第11話

 さて、その頃、一方の姉姫は、一体何処で何をしていたのか。

「待ってください。まだ話は終わっていないでしょう?」

 彼女が声を高くして相手を呼び止めると、呼び止められた相手は、勘弁してくれ、というような迷惑そうな表情を一切隠そうとせず、「ええい、ウルサイ」と腕を払うしぐさをする。

「あっちへ行け。犬ではあるまいし。あちこちついて回るな」

「あいやしばらく。まだお話が」

「もう話すようなことはないよ」

「僕にはあります」

「あのねえ」

 簀子縁の中腹あたりで文章博士は立ち止まって、「僕は忙しいの。あなたはそうじゃないかもしれないけど」「また五条の女ですか?」「あのね。君ちょっと馴れ馴れしいんじゃない? 親しき仲にも礼儀ありだよ」「そういえば、家のものがちょっと実家に帰っていましてね。丹後の子なんだけど、手土産にちょっとめずらしいお菓子を持ってきてくれて。これがまた家の女たちに大好評で」「ふーん」「いつも朗詠なんかしているときに不思議なんですが、なぜ皆は一様に歌は白楽天というのでしょう? 僕などはやっぱり、杜甫のほうが何倍も良くおもえてしまうのですが」「あっ、そう」「これは個人差ということでは片付けられないとおもうんですよね。以前、確かおっしゃっていましたよね? 白楽天は日常の何気ない幸福をしみじみと描写するのが上手いと、それならば宮中の人気も分かる、しかしですね……」「ああ、ウルサイ、ウルサイ!」

 文章博士は手にした扇をぺんぺんと手のひらに叩きつけて、「それ以上ぴいぴい言うと、お尻を叩きますよ」「叩くなら粥杖でしてください。もっとも僕は女ではないので無意味かもしれませんが」「ああ言えばこう言う、減らない口ですね」文章博士は眉をひそめ、「そんなねえ、授業以外にもつけまわって、なんでなんでといちいち訊かないでください。ノイローゼになりそう」「だって、大学寮はそういうところでしょ。違いますか」「あのねえ、あなたは、ちょっと、余計なことを知りたがりすぎますよ」文章博士は口元に扇をやりながら、「試験に出るところだけ丸暗記すればそれでよろしい。それ以外に頭を使うことは、もう、ハッキリ言います。時間のむだです」扇を開き、はたはたと顔を扇ぐ。

「第一からして、あなたは妙なんです。酔狂というか……」

 しかしそのようなお小言はどこ吹く風、彼女は熱心に、持っていた冊子を手繰っている。

「まあ、色々とお考えのところがお有りでしょうから? 詳しくは問いただしませんけども」

「長安千萬人

 出門各有營

 唯我與天子

 信馬悠悠行……なんてのは好きですけど」

「聞いてる?」

「もらったお菓子、とても美味しかったんです。外はサクサクしているんだけど、一口噛んだらほろほろと口溶けが良くて、それでいて甘すぎないんです。なかなかこちらでも手に入りにくいものだから、持っていったら女の子などには喜ばれるだろうな」

「……………」

「先生、僕は、なぜ白楽天だけが太平楽な様を享受して、人は他に熱心な目を向けないのかと、疑問なんですよ」

「だからさあ、それは……」


 実際彼女は浮かれていて、実際彼女は人生を謳歌してい、そして実際に彼女は幸福だった。

 何が一番幸福かって、それは、大学寮に入れたこともそうだけど、もっと素晴らしいのは、大学寮に納められている万巻の書を手に取れるということで、彼女は日がな一日、冊子だの巻物だのを借り出して、夜っぴいてそれに当たっていた。

 書に書かれている内容は、彼女を十分に刺激した。実家にいた頃には手に入らなかった類のものも、ここには揃い踏んでいる。大学寮には、紀伝道、明経道、明法道、算道などの各種エキスパートたちが生徒を指導しており、彼女は暇を見つけては、そういった博士たちのあとをついて回って、めいわくがられていた。

 大学寮は朱雀門外、神泉苑の西隣、二条の南朱雀通りの東にある。以前は境内も四町ほどもある広大な土地だったが、のちには四分の一の大きさに削られそのほかは畠地となったというのだから畏れ入る。この国の無教養主義の一端が垣間見れる経緯には実にほのぼのとしたものがある。

 寮試は年の終わりにあり、彼女は目下それに向けて勉強中だった。学生は試験ごとに擬文章生、文章生、文章得業生と進み、「方略の策」(論文のようなもの)を書いて及第すれば、晴れて叙位任官となる。

 が、しかし、彼女の目的はあくまで勉学そのものに向けられていたので、試験に通る云々はどうしても二の次になってしまい、時々は陰陽寮にまで出掛けていって、相手をしてくれる陰陽生などと話し込むこともあった。そこでまた新たな知見を得て、彼女は浮かれ楽しがっていたが、そうやって次々と新しいことを知るに連れ、彼女は段々不安になっていった。不安、というよりも……彼女は不満だった。

 確かにここでは様々な新しい知識に触れることが出来る。彼女も今のところはその新しい知識を仕入れることに夢中でいられるが、そうやって夢中でいられる間も、肝心な知識についてはまったくの手つかずなのだ。つまり、「さて肝心の仏法については、誰に教えを請えば良いんだろう?」


 彼女の妹の入内によって、彼女は今現在こうしてうまうまと宮中に潜り込み、好きなことをしていたが、新しい環境をそうやって享受していたのは彼女ひとりばかりではなかった。彼女たちの両親もそれなりに、新しい環境に順応しつつあった。

 妹の入内が本決まりになりそうという段になって、一家の家長であるところの老人が言い出した。

「家を燃やそう」

「は?」

「不退転だ。新しい環境に移るということは、それまでの古い因習を捨て去らねばならない」

「いや、そんなことをしなくてもいいんですよ。それに妹の里下がりするための実家が無くなれば困りますよ」

「新しく建て直すんだよ。こんな古びた家は、お后さまには不相応だよ」

「いや、そんなことないですよ」

「だめ燃やす」

「近所の人にどう説明するんですか。おかしいですよ。ここは野中の一軒家じゃないんですよ」

「だめ燃やす」

 父親のわがままによって家は燃やされ、ぱちぱちと火の粉が爆ぜる中でその老人は一人小躍りしていた。

「あーあ。ひどいもんだな」

 老人のような興奮を心中に持たないその他三人はぼんやりと、贅を凝らして建てた家屋を火が舐めていくのを牛車の窓から眺めている。ほとんど焼け出された形になった使用人たちはばたばたと走り回り、周りに焼け広がらないようにと消火活動に余念がない。

「気づいたら、突然火の手が上がりまして。私どもも、おろおろするばかりで、どうしたらよいのやら」

 屋敷の庭で火を見ながら踊っていたくせに、老人は、火事のうわさを聞きつけた検非違使庁のものがどやどやとやってきたのをこれ幸いと煤だらけの顔で説明し、あわれっぽい表情を作って検非違使庁の佐などから同情を買おうとしていた。

 彼の態度は功を奏したようだ。近頃何かと世間を騒がせている噂の出どころというのは流石話題に事欠かないものだとまた評判をとって、お見舞いの品などがじゃんじゃん届き、老人はほくほくして、「これは焼け太っちゃいましたかな」とか言って、また別の場所に引っ越して(四条の屋敷からなんと二条のお屋敷街に!)とんてんかんてん新しい家を建てる普請をしているのだった。

 新しい屋敷が完成するまで親戚の家に厄介になりながら、彼女とその妹は、その一日一日を噛みしめるように過ごした。何しろ、これからは人妻とその従者の身の上だ。彼女は妹のお目付け役として宮中に入ることになっていたが、それでも身分は東宮后と一介の従者という身分差に引き裂かれることになる。以前のように、夜が明けるまで同じ局で語らい合うなどということもできなくなるだろう……

 結果彼女の妹は無事入内し、そちらでもなんとかやっているようだった。手紙でのやりとりは時々しているから、彼女の最新の動向には気遣ってやることが出来る。彼女もこのまま黙々と勉強を続け、試験に受かり続けることができれば、弁官としての採用も可能になるかもしれない。勿論その場合は門閥の問題も立ち現れてくるだろうし、ほとんど宮中にそれらしい知り合いも後ろ盾もない以上、彼女のようなわけのわからない存在が、そうそうトントン拍子に出世していけるはずもなく……

 しかし、それがこの世の中の奇妙なところだ。彼女には頼るべき後ろ盾など無い。そもそもが、一介の、そまつな、竹取の老人の娘であるに過ぎない。そのような出自を持つだけの彼女に、人脈などは作りようがないというのは当然のことだろう。

 今現在の彼女にとって、そのようなことはもはやちりあくたのようなものでしかなかった。それにもかかわらず、 彼女の感情とは裏腹に、今や彼女の後ろには、それ以上は考えられないほどの後ろ盾が立ち上がってしまっていたのだった。

「どうして大学寮になんて行くの? 意味がわからないんだけど」

 と、彼の人はおっしゃったそうだ。

「妹さんを大切にしているというのはよく分かるよ。今までの話を聞いているだけでもね。でもそれならどうして近くについていてあげないの? 中宮職に着くとか……蔵人という道もあるでしょう。違うの?」

 彼女の妹が姉の意向を伝えると、天子様は不思議なお顔をなさったらしい。「変わったことを考えるんだね。物語の、源氏の人が自身の息子に強いたようなことを、自分自身に強いようとしているのか」

  彼の人はびっくりしていたようだが、それでも彼女の意志を尊重してくださったようだった。

「精々遊ばせるが良い。飽きたらまた、するべきことをするでしょう」

 そういう寛大な、有り難い許しを得た上で、彼女は大学寮で好き放題に博士連中を追いかけ回せていたわけだ。

 しかし彼女はそれでもまだ足りないと言っている。上の方の話では、近々弁官の一枠が空くらしい。そこへ彼女を補填するという案も出ているそうだ。このまま彼女が試験に通り続けることができれば、その道も可能だろう。強力な後ろ盾を得て、今や彼女のめのまえには、輝かしい未来が粛々と用意され始めている。これは得難いことだ、歓迎すべきことが、有り難いとおもうべきことだ……しかし。

 彼女の目的はそのような場所には無い。けれどまた同時に、その道とは彼女の目的に繋がり得る道でも有り得るのだ。

 だから彼女は、今とても楽しかった。読むべきものは腐るほどある。その先にはまた、彼女の望みが叶う可能性を多分に秘めた、輝かしい道が用意されている。あとはただ、彼女がその道に向かって邁進するだけでいいのだ。このような通りの良い、楽しい循環が果たしてあるだろうか? 彼女はそうやって浮かれて道草ばかりを食っていて、今日も元気に文官だの博士だのを捕まえて、楽しいお喋りをしている。

「 林江左日

員外劍南時

不得高官職

 逢苦亂離

暮年 客恨

浮世 仙悲

吟詠流千古

聲名動四夷

立場供秀句

樂府待新辭

天意君須會

人閒要好詩

 …………

李杜は高い地位を得ること無く世にもまたもまれ苦しんだが、その歌は千年も愛唱される……人間には歌が必要だ……いいですね」

「とかく辛いことばかりが思い出される世の中だけども、その中でも日常的な楽しみを得ていこうじゃないかと、君、こういうことですね」

「まあ、なんというか……現代人の気質にあっているというか」

「まあ、そうだね」

「諸々の問題は山積みではあるが、それはそうと一日を楽しもうではないかと」

「いやでもね、みんな白楽天がとくべつ好きというわけでもないんだよ」博士は酒にとろんとした目をして言った。「みんながこぞって引用するから、知っておかなきゃ……なんてね。そういうこともあります。もちろん好きな人は好きだろうけど」

「流行の雑誌で生き方を定めているんですね」

「雑誌?」

「雑文集ですよね」

「ふーん」

「でも、そうやって総論のようにして述べ、まるで人物がその一言のみで表せるというような傲慢な態度は避けるべきだと、先生もおっしゃっていたではありませんか」「え? うーん、まあそうなんだけど」咳払いし、「あなたはほんとに話しにくいね」

「性分なもので」

「分かっているなら改めたほうが良いんじゃない? 老婆心ながら申し上げると、敵を作りやすいですよね。これから政界に打って出る気があるのなら、学生のあいだにその角を丸くする努力をするべきですよね」

「ああ、そうですよね」

「うん、そうなんだけれども」

 彼女があっさりと同意したので、博士も多少鼻白んで、「いやそんなに簡単に納得されてもね。あれなんだけれども」「ご忠告ありがとうございます」彼女は心のこもった、温かみのある声で言った。「でも僕には、政界に打って出るなどという大それた、神をもおそれないような考えは、端から持ち合わせがないのです」

「あ、そうなの?」

「ですから心配ご無用なのです」

「ふーん。ところでこのお菓子おいしいね」

「まだまだ屋敷の方にありますから。ご入用でしたら」

「あ、そう? じゃ幾つか貰いましょうか」


 さてそれからの彼女は、宮廷生活をどう送ったか。

 まず彼女は長いまつげをぱちんと切った。墨を薄く溶いて白粉に混ぜ、肌に塗った。薄墨で髭なども書いておくべきか? ともおもったが、日中のうちに剥げたり消えたりしては不自然なので止めた。

 彼女は基本的に日中は涼しい場所で書物を読んだり、知り合った学生たちとおしゃべりに花を咲かせて過ごした。どんな話をしても楽しかった。ツウと話せばカアと返ってくるような頼もしさが常にあり、彼女は話し相手にめぐまれたことに感謝していた。

 年末になって、試験を受けよと担当教官に諭されたときも、まあまあそれは追い追い、追い追いとお茶を濁して逃げ回っていたが、そのうちに座を設けられて、ちゃんと試験を受けなきゃ駄目じゃないかと滾々と説教され、渋々受けた試験で彼女はそれらの質疑応答に完璧な形で答え、これならば文章得業生も時期でしょうと太鼓判を押されていたが結果は不合格だった。

 彼女は「まあそんなこともあるよな」とのんびり構えていたが、担当教官はほとんど悲憤していて、こんなことは前代未聞だとか断固抗議するとか最初のうちは言ってくれていたが、結局抗議文は出されず終わった。

「大学寮の別当は……確か帥の宮でしたか」

「まあ……そういうことなんだよね」お師匠さんは視線を反らし、膝に両手を置いて言った。「どう説明すれば良いのか。このような人品を欠くような行為は、出来得る限り避けるべきだ。このようなことが行われたら、人材育成の理念はどうなる? 優秀なものをこのようにいわれもなく迫害して、国家の礎たる官吏が、このような……不適切極まりない行為を……」

「仮にも宮様ではありませんか。そんな言い方をして良いんですか?」

「君は腹が立たないの?」

「それは、立つものは立ちます。でもね、言ってみても仕方がないことってあるじゃないですか。特にこういう環境だと」

 彼女はうろんな仕草で、御簾の向こうの庭先を見やった。

「それに、悪いことばかりではありません。また勉強できる時間が一年伸びたとおもえばいいのです」

「いや、でもさあ……」

「それよりも僕、嬉しかったな」彼女はうつむいて、ほんの少しだけ、口角を上げた。彼女のお師匠さんはそれを見て、なにやら心臓のあたりがきしむかような感覚を覚えた。

「先生がそんなふうに怒ってくれたこと……僕、生涯忘れません」

「は? あいや、そんな大げさな」

「いいえ、嬉しかったのです。僕も益々勉強に身を入れないといけないな」

 そして彼女の目論見通りにモラトリアムの期間はまた一年延長され、彼女は雨の降る日も雪の降る日も、太陽サンサン照りつける日も薄曇りの日も、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりの信条でもって、書物に取り組んだ。

 しかし、そのような彼女にとっての幸福な生活はしばらくすると唐突に打ち破られた。それというのも他ならぬ、吾君、十善の君のさしがねによって、いいやさしがねとは畏れ多い、彼の御方の深いお考えのあるところによって、彼女は宮中への出仕を余儀なくされたのである。

 彼女に用意されたのは雑色という立場であった。

 位も何もあったものではない彼女であったから、雑色という立場で宮中でのキャリアを出発させるのは納得できないことでもない。しかし、雑色は雑色でも、彼女が配属された部署が問題だった。彼女は蔵人寮に配属されたのである。

 若干慌てたような叙位があって、彼女は帝から正六位下という位を賜った。文章得業生ですらないような、ただ一介の学生の身分である彼女などが賜るには、もうもう、目の玉が飛び出るほどの出世である。当然その叙位に反対するものは大勢いたが、それをねじ伏せて余りある措置を取れるというのが、帝親政の御世というものだ。王様の意見は絶対なのだ。

 で、彼女がぼんやりしている間にあれよあれよと話は進み、気がついたら彼女は蔵人所の雑色になっていた。

 様々な手続きがあり、一息ついた所を見計らって、父親に自身の出世を報告しに行った。

 老人は再び竹細工を作る職人に舞い戻っていた。兵部省に属する隼人司は、平日には竹器を作る作業に従事する。そこで、彼は宮中で使用する竹器などを作る工房で従事しているのだ。彼女の父親は彼女の出世を喜んでくれた。お前たちほどの孝行な娘はめったにあるものではない、といって、皺だらけの顔を益々くちゃくちゃにして喜んでくれた。


 ところで、太政官内の序列とはどんなものか。太政大臣、左大臣、右大臣ときてその下に大納言がい、その下は三局に分かれている。それが少納言局、左弁官局、右大弁局。そしてまた三局それぞれの下に大弁、大史、史生、官掌、使部……と続いていくのであるが、彼女がまずはじめに配属されたのはその三局のうちの左弁官局、左大中少弁、大、少史、史生、と来てその次の官掌という職掌を賜ることになった。官掌の上の職掌が大史で、これは正六位上相当であったので、彼女の正六位下という位では、ちょうど彼女の身の丈に合っているといえなくもない地位である。

 この部署で彼女が何をしていたのかというと、早い話が雑用であった。彼女の所属する左弁局は八省のうち中務、式部、治部、民部の四省を管し、それぞれの庶務を司る。諸官省、諸国より出る庶務を上申し、宣旨などを書く文章の取り扱いをしてい、彼女は上司に言われるがまま、それらの文章の下書きをしたり、上から下りてくる書類などの整理をしたりしていた。つまり、諸々の文章に携わる仕事をしていたのである。

 弁官というのは文章を扱うから、文章生をもって主に任じた。

「でも僕は最終試験に受かってもいないんですよ。卒論も受取拒否されたし」

「いやそれがさあ」

 彼女のお師匠さんは言った。

「通っているんだよね。いつの間にか」

「……あ、そうですか」

「表にあなたの名前がきちんと記載されているんだよね。それで、今更になってこのようなことになってしまって、こちらとしても申し訳ない気持ちでいっぱいなんだけど」

「いいえ、先生」

 彼女はほんのりと微笑んだ。

「ありがとうございます。先生が尽力してくださったおかげですね」

「いやあ、僕はほんとうに。何んにもしていないんだよ。でも、とにかく本当におめでとう」

「僕はできることならば」彼女は直衣の頸上あたりを指でいじりながら言った。「ずっと先生のところに居たかったんだ。先生のお手伝いをしながら、それから……」

「いや、いや、いや、君」

 お師匠さんは彼女の言葉を押し止めるかのように、「罰当たりなことをお言いでないよ。そんな、僕などのところに留まるなど嘘だろう。君にとって何の得にもならないことだ。あなたのような人に、そのように簡単なことが分からないはずもない」

「そうでしょうか」

「そうでしょうかって、そうに決まっているよ。僕だって、もっと良い家系に生まれていれば……」言いながら、お師匠さんは途中で気づいて、「あ、済まない。あなたのことを指しているわけではないんだよ」「ええ、それは」「とにかくあなたはこのような場所で本ばかりとにらめっこしているような人ではないよ。こういうお話があったのだから、喜んでお受けすればいい。それだけのことじゃないのか?」

 それで、彼女はしばらく左弁官局のしたっぱとして働いていた。

 そしてようやく仕事にも慣れ、同僚連中の顔も知れて来た頃、彼女は大した身分でもないにもかかわらず、春の除目で弁官と蔵人との兼官を命じられてしまう。

 彼女としては勅令が出ればそれに従うしか選択肢はない。ので、有り難くお引き受けしたが、それでも彼女の身分不相応な処置に対して不平を連ねるものどもなどは当然のように大勢いた。

「まあ気にしないことだね」

 気の知れた同僚は言って、彼女を慰めた。「どっちにしろ君は宮中では知らないものは居ないんだし、兼官でも何でもして、自身に箔をつけるのは良いことだ」

「有名?」

「おや自覚がないとは言わせませんぞ」

 彼は笏でぺちぺちと自慢のもち肌を軽く叩き、「何時頃でしたか、あなたの妹姫があれほど世間を騒がせたのは」「……ああ、その話ですか」彼女はたった今まで忘れていて、突然その指摘でその話を思い出したかのように、「その説はお騒がせしました」と言った。

「ほんとにねえ」彼は若干彼女の態度によって得意になったようで、「まあ、今回のことはあなたの実力で勝ち取ったということだとおもうけど? 心無い人は、そういった以前の噂にかこつけて、あれこれとあなたのことを言い立てるかも知れないね」「はあ……まあ、そのようなことも可能かもしれませんね」「僕が言うんではないよ。そういう人も居るって話で。これも君のためをおもって言うんだけれどね」「はい。ありがとうございます」

 言って、彼女は彼の目を見て、柔らかく微笑んだ。言われた同僚は真っ白な頬をいくらか高揚させて、へどもどした。

 そのように、周囲の者からはちくちくと嫌味を言われ、あるいはご機嫌を伺われることは全くの日常の延長であり、もはやそれを含めての『労働』であったともいえる、彼女は、人間付き合いこそが自身の地位を安泰せしめる一番の方法だということを知らないような、完全に孤立した人間ではない。彼女の周囲には人が集まる。それは、彼女と話していると楽しいからだし(本当に、なんでこんなことを知っているんだろう? ということまでよく知っている)、それによって知的好奇心が刺激され、もっと彼女と話したいと願う人が大勢居たからだし、しかし彼女はそれでいて、全く知らないことは知らない。だから、彼女のことを評価するものの中には、「知らないことは知らないというしね。それってあれのことだろうなんて指摘すると、「え、そうなんですか?」なんてね」「それで人懐っこいところもある。知らないことを恥とおもわないこともよろしい。知らないことは知らない。だから教えてほしい。この順序を取れない人は大勢いますね」といったような意見も数多く寄せられた。

 が、しかし彼女は、よっぽどのことでもない限り、誰に何を言われても平気の平左、飄々とそ自身感情の向きがどちらに向いているのかを顕にはしようとせず、人付き合いも必要以上には取ろうとしなかったので、そういった他人と相容れないような態度は、周囲の者から歓迎されるはずもなかった。彼女を嫌う人間は彼女のことを徹底的に嫌った。

 彼女がたった一人ぼっちでいるだけなら、こちらの溜飲も幾らかは下がるだろう。俺を話し相手に取らないお前が孤立しているのは当然だ。だからお前が周囲から浮いて、たった一人ぼっちで孤独を背負っている姿を眺めていると、胸がすっとするようなおもいがする。が、しかし彼女はそうでない。俺に対してはお義理程度でしか関わろうとしないのに、どうしてあの男には、あっちの男には、まるで胸襟を開いたかのように、すっかり寛いだろうな表情をして、楽しく会話に興じるようなことがあるのか? 彼と俺の何が違う。お前なんて、どうせ妹姫のコネクションによってその地位を盤石にしているに過ぎないあわれな生き物の癖をして……しかし彼女の方ではそういったこともやっぱり、気にしているふうでもない。誰にヒソヒソと流言を飛ばされても、何も聞こえなかったかのように平然としているので、彼女の周囲にいる者たちのほうが、かえって心配してくれたほどだった。

 しかし彼女は、結局誰に何を言われようともそれに構うようなことはなかった。「否定しておいたほうがいいんでないかい」とか、「自分の名誉を理不尽なまでに一方的に傷つけられたら、その回復に努めるのが立派な公達というものだ」などと諭されたこともあったが、彼女はそれに対しての同意の念を示すだけで、それを決して実行しようとはしないのだった。なぜか?

 どーでもよかったのである。

 私の目的とするところは、もっと別のところにある。だから、それ以外の雑事にかまけて、本来のところをおろそかにするということは、最も忌むべき、最も愚かな行為だということ。

そのような下らないことに対して時間を取られている余裕など、彼女にありはしなかった。そして彼女はその涼しい顔の下で、しかし実際は焦りを感じていたのだった。

私はまだあの人と話す言葉を持たない。あの人は、死後の世界について知っている。極楽のこと、地獄のこと、釈迦のこと、法華経、解脱、現世利益、浄土について……

「はじめから、仏門に入ることが出来てさえすれば」

 そのような行動の取れない彼女が今夢中で考えているのは、少しでも仏法に近づくこと、その一端でも掴むような場所に至ること、そのようなこと以外に、労力を割いているひまなどないのだ。

しかし急ぐ意志とはうらはらに、またしても彼女は、別のことに足を絡め取られて、そちらのほうへ掛かりきりになってしまう。


 彼女の人事は他の者と比べてもおおよそ尋常とはいえなかったので、その後の処置にも若干の不自然な箇所が残った。そもそもしたっぱごときが兼官などというだいそれた人事を施されたというのだけでも不思議なことだが、八省の輔程度の地位も得ないうちから、出世コースの順序もわきまえず、弁官局から蔵人所とは……普通逆じゃないのか? と良識ある人々はヒソヒソと噂したがあいにく常識知らずの彼女からしてみればどちらがどうでも何が違うのか分からないのだから結局馬耳東風となってしまって、誰の批判も意味をなくしてしまう。彼女は気にしていないのかも知れないが、それだからといって周囲の不満が解消されるはずもなく、彼女は事あるごとに人々の話題のやり玉に上がって、今日の一日宮中のあそこでここで、ヒソヒソコソコソクスクスやられている。

 例えばの話、まったくの平社員が、それほどのキャリアも積まず、いきなり課長、部長になれるかといったら違って、そのような人事が仮に行われたとしても、それを自然なこととして諒承する手合のものというのは想像しづらいだろう。そのような異例の人事が起これば、社内でヒソヒソ言われるのは必至、裏でなにかあって然るべきだ、一体どの上役とのコネクションを得ているのだろうか……? 身分不相応な人事は誰のためにもならない。そのような得体も知らない人物とともに仕事をする方の身にもなってほしい……というところかもしれないが、そのようなことは時々起こりうるし、まして、ここは私どもの住まう現代からは遥か彼方のいづれの御時にか……の世界である。お金持ちの家の息子が十五歳やそこらで四十近くの部下を従えるなどという環境が普通だったのだ、であるからして、それ相応の『身分』という理由を持つ人々においてのこうした人事は彼らにとっては常識であるので、不自然な人事には当たらない。それではなぜ彼女の人事ばかりが人の噂を取ってしまうのか? 勿論それは彼女に常識的な理由がないからである。同族経営の会社で特定の親族が上役を務めるのに疑問を持つことはないが、同族でもない、ただの平社員が、急に部署の上司になったからといって、誰がそれに従うだろう?

 しかし、この場合が今現在の彼女の境遇に当たるわけでもない。兼任といっても、あくまでも彼女は弁官局の官掌であり蔵人所の雑色に過ぎないのだ。蔵人所といえば、出世街道の華やかな部署である。雑色といえども、年数を積めば雑色、非蔵人、六位蔵人、五位蔵人、蔵人頭……と上がっていくことも可能だ。蔵人というのは簡単にいってしまえば時の帝のお世話係のようなものだから、天子様に少しでも近づけるというなんとも有り難い役職は時代の花形でもあっただろう。しかし……彼女はどうせ雑色だ。十把一絡げにされた、吹けば飛ぶような儚い身分に過ぎない。そうじゃないか? というようなところで、人々は彼女の不自然な兼任騒動を鼻で笑っているのだった。精々忙しい部署で雑用にまみれて、忙しく使いっぱしりをさせられればいいんだ!

 しかし不自然なことには、かならず不自然になってしまう自然な理由がある。そして彼女はその自然な理由のために、雑色の身分であるにもかかわらず、時の御方にとうとう拝謁するはめになってしまう。

彼女が宮中に出仕するようになって既に二年余が過ぎようとしていた。彼女にとって自身の妹の婿取り騒動はもはやすっかり過去のこととなっていたし、今更それを話題にするようなこともなかったが、しかしそれは彼女個人の見解であって、他人には関係のないことだ。

 勿論それは正式な謁見ではなかった。

 夜。

 彼女はその御方から、不思議な話を聞く。


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