第12話
「泣いているばかりではわからないよ」
何故このようなことになってしまうのか?
彼には皆目検討もつかない。だから、彼女の示すそのような状態に遭遇するたびに、彼はおろおろするばかりだが、たった一つのことだけは、分かることがある。
彼女は泣いているのだ。
その事実は分かる。しかし、何故泣く必要がある? 現状に対する理解は出来る。つまり、彼女は泣いているのだ。しかしだからといって、その理由までが一見了解できるわけでもない。
「なぜ泣く?」
問えば必ず女は首を振って、何んでも無いと言う。彼女を局に呼びつけ、話をしているうちはまだ良い、彼は彼女とそうやって話をしているのが好きだったし、彼女だってそれを嫌がるそぶりを見せたことは一度だってない。だけど男女によってのしかるべきことが済んで、それによって彼がより一層彼女に対しての思慕を厚くしていると、そのとなりでは彼女がグスグスと泣いている。
なぜ同じ気持ちを取れない? お互いに気持ちがよく、同じ褥の中で寝物語に、どうでもいい話に花を咲かせることくらい楽しいことはないのに。この人には、楽しみを理解するという心が欠けているのかしら? などと、彼が不思議におもって尋ねてみても、彼女はやっぱり首を振るだけ。彼にはそれがもどかしく、しかしだからこそ難儀な彼は、彼女に対する執着が強まっていくのを身にしみて感じていた。
結局彼は、彼女の態度を不遜のものとはおもわず、気位が高いためだろうと考えてしまう。何故このようなことになるのか? それは、彼が彼女のことを「好きになりたい」がためであった。
たとえば、あなたは今、一本の映画を見ている。
しばらく見ていると、主人公らしき人物が顔を覗かせる。その人の容姿はとてもうつくしく、所作のそれぞれが見ていて気持ちがよく、惚れ惚れするようである。あなたはもう十分足らずで、その俳優のことが好きになってしまう。しかし、見てゆくうちに、その俳優が演ずるところの役が、不審な態度を取り始める。言動が粗暴になる。どうやらこの映画の中では、その俳優はまったくの好青年として描かれてはいないようだ。しかしあなたは、一度好きになれそうだったものをみすみす取り上げられて、益なきものとされてしまうのを恐れて、どうにかしてその人を改めて好きになろうとする。「お願いだからもっと主人公に相応しいような清い態度を取って。それでなかったら、悪役として、一本気の入った態度を取って」と。
そうしているうちに、あなたはその俳優の映画内での動向を見守るようになっていく。好意の持てないようなシーンになると、「ああ、そうじゃないだろう」と心の中で歯噛みするか、見なかったこととして処理してしまう。だって私はこの人のことを好きになってしまった。この様子の良い、きれいな顔の人を。
そしてあなたはそのうちに、別の考えに染まっていくことになる。きっとこの人には、この人なりの考えがあるんだ。たとえば、過去に負った何らかの心の傷によって心を閉ざしてしまっているとか。エピソードとしてそのようなシーンが流れれば、あなたはそれに安堵し、感謝さえもするだろう。「ああ、この人を好きになった私は間違ってはいなかった。やはりこの人は、人に愛されるべき、私が愛すべき存在だったのだ」と。
彼が陥っていたのも、まさにそういった状態だった。
僕はこの人のことを救った。やばんでげれつな右大臣から、女を女ともおもわない帥の宮から、女の価値など毛ほども分かってはいない兵部卿宮から、なにかを勘違いしている源大納言から、うだつの上がらない平中納言から、そして父から……僕はこの人を、この純粋ではかない女の子を、救ってあげたんだ!
それにもかかわらず、彼女は他ならぬ彼の腕の中で、しくしくと泣いている。何がそんなに悲しいの? ここはこの世の中で、一番安全で、誰もあなたのことを傷つけるものなど居やしないというのに。
「泣いているばかりでは……言葉にしてくれない限りには、なにがなんだか僕にはサッパリ分からない。説明をしてくれるべきじゃない? あなたはそうはおもわないか?」
そうやって優しく尋ねてみても、彼女はそのかわいらしい顔を伏せるばかり。彼は発散できない鬱憤が、頭の隅に溜まっていくのを感じる。
女は……
「なにか悲しいことがあったの?」
首を振る。
「誰かに嫌なことを言われた?」
首を振る。
「どこか痛いところが……」
首を振る。
「実家に一度帰りたい?」
首を振る。
「食事が……」
…………
「なにか病気が……」
…………
「(物の怪がついているとか?)」
「……………」
というわけで、彼女のままならないそのような様子は彼の手に負えるものではなく、召人などを呼びつけて話をしていると、「慣れない環境に戸惑っていられるのでは?」という話になる。「いやそんな慣れないったってもう幾月過ぎたとおもってるの?」と彼は抗議したいが黙っている。「気を紛らわすようなことをなさると宜しいのでは」「紛らわすってどういうこと?」「あ、違います、違います」「言葉は正しく使ってほしいんだけど」「ですから、お気散らしに」「は?」「ですから……」
言葉を間違え続けるその召人に変わって、それの上司筋の女が言葉を取って、「春宮にあらせられましては、口に出すのも憚られるという向きもございましょう」「どういう……」「尊い御方と貴方様を尊崇する気持ちから出るものということもございます」
姥内侍はうつむいたまま言った。「有り難い御耳をわざわざ弄するようなまねを、宮様は選択しないといったご判断でしょう。これほどの行き届いた慮りのお心を、是非とも一度は含み鑑みてくださるような機会を……」「そうです、そうです。私もそれを言いたかったのです」
言葉尻に乗った召人の足を、姥内侍がぎゅっと抓った。召人は目をぎゅっ瞑ったが、そのまま黙った。
「でもさ、言ってくれなければ何も分からないとはおもわない?」
「宮様は控えめであられるから、そのような、一見するとつれないような態度もお取りになってしまわれるのでしょう。けれどその裡には、若宮様への、痛いほどの思慕と崇拝が備わっていられる。私どもから見ればそのように一見了解するものが、直接的な結びつきを得ている御方同士では見つけられないこともある。大輔にはそのようにも見えますよ」
「そう?……」宮は顎のあたりを撫でながら、「それじゃあ、ちょっと訊いてみてくれる?」
で、宮様の御心の示すところのお伺いが立てられたが、その結果というのがまた、彼には拍子抜けのしてしまうような内容なのだった。 「姫宮様は、お寂しい御方なのです。その孤独を分け合う御方に、飢えていられる」
僕だけではだめなの? などと、彼は彼女にかき口説くように尋ねてみるけど、やっぱり彼女は疲れたようにちょっと笑って、そんなことはない、と彼の言葉を否定するだけ。
「僕は君だけがいればそれでいいのに」
彼はぼんやりとそうおもって、でもどうしてその対になるべく彼女が同じ感情を持たないのか? 全然、まったく、それが理解できない。だから彼は、姥内耳の提案したことを実行に移そうとする。
さて、そのような春宮には、血の繋がったきょうだいが一人いた。前斎宮の宮がその人だ。彼女は現在母親と共に、嵯峨野の屋敷で暮らしている。
「きっとあの人ほどの教養があれば、姫の話し相手には十分に足りることだろう、そして姫も、きっとあの聡明な人のことを好きになるだろう」というわけで、さっそく、その案は大輔命婦を通じて提案され、受理された。
彼女がその案を飲んだということに、若宮は久しぶりで胸の浮き立つおもいがした。
「そうか、良かった、良かった!」
すっかり安堵した彼は彼女の控えている局に行くと、その両手を取って、飛んだり跳ねたりして喜んだ。姫もたのしそうに笑っていた。だから、これが正解だったんだ! と彼もすぐに理解できた。たまには、本筋以外のものも与えないと。たまには新しいものを与えて、それ以外のものが、実は一番得難く、有り難いものであったのだということを認識してもらわないと……
役目ということを勘違いさせれば良い――と、その臈長けた命婦は言った。
人にはそれぞれ役目というものがある。たとえばそれは太政大臣であり、大納言であり、雑色である。それぞれにそれぞれのための役が振られている。それはもちろん后であっても当然だ。しかし、彼女はおのれの后であるという役目を役目とうまく認識できない。それは、左大臣一派からの牽制を掛けられているためでもあるし、后間での序列ということも原因である。后は世継ぎを産むのが役目であるはずなのに、今現在の彼女にはその役目もまだ満足に果たせない。時勢が落ち着けばそのような悩みも持たずに済むだろう。しかしそれを理屈では理解できても、それを心に留め置くことを自然とできるような御身ではないことは、彼女の特別な生まれ育ちのことを考えれば容易に理解してやることのできるはずだ……
命婦はあくまでも「東宮妃第一番」というスタンスを取って、自身の上司を説き伏した。この提案はあなただけのためではない、第一に、あなたが一番大切におもっている人のためになる判断になりうるのだと……
命婦はそうやって理屈をでっち上げた。そして、まるでそれのみが真実であるかのように、もっともらしく、彼女は言葉を使用した。
「私でも他人の役に立つようなことがある」彼女は言った。「そうやって、御方様ご自身が確信するそのことこそが、何よりも大切なことなのです。私がここに居る理由はかならずある。そしてそれが、きちんと他人のためになっている、と……実際はそのような結果と確実にむすびつくことはなくとも、そう解釈遊ばし召される余地があること……おいたわしい前斎宮様をおなぐさめする、それが気を紛らわすことに繋がるのです」
最後にはそうやって、命婦もあのまだ年若い召人と同じ言葉を使ったが、今度は春宮の方でもそれに違和感を抱くようなことはなかったようだった。
「すぐに牛車を手配しよう」
若宮はてきぱきと言って、人を呼んだ。
嵯峨野にはかわいそうな姉宮がいる。彼女は女の身たったひとりで、ひとりお寂しく暮らしている。僕も彼女の身を心配しているひとりではあるが、所詮は男のみのうえ、女性の細やかな感情の揺れを、行き届いてお世話できるわけでもない。やっぱりこういう話は、同性間のほうが話が早いだろう、云々……
そうやって説き伏せられた彼女はそれに同情の感を示した。そして、私にできるのであればぜひお慰めしたいと言った。彼は彼女のその言葉に感謝した。なぜって、その時の彼女は泣いてなんかいなかったからだ。それどころか彼女は、彼の言葉に微笑さえもらした。そういう顔……そういう顔が、ずっと見たくて、でもそれができなくて、彼はずっとくるしかった。ずっと、自分は正しくないと否定されているような気分だった。こんなにも手を尽くしているのに。色んな種類の嫌な男から彼女を守ってあげて、父の手が伸びてきそうになったのも、阻止してあげたのは、ほかならぬこの僕だったのに……そのすべての努力を、まるで間違っているかのように。彼女は、涙を見せて、彼を否定してきた……
でも、それも今日でおしまいだ。彼女が泣いたのは僕のやり方が間違っていたからだ。方法が正しければ、正しい反応を得られる。それが間違っていたから成果が得られなかっただけ。だから、これからは万事が正しい方へと進むだろう。やっぱり、人に意見を聞くというのは大切なことだ。父のように、何でも一人きりで決めてしまうのは良くないことだ。もしも父親のように、何でもかんでも独り決めにして、自分のおもうとおりにことを進めていれば、このような結果にはならなかったはずだ。僕は正しい行いをしている。だから正しい結果がついてきたんだ!
そして、機嫌の直った后宮は、彼の前ではもうすっかり、正しく清らかでうつくしい。彼が話しかければ微笑みかけてくれるし、彼の話を楽しそうに聞いてくれる。そのたびに彼は有頂天になりそうな心をどうにか抑えようとして、けれど上手く行かず、もどかしいおもいをするが、そのもどかしさすら楽しい。
それにしても、あー、あなたはなんてうつくしいんだ!
何しろなみたいていのうつくしさではない、というのは、だって、なぜなら……そうだろう?
あの色好みの、女のえり好みの激しい右大臣も、気難し屋で一見したら女なんて金輪際懲り懲りだというように吹聴していた帥の宮も、女とか女でないとか以前に、自身の趣味ばかりに掛かりきりになっていた兵部卿宮も、あちこちに女を作って女によくもてている源大納言も、また堅物で有名を取っている平中納言でさえも、一度は夢中になった女なのだ。そのような、錚々たる公達たちをとりこにし、その夢にしばりつけ、身も世もなくさせておいて、結局一度も、誰それに声をかけることなく去っていった雪のような女……そのような、得難い女が、今やこうして自身の腕の中で、ちいさくかわいらしい寝息をたてて眠りについているのだ。このような、得難い女を このような女を有難がらず、うつくしくないものと決めてしまうなんて、一体どんな人物像を描いたら、それが可能になるなということが起こるのか? 少なくとも、僕は、そのような価値知らずの愚行を図れるような器ではない……
とにかくこの女はうつくしい。うつくしく、そしてはかないあえかなものだ。そのようなはかなく綺羅綺羅しいものを、こうしてかいなに抱き、そのほかのものから守りいつくしむことができる……これ以上の僥倖が、果たして?
彼女は彼の腕の中でウトウトと眠っている。彼はそれに呼びかける。額に掛かった黒い絹のような髪を指で払う。名を呼ぶ。
女はゆっくりとまぶたを上げる。それが彼のことを見つめて、目元がゆっくりと緩んでゆく。それは微笑に似ている。彼は笑った。
この女を。このうつくしい女を、この僕が助け出したんだ!
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