全面に出すことはなかった。ただ彼女は季節の話をし、最近読んだ物語の話をし、作った和歌を、季節とりどりの花々とともに送った。そうやってやりとりしているうちに、彼女は前斎王の聡明さを知った。文章というのは時として、その相手に直接会って話をしているときよりも、如是にその人そのものを示してくれることがある。話しているばかりでは楽しい人だとおもっていても、その後文を交わしてみて、ちょっと首を傾げたくなったり。しかしその反対に、会っただけでは印象の薄かった人と改めて文を交わしてみると、その文章の闊達さ、楽しさに驚くことがある。口から吐き出される言葉と筆から書き記される言葉との違いに、彼女は面白さを感じた。
たとえば、前斎宮はちょっと変わっている。
源氏の話をしていた。彼女の中で、物語と言えばそれなので。前斎宮も源氏の愛読者らしく、そんな彼女たちがいちばんに話したのは、誰もが一度は会話に興じたことがあるだろう、例の話題だ。『源氏の物語のなかで、一番好きなひとはだれ?』
宮中の女房とそういう話をしていて、挙げられるのはだいたいこんなところだ。紫の上。花散里。朧月夜! いいえやっぱり私は源氏。頭中将もいい。だけど薫大将はさいてい。柏木はもっとさいていね。変わり種では末摘花。雲居の雁。近江の君! じゃあ私は源典侍! そこで、きゃーと笑い声。
このようなたわいもない話に興じるのはとても楽しいことで、だから彼女も、その楽しみを、ひとりぽっちで暮らしている前斎宮にも分けてあげたくて、その話題を出した。「ちなみに私は、ちょっぴり気の毒で、それでも源氏に文字通り、死ぬほど愛された夕顔が、好みです。きらいなのは髭黒。もう、むしずがはしります!」
それに対して返ってきた文には、このようなことが書かれていた。
「それはとても難しい質問です。あんまり、むずかしすぎて、一晩考えてしまいました。いっしょうけんめい考えました。考えましたけれども、出てきませんでした。今日は、観念して、あなたの質問に答えられなかったことにたいする謝罪と、その言い訳でを提出しますので、それを質問の回答として受け取りお含みくだされば、うれしいのですが――
あなたはわたしに、あの物語の登場人物の、誰が好きかとお尋ねになられました。でも、わたしには分からないのです。嘘をついても意味がないので、正直にお話しますけれど、誰も彼も、別に、好きでも嫌いでもない。どうでもいいわけでもない。ただ、わたしが登場人物に対しておもうのは、ああそこに人がいるな、ということのみなのです。
わたしは源氏を読みますが、しかしその一切を愛しているかと尋ねられれば、それは疑問です。登場人物の誰彼を好いているから、その物語の筋が好きだからというので私はあの物語を読んでいるのではない……ということが、ああいった話題を提出されて、分かりました。記して感謝します。つまり……私は、彼らのことが好きでも嫌いでもないが、しかしそこに人がいるということは分かる。その、”人がいる”ということに対して、私は興味を持っているのだと。
源氏の物語に出てくる男女は、誰も彼もがとても人臭く、油のにおいに満々ているような気がします。その人間臭さを、精一杯きれいなにおいのする香を焚き染めて、いっしょうけんめい隠している……そういう人々の、ちょこまかとした動きが嬉しくて、わたしは日々の慰めに、ついあの物語を繙いてしまうのだとおもいます。こんなお話で回答になっていますかしら。私のこの、答えになっていない答えを、受け入れてくだされば、嬉しいのですが……」
なんて人! と彼女はおもった。なんて人。質問に答えない。そしてまたその質問から新たな疑問を膨らませて、まるで話の接穂にしてしまうかのような。なんて面白い、なんて興味深い、なんて思慮深い人……
彼女は夢中で返事を書いた。するとしばらくしてそれに返事あった。彼女はまたそれに返事を書いた。今度は一週間、それに返事がなかった。彼女はじれじれした。目に見えて、不機嫌になり、ちくちくと爪を噛んだ。そういう態度を、彼女の夫は咎め立てたが、彼女はそれを無視して、やっぱりちくちく爪を噛んでいた。
一週間ぶりに返事が来た。彼女はそれを夢中になってむさぼり読んだ。あまりに先様の文章のられつに飢えていたためか、同じ行を何度も何度も目を通し、先に進むのが怖くて、つまり読み終わってしまうのが怖くて、途中からは一字一字、刻むように、慎重に読み進めるようになった。次に読む一文字を指で覆い隠し、徐々に指を離しながら文字列を追った。彼女は文に頭をほとんどつっこむようにして読みながら、局のくらがりのなかで、一人うふふと笑っていた。やっぱりあの人は変わっている人。でも、ご自身では、ちっともそれをおかしいなんておもっていないんだわ。自分の意見を不思議がるというところがない。むしろ、私の方を、不思議な考え方をする人だと、首を傾げて……不思議なのは、あなたの方なのに!
「あはは!」
彼女はついに声を上げて笑った。次の間に控えていた女房たちは、ついに怪しの姫君も気が触れたか、とコソコソとないしょばなしをささやきあっていた。
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