第7話

 私にだって欲しいものはある、と彼女がおもっていたか、いなかったか。

 欲しい物があれば、それを手に入れるべくなにか策を取らねばならない。彼女が知っている唯一のことは、“それ”へとたどり着く過程がおぼろげながらにも分かるのならば、それを実行しないという決断はあり得ないということだ。

 だが当時の彼女にはたったそれだけの選択すらも取れなかった。なぜか? ”それ”が果たして本当に欲求を満たすための正しい順序であり得ているのか、ということがわからなかったからだ。であるからして、実際に欲望に対して何らかの行動を起こすとなれば、一つひとつ、これだ、とおもうものを試してみて、失敗すれば次を考える、という手順をいちいち取っていくしかない。

 確かなことは何もわからない。これをすれば、確実にあなたの欲しい物が手に入りますよ、などという決定的な正しい道があるともおもえない。だから試すしかない。傍から見れば効率の悪いやり方かも知れず、最終的にはむだぼねに終わる可能性も大いにある……が、しかしその時の彼女にはそれしか術がなかったのだから、後から色々と書き付けてみても仕方がないことだ。

 物心がついた頃から、人より好奇心が強かった。彼女にとって、めのまえに映るものならば、どんなものでも不思議だった。第一、自身が呼吸を繰り返しているということから不思議なのだ。なぜ、吸って、吐いて、吸って、吐いてしているだけでこうして思考が続くような”へまな”状態が続くのだろう?

 だってそうじゃないか? 彼女は、ためしに何秒間か息を止めてみて、それから改めて周りを見回した。初めの数秒はまだ平気だった。しかし、秒数が募っていくうちに、息が苦しいということより他に、何も考えられなくなるのがわかる。体の中だけに意識は集中し、まわりのものに気を配ることができない。そしてその苦しさから開放され、呼吸を再開すると、次第にまた生活が行われるようになる。これはおかしいことだと彼女はおもった。たった一つの動作を怠るだけで、他の何もかもがだめになる。このような不自由を身に抱いて、生きている我々の、なんとぜいじゃくなことだろう!

 そういう彼女だから、一度不思議とおもったことはいつまでも不思議で、それが不思議でないと自分の中で解決がつくまでずっと頭の中で考えていて、またそれを口に出したりすることもあったので人に嫌がられた。

 彼女の両親は端から彼女の疑問に取り合わず、まともにそれらの疑問に答えたことは一度もなかった。たとえば子どもっぽい疑問、「どうして空は青いの?」「どうしてカラスは夕方に鳴くの?」「動物界での最強は誰?」などといったそれらの質問に、「空が海に恋しているからだよ」とか「カラスの勝手でしょ」とか「ゴリラだよ」とか、答えてくれる者(というか相手をしてくれる者)は居ず、「さあ?」とか「知らんね」とか「分からない」とか、答える切りで、そのうちに彼女の方でも納得して、つまりそういった疑問に対する回答というのはそもそも存在していないんだ、ということに気づいて、くだらない質問を口に出すのは止めたが、それは口に出すのを止めたというだけで、頭の中では、常に様々な疑問がひしめきあって彼女は頭の中は一杯で、今日も寝不足明日も寝不足などという無駄を演じるのを常としてしまうのだった。

 そういう彼女が、突然めのまえに現れたあたらしい話し相手に、すっかり魅了されてしまったのも無理のないことだった。彼女はそれによって、まったくないとされたものを「ある」と認められてしまったために、その「ある」という状態に、すっかり酔ってしまったのだった。

 その日、彼女は母親に言いつけられて、焚付にする枯れ枝などを山に取りに出掛けていた。

 まだ青々とした竹は焚付には向かない。枝を刈ってそれを使用するのでも良かったが、彼女はまだ刃物を使うことをゆるされていなかった。だから、子どもが焚き木を取りに出掛けるというのは落ちている枝葉を拾ってくるというのを意味していたが、あいにくその日はめぼしいものがなかなか見つからない。それで、普段なら分け入らないような奥地にまで、彼女は歩を進めていったのだった。

身の丈以上の鬱蒼とした竹は生い茂って、ちいさな彼女を天上の遥か彼方から見下ろしている。サワサワ、サラサラと梢の音が重なり、葉の端々から零れ出る暖かで細かな日光が、彼女の白おもてにまだらを作る。そのように穏やかな気候風土にもかかわらず、彼女は少し不安になっていた。普段あまり通らない場所を歩くので好奇心は幾分刺激されたが、それでも両親の目の届かないところまで来てしまっているという自覚はあった。このまま、迷子にでもなったらどうしよう? きちんともと来た道を戻れるだろうか? しかし彼女の足は、彼女のそのような内心を慮ることなく、竹林の間を進み歩いてしまう。何かが彼女を呼んでいるかのように、しかし確実に、彼女は自分の意志のみでその歩を進めているには違いがなく……

そうやってもくもくと歩いているうちに、彼女はだんだん楽しくなってきた。彼女が進む道は山道のようになっているらしく、その一本道には、どんな木も生えていず、彼女の進路をじゃまするものは何もなかった。きっとこの道は山の周辺に住む人々や、ここを通って村の方に降りていく人々のために整備されているのだろう……それならば、ただ来た道をまた帰ればいいだけだ。そうやって冷静に見ていくと、風は穏やか、時々髪や頬に掛かる日光は爽やか、緑のにおいは鼻腔を快くくすぐり、彼女の高揚感を一助する。それで楽しくならないほうが不思議だ、と、彼女はおもって、それで、少し傾斜の出てきたその道を、早足で駆け出した。

 水の匂いがする!

 彼女は林を抜けた。林を抜けると、河原があった。その向こうに大きな川が流れている。竹林の長いトンネルを抜けるとそこは河原だった! 彼女は確かな興奮を覚えた。

 その日は、大島弓子の言を拝借していうのであれば、”悪魔も遠慮しそうな上天気”だった。ちょうど時間も真昼時、季節は夏、新緑若々しい若葉のにおいも香る頃、こんな素晴らしい日に、どうして腰をかがめて、探しても無いものを見つけなければならないのか? それよりももっと大切な、やるべきことがあるはずだ……

 そうおもうが早いか、彼女はそまつな着物を脱ぎ捨てて、川で泳いでいるのだった。彼女はゆるやかな川の流れに仰向けになって、天を仰いだ。一瞬、冷たく刺すような太陽の光に目をつむり、そのままでいると、まぶたのうらがわがじわじわとあたたかさに染まり、血脈によってめのまえが真っ赤に燃え盛る。焦げ付くような太陽のあたたかさと、水の冷たさ。これが生きているということだ! 彼女はその時に分かった。人間、生まれてきたからには、こういう快楽の状態に身を浸さないでは、生まれてきた甲斐というものがない。彼女はひとりで納得していた。

でも、さすがにいつまでも水の中に浸かっていられるほどの夏でもない。彼女は寒気を覚えて、ざばりと音を立てて立ち上がった。彼女は楽しくなって、両手で水をかいて、前方へ飛ばした。それから、何気なく岸辺を振り返った。

 そしたらそこに人が居た。

「うわっ」

 びっくりして、彼女は慌てて水の中にしゃがみこんだ。驚いたのは彼女だけではない、相手の方でも目を丸くして、じっと彼女の方を凝視している。

 そこで彼女は、その男の子に出会ったのだった。

 彼女は水辺から顔を上げて、うろんなしぐさで彼を見た。

 その時、男の子と目が合った。男の子は彼女との意思の交差が計られたのがわかると、ほんのりと、その白いおもてに柔和そうな笑みを浮かべてみせた。

「どうしたの? 上がってきたら?」

 彼女は恥ずかしくなって、ちゃぷん、と音を立てて頭まで水の中に隠れた。


 頭の天辺から足の先まで水びたしだった彼女のめのまえには焚き火が乾いた音を立てて揺れていて、彼女はその炎のゆらめきをぼんやりと眺めながら、男の子に髪を拭いてもらう。

 彼の行動は素早かった。彼女が女であることを認めると、着替えなどの有無を確認し、ちょっと待ってて、と言い残すと林の奥に消え、すぐに戻ってきた。彼はそれから彼女には全く見つけられなかった(というより探す気がなかった)枯れ枝などを集めてきて火をおこし、彼女にせいけつな、体を拭く布と、まあたらしい着物を用意してくれた。彼女は、そのようなことはしなくていいと拒んだが、風邪を引くといけないからと言って、彼は彼女の髪をやわらかな布で挟んで、トントン、と軽く叩きながら水気を取ってくれた。

 冷たい水に浸かっていた体は冷え切っていた。その体にさんさんと注ぐ太陽の光と、それからぱちぱちと爆ぜる焚き火の音が誘うあたたかさ、そして彼のしなやかな手が髪を撫でるやわらかさに気分が良くなって、彼女は目を細めた。

 しかし、彼女は気分など良くなっている暇はないのだ。彼女は様々なことを考えなければならない。たとえば、男の子は、どうしてあのような場所で突っ立っていたのか? この着物やら何やらはどこから? なぜみずしらずの他人にこれほど親切にしてくれるのか……しかし彼女は何も言わなかった。ただその、あたたかいばしょで、心地よい状態のまま何者かに髪を触れさせているという状態そのもののみのとりことなって、しばらくじっとしていた。

 だから、会話は彼の疑問から始まった。

 この近くに住んでいるの?

 その疑問から始まった会話で、ふたりはいつまでも、ずっと喋っていた。

 そして彼女は帰宅した後もずっと夢見心地だったが、その日山へ入った目的も果たさず遊び歩いていたということになって、両親に散々叱られた。それが悲しくて、小屋を出て戸口の近くでしくしく泣いていたら、妹が出てきて慰めてくれた。「理由も聞かずに一方的に叱りつける方も悪いわよ。なにか理由があったんでしょう。私だけには話してみて」

 彼女は起こったことをすべて話した。それによって彼女は「そんな理由があったら仕方ないよね」と妹に言ってもらえるだろう、そして「そんなにいいお友達ができたなら私にも紹介して」などと言われれば、喜んで紹介しよう、とおもっていた、が、妹の反応は彼女が期待していたものとは違った。「危ないじゃないの。そんなのは」妹は眉根を寄せて言った。「どういう人かもわからない人と? 何かが起こった後では遅いのよ」

「そういう人じゃないよ」

「どういう人かなんて、あなたに分かるはずがない」

 それから彼女たちはわあわあ言い合って、最終的には掴み合いになったが、男親に止められて、バンバンと尻を打たれてまた二人でわあわあ泣いていた。

 泣き疲れて、妹はその日はすぐに眠ってしまったが、姉はしかし興奮して眠りにつけず、ずっとあの男の子のことを考えていた。


 それから彼女は何度も彼に会いに行った。一度、焚付を拾ってくるとだけ言い残して、結局日が暮れるまで戻らなかったときなども、当然彼女は男親に叱られ、尻をバンバン打たれ、わあわあ泣き、そういう彼女を「だから言ったじゃないの」とでも言いたげな冷たい目で妹は見ていたが、しかしそれでも彼女は彼に会いに行くのは止めなかった。特に約束し合ったわけではなかったけど、彼女が竹やぶを抜けて河原で焚き火などをして待っていると、彼がひょっくりと現れて、そのまま話し込むこともあった。

 彼女はそうやって彼と話すのが好きだった。それは、彼がどんな疑問にも答えてくれるからだった。

 もちろん彼のそのすべての回答が、その疑問についてのまったく正しい回答であったとは言い難い。万物の疑問について通じている生き物などこの世にはどこにも居やしないのだから。

 だから、彼の回答は解そのものの正しさというよりも、彼女にとっての正しさであったといったほうが適当だった。彼は、彼女の疑問とか、彼女の考え方を、”理解しがたいもの”とはしなかった。その内心ではどうおもっていたかは知らないが、とにかく彼女との会話の中で、彼女の疑問や考え方をそまつに扱ったことは一度もなく、なにか議題に出す価値があるもののようにして扱ってくれた。彼女はそれで、ようやく他人と意見を交換することの快楽を知った。それは彼女が初めて体験した、他者との言葉と感情のむすびつきだった。

 それは、とても諸元的な感動だ。

 たとえば、空が青いというのがある。いま、めのまえに広がっているものは空であって、その色は青、彼女はそれを、だれに教えられることもないのにすでに知っているが、誰かに確認をとったことはない。なぜなら、空というものは”そういうもの”だからだ。空というものは、時間帯によって、雲の流れによって、色を変えていくものだということ、それが空、そういうものと決まっている。

 彼女は彼との会話の中で、そういうものの確認をいちいち取った、といっていい。実際に、「あれって青いですよね?」「ああ、そうですよね」などとまのぬけた会話を交わしたわけではない。わけではないが、彼女と彼との会話というものは、そういういちいちの、事物の確認のようなものだった。彼女はそして、ずっとそういうことをしたいと望んでいたのだ。

 大体からして、世の中にはおかしなことが多すぎる。そうじゃないか?

 なぜ木というものは生えなければならないのか? なぜ竹というものはあのように、カサカサと妙味のある音を立てて揺れるのか? なぜ息を止めると呼吸がくるしくなるのか? なぜ人はこうして、くだらない思考を、嫌でも重ねてしまうものなのか? それらは実につまらなく、くだらなく、さまつで、誰にも相手にしようのない疑問であり、別に、晴らされなくても良いような疑問で、実際のところ、まったくの生活者である彼女の男親、女親などには思考にも値しない、へちまの種ほども価値のない余計なものだ。

 あの子は、余計なことを考えすぎる。それというのも、やるべきことがなくて、日がな一日暇にしているせいだ。子どもは遊ぶのが仕事ということもあるかもしれない、しかしあの子はぺらぺらとくだらないことを喋り立てて、こっちの日中の仕事をじゃまする。もう少し、仕事を言いつけるべきだ、そうだ、明日からあの子には、山へ降りていくときの行商の手伝いをさせよう……などと、実際に彼女の父親は考えていたほどだ。

 だから、彼女の疑問には一銭の値打ちもない。しかし、子ども時代の時間というのは無限だ。少なくとも、無限に広がっているように当人たちには感じられる。彼女は、その無限の時間を、思考を巡らせることによって消費していた。彼女の世界は晴らせない疑問でいっぱいだった。が、そういう疑問でいっぱいになっているのは自分ひとりだということも分かっていた。彼女には双子の妹という、かっこうの話し相手が確かに居るには居たが、その彼女が姉の疑問に共鳴することは一度もなかった。だから次第に彼女も自身の疑問を口に出すのは止めた。

 そういうものは、口に出すものではないと知るようになった彼女が、それをうっかり口にして、そしてその未来においてその他ならぬ疑問を他人との感情交換のために持ち出すことになったのは、ひとえに、その会話の相手も”疑問者であった”ということに尽きる。早い話、彼らは少し、似ていたのだった。

「水に潜った時に分かったの」

 彼女は言った。

「なぜ呼吸をしなければならないのか。そうしないと死んでしまうからだよ! でも水に潜るまでは、そういうことも分からなかった……」

 彼女は続けた。

「なぜ呼吸なんかを繰り返さないではいられないのかと疑問だった。こんな単純なことによってすべてが賄われているというのが……でも当然だよね、考えてみれば。だって呼吸しないでいれば死んでしまうんだから。頭で理解できることと、体験で実感できることは違う。それに、自分の頭の中だけで考えていた正解も、口に出してしまうとまた別のものになってしまう。そしてそれを他の人と話し始めると、自分の中だけでしまっていた時は高級におもえたものが、急に冷めて、すごくくだらないものになってしまう……、なんだかそれが、たからものを奪われたみたいに感じて、それ以上話していることが面倒になる。だから妹と話をするのは楽しいけど、ほんとうのことは話さない。話したらだめになるから」

「だめになる?」

「だから……」

 彼女はしばらくうつむいたまま考えていた。考える時間はたっぷりあった。なぜなら、それを彼が与えてくれていたからだ。

 はじめのころは、そうやって言葉に詰まってしまうと、彼女の発言を待つ形になってしまう彼に対して申し訳のない気持ちに駆られて、気が急いてしまうことがあった。彼女が、うまく伝えられない自身の表現能力の貧困さを彼に詫びると、彼はそんなことは何んでもないような顔をして、柔和なしぐさで彼女を見た。「自分の感情を他人に打ち明けるというのは、自身の形をできる限りにおいて他人にも分かるよう具現化するということに繋がる。あなたがそれを悩むのは当然で、だから、あなたは今、とても正しいことをしているんだよ」

 彼女が彼の言った言葉のすべてを理解できたわけではなかったが、その言葉と彼のしぐさのやわらかさから、自分が肯定されているということはわかった。そうやって彼女なりに彼の言葉を理解すると、それと同時に、なにやら体の中心あたりから、じんわりと温かいものが染み出してくるような感覚を覚えて、彼女はおもわず胸のあたりに手を当てた。皮膚が破れて、そこからなにか血膿のようなものが流れ出したのではないかと不安になったからだ。でもそれは勘違いだった。彼女がゆっくりと手を下ろしても、そまつな木綿の着物の表面は赤く染まっていなかったから。

 だから今日も彼女は、安心して彼の隣に座って、自分の話すべき、話したいこと、頭の中だけでしんしんと考えていたことを、言葉に変換できるよう苦心していた。めのまえには雄大な川が流れ、水面にきらめく初夏の風が、きらきらと反射しているのが見える。聞こえるのは川のせせらぎと、そよぐ風が耳に吹き付ける細かな音、それから時々足の先で鳴る、じゃりじゃりとした河原の小石がぶつかる音。

 私のしていることは正しい……、そうやって他人に言ってもらえると、その行為をするのがとても楽になる。楽になる、それどころか、それこそがまさに、しゅくふくされるべきものであるかのように感ぜられて、彼女は幸福だった。

 今までは、あれほど苦痛を伴うことであったはずなのに、これはどういうことだろう!

 彼女は、そこで考えがまとまって、ぽつぽつとそれを彼に話して聞かせた。つまり、必要以上に疑問を持ちすぎること。それを他人にぶつけて、他人に嫌がられたこと。単純すぎる、くだらない疑問をぶつけることは、他人の不快につながるということ。「そうなっているものはそうなっている」だからそれに、疑問を差し挟むよちなど、本当はないということ。しかしそれは正しくないと、あなたが教えてくれた。疑問を持つことは悪いことじゃない。あなたがそうやって、私の間違っているとおもっていたことを正してくれたから、私はとても呼吸が楽になって、それどころか、すごく楽しい気分になった……など。

「竹はなんでカサカサ音がするの? と言うと、お父さんは、うるさそうにして、そんなものは知らない、というの。お母さんはさいしょから取り合わない。知らない、じゃなくて、分からない、というだけ。妹は……どうしてそんなことを訊くの? と尋ねるの。竹がカサカサ揺れる、だから何? どうしてそんなことを疑問におもうの? でも、私はだから何? と聞かれたとしても、それには答えられないの。そう言われて、私はいつもすごく悲しかった。でも、だから何? と聞かれて答えられない私は、そういう質問を、お父さんや、お母さんや、妹に……投げかけて、困らせていたんだよね。理由がわからないものを疑問されたって、答えようがない。でも私は、もっと……」彼女は眉根を寄せて、詰まりそうになる言葉を絞り出そうとする。しかしそれは叶えられなかった。だから、彼はそれを継ぐようにして微笑んだ。「あなたは」そして、言った。「存在のあり方そのものが不思議なんだね」

 そんな難しい話じゃない、と彼女は言いたかった。でも、言えなかった。

「そしてそのとても不思議なことを、誰も不思議だと疑問におもわないから、益々すべてのことに疑り深くなって、不思議がってしまう……そういうのは」

「くだらないこと?」

「くだらないことかもしれないし、そうでないかもしれない。でもそれは誰かが決めつけることではない。たとえば」

 言って、彼は足元の小石をひとつ手に取ると、軽く右手を振りかぶって、手の中に握っていた小石を投げた。小石は放物線を描いて、音もなく川の中に落ちた。

「小石を投げるということ……、投げられた小石、なぜ小石は投げられなければいけないのか?」

 彼はちょっと彼女の方を見て、言葉を促した。「わ……」彼女は息を呑んだ。「分からない」

「そうだよね。説明されないものは分からない」

「……………」

「たとえば……『五蘊』というのを知っている?」

 彼女は首を振った。

 彼女はそうやって彼に答えながら、自分の頭の中のどこかが、めちゃくちゃに書き換えられていくかのような感覚を覚えた。このままこうして二人で居たら、何かが今までとは違ってしまう。今まで感じていたこと、今まで常識とおもっていたものがすべて別のきれいな色に染められてしまって、何も見えなくなってしまう。そんなことになったらどうしよう? 以前のままで居られないような目に遭うようなことがあれば……もう過去には戻れなくなってしまう。それでいいのか?

「すべてのものは、色、受、想、行、識の五つで出来上がっている。あなたの疑問も、たった今僕が投げた小石も、みんなこの五蘊をふくんで行われる。色は石そのもの、石を見る観察者が受、「これは石だ」と確認するのが想、行……これはそのものに対する働きかけですね。石を投げた、それが行……その四段階を踏むことによって、僕たちはなにか対象に働きかけをするわけです」

 また小石を拾い上げると、彼はそれを川へ投げた。

「最後に、識……それらすべてを認識するもの」

「……………」

 何が何だか分からない。

 彼女が黙っていたので、彼が続けた。

「あなたは『呼吸』というものを不思議におもった。そして『呼吸』というそのものを認識し、働きかけたわけです。つまり、息を止めてしまうということ……『色』は呼吸そのもの、『受』は呼吸を見つめること、疑問を持つということ、呼吸そのものに対する自身の感じ方ですね。『想』は呼吸そのものを過去の記憶と照らし合わせて、これは呼吸だ! と認識すること、そして他ならぬ『行』、これは、呼吸をしよう、だとか、止めてしまおう、だとかいう行動そのもの……そしてその行動そのものによって、僕たちは僕たち自身の行動、それを敷衍して生活たらしめている、と。そうすることで行為としての結果が残ってしまう。この残ったものすべてが、僕たちそのものの痕跡になってしまうわけです。わかりますか?」

 彼女は、首を横に振るか、縦に振るかのどちらかさえもえらべなくなって、ただじっと、その奇妙な話をする男のことを見ていた。

「そうですね」

 しかし、彼の方では、まるで彼女が彼の質問に真っ当に返事をよこしたかのように、当然とした笑みを浮かべてみせた。

「返答に窮す、または対話者をじっと見つめる、というのもまた行動の痕跡になってしまうわけです。僕たちはどうしていてみても、結局行動を起こして生きていることの痕跡を残してしまう。何かに対する、善でも、悪でも、どちらにせよ業を作ってしまうわけです」

「ごうって?」

「起こってしまったこと、ですね」

「喋ってしまった?」

「はい、業です」

「石を投げてしまった」

「業だね」

「呼吸をしてしまった……」

「業です!」

 彼は(なぜか)明るく言った。

「石にとっては、めいわくな話ですよね。いままで気持ちよくひなたぼっこをしていたのに、勝手に誰かに掴まれて、今では暗い水の底で、冷たく冷えていなければならない……このようなふじょうりが、果たしてまかり通ることがあるか?

 呼吸だって同じです。呼吸することによって他ならぬおのれの生を永らせてしまうという業ですね。生きていくということは喜怒哀楽、どうしても幸であるとか不幸であるとかいう状態がつきまとう。そのようなものすごいものを、いつまでも背負い続ける道理などどこにもないというのに。呼吸をすることによって自身に対する自身への業を、なんと自らが働きかけている。このような自殺行為が、平然と行われている……だからこそあなたは疑問を持ったんだ」

 彼女は目を見開いて、それをぎらぎらと動かしていた。まばたきをしなくては、と彼女はおもった。だけどそれは、現在のこの彼女には、どうしても行われにくいことだった。どうしてまばたきなんて? 目が乾こうが、乾くまいが、けっきょくどっちだっていっしょなのに?

「しかしなぜ、このように理由あるものが大多数の人物によって価値の『ない』ものとされてしまうのか? それはすべては『空』であるからです。本来であるならば、すべてのものは『無い』ものなんだ。だってそうでしょう?」彼はやわらかく微笑んで、噛んで含めるような言い方をした。

「石は何も考えていないんです。ひなたぼっこもしなくていいし、冷たい水の中にいてもいなくても別に、どうってことないんだ。こうして僕たちのめのまえにあるものは、めのまえにあるからこそ『ある』と認識できますが、しかし果たしてそれが永続するか? というと違います。どんなものにもかならず終わりは来る。そのようなものが、僕たちのめのまえにある一瞬間だけ存在しているからといって何になるでしょう? たとえばの話、僕たちがこの河原から離れれば、少なくとも僕たちのめのまえからは、河原は消え失せ、川は消え失せ、投げられた哀れな石も消え失せます。存在とはそのようにしてとても儚い、認識しにくいものです。そう考えていけば、呼吸することを永遠に止めてしまえば、僕たちの存在だって、僕たちのめのまえから、永久に消えて失せてしまうことになる。五蘊をふくんだすべての諸々とは、存在しているけれどしていない、そのような、はかなくてどうでもよく、くだらない、ちりあくたのようなものです。だからあなたのご家族は、あなたのなかに生まれた疑問にはまともに取り合わない。『無い』ものに対して回答など生まれようがない。そうじゃありませんか?」

「…………」

「しかしこのようなこともまた、『無い』ことではあります」

 彼は言った。「このような考え方もまた、在るようで無いものと同列ですよ。五蘊は在る、空は在る。しかし五蘊は無くても構わないし、空は無くても構わない……しかしこのような考え方も、やっぱり在ると言ってしまえば在る。すべては見方次第という結論は、ちょっとおもしろくないかもしれないけど」

 男は、色素の薄い短い髪を少し揺らして、彼女に語りかけた。

「こういう考え方は、好きですか?」

 ああそうか、と彼女はおもった。

 よし、分かった!

「分かった」彼女は髪の毛をばりばりと掻きむしった。「私には在ったんだ。でもお父さんやお母さんには無かったんだ。だから話が通じなかったんだ」

 彼女は考えをまとめるかのように、ばりばりと頭を掻き続けた。「ぜんぶのものに五蘊はあるんだ。でも五蘊のあるものも本当はぜんぶ無いんだ。だから空なんだ。無いものを在るものと主張することはできない。お金がないおうちに、お金があると言い出したって、それは無いんだ。でも、お金なんて有ってもなくても、どうせ全部『空』で、すぐに全部『無くなる』んだから、一時的にお金があったって無くたって最終的には結局いっしょなんだ。やっと分かった。無いものに疑問を持っていても仕方がない。だって元々すべては在ったんだ!」

 ユリイカ!

 と、彼女はひとりで興奮していたが、ただひとりだけの興奮だったので、それは誰にも伝播されず、すぐに鎮静した。そしてひとりで興奮していたことに彼女が気づくと、それを恥じて彼女はへどもどした。「ああ違う。やっぱ違う」

 言って、彼女は彼の、他ならぬ彼のめのまえでそういった醜態を演じたことを悔いてもじもじしていたが、彼はそれを醜態だとは捉えなかったようだった。

 その証拠に、彼はちいさな子どもの利発さを褒めるような言い方で、「ああ、なんて君は頭が良いんだ」と、言った。

「あなたのような、すなおな、まっしろな心根を持った人は幸いだろうな。あなたのような人が……」

 彼は、その言葉がまるで幸福そのものを象徴するかのような、澄んだ、朝のつめたく清涼な水のような声で言った。「あなたのような人が!」

 ああもうだめになるんだ、と彼女はおもった。もう何もかもがお終いだ。お終いになって、また新しく、何かが始まってしまう。それで、今までのものはみんな古くなってしまうんだ。彼女はそれを悲しくおもった。しかし彼女は、今まで生活してきたどんな瞬間よりも、幸福だった。

「まあでも、こういうのだって、へりくつだ! と決めてしまえばへりくつには違いないんですからね」

「へりくつ……」

「だってどっちにしろ、五蘊はある空はあるにせよと口では言っても僕たちは生きて呼吸していかなくてはいけません。だって呼吸しないでいれば苦しいですから」

 その言葉は、熱く燃え盛った焚き木に、冷水をぶっかけるような言葉ではあっただろう。だから彼女は少し心の冷めたようなさみしいきもちがして、それで、自然にその言葉が口から滑り出してしまった。

「でも、そう考えたほうが、楽しくはないですか?」

 彼女は言った。すると言われた彼は、まるでそれが当然であるかのような、彼女の口にしたことはすべて彼そのものの意見とまったく同一であって、その同一を何ら疑うことにすら値しない、みたいな明朗さで頷いた。

「楽しい、楽しい!」

 ああもう完全にだめになった、と彼女はおもった。


 それからも時々彼女は彼に会っていた。しかし別れは唐突に訪れた。

「ごめんね。だめなんだ」

 彼女は気に入っていたおもちゃを、特に理由もなく奪われてしまって憤慨している子どものような目をして、非難を込めて彼を見た。 「女の子は坊さんにはなれない」

 と、彼は言った。

 つまりこういうことだ。彼はもう、今までのように彼女と会うことはできなくなった。それは、今までとは環境が変わってしまうためだ。彼はこれから山奥の、坊さん学校に行って、僧侶なるものになるための修行に出ることになったからだ、というのが彼の言い分であるらしかった。 「じゃあ、男になるよ!」彼女は必死で言った。「今日から男になる。だから、僕も……僕もいっしょに、連れて行って」

 彼は彼女の幼稚な言葉を咎めることもなく、人を落ち着かせるような笑みを浮かべると、彼女に疑問してみせた。

「どうやって男になるの?」「そんなの簡単だよ」彼女は焦りの中に、ほんのすこしの希望を混ぜて彼を見た。「変装すればいい。簡単なことじゃないか? 私……僕も、そっくりそのまま、あなたのような格好をして」「無理だね」「どうして!」彼女はじれったさを感じて、叫び声に近い声を出す。しかし彼は、彼女のその激しさに取り合わない。

「そういう、見かけだけの問題ではないんだよ。とにかくあそこでは無理だ。男装などしても、いずれあなたが女の身であることは分かってしまう」「どうして?」「…………」彼は彼女に目を向けた。彼女はその視線の意味を測りかねた。彼は少し口角を上げた。「そういうものなんだよ。分かってしまうというのに、決まっているんだ」「……そんな……ことは」彼女は悔しくなって、荒く息を吐いた。

「そんな言い方をしないで。そういう言い方を好まなかったはずだ、今までのあなたは……」

「……………」

「あなたは……そうじゃなかった。もっと、そんな、決まっているものは仕方がないなんて、諦めた言い方をする人じゃなかったはずだ。物事にはすべて理由がある。だからその理由を疑問におもったり、探ろうとすることは全然悪いことじゃない。むしろ自然なことだ。そう教えてくれたのは、あなたじゃなかったのか?」

 一瞬、彼が彼女に向かって嫌悪のしぐさをした。彼女はその一瞬のできごとに怯えて、それ以上何も言うことができなくなった。しかし彼はすぐにいつもの人好きのする、穏やかな表情を浮かべて明るく言った。「笑顔で別れよう。思い出は優しいものとして記憶されたほうがいい」

 おもいで? 何を言っているんだこの人は? と彼女はおもった。

「別に私は、あなたとのおもいでなんかいらない」

 喉に熱いものが詰まって、そこから全身が焼け爛れていくようだった。体のそこかしこが、まるで全身に熱湯を浴びせかけられたかのようにカッカとしているのに、体の芯の方ではどこまでも冷静に、なにか冷たいものが中心に居座っている。

 早くこのような不自由な状態から楽になりたい、と彼女はおもった。そうするにはどうするべきか? ああだこうだと理屈を並べ立てて、彼の冷たい仕打ちを糾弾するべきなのか。それとも、まるで子どものように泣き伏して、行かないでと駄々をこねるのが正しいのか? どうすれば彼の気持ちを変えられるんだろう。彼女の体の冷静な部分はそうやって次の行動について考えを巡らせていたが、冷静でない方の体のほうが、いくらか行動力に長けていたようだった。だから彼女の口からはすぐに言葉が飛び出した。

「いやだ。行かないで。私も連れて行って」

「……………」

 彼は少し笑った。それから、何かを諦めたかのように、彼女に向かって片手を差し出した。「分かった。それでは、またどこかで会おう。お互いが目指しているものが同一であれば、必ずまたその必要によって会える時が来る」

 彼は突き出した手を、彼女の行動を促すように動かした。「それまでお互いが研鑽を積み、再会までにお互いをお互いに恥じない体に仕立て上げておくこと。こうして約束を交わしてしまえば、あとはお互いの精神に基づいて行動するようになるはずだ」

「でも」

 しかし、甚だ現実的な彼女は、彼のそういった理想めいた綺羅綺羅しい言葉の不確かさに怯えた。「どこで会えるかも、やくそくしないで」

「約束?」

「不確かでしょう、そういう誓いの立て方は。もっと、何年後に、どういう場所で、どういう状態で会おうと、言ってくれなくては、困る」

 彼は笑ったようだった。「なるほど。そういう考え方もあるね」

 彼女は、そうやってあやされるように言われたので、ちょっと恥ずかしくなった。

「でも僕は、そういうことも、あなたとなら可能だとおもっているんだ」

 などと、言われてしまったので、彼女は今まで、その言葉を信じてきたのだ。


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