第6話

 時と場所は変わって、ここは讃岐邸、双子の妹の局。

 外では少し小雨が降っていた。

「おや、ご機嫌ななめだね」

 局に入ってきた姉が言う。

「絵が描けないの」

 彼女はおのれの苛立ちを一切隠そうとせず言った。

「絵?」

「なにを描いても……、駄目。どうしてこんなくだらないことをしているんだろう」

「暇だからだろう」

「……お姉さんは、いつまでそういう話し方をしているつもり?」妹姫はぎろりとすごい顔で姉を睨むと、まるで自身のうっぷんをぶつけるかのような低い声を出した。「男でもあるまいし、馬鹿みたい」

「そうかな」姉は円座の上に腰を下ろす。「板についてきたとおもっていたんだけど」

「まるで馬鹿よ。馬鹿丸出し」

「ひどいなあ」

「どうせ格好だけまねをしたって、男になれるわけでもない」

 見たところ寝不足気味らしい彼女はそのいらだちを姉にぶちまけて、姫君らしくもなくがりがりと頭を掻く。「ああ」

 妹は筆を放り出した。「頭の中でうじむしがはいまわっているみたいだ。何も思い浮かばない。このあとのてんまつのしまつはどうつける? 藤式部はどうやってあんな長大な作品を書いた? 人物がぐちゃぐちゃに絡み合って、あたまのなかから出てこない。私のあたまは彼女たちにくいつくされるんだ」

 わめきながら、彼女はちくちくと爪を噛む。

「そんなことより、誰にするか決めたの?」

「何が」

「婿取りだよ」

「何ですかそれは」

「ええ?」姉はちょっと笑って、「二人でようやく、五人にまで絞り込んだだろう。忘れたの?」

「その話ですか」妹はつまらなさそうに、「あんなのだめよ。まるでだめ」

「……………」

「あんなものどうしようもない。大体からそんなことやっているばあいではないわ」

「でもさあ……」

「お姉さん、あなたは」妹は爪を噛んだまま言った。「こんな大切な時に、なぜそのようなさまつなことで私に話しかけられるの。疑問だわ」

「気分転換するとでもおもえば? いつまでも同じようなことを考えていたって仕方がないんだし」

「冗談じゃない」

「……………」

 姉は、ほうとため息をついた。

「どうして君は”そう”なんだろう」

 姉は言った。

「僕たちお互いが協力して、今よりより良い環境に移るために努力しようという話ではなかったの? 僕たちの望むものは、もっとここより別の場所にあって、だからこそそこへ向けてする努力ならどんなことでも惜しまないと誓ってくれたのは、君のほうじゃなかったか……」

「私は別に……このままでも」

「またそういうことを」

「宮中に行けなくていちばんまずいおもいをするのはお姉さんですものね」

 妹は冷淡な口調で言った。「だからこだわるのよね。わたしが婿を取れば、その分宮中へ近づく、中央へ近づけば近づくほど、本領の学問に触れる確率が高くなる、そうすれば、あの人にも会える……」

 山椒は小粒でぴりりと辛い、などと今ひとつな諺を持ち出すまでもなく、彼女の妹は時々、その美貌には似合わないような、暴言まがいの言葉を口にする。姉は彼女のそういう口ぶりに今やすっかり慣れきってしまっているけれど、姫というものは泡のようにやわやわしていて壊れやすい甘やかなものだと信じ切っている公達たちに、こちらが地金だと気づかれてしまうのは決して得策ではないだろう。であるからして、彼女のそのような言動が出るたびに、姉はそれをたしなめていたが、今回ばかりは咎めるような余裕もない。それは彼女に、痛いところを突かれたという自覚があるからだった。

「だから私を利用したいんでしょう。お姉さんは利己主義者よ。周りにいる人間はすべて自分の持ち駒か何かとおもってる。私はあなたに使い捨てられるために生まれてきたわけじゃない……」

「…………」彼女はちいさく息を吐いた。それから少し笑った。「そんなふうにおもっていたの?」

「…………」

「それは……残念だな」

「何が?」

「そういうふうに、僕の行動が捉えられているとするのならば」

「は?」

「確かに僕は利己的かもしれない」彼女は言った。「快楽主義だし、個人の幸福が何よりも大切なことだとおもう。しかしそれは性格ではなくてただの信条だよ」

「お姉さんお得意の詭弁が出たわね」妹は眉をしかめた。「でも、私は騙されないわよ」

「まあ聞きなさいよ」彼女は膝を崩すと、ぱちん、と持っていた扇を開いた。

「君は利己的な人間について卑怯だとか身勝手だとかおもっているようだけど、そこからして見当違いな話で。

 利己の対義語を知っている? 利他というんだけど。つまりおのれのためでなく他人のために利益をはかることだよね。僕が利己的な人間であるならば、それは利他にははならない。なぜなら僕は僕のためだけに利益を有することをもっぱらにして、その他に利益を分散させる、あるいは分け与えるということがないから。そのような身勝手な行動は、行動者であるところの自分ばかりを肥え太らせ、その他大勢のことを、その利益を吸い上げるための養分程度にしかおもっていない……しかし、果たしてそうだろうか。

 というのはね、利己というのは実に自己完結的であるからだ。つまり、甲という対象ばかりが肥え太る。その周辺にいる乙、丙、丁は甲が太るのを促進させるが、その一方でやせ細っていく。これが利己だ。そして利他がその逆というのならば、甲という対象がやせ細り、その他乙、丙、丁は肥え太るということになる。これはどういうことか? なぜ、甲乙丙丁、すべてのものが平等に肥え太るという段を取れないのだろう。つまりね、利他でも利己でも、どちらの立場をとったとしても、すべての人間が平等に幸福を得るということは行い難いことなんだ。であるからこそ、利己的な貴族はただ肥え太り、利他的な山岳信仰者なんかは、ただ骨と皮だけになって、民衆を救おうと山へ籠もり、幽玄な山の向こう、あの世とこの世の境目まで入っていくわけだろう。このような不平等が、どうしてまかりとおる道理があるだろう? 僕は別に貴族になって肥え太りたいわけじゃない。だからといって、山者になって、骨と皮だけになりたいわけでもないんだ。それならば、この世に生を受けたところの僕のこの身はどちらに向かえばいいのか? 分からない。だから学びたいんだ。君が喝破するように、もしかすれば僕は利己的かもしれない。しかしそれに飽き足りない……というよりも、もっとずっと素敵な立場を取れるかもしれないという希望は捨てたくないとおもっているんだ。だからその希望の端っこくらいは、掴みたいと、それゆえに学問を志したい、僕のそのような考え方が、果たして君を台なしにするだけのために誂えられた、そのような露悪的なものに映っているとしたら……僕はそんな立場を望んでいるわけじゃない。君が婿がねえらびを拒むというのなら、僕は喜んでそれに追従するよ」

「嫌な人ねえ」妹は顔をしかめた。「すぐにそうやってそれっぽいでたらめをならべたてて、自分を正当化しておしまいになるんだから。私が言いたいのは……そういうことではなく」

「いや、だからね」

「お姉さんを批判したいわけではないの。あなたのことを嫌いになれるはずがない。私がこの世でもっとも頼みにし、信頼している人間が誰なのか、お姉さんが知らないはずがないでしょう」

「分かるよ、でもさあ」

「それならば私の言いたいことも、もっとやさしいきもちで汲み取ってくれてもいいはずだわ」

「それは、そうだね」

「私が言いたいのは……」妹は、自身の可憐な唇のあたりに手をやって、考える仕草をした。

「お姉さんは、誰かさんに会いたいがだけのために、そうやって詭弁を弄して、私やお父さんたちを巻き込み、自分の良いように環境づくりをしたい、そうおもっているんじゃないの?」

「……………」

「それを自分勝手と言わないで、なんとするの。お姉さんのお志が高いのは、とりあえずは分かったわ。でもね、それがたった一人の人の心を捉えるために行われていることだとしたらどうなの」

「どうして、君は……」姉はちいさく首を振った。

「そうやって僕の心を、決めつけたような言い方をするんだ? まるで僕が本当にそうおもっているかのように」

「だってそうなんでしょう。そうじゃないの?」

「仮に、そうだったとしても」彼女は冷静な声で言った。「詮索されたくはないね」

「詮索? なにそれ」妹は彼女の言葉をとって、それをあざ笑うかのように言った。「これはあなただけの問題じゃないでしょう? 私たち、一族に関わることなの。それを、お姉さんだけのワガママで、すべてを理由付けして行動することはできない」

「冷たい言い方をするんだな……君は」彼女は口の端を歪めて笑った。

「真実のところは僕にしかわからない。そうじゃないか? それを、まるで君の意見が僕のすべての行動の動機であるかのような言い方をされるのは、不愉快だ」

「だ、だって」妹は、姉が露骨な不快感を示したのに怯えて、ひどく取り乱したかのようにそわそわと衣擦れの音を立てた。「お姉さん、怒ったの?」

「怒ってないよ」

「嘘! 怒ってる……、お姉さんの方が、先に他人行儀な言い方をしたんじゃない!」妹は完全に堪忍袋の緒を切って、言った。「詮索なんて、ひどい言葉だわ。そこまで侮辱されるいわれはないわよ。私だって、こんなふうに……」言葉の端々に水気が宿る。妹は激情によって、簡単に瞳をうるませた。「あなたについて悪いことを言ったりしたくない。もっとほんとうなら、別の話がしたかったの」「すればいいだろう」「だって、そっちが嫌な話を持ってくるから」「何にせよ、話さなければいけない話というものはある。ひとつ屋根の下で生活をともにしていればなおさらのことだ」「だからって、私は、お姉さんとは不愉快な話ばかりで愉快な話はひとつもできないというわけ?」「…………」

 こうなってしまえば、話すものも話せない。相手が冷静でなければ話し合えないこともある。今日は諦めるしかないだろう、と姉はおもった。「分かったよ。僕が悪かった」「悪いとおもっていないのに謝るのは、あなたの悪い癖よ」「おもっているよ」「では、なにを悪いとおもっているの?」「…………」

 姉は一度黙り込み、それから口を開いた。「君が他の大切なことで頭を悩ませている時に、別の問題を、それも僕の都合だけで相談したことについて」

 妹は、くすん、と鼻を鳴らしてみせて、それから、「分かればいいの」と言った。


 それから二人は妹が満足の行くような話をした。それは目下彼女が製作中の絵巻物の物語展開についてであって、その過程に対する助言を、妹は姉に求めていた。彼女が見せた物語を途中まで読み込んだ姉は、懇切丁寧に、それらに対して意見した。「だからさ、女が幸福になる過程を書きたいからといって、安易に幸福になってしまうのも違うでしょう。別に必要以上にいじめる必要もないけど」「加減がわからなくて」「加減って」姉は呆れて、「神や仏じゃあるまいし、加減もなにもない」

 姉は円座を持って立ち上がると、妹の隣に腰を下ろし、「しかし君も酔狂な人だね」と妹の描きかけている紙を手に取る。「現実の男ともまともにかかずらおうともせず、こんな紙一枚に熱心になって……」「あら、なぜその話を蒸し返すのよ」妹はむっとして、「そういう、建設的ではない話し方は大嫌いだわ」「どこが建設的じゃないの?」今度は姉が呆れて、「自分たちの将来について考えを巡らせることほど、建設的な話し合いはないとおもうけどね」「そんなことを言うのなら、私のこれだって、じゅうぶんに自身の将来を考える上におけるたいせつなことだわよ」妹は硯に墨をすりながら、「ああ、髪が入っている。じゃまだわ、さいあく」とひとりブツブツ言っている。

「除ければいいだろう。それに、墨を磨るというのは本来もっと神聖なきもち、清廉な心持ちの時に磨るべきであって……」

「いちいち、ああだこうだ言わないで。分かっているわ」

「……どうも今日は、お互いの波長が合わないみたいだな」姉はわざとらしく肩をすくめてみせ、「お邪魔なようだから、今日のところはこれで失礼するよ」「待って!」妹はするどく姉の行動を制すと、「私、ほんとうに困っているのよ。もう噛みつかないから。後生だから、まだここにいて」「…………」

 姉は、一度浮かせてみせた腰をまた円座の上に下ろすと、「だから、誰かを必要以上に持ち上げる時は、まわりのものをまったく馬鹿そのものに仕立て上げなきゃいけないんだよ」と、言った。

「馬鹿?」

「だからさ……」姉は、その長い巻物に描かれた文字を指でなぞる。「君は物語というものは源氏切りしか知らないようだから、それを例にとって話すけど……」

 妹はもうどんな言葉を口に出すのも止めてしまって、おとなしくその御高説を聞いている。

「あなたの書いている話に出てくる女性……さる御方のご落胤であるところの某女ね、高貴なものの凋落とそこからの繁栄というのは悪くないとおもう。どうせ報われるのならおもいっきり落ち込んで、そこからの飛翔という方がいいに決まっている。たとえば源氏でいえば、それまでは人生の春を謳歌するのに専らしていた彼が、ちょっとした醜聞によって身分をすべて剥ぎ取られ、須磨へ流されてしまう……これが貴族という種類の生き物にとって、どれほどの苦痛かどうかというのは、分かるよね。それまで面白おかしく都会での享楽をほしいままにしてきた彼が、一転して、それをすべて毟り取られ、言葉のほとんど通じないような異邦人に取り囲まれ、潮の匂いばかりに包まれたなにもない、ガランとした屋敷の中で、女も文化も、それまで自己の頼みとしてきたものすべてからの別離を受け、貴族特有の、あの有り余る有閑を、そのままもてあましている……これは恐ろしいことだよ、彼らにしてみればね。それまでの常識としていた諸々から切り離されるという孤独は、すさまじいものがある。

 まあ、でも、源氏の孤独などはどうでもよい。そうでなくて、僕の言いたいのは、何故源氏がそのような憂き目に遭わなければならなくなったのか、ということなんだよ」

 姉はそこで、ちょっと息をついた。

「回りくどいことは無しにして、その原因とはひとつだ。彼が時の権力を一心に集めているところの、弘徽殿大后に嫌われていたから。大后の妹であり、また時の主上にも覚え目出度い朧月夜という女にちょっかいを出したから、というのが直接の原因ではあるけれども、やっぱりそれはそれだけの理由にしかならない。もちろん、理由さえあれば何らかの動機に十分に通用することは確かだよ。しかし、その理由の大本というのは、やはり大后が源氏を嫌っているということひとつに他ならないんだ。

 源氏という長大な物語において、誰もが口を揃えて肯定できる敵役というのは、彼女をおいて他にはちょっと見受けられない。彼女は絶対的な意志を持って彼を拒絶する。でもそれはどうしてだろう」

「お姉さん、この私に向かって、いまさら源氏講義のまねごとをするつもり?」

「まあ聞きなさいよ」

「そんな、しょうもない」

「しょうもないって」彼女は笑って、「だからさ、言いたいのは」

 妹は硯の中から長い髪の毛を摘み上げ、指に付着した墨を懐紙で拭っている。

「物語の中でたったひとりでも人物を創造してしまったら、そこへ付随する人々を、どうしても描かないではいられなくなる。僕はそれが気の毒で、くだらなく、馬鹿馬鹿しいことだと言いたいんだよ」

「…………」妹は何も言わず、ただ手慰みに指で髪をいじっている。

「なぜなら生きている人というのは社会性を持ってまず生まれてくるはずだから。だってそうだろう。父と母が居ないでは、子どもは生まれてくることすらできない。僕たちにだってだから、ああして立派な両親がいる」

「まあ、そうね」

「だからひとりの人物を、現実以外のどこかで描こうとしても、これにもやはり社会がどうしても付随しなければならなくなる。一人芝居なんかでは、登場人物はたった一人でも可能なのかもしれないが、その人物だって他人やその他自己以外のこと、あるいは自分を語るにせよ、その自己に起こった諸々のことを口にするに違いないんだから、やはり他者や社会というものは、創作上に置いて必ず必要になる……そしてその大后も、やはりそうした必要にかられて出て来てしまう。つまり、おもいあがった貴族であるところの源氏を罰するためにね。そういうことをするために、彼女は藤式部によって創造されたんだ。ただ生きるためというわけではなくてね」

「だから、それで、それが、何なの?」

「女がすべて幸せになるのなら、そういう女も、やっぱりちょっと想像し得ないだろう」

 彼女は言った。

「あなたの言うところの物語というのは、とてもむずかしいものなんだよ。誰かが幸福になればその幸福に預かれないものも出てくるだろう。他ならぬ誰かの幸福のためにね。でも、そんなへりくつに似たものばかりをかざして傍観者ぶっていても仕方がない」

「じゃあ、どうすればいいのよ?」

「ある程度の不幸は幸福と全く同じものであるという考え方をするしかない」

「は?」

「たとえばさ。あの時は辛かったけど、今おもえば楽しいおもいでだったな、とかさ」

「なにそれ?」

「そういうのってない? 僕にはあるけど」

「たとえば?」

 姉は膝を崩して、「たとえば……単純なことでも、去年の冬はたしかに寒くて、一日中火桶のまえに座り込んで本ばかり読んでいたが、今思うとその寒さも楽しかったような記憶がある」

「なにそれ? 単に記憶があいまいになって辛かったことが薄れただけではないの?」

「まあ、そうとも言える。というより君の言うのが正解だろう。でも、それと同時に、やはり今現在の僕は、去年の冬のできごとを、なつかしく、慕わしいおもいでとして胸の中にしまっているんだよ」

 彼女は言った。「君はそういうのを詭弁だとして、ごまかしと言ってなじるけど、まあ、そうやってごまかしつつ、長く続く生活に折り合いをつけるのも悪いことではないだろう」「でも、それはそういう単純なことだからであって」妹が言う。「もっと辛いことは、そうそう簡単に薄れて、楽しい思い出だったなんて懐かしむことはできないとおもうわ。たとえば、そうね、男に浮気されたり」「浮気」「他の女に鞍替えされて。紫の上だって葵の上だってみんなそうでしょ。私が言うのはそれよ。お姉さんのごく簡単な不幸の話なんてしていないのよ」「ははは」姉は笑った。「まあ、それはそうだね」「私は、そういうおもいをする女を……」妹は言う。「私のお話の中だけくらいでは、なくしてやりたいと望んでいるだけなの。みんな幸せに暮らしました。それじゃだめなの?」「駄目ではないけれども」「そうやって歯に物の挟んだような言い方をするということは、駄目なんでしょう」「だから、駄目じゃないよ」

 姉は言った。「そうじゃないけど、でもやっぱり全員の幸福なんて不可能だとおもうな。そんなことは、死後の世界でもないかぎり」

「死後の世界?」

「個人の幸福なんてものは死後考えることであって、穢土で達成されるようなものではない」

「何だかよくわからないけど」

「つまり、死んだ後に幸福になるか、生きているうちに不幸も楽しめるものだとして楽しむか、二つに一つだとおもうんだ」

「不幸を楽しむって、意味がわからない」

「だからさ、そんな難しいことじゃなくて、冬の寒さを楽しむとか、夏の暑さを楽しむとか、そういう、日常的なところからの話であって」局の燈台の灯りがジジジと揺れる。「もちろんそれは新しい女を別に作られてみむきもされなくなった女の不幸を楽しむとか、そういう自罰的なことではない」「だから、私は、そういう女たちのくるしみに我慢がならないと言っているのよ」「そうだね。女には、特に生きにくい時代だとおもうよ。だからこそ紫の上たちだって、出家をあんなに望んでいたんじゃないか」「源氏はそれをゆるさなかったけど」「まあ、出家なんてされたら、その時点で女は女でなくなるのだから」「だから?」「そんなもったいないことするな!……と」「どうして女が出家することがもったいないことなのよ」「僕が言ったんじゃないよ。源氏の代弁をしただけ」「男にとって、女が女でなくなるというのはもったいないということ?」「そうなんじゃないの? 彼らはちいさなころから、女というものは得難くたいせつにしなければならないものと教育されているんだから。数量限定であるものの母数が減るのは、誰だって惜しいとおもうだろう」「女は物じゃない!」

 妹はいつのまにか、おっとりとした構えを普段とするそのかわいらしい目元をけんつく釣り上げて、きつい表情で姉を睨んでいる。「お姉さん、自身も女の身でありながら、そういうぶざまな言い様をするのはどういうこと? そういうことを言うために、男のふりをしているわけ?」

「そんなに怒るなよ」

「こんなことを言われて、他にどんな時に怒ればいいというの?」妹は爪をガリガリ噛み始める。

「だからさあ」姉は、妹の烈火の如き怒りにも特に臆することなく続けた。「諦めようよ、穢土なんかのことは。ここは本来からしてどうしようもない土地なんだ。僕はそういうのも楽しいとおもうけど、こういうろくでもない人は放っておけばよろしい。問題は人でなくなってからだよ。女は女でなくなったときから男から自由になれる。そこから幸福への活路を探すこともまた楽しいだろう。つまり」彼女は扇をぱちんと畳んだ。「君は浄土の女たちを書くべきなんだよ」

 妹は怪訝の仕草をして彼女を見た。

「たとえばさあ……」と、言って、彼女は腰を上げ、局から出ていった。妹は、そのまま微動だにせず、そろそろ燈台の芯が短くなった薄暗い局の中で、彼女が戻ってくるのを待っていた。

 だいぶ時が経ってから、姉は局に戻ってきた。

「ほら、これとか、たとえばさ」姉は妹の近くに来るまでにぱらぱらと本をめくり、円座の上に再び座った。「『処はこれ不退なれば永く三途・八難の畏を免れ、寿もまた無量なれば終に生老病死の苦なし。心・事相応すれば愛別離苦なく、慈眼もて等しく視れば怨憎会苦もなし。白業の報なれば求不得苦なく、金剛の身なれば五盛陰苦もなし。一たび七宝荘厳の台に託しぬれば、長く三界苦輪の海を別る。もし別願あらば、他方に生るといへども、これ自在の生滅にして業報の生滅にはあらず。なほ不苦・不楽の名すらなし。いかにいはんや、もろもろの苦をや』」

「何ですかそれは?」

 姉は読み上げた本を閉じ、妹の方へ差し出した。「貸してあげる。一度読んでみるといい」「…………」妹はそれを、まるで汚いものでも触るように摘み上げた。「往生要集、ですか」「そう」「地獄についてのものだとおもっていたけど」「厭離穢土、欣求浄土を求める書ですからね。それは、対照になるものを扱わないわけにはいかないでしょう」「…………」妹はその綴じ本の表紙を、すらりとした指で撫ぜた。

「ここにはすばらしいものがたくさんある」

 姉は言った。

「ここを舞台にするのであれば、すべてのことは叶えられる。人の幸福も苦しみも、すべてひとつの絶対的な価値にとなって、人々はその甘い世界に酔うだろう。そこにおいては、女も男もみんな区別などなくなってしまって、みんなでおもしろおかしく暮らしている。そのおかしさは、宮中の貴族などの得ている享楽などとは、くらべものにならないものだよ。貴族といっても彼らは所詮僕たちと同じ人間であって、老いの苦しみ、飽食の苦しみ、女への飢え、権力への飢え、転落の恐怖、飢饉の恐怖、様々な負の要素をまた抱えている。そういうぜいじゃくな幸福の元に彼らは立脚している……しかし浄土にはそのようなものは一切存在しない。だからこそ高級貴族は死が迫る直前に、浄土を望んだのだ。まあ、それでも法成寺入道殿でさえ九品浄土のうちの下品下生にしか生まれ変われなかったという話もありますが……」

 妹は顔を上げた。

 薄暗い局の中で、姉の顔はほのかに炎色になって、夜闇の中に溶けているかのようだ。妹は無意識に、自身の頬に触れた。白粉焼けした肌を隠そうとして、余計に白粉を塗り込める。そういう動作が、彼女の中ではすっかり日常と化している。

 薄暗い都の夜の闇の中でも、真っ白く、貴重な、あでやかな物として映るように、女はその白化粧を余儀なくされている。でもそれをうつくしいとおもうものは誰だろう? それは源氏のようなうつくしい男だ。うつくしいとされる男……そういうものに、うつくしいものとされるために、認定されるために、女たちは自身の顔面に、今日も白粉を塗りたくるのだった……それがうつくしいとされていることだから。

 でも、お姉さんの方が、よっぽどきれいだと妹はおもった。

 でもそれはあたりまえのことだ。彼女は”女ではない”から化粧はしない。男性貴族も化粧をするようになったというのは何時の御代のことからだったか? しかしとにかく他ならぬ、彼女のめのまえにいる姉は化粧をしていない。そしてそれが片手落ちに見えないのだから不思議だ。彼女が、男装をしているから? 

「きっとそこでは君の望むような幸福な生活が送れるだろう。穢土での生活では君、とうていむりだよ。ここで幸福になれる女など居やしない。だから浮舟は身投げを決意した」

「でも、それでは」妹は呼吸がなぜか苦しくなって、あえぐように声を絞り出した。「なぜ、女などというものは創造されたのよ? 不幸になるためだけに?」

「女は不幸を楽しんでいる」彼女は言った。「そうおもったことはない?」

「は? 何?」

「あ、嘘、嘘」彼女はすぐに自説を引っ込めた。「嘘です」

「あなたは……」妹は、不審を込めて、自身の片割れであるはずの姉の姿を見つめた。「そういう言い方をして。知っているわ。お姉さんの魂胆なんか全部」「…………」「そうやって……自分だけは女ではないというふりをして。女であることを拒んで、男の仲間入りをして、まねごとをして、女を断罪できるとでもおもっているの? あんただって同じ穴の狢のくせに」

「厳しいな」

「そういう言い方は止めて!」妹は叫ぶように言った。しかし姉はその剣幕には取り合わず、「あまり大きな声を出すなよ。他の人が起きるだろう」「起こせばいい。そんなものは……」妹の声は怒りに戦慄いている。妹は、その自分でも操作できない感情をもてあましている自身への混乱も痛いほど感じながら、しかし更に、その感情を感情ともおもわない彼女の姉のその態度にもまた傷ついていた。

「そういうことじゃないよ。僕はそういうことを全部取り払って、楽しいことをしたいだけ」

 彼女は静かに言った。その声の調子が透明に、どんな感情にも汚されることなく澄んでいるので、それに連れて妹の方の感情も、悲しく冷えていった。妹は、自身の感情が、自身にとってはとても大切なはずのその感情が、相手によって取るに足らないものとされ、台無しになってしまったことを感じていた。それは彼女にとって、とても”不幸”な体験だった。

「楽しいことをしよう。妹よ。そのために、僕たちは場所づくりをするべきなんだ。

 確かに僕たちは女に生まれついた。それは一方的に見れば詰まらない結果だ。しかしまた一方から見れば、甘い経験に成り得るだろう。そういう努力を、一度は払ってみるというのも面白いんじゃないか? 僕たち二人ならそれができる。僕はそれを信じているんだ。一緒に、利己でも利他でもないものを探そうよ。それはきっとたのしいことだよ」

 姉の面にはゆらゆらと影がゆらぎ、彼女の顔に陰影を作っては消えた。

 どうしてそういうことになるのだろう? と彼女はふしぎにおもって、理由を探った。

 理由はすぐに分かった。

 それは小さな蛾だった。ちいさな蛾が、どこからか局に入ってきて、燈台の油を舐めている。その翅のまたたきが、彼女の顔に陰影を作っているのだった。

「お姉さんは」妹は重い口を開いた。「私が必要なの?」

「必要だよ」

 姉はためらうことなく答えた。「君しかいらない。君しか必要じゃない」

 姉は言いながらしかし、ひとりの男のことを考えている。

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