第5話

 そして今、彼女の妹の婿がねとして、五人の男が選びぬかれた。彼らは、家柄、宮中での地位、立場、容姿その他に優れ、花婿候補としては上等も上等、上等すぎて、家の老人などはかえって恐縮し、恐れ多いといって腰を抜かして三日前から寝込んでいる始末だ。

 だが結論から言えば、彼ら五人は結局のところ彼女の妹の婿になることはできなかった。

 その五人にはもともとそれぞれの生活があり、ちょっとした歴史があり、それぞれの人間関係の構築であったり歴代に遡る綺羅綺羅しい華やかな一族の系譜があったりしたが、そのいちいちをここへ書き付けてみても仕方がないので、多少の紹介のみで済ませ、先を急がなければならない。なにしろ彼女らにとっての本来の目的はここにはなく、五人との多少のアレコレなど後のことからしてみれば、ただのさまつな、時代の一通過点でしかなかったのだから。

 さて、そんな彼らはたった今、さる貴族筋の屋敷に集まっていた。

 何故集まる必要があったのか? そうすべき必要性などどこにもなかったにもかかわらず。

 不安だったからだ。

 不思議な少女の噂は、ある種の熱狂を持って都中に広がった。このところ大した出来事も起こらなかった太平の世である。人々は日常生活に埋没し、それらを滞りなく済ませることに終始していた。御代は揺らぐことなく、謀反だ殺傷沙汰だというような荒々しい事件も特には起こらず、相変わらず強盗だの貧困だのはそこら中で、日常面をして転がっていたが、無理矢理話題に出すような話でもない。

 早い話、人々は退屈していた。鬱屈していた。何も起こらない日常に倦み、疲れ、疲弊していた。そこへ来て今回の一件である。退屈ばかりをもてあまし、その時間の有用な使い方も知らない人々が、突然降ってわいて出たようなホットな情報に、飛びつかないはずがない。そして人々は熱狂した。噂には尾ひれがついて、元はちいさな種のようなものだったのが、様々な憶測や想像や勝手な解釈を呼び、大きく成長していく。あそこの家に女がいる。あの新しく建てられた家に棲まう女は結婚適齢期の、とてつもなくうつくしい女で、それを直接見たものは、あまりの神々しさに、目が潰れるおもいがしたらしい、その出自ははかばかしいものではないようだが、何でも、元々は宮腹だった姫君がいつしか零落し、漂流を余儀なくされた、その子孫が、再び都に戻ってきたとか、来ないとか? であるからして、本来であるならば、高貴な身の上の女性なのだ、下にも置かない対応をすべき存在であるはずなのだ、云々。

そのような噂を本当として、都にはびこる何百という男が、まだだれにも手をつけられていない、猫の足跡すらついていない新雪のような深窓の令嬢を求め、競ったのだ。

 それからどのくらいの時間が過ぎただろう。季節は巡り巡って、二度ほどの春が過ぎたころには、大多数の人はその噂に執着するのを止めていた。ほかにもっと手頃な噂の発生源を見つけて、そこで多少の満足を得て機嫌の直るもの、文の返事すらまともに送ってこない女など所詮接点を持つに値しない女だと捨て置くもの、単純に飽きたもの……噂ばかりが有名を取って、なかなかその正体に行き着かないうちに、姫を諦めたものの心中は様々だったが、一方ではその噂のみに執着し、絶対の意志を持って、せっせせっせと文やらなんやらを送り続けた猛者たちがいた。そしてその猛者たちの継続の念、初志貫徹、虚仮の一念岩をも通すではないが、いちずなこころもちが実を結んで、晴れて今日、彼らは我らが姫にお目通りする”権利”を勝ち得たのだった。

 権利だと? まだ手をにぎることすら許されないのか? これほどの時間を待ち望み、他の女には目もくれず、一心不乱に姫の噂のみをたのみにしてこの数年を生きてきたというのに? などと彼らがおもうこともない。なぜならこの時代において、顔を見るというのはそのまま契りを交わすということに直結する行為だというのを常識として彼らは知っているからだ。

 成人を済ませた男女の視線が”合う”というのはつまり”逢う”に統合しそのまま男女の関係に相成ってしまう。そういうふうに決まっている。だから、そういう規定の中で”貴族”と称されている人々は、”貴族”であれば絶対的にそう行動するであろうという規定のもとに、姫と直接会えるなどという期待は端から抱いていない。恋というものには、というより、物事には順序というものがあるのだ。それをきちんきちんと一つずつ踏んでいかなければ、実るものも実らない。彼らはそういう段取りに従って、姫に会えるかもしれないという”機会”を、今はとりあえず得たということであった。

 彼らは実に辛抱強かった。途中でその争奪戦から離脱していったものの中には、彼らが持っていたような辛抱とか、悠長な心持ちとか、物事における鷹揚な心が欠けていた。であるからこそ、途中で狩(ハント)を諦めるといったような半端を演じる羽目となったのだ……ろうか? いや違う。彼らにあってその他の人々になかったもの、それは姫をおもう恋心の強さとか、女に対する執着心とか、好色の多寡とかでもない。それはひとえに、彼ら五人それぞれにおける、気位の高さであったのだ。

 彼らは考えた、なぜこのようなすばらしいものを、むざむざ放っておくような必要があるのだろう?

彼女のつれない態度を不思議がるものも居れば、どうせ僕などそのような扱いを受けるのにふさわしい男なんだ、どうせ僕なんてといじけるもの、彼女はまだ目覚めていないだけ、僕が目覚めさせてあげるよ……とか、まあ、彼らの胸の裡ではそれぞれ色々なこと考えていて、考えてはいたが、それを実行すべく姫のおうちに出かけていっても門前払いを食ってしまうし(夜中に忍ぼうとしてもどこからともなく警備のものがやってきてやんわりと押さえられる)、姫の素気ない態度に対して業を煮やした一人が「この俺を誰だとおもっているんだ!」とか「この御方を誰だと心得る恐れ多くも先の……」とか侍従がすごんだりしたが、滝口武者にニコニコと、人好きのする笑みを浮かべられて、「今日のところは、今日のところは」と追いやられ、「こっちは客だぞ!」とか最初のうちは騒いでいたが、そのうちに薄闇にも目が慣れてはじめ、そこでようやくおもい知る、従者の持った松明越しに見るその武者の風体は、まるで鬼そのものといった様子。押しやられるときの腕力のものすごさ、手を触れた武者の硬く締まった肉じしの恐ろしさ、確実さ……ここで逆らったら僕はどうなってしまうんだろう? とにかく姫恋しさに通いはするが、やはり強行突破は出来にくい。こっちは貴族様だぞと自身を鼓舞しその権威をちらつかせはするが、しかし……

「じいさんよ、いい加減にしてくれたまい」

 こうなれば家長に直談判、ということで彼はじゅうぶんに権威をちらつかせてその屋敷に踏み込むが、家長はその権威そのものにおびえてへどもどするばかりで、まったく話にならない。そういうところへスッとやってくるのが我らが姉君、彼女が一度咳きをし、部屋に入ってくると、まるでさわやかな一陣の風が吹いたかのような清涼さがあたりいちめんに漂い、客人などはこの登場だけで彼女の様子の良さに圧倒されてしまった。そして彼女がちょっと口角を上げて、短く笑ってみせると、それを受けて今度は客人のほうがへどもどし始め、「あー、なんだ。そうだな」とか、彼女から視線を反らし、その登場になにも影響を受けていないような素振りを見せ、首元あたりに指を入れ、少し通りを良くし、背筋を伸ばしてきりりとした顔を作ってみせたりして、「なんだね、その。なにかね。あれは」と言葉を継ぎ、「催促するわけではないが。そちらのだね、つれない仕打ちに。こちらもほとほと困り果てているんだよ。返事もろくにもらえないようでは、こっちだって、せつない。こちらには方々から文が舞い込んでいると聞いている。それぞれをさばくのは、もちろん骨が折れるだろうということもわかる。しかしだね、いくらなんでも、順序というものがあるんでないかい? もちろん、僕自身がこのようなことを口に出すのも気がひけるのだが……」ちらりと後ろの従者を覗い、従者がそれを取って、多少膝を進め、「先様は、こちらの立場を当然理解しておいでですね。天子を戴く宮中においては知らぬものもない、その名は天高く名声は世の中を駆け回り、出世街道まっしぐら、歌も良くすれば馬上での弓引く姿も鮮やか、恐れ多くも賢くも……」 「ええ、そうですよね」

 彼女は少し小首をかしげて、やさしく微笑んだ。「もちろんお噂はかねがね……しかしとにかく、妹に聞いてみませんと」

「はあ? ……お兄さん、あなたね」男はちょっと片頬を上げて、「僕のこと誰だか分かってます?」

「存じております」

「だったらね、あんたも男でしょう。皆まで言わんとわからないなどということは……」

「ですが、妹に聞いてみないことには。何と申せばよいのやら」

「はあ? あんたね。こっちは文を何百と送ったか知れないよ。それをだね、この期に及んで……」

「僕も、妹のためには、何んでもしてやりたい気持ちでいるのです」

 彼女は涼やかな目元を少しゆるませて、人心地のつくようなやわらかな笑みを男に向けた。男はそれでぽーっとなって、それ以上言葉を口にすることが出来なくなった。

「そのためには……多少のことは我慢していただきませんと」

「お前、めったなことを言うんじゃない」横で聞いていた老人が口を挟む。「恐れ多くもだね、」

「私は三位殿の度量を買いその上で言うのです」彼女は言った。「わが妹ながら、あの人はすばらしい。それは三位殿もご承知のこととおもわれます」

「まあ……」

「そういう彼女に、見合った人をお世話したい。そうおもうのは親族であれば当然のことです。相当な地位にいるあなただもの、わからないはずがありませんね」

「そうですかね。それほどの立場の女かよ」

「もちろん、こちらも一度は零落したみのうえ。三位殿と肩を並べるほどの家格などがないのは初めから知れていたこと。しかしそこを汲み取った上で、今までお便りしてくださったものと信じていました」

「いや、まあね、まあそれはね」

「こちらも彼女に無理強いなどしたくはない。なにしろうちでは彼女の意向が第一番にと考えられているのですからね。彼女の気が向くまで、おっとりと構えているのが美男子たる公達の佇まいの美しい有り様というもの。それを、なんですか、ご自身の立場も忘れたかのように。身も世もなく、このような場所にまで足をお運びになるとは……」

「や、や、や」男は両手を広げ、「僕が悪かった。僕が悪うございました。今日のところは帰りますので勘弁してください」

 などと、やっぱり強行突破もうまくいかない。そのような一連の流れを五者が五様に演じ、それぞれに落胆し、おのれの貴族にあるまじき性急さを恥じそれなりに反省し、しかし手紙はこまめに届ける、という生活に、しかし五人はいい加減飽き飽きしたらしい、それで、それぞれが台盤所などに出入りしている卑女などに小金を渡し調査したところ、その五名が、今でもせっせと手紙を贈り続けているらしいこと、発覚し、そして今日の集合である。五人はそれぞれが厳かな、おっとりした構えを見せながら、それでいて腹の中ではどうにかしてこの場で相手の鼻を明かしてやろうと、必死で頭を回転させているのであった。

 集まった五人の公達たちは、いずれもみやびやかな世の誉れ高き家柄の出で、それぞれがそれぞれの家々の出世頭として、お上の覚えもめでたいご身分である。この時代の身分というのはいずれも世襲制だから、大体はある一定の氏を賜った一族が一切をきりもりしていて、それ以外の氏名(うじな)を持った一族というのは、めったなことでもないかぎり、位の高い官職を得ることはない(たとえ実力でいいところまで行っても謀反の疑いをむりやり掛けられたりして左遷されたり島流しに遭ったりといい目をみないのでそもそも出世を望むこと自体おすすめできない)。

 で、あるからして、ここに揃った人々もそれなりの氏素性の持ち主であるが、その氏の中でも何々家何々家と家格格差があり、それに応じて、つまり家系図に応じて将来約束されるであろう地位にも差が生じる。そしてその中でも以前にも書き記したように、家を支える一家の家長が早死するなどすればそれと同時に家自体の評価がぐらつき、元々はそれ以下だった家のものがその家に取って代わって成り上がるなどと、まあそれぞれに時の運、時流、周りの目などを要因として様々に動き流動し、時の権力の椅子を奪い合っているのだ。

 そのようなことを踏まえつつ、とにかくここに出揃った五人はそれなりの名家出身である。それぞれがキャリア組である、と。

 王子様もいた。二人。しかし彼らのことを出世街道まっしぐらといってやることはできず、それよりかはどちらかというと左折組に入るようなみのうえだ。

 皇子といっても二人はつまり傍流で、これから先よっぽどのことがなければ出世はない。いわば飼い殺しのような状態で、しかし身柄はまったく高貴そのものであったので、それなりに人に傅かれ、しかし自身のどこをどうこねくりまわしても道の開けない将来をゆううつに抱え、やりきれないおもいのまま、ぼんやりと日々を過ごすというようなみのうえ。

 高貴な人を指して人々は、「いいご身分だ」といって単純に羨むが、それぞれにはそれぞれの悩みもある。「人には人の地獄がある」とかいうなんだかよく分かるような分からないようなアレである。であるからこそ、高貴な二人は高貴なふたりらしくそれなりに悩んでいた。

 彼らはもちろん”皇子”様ではあったけど、やっぱり本流ではなかった。それに、皇子様の座る椅子というのは結局一世に一席きりだから、それ以外に生まれてしまったものは、その唯一の皇子様がどうこうならない限り”必要ではない”。彼らは皇子様の予備であり控えではあるがしかし、高貴な身分には違いがない。だからそまつに扱うなどということはとうてい許されないことであって、それどころかもちろん、丁重に扱われるに当然のみのうえを有している。であるからこそ、多くの人々に傅かれて尊重されつつ生活を行わなければならない。つまり彼らは、必要ではない(しかし必要になる可能性を多分に所有している)が、他のいきものよりも遥か高く尊重されるべきお歴々なのだ。当然、彼らも成人を迎えればいっぱしの大人、中央のもっとも中心円に親しい人物なのだから、それなりに政務には関係することにはなる。しかしめったなことは任せられない、なにしろ彼らはこの世を統べる天子様直々の血を受け継ぐ、この世でもっとも崇敬されるべき対象の一人であるのだから。

 その地位にふさわしい官位を当然のように持つ彼らは、その官位にふさわしい官職を与えられた。第一、この時代において、官位と職、どちらに重きを置いてそれ自体に価値をおくのかといえば、官位がすべてに優先するのが当然なのだ。

 まず、官位がある。正一位を大一品として、従一位、正二位、従二位、正三位……と細々刻んで、貴族という生き物にはそれぞれに官位が授与されている。まず、その人の地位に”見合った”官位を与えられ、それからその官位にふさわしいであろう職が与えられる。じゃあ君は、いっぱい努力してお国のために尽力したから、官位を上げてあげるね、それに伴って、それなりの職にあたってもらおう、などというのはほとんど叩き上げの傍流筋の貴族に与えられた「君も貴族の仲間入りができる!」といった程度の話であって、元々の位の高い地位を生まれたときから約束させられていた公達などは、成果→出世などというタルいコースを進むこともない。ただ決められた生まれがある。それに見合った地位を与えられ、将来的に宮中での権力の一つを担う人材になる。ただそれだけだ。であるからして、天子様のご兄弟であらせられる、皇子様たちは、それなりの官位に見合った、しかし直接政務とはあまり関係のない職を与えられていた。たとえば名を貸しただけの地方の長官とか。本人は地方などには赴いたこともなく、実際の政務には彼の部下(まあ、会ったことも会話したこともなかったかもしれないが)が当たっているというのが常套だった。

 で、あるからして、傍流のその二人は、生まれたときから既にして、たくさんの”余暇”を与えられていたも同然だった。その身分に恥じないそれなりの教養と、それなりの学と、それなりの恋と、それなりの女などをあてがわれ、あるいは渉猟し、ゆうがに美しく生きていた。

 が、彼らだって人間である。人間であれば誰だって、自分の頭で考え、行動する自由と思考を持つ(はずだ)。であるからこそ、彼らは彼らなりに、若い頃は自身のあいまいな生に悩み、苦しみ、かつ煩悶した。人は俺の身分をあがめたてまつり、美しいものだ、それは良いものだとするが、冗談じゃない。このように、窮屈で、鬱屈し、自由も冒険もなにもない、このような押し込められた生を、どのように歓迎すればいいというのだろう? というわけで彼らは自らの創作で身を慰め、物語の中などにも余地としての、僕の在るべき姿というものを探して、ほんとうはそのようなかな文字ばかりで書かれた文章などというものをは男の読むものではないんだけど(男が読むのは漢籍だろう。光源氏だって物語などというものは女子どもの読むものだと『蛍』の巻で言っていたぞ)、写したのを女房にこっそり言って借りてきて、日夜明け暮れず移し書きし、それを夜な夜な少しずつ読むのを楽しみにしていた。

 彼らはそれぞれにそれぞれの感情をもって、新しく現れた”姫”の噂と影を追っていた。

 彼らはそして、その感情に多分に理屈を、意味を、大義名分を貼り付けた。

 曰く、これは真実の愛だと。この俺の愛、それは良いものだ。この感情には理屈があるのだと、感じて然るべき理由があるのだと、いろいろと理屈やそれらしいことをならべたて、おのが感情を粉飾した。そうやって自身で作り上げた”姫”の黄金像に恋し、その感情そのものを大切に温め、夜な夜な頬ずりし、愛撫した。ふだんから退屈をもてあますばかりの彼らにとっては、そういう行為こそが最大の、生命へのなぐさめだった。彼らはそうやって、架空の女になぐさめられた。だから彼らは”姫”のことが大好きだった。そういう彼女の本体を手に入れて、この退屈を全部帳消し、この体すべてを正当化してもらう。それ以外に、”女”というものを愛す意味などあるだろーか?


「……さて」

 長く気まずい沈黙ののち、口火を切ったのはあのりくつっぽい帥の宮だった。

「皆さん、お忙しいところを、このようにお呼び立てして」

「いいえ宮、こちらこそ」

「そうです、このような、立派な席など設けていただいて……」

 などと、大臣筋のものはへらへらとへつらうようにして、帥の宮のねぎらいに恐縮している。

「いや、それにしてもさすがですな。宮筋ともなれば、どうです。この食膳のすばらしい、みやびやかなこと」

「私もそれが言いたかったんだ。いや、実に素晴らしい」

「自分の家で食事を取るにしても、二度二度の食膳は、つい簡単なものになってしまいますね。このようなごちそうを見るのはほんとうに久しぶりで……」

 などと、汗をかきかきそれでも、土器に酒を差しつ差されつして、女房連からの給餌を受けながら、しばらくは五人で飲みかつ食い、歓談した。

 酒もある程度まわり、それぞれが連れてきた従者などが余興に青海波などを琴の調子に乗せて舞っているのを見ながら、「それにしても、大変なことになりましたねえ」と、右大臣が切り出した。

「ああ、噂の姫君のことですか」

「そう。あれは並の女ではない」

「書の水茎のうるわしさもさるものながら、歌心もわきまえている。あの人の歌は……なんというか」

「可憐だ」

「そう、可憐なんだ」公達はぱん、と土器を膳に置いて、「どういうんですか、ちかごろの女とは、筆が違うでしょう」

「わかります。なんだろう。どう言えばいいのかな」

「つまり……気取っていない」

「そう!」

「ひけらかしがないんですよね。さりげないというか」

「分かる……」

「一昔前ならそういうのも可能だったかも知れませんが。ちょっとね」

「そう……たしなみがない。もちろん、知識としてはあるにこしたことはないのですが……」

「未だにいますよね、古典なんかから引いてきて、私には教養があるのよ、さあ敬いなさいという……」

「僕はそこまではおもいませんが」

「とにかく、気負いがないというかね。スッとしている。香で言ったら、黒方のような……」

「高貴なようでいて、それでいて野に咲く花のようなんですね。だからこそ珍しいし、そんなちいさくはかないものは、守ってやりたくなる」

「守ってあげたい、そうですね」

「また書き送ってくる紙がしゃれているでしょう。重ねの色目もあざやかに、季節にぴったり合ったそれでね」

「そう。めったにお返事はいただけないけれど、そうやって心づくしをされたものを一度でも受け取ってしまえば、こちらが好意以上のものを抱いたとしても、それは必然という話で」

「そうです、そうです。僕などはすっかり舞い上がって……、あれほど心を砕いて手紙を送ってくれるのであれば、姫の婿になるのはこの僕だとばかりおもっていた。まあ、それは勘違いでしたが」

「いや、そうおもうのもむりはない。あれは一見冷たい女に見えて、心根の優しい女です。僕にはそれが痛いほど分かるんだ」

 などと、酒も入ったこともあって、雅やかな人たちはああだこうだと姫の手紙やそれに伴う諸々についての称賛をし始めた。

「また文から香る実際の香りも素晴らしい。変に甘ったるくなくてね」

「そう。ちかごろの流行りか知りませんが、一体どれほどの時間焚き染めたのだろう? と疑問におもうほどの物を送ってくる女がいますね」

「それも鼻が曲がりそうな。文に顔を、とてもじゃないけど近づけられないんです。どういうんでしょうね、何を考えているのか」

「物事には程度というのがあるでしょう。それがわからないんだな。これは、特に若い女性に多いようだが……」

「いや、そんなこともありませんよ。年嵩のでもまた、妙な匂いを漂わせたものを送ってくることがある。変に古いにおいというかね。流行遅れのにおいってあるでしょう。何年も仕舞い込んでいた着物からかおってくるかのような。そういうのに気づかないで、良いものとして処理してしまう。感覚が鈍るというか、つい判断がきかなくなってしまうんですね」

「とにかく姫は何事につけても趣味が良い。僕などは、あの趣味の良い姫に何かと褒められると、それだけで有頂天になってしまいますよ」

「…………」

 会話に加わっていた四人のうち、三人が様子をうかがうように視線をさまよわせた。

「褒められる? たとえば詩才ですか」

「ええ、それはもう」

 少々得意になったらしい帥の宮はぱたぱたと扇で自身を扇ぎ、「これほどの詩才をもった殿方と文を交わせて嬉しい、とね。勉強になると言うんですよ。そう言われてしまえば、俄然張り切らざるをえないな、もちろんこのようなことは皆さんにもご経験があるでしょうけれど」言いながら、目を細める。

「自分でも会心の出来だとおもったものを送った時の反応なんかがまたいいんだな。あの姫は、皆さんもご承知の通り、感受性にすぐれている人でしょう? 良い詩を送れば、あの人はそれをすぐに分かってくれる。これほど手応えのあるやりとりを、いまだかつて女と交わしたことが果たしてあっただろうか? いや無い!」

「まあね。そんなこともあるでしょう」

「実際に宮の詩才は素晴らしいわけですから」

「敵うはずがありませんね、やはり姫の第一本命は宮かな」

「まあ、常識的に考えればそうもなるでしょう。しかし私は姫の真心を信じています」

「真心? 何だそれは」

「つまり私は彼女に、並の常識にはとらわれない新しい波のようなものを感じるわけです。あのひとはほかの女人とはどこか違う。彼女はこれからの時代における、新しい女性像の新機軸になりうる女です。そのような考えを持ってすれば、いままでの常識にはとらわれない……身分差もなにもかも飛び越えて……」

「宮には断然劣るボクだけれども、そんなボクを選んでくれるだろう、と?」

「いやまあそこまでは言ってませんけども」

「しかしそこまであからさまに好意の対象が決められていたとは意外だったな。見当違いも甚だしい。僕などはすっかり、この五人がえらびぬかれたのだから、平等に権利があるものとおもいこんでいました」

「いやいや、まだわかりませんよ」

「そうですよ。ヤケになっちゃいけない。ヤケになっちゃいけない」

「私なんかも、宮ほどではないが時々姫から称賛のお言葉を頂戴しますよ。そういう意味では、結局えらぶのは姫の方なんだから」

「おや、私が一人で悦に入っているとでも?」

「いやいや、滅相もない」

「それでも姫から称賛の言葉を? 羨ましいな」

「いやいや本当に。十回に一回の程度のことで」

「僕などめったにお返事ももらえないのに……、どうして五人のうちにえらばれたのだろう。頭が痛くなってきました」

「えらばれたからにはそれ相当の理由があるんだろう。そうでなくちゃ困るな。そうじゃないですか。そうでしょう」

 などと、四人は侃々諤々やっていたが、その中心にいた帥の宮がふと視線を上げて、「兵部卿宮。箸が進んでいないようですが。お口にあわなかったかな」と、視線の向こうにいた、それまで会話に加わっていなかった公達を指して尋ねた。

「あ」

 兵部卿宮は顔を上げると、膳と正面を交互に見比べ、「ああいいえ」とふめいりょうに言葉を落とした。

「もしかして、お酒が行き渡っていなかったのかな。ちょっと、あちらに瓶子をお持ちして」

「ああ、そうではありません。私は皆さんのお話を楽しく聞くのでせいいっぱいで、食事にまで頭が回らなかっただけなのです」

「ほーお」右大臣が髭を撫でながら、「楽しいですか。そうですか。それはそれは」

「ええ。こんなふうにして、大勢の人とお話するのは、ほんとうに久しぶりのことですから」宮はほんのりと口元に笑みを浮かべて、「こうして皆さんのお話を聞いているだけでも、楽しいんです」

「……………」

 多少鼻白んだらしい座の人々は、それぞれに軽い咳きや微笑などでその場を濁し、それに特別な言葉を掛けるようなことはなかった。

「僕などは、ほんとうのところであるならば、もっとこうして社交の場に積極的に出かけていくべきなんですよね。それにもかかわらず、どうも普段から出不精の自身をあまやかして、外に出ないでばかりいるから、皆さんの会話に、どうやって入ろうか、入ろうか、と考えているうちにですね、お話のほうがどんどん……」

「ああ宮、おっしゃってくださればよかったのに」

「そうです、そうです。ここにいる皆さんはそれぞれに身分が違えど、同じく姫にえらばれた、いわば同士じゃないですか」

 それを言ったのはこの場においてもっとも位の低い中納言ではなく、政治の本流には属していないが位が高いでおなじみの帥の宮だったので、それ以外の公達もうんうんと頷き合った。

「そうですよ。宮の意見も聞きたいな。僕たちばかりで話していては片手落ちでしょう、なにかと」

「そうですか」

 兵部卿宮の宮は小首をかしげて、少し酒に酔った頬を高揚させて微笑んだ。「皆さんのお仲間に入れるなんて、うれしいな。僕の話など興味がありますか?」

「それはもちろん」

「みんなそうですよ」

「当たり前じゃないですか」

 普段あまり人から注目されなれていないらしい兵部卿宮は、なにやら居住まいを正すと、えへんと喉を短く鳴らして見せ、それから、「姫は書や歌も素晴らしいが、第一に、絵が素晴らしいですね」と言った。

「……絵、ですか?」

「皆さんも知っての通り、あの人の絵はすばらしい。僕はほとほと、あの人の画才には関心しているのです……」

 それまで黙って会話に参加していなかった兵部卿宮は、それから堰を切ったように話し始めた。「なんといいますか。というよりも、どこから話せばいいんだろう? 僕はね、実を言えば、この会のことを本当に楽しみにしていたんですよ。僕はぞっこん、あの姫のみりょくに参っているんです。でも、そんなことをいちいち粒立ててお話できるような相手なんてめったにいないでしょう。従者なんかに聞かせてみても、馬の耳に念仏とまでは言わないけど、どうせ自慢話のうちで話が終わってしまうじゃないですか。姫というあのすばらしい存在をですね、ただの自慢話におとしめるようなまねを、僕はできうるなら演じたくなかったわけです。だってあの人はあれほど素晴らしい女性なのにもかかわらず、僕の話し方次第で、その話を聞かされた相手の中では、自慢話を聞かされたという嫌な経験のうちの一つとして処理されてしまう可能性だってあるわけですからね。姫を愛する僕としては、そのようなヘタはできる限りうちたくはない……とおもうのが、道理だとおもうんです、これは皆さんにも分かってもらえることだとおもうんだけど。

 そう、そうなんです、つまりね、僕と対等に彼女との経験を、お互いの落差なく自由に話し合える相手、それは姫を取り合う競争相手以外に居ないのではないか、というのは、僕もずっと考えてきたことだったのです。だからこういう機会を設けて頂いたことには、ほんとうに感謝しているんですよ。だからさっきまでのお話も、僕は会話には加わっては居なかったけれど、やっぱりおもしろくて……姫の話題であるならば、どんな話を聞いていたとしても楽しいですからね。なにせそんな機会は今までに一度もなかったことなんだから」そこで宮はちょっと酒で舌を湿して、「だから実は、皆さんのお話を聞いているだけで、僕はもう満足だったんだ。でも、せっかくの機会だから。僕はずっと、あの人の才をおおっぴらに称賛したくてたまらなかったんです。ここにはこんなにすばらしい女性がいるぞ、その女性と僕は、このように雅やかなやりとりをしているんだぞ、とね。その一字一句のやりとりを、まわりのひとすべてに喧伝して、見せびらかしてみたかった……しかし反対に、このようなやり取りはすべて僕たちだけの秘密のできごとであって、それをなんぴとたりともにもじゃまさせたくない、ともおもっていたんです。

 だってそうでしょう、本来であるならば、文を送り合うなどということは、二人同士だけの、閉じられた関係のみにゆるされた行為なんですから。それをねじまげてまでして、その内容を誰彼構わず吹聴してみせる……、このような不条理がまかり通る道理など、一体どこにあるというのでしょう? でもそういう行為を、僕たちは知らぬ間に……というよりも、嬉々として、それを日常的行為のひとつとして行っているんですね。こんな歌を詠んでもらったとか、こんな文章を頂いたとか、そういう、ある意味で品のない……、あ、皆さんのことを特別指しているわけじゃないですよ。これは一般的な話、自戒も含めてのことですから。

 僕だって、以前ならば、ちょっと気の利いたようなお手紙を貰えば、まわりにいたひとにその内容を話して聞かせたりして、それを共有することでよろこびを得ることは当然のことだとおもっていました。権利、だとすら……しかし今回は違います。僕は、そういう個人的なことを大衆感情にまで敷衍してしまうという愚かな行為について知りました。それはおのれの感情をうすめる行為であり、賞味期限を早める行為であり、かつまた相手にとっても礼を欠いた行為であるということ……

 だってそうでしょう。僕だって、そのお手紙をしたためているときは、常にその相手のことだけを考えていますよ。こんな歌を詠んだら感覚が鈍いとおもわれるかしら、とか、ちょっと甘ったるすぎたかな、とか、妙に白々しくなってしまった、とかね、送った後に後悔したりして。でもそういった一連の行為がまた、楽しくもあったりするわけです。ね? 皆さんも、そうですよね。

 それは同時に、とても神聖な、自己と他者との、感情の向きを同列に揃えるための神聖な行為だとおもうんです。それは多分に秘められるべきであって、公開されるべきではない、共有されるべきではない。僕は姫という存在に出会ったことによって、その真実を知りました。今までに、どうしてそういった状態に陥らなかったのか、ふしぎなくらい……簡単に、自然な感情として理解できたんです。まるで以前から所有していた感情のようにね。だから僕は、姫とのやり取りの大半は、すべて二人だけのものとしたい。それを誰にも公開したくない、吹聴したくない、だいじに、たいせつに、心の中だけに留めておきたい……そうおもっていたんです。

 だから本当は、こういう機会を得たとしても、話すべきじゃないんだ。というより、僕には何かを話す用意なんてひとつも持ち合わせがないと言ってもいい。でも、共有すべきでないこと、するべきことというのはまた別です。彼女と僕だけにかわされる言葉はあるべきだ、しかし姫そのもののあの素晴らしさ、それを直に知っているのは、他ならぬ姫その人にえらばれぬかれたこの五人には、もはやすでに自明のことだ、それを隠すような必要は、ないわけでしょう。ですから、僕はそれをこの会ではお話したいとおもうんです。

 というのは、やはり、絵ですね。書や歌の素晴らしさはもちろん、皆さんが今までに話したとおりに、素晴らしいものでした。それに異論はない。であるからして、今までに語られなかった、”共有されるべき”話題とはなにか? それは彼女の画才です、得意な才能です、僕はほとほと……あの才には参っているんだ、烏帽子を脱いでいるんだ。烏帽子を食べてしまっているんだ。

 特にあの線遣いはどうだろう、僕は宮廷画家にはちょっと見られない、めずらしい手蹟だとおもっているんだけど……」

 それから小半時ほど兵部卿宮の話は続いた。座にいた他の四人はその長々とした話に退屈しきった……とおもいきや、結構真剣になって、それを聞いていた。なぜならその四人は、他ならぬ姫から、絵のたぐいなど受け取ったことは一度たりともなかったからだ。だから彼らは一様に兵部卿宮の話に嫉妬していたし、恨めしい、なんでこいつばっかり、俺とこいつの差なんて大したこと無いはずなのに、というよりも、俺より実は下のくせに、とか色々負の感情を腹の中ではそれぞれが煮やしていたが、それでも表面上はへえとかはあとか相槌を打ちつつ話を聞いていた。

「その、やり取りというのはつまり」コホン、と喉を鳴らしてから、右大臣が言った。「宮も、姫に絵を送っている?」

「ええ。お恥ずかしながら」宮は喜びを隠しきれないように口角を上げ、しかしそれをはしたないとおもったのかすぐに俯いた。「僕の手蹟など大したものではありません。お見せするのが恥ずかしいくらい。しかし、姫もそれをのぞんでいるから」

「は? 何?」

 現場は一瞬ぴりぴりムードに包まれたが、肝心の兵部卿宮はそのような空気にみじんも乱されることなく邪気なくニコニコしている。険悪な空気のあいまを縫うようにして、一人の上達部が感心したようなそぶりで、上体を幾分後ろへ傾げて言った。

「驚きだなあ。そこまで姫の心を捉えていたとは? これは出し抜かれましたかな」

「え、どういうことですか。皆さんも、姫の絵の素晴らしさは知り尽くしているのでしょう?」

 兵部卿宮がふしぎそうに尋ねたので、他の四人は不快を露わにして、顔を見合わせた。「いやいや、そんな……宮ほどの才と幸運にめぐまれた者は、この場には一人たりともいませんよ。姫の心を捉えるような、特別な才を持ったものは……」

「そうですよ。ここには非才の身ばかりが集まっていますからね。宮のように器用には、とてもとても……」

「それで、姫はどんな絵を描くのかな。気になるなあ」

「しかし、絵ですか……。書ならまだしもねえ」

「分かるけれども……」

「絵ですか……」

 などと、公達たちは対象を褒めちぎりながらも嫌味を言うという社交の場ならではの会話に自身の欲求不満をぶつけていたが、それでも兵部卿宮は、褒められたものとばかりおもって、有頂天になり、ニコニコしていた。

「それは……姫にも今度お手紙しておきましょう。あなたの絵を、たくさんの人達が見たがっている、と。きっとやさしい姫のこと、そのうちに歌とともに、絵を描きつけて送ってくれるに違いありませんよ」

「いやいや、お気遣いいただいて」

「嬉しいなあ」

「楽しみが増えますね」

「感激だなあ……」

 うるせー、余計なことすんな、と四人はおもったが黙っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る