第4話

 というわけで妹姫の婿がね探しが始まった。噂はすぐに、とてもかんたんに広がった。

 最近都に越してきた、金貸しの長者が住まう屋敷、その広大な土地の、うすくらがりの奥座敷には、一人の深窓の令嬢が、同じくらいの歳の兄弟に、大切にお世話されながら暮らしている。そのちいさなかわいらしい唇からもれる声は、まるで転がした鈴のよう、その髪は長く黒々として、まるで一本一本が絹糸のようにしっかりとみがかれ、光沢を放っている。わたしも、腰紐を結んであげた時に、おもわず手が触れたが、やわらかな、まだ織られていない絹糸の束を撫でているかのようだった、その肌は水を吸ったように柔く白く、おもわずしがみつきたくなるかのようなやわらかさだった……など。

 もうこうなれば、たまらない。『オツベルと象』を例に取って言えば、のんのんのんのんやっていた、都中の貴族どもは、ぎょっとした。なぜぎょっとした? よくきくねえ。連中が暇を持て余していたからに決まっている。もちろん彼らは画一的ではない。そこに百人の貴族たちがいれば、百人が百人、暇をしていたというわけではない。数十人は、もう、目が回るほど忙しかっただろうし、数十人は、それなりに忙しかったかもしれないし、数人は、物忌みで家に閉じこもっていたかもしれないし、物忌みとかこつけて楽しいことをしていたかもしれないし、まあ、その内情は千差万別であっただろう、が、とにかくその中には、みずからの退屈をもてあまし、自らの地位や、富や、女、人間関係、その他諸々に膿み、疲れ、それらを一種の重圧として自らの中に押し込め、普段には表に出てこないように所有しているものどもなど、もう、掃いて捨てるほど、いた。

 彼らのそのような、日常生活の末に溜まった重圧を、どうやって開放しよう? 酒かタバコかため息か……女か。この時代の今日の都の貴族といえば、早い話がお役人である。武官もいれば文官もいる。それぞれに役割があり、彼らは日々、その割り当てられた仕事に従事している。そのような日常、世の中の現状がいつ乱れるか、均衡が破られるかは誰にも分からない。いつかはそのような日も訪れるだろう、しかし目下のところは天下泰平、平らかな日々である。

 そうでなくともこの頃は、春もうららかな、気持ちの良い季節だ。小鳥はさえずり花は咲き乱れ、やわらかな緑香る季節、恋の一つにでも花を咲かせて、新緑に彩りを添えたいじゃないか。

というようなところで、例の噂である。好色であることそれすなわち悪徳そのものを指すという時勢でもない。むしろそれは推奨されるべき、検討されるべき行動ではないか。というわけで、都の好色な男たちは、老いも若きも、自分の立場や、年齢、妻帯の有無など日常の諸々なんかはすべて忘れ果てて、これから始まる新しい、それも”とても素晴らしいことが予見される、”恋の期待に胸をふくらませているのだった。

 で、それから彼女らの住まうその屋敷に舞い込むようになったたくさんの愛の手紙を、一通一通点検し、これには返信するように、これは無視しておきなさいと、いちいち細かく指導するのは姉君の方で、その指令に従って、妹君は、うつくしい手蹟で、薄様のさまざまな色のついた紙に、つらつらと歌を書き送るのだった。

 妹姫の存在の噂だけは常に都中に漂い続けたが、彼女についての詳細なことは一切、誰一人として知らなかった。なぜそのようなことになるのか? それはひとえに、姉上がその首を縦に振らなかったからだ。

 そもそも、めったなことでもなければ、姉上は妹とその男たちとの関係を良好に紐付けるつもりはなかった。アジやイワシを釣りに来ているのではない。ここでは、もっと別の……だから、その大物が網にかかるまで、姉上様が首を縦に振ることはできない。

 時間はのんびりと流れた。その流れの中には、そののらりくらりとした”仕打ち”に、業を煮やして、行動突撃あるのみと、屋敷に直接直談判するもの、闇夜に乗じて屋敷の簀子縁にまで忍び寄り、その存在だけでも、着物に焚き染めた香のかおりだけでも確かめたいとして、やってくるものまで現れ始めたので、姉上は妹姫に、文を送ってくる連中に、返事を出すのを禁じることにした。

 金が金を呼び、大分のところにおいて羽振りの良い讃岐邸においては、一丁前に侍所なども設けて屋敷内の警備は万全であったから、このたいせつな妹姫に、差し障りのあるような大事は起こらなかった。そして姉妹は大きな魚が掛かるのを待ちながら、仲睦まじく、いつものように音楽を奏でたり、歌を歌ったりして、遊んでいた。


 ところでこの姉妹にはいくつかの共通点があった。容姿が瓜二つなのは当然として、一人は女の身のまま、もうひとりは自身の行動の便利に応じて男装などをしているが(なにしろ裳着を済ませた女の窮屈さというのは、ちょっと他に類を見ないのではないかというほどだ。一人前の女になった女性たちは、その日から人前に自身のつらおもてを晒すことができなくなる。それは男の親兄弟に対しても同様で、会話をするとなれば御簾をおろして扇で顔を隠し……ということになる。むやみやたらに外を出歩くわけもなく、彼女、姉君にとってはそのようなきゅうくつな状況など耐えられない)、それでも二人に共通するもの、それは各自の容姿と、それからまた、大の物語好きということであった。

 まったく、この二人の姉妹は、暇さえあればきれいな厨子に収められ綴じられた冊子を持ち出してきて、それを気が済むまで、飽きることなく眺めている。長子は漢詩や大国の歴史書なども好んだが、次女が好むのはもっぱら物語の類で、特に藤式部なる女房の書きたる、五十四帖にまでなんなんとする長大な物語に、日々没頭し、その内容を陸奥紙に書き出してみたり、また登場人物のあれこれの場面を想像して、絵として描きつけてみたりと、まったく飽くことがないのだった。

 姉は妹の描きたる幾十枚もの絵を眺めながら、描かれている場面を想像する。

「四帖だろう。『夕顔』の……、”六条わたりの御忍び歩きのころ内裏よりまかでたまふ……”」

「当たり!」

 姉はゆっくりと写本の頁をめくり、該当部分に指を這わす。

「”山の端の心も知らで行く月はうはの空にて影や絶えなむ心細く……”」

「”この枕上まくらがみに、夢に見えつる面影に見えて、ふと消え失せぬ……物の足音、ひしひしと踏み鳴らしつつ、後ろより寄り来る心地す……”」

「劇的だねえ」姉は、ほうと感心するようなため息をもらす。「あなたが好きそうな場面だけれども」

「わたしはお姉さんとは違うのよ」妹はのんびりと言いながら、描きかけの筆の手を止めて、「わたしは気に入った箇所を何度も何度も読んでしまうの。だからこの物語の後半の内容は知らない」

「読むべきだよ。前半と後半ではまったく毛色が違うんだから」

「だからこそ腰が重くなるんですよ」妹は筆に短く墨をつけながら、「お姉さんの説明を聞いていると、いつも感心するけれど、同時に頭が痛くなるわ。源氏が絢爛な恋に身を焦がす様が良いというのに、それをなくしてまで、どうして女の主人公の、それも、よく感情の飲み込めない女、そんなものを据えて、十帖も話をぶったのかと疑問なのよ」

「だから、それはね……」

「そんなものを実際に読むくらいなら、お姉さんが説明してくれるだけで十分だとおもってしまう」

「いや、あなた、それは違うよ。やはり他人の意見など話半分にしておいて、実際に自身で物語を紐解くほうが、どんなに勉強になるかわからない」

「わたしは勉強がしたくて、ゲンジを読んでいるわけではありませんよ」

「まあ聞きなさいよ」

 などと言いながら、彼女お得意のだらだらとした弁舌が続く。妹は墨にちょこちょこと筆をつけて、手遊びに絵を描きながら、それを聞くともなしに聞いている。

「光は確かに恋をしているに違いない。彼は出会う女、恋に値するかもしれない女のなかに“可能性”を垣間見るたびに、”もしかしたらこの人は、僕の欲望をそっくりそのまま叶えてくれる女に値するのかもしれない”などと、一方的な感覚を抱くわけだ……が、しかし、そのようなのぞみは多く叶うことはない。彼は多くの恋をするが、それによってすべてを満足させるということがない。彼は常に飢えている。まるで餓鬼のようにね。なぜそのように女を漁るのか?

 はじめに結婚した相手は彼に冷たかった。それは彼女の生来の気位の高さと、それ故に素直になれないその性格ゆえのものだったが、それをむなしくおもいつつさて周りを見渡してみれば、まあ、女なんてものは掃いて捨てるほど居ます。彼は”この人だったら……”とおもって、その”……”のなかに様々な感情を含ませ(あるいはまったく含ませずに)、”値する”とおもった人に感情を向けていく。しかしその”値する”人々というのはどういうのだ? たとえばそれは自分の父親の再婚相手でした、とか。人妻でした、とか。恋をするにはしたが早くに死んでしまいました、とか、まだ恋する適正な年齢に達してませんでした、とか。零落の姫君だとおもって喜んでいったらすっげーアレだったとか。他にも、田舎娘とか嫉妬深い女とか斎院とか早くに死んだ女の娘とか、まあこの人選だけ取ってみてもおおよそまともらしい色恋には興味がないんだなと。でもそうなってしまう理由もわかる。つまり、彼はこの穢土に降り立ってから一度たりとも、苦労したことがないからだ。

 女というものは彼を楽しませてくれる、困難を用意してくれる、彼はその困難にどう対応しようかと考える。いちおうの最優先であるところの紫の上のめのまえで、それゆえに彼女は適度に嫉妬し、適度に彼を愛し、適度に彼を許す、そしてそのたびに彼は、彼女の彼に向けられる献身そのものこそが、やはりたった唯一のものだったのだ、と自覚はするけどまたそのうちに、別の女の中に”もしかしたら彼のすべてを紛らわしてくれるもの”、”充填してくれるもの”のにおいを嗅ぎつけてしまう。彼にとって恋心とは、その”もしかしたら”の連続なんだ。新しい、恋に値するかもしれない女の存在に出会うたびに、彼は、そういった女の中に適度な紛らわしと充足を見つけ、けれどやっぱり彼の中の空洞は、誰も埋めることはない……彼はそういう女と出会うたびに、ますます孤独になっていく。結局どんなにみめうるわしい女、地位の高い女、低い女、他より何かが特別秀でているとか、劣っているとか、そういう平均値から外れた女を見つけ出し、選び抜くたびに、彼は彼のなかに仕舞い込んでいた孤独と、どうしても対面しなくてはならない羽目に陥ってしまう。

 なぜか?

 彼らには、”すべきこと”がなにもないからだよ!

 たしかに彼らにはしなければならないことがあるよ。日々のお勤めとか、物忌みによる束縛とか、己の家の繁栄を考えること、他者に自身がいることをアプローチし、一人でも多くの他人に受け入れられること。生きるためにしなければならないことはたくさんある。宮中で働くのならば覚えていなければならない常識、秩序、祭りの準備……しかしそもそも、彼らはなぜそのようなことに、身をやつさなければならないのか。そうする以外にすることが何もないからだ。

 食っていくには困らない。そこら中に虫のようにわいて出てくるお百姓が、せっせせっせと、米だの粟だの稗だのを作って、産地直送で送ってくれる。貴族はそれを食べて、月ごとに決まった祭事を執り行って、まあでもしかし、その祭事だって決まり決まりで、覚えるのなんか大変なんだけれども。しかし、大変だからこそ良いのだろうね。少なくともそれを覚えている間には、退屈を紛らわすことができる……

 さてここへ来れば、もっとも退屈している人間とは誰か。恐ろしい話になってきたけれど、これはよくあなたも注意して聞かなければいけないよ。これから僕たちが、君に強いようとしていることなんだから。

 女だ。この世で退屈しているのは女。それも、大勢の人々に傅かれている女……

 例えば、この人もこんな例題にばかり登場するようでやりきれないだろうがしかし、そういう命題によって創作された人物なのだから仕方がない、光という存在の最も対照的な姿ともいえるのかもしれない、美醜という点について話されるのであれば……光は常に美を前提として語られる人物として創作され、また末摘花という女は醜という前提があって初めて語りうるものになる……とすれば。もっとも、これから話したいのは美醜という点においてではないんだけど。いや、多少は関係するのかな。

 つまり……、余計な話ついでに言うのならば、醜という状態も、決して顔の造作の出来不出来だけに限定されたものではないということ。それは女の退屈を感じる感覚とも、少し関係する話なんだ。

 末摘花という人は、とにかく野暮で、貧乏で、教養が薄くて、ぼんやりで、趣味の悪い、鼻の頭の赤い女として描写され続ける。そういう、どこをどう愛していいかわからないような女のことも、光は最後までみすてずめんどうをみてやる。最終的に自分の二条の家に住まわせて、生活を保証してやる。それをするのは、光が“そういうもの”として描写されるために存在しているからに他ならない。光は一度契った女のことを忘れず、その後の面倒も見てやる稀有な存在だ、と性格づけるために、彼は、この時代の男なら鼻にも引っ掛けないであろう女と積極的に関係を結び、それで自己を自己足らしめている、と。そういう彼の性格描写に、末摘花という零落の姫君の性格や境遇は有効利用され、それによって末摘花は野暮天となり、貧乏となり、ぶさいくになって、いつまでも、後世の人々に対しても、綴じられた本の中で、その赤い鼻を晒し続けている……と。

 そういう描写が成されているのだから、やはり後世のわれわれは、末摘花という存在を、”そういうもの”として鑑賞するよりほかはない。末摘花と等号されるのは常に”醜”であり、他の女たちについて語るときよりもずっと、負の要素をたっぷりと含んで、それどころか、その負の要素について語るために、わざわざこうして、引き合いに出されたりする……かわいそうな女。どうしてこのようなむたいが平気でまかり通るようなことがあるだろう?

 でもね、僕は彼女についてそういう話がしたいんじゃない。いや、関係はあるんだよ、でも、”きれいは汚い、汚いはきれい”の例の話で言えば(なんですかそれは? と妹が口を挟んだが姉は無視した)、末摘花の、いわゆる汚さ、負の部分というのは、ひっくり返して見ていけば、それはきれいなもの、美徳へと変わる可能性がある。もちろん、この美徳というのも、一口で言ってしまうと言葉足らずだ。というのはね、本人には美徳かもしれないが、他人がそれを第三者的に眺めた時に果たして、それは美徳と呼べるのか。やはり背徳……というより、悪習ではないか? と見えてしまう場合があるということ。

 とにかく、僕がいいたいのは、女はこの世の中でもっとも退屈している生き物だということと、そして、光が自身の屋敷にやってくるのを、何年も何年も退屈せずに待ち続けた、その退屈を退屈ともおもわない末摘花は、大した美徳の持ち主だ、と一絡げにして決めてしまってもいいのか、ということなんだよ。

 確かに人々にとって、退屈は敵かもしれない。それをみんな感じないように、本来であるならば立ち向かわなければならない長大な、膨大の時間のうずまきのなかにくるまれたくなくて、それで必死になって、公務に乗じたり、祭事に奉じたり、恋をしたり、恋されたり……しているのかもしれない。しかしそのような日常的な動作の数々の隙間に、ふと風が吹くときがある。たとえば、ほら、あったでしょう、柿本人麻呂のね、”あしひきの……”」

「”山どりの尾のしだり尾の”!」

「”ながながし夜を ひとりかもねむ……”ああいう境地、この長大な夜の時間を、たった一人で過ごすのか? そのような恐怖、そういう、夜に忍びやすい恐怖を、日常のすぐ隣にある長い長い時間を、それがもたらす退屈を、われわれは常に身の近くにおきながら、しかし平気な顔を装って暮らしている……しかしこの退屈は、退屈を恐怖する、という感覚と認識があるからであって、この和歌のように、一度でもそういった、永遠ともおもわれるような、長い夜を過ごしたことのあるもの、そしてその時間を”短い”とも感じずに、膨大なものとして捉えるおのれのなかの恐怖心あってのもの……とすれば、先の末摘花はどうであったか?

 彼女は、退屈なんて恐れる心がないんだよ!

 彼女はきっと、心の細やかな、微細な襞を持った、なよやかでおっとりとした気質の女性だったんだろうね。だから、彼女の目に映るもの、見るもの聞くもの、すべてにおいて何かを見出し、決して倦むことがない。ちょっとした風のそよぎを見るのもおもしろいし、真夜中の暴風雨なんかを、室内でじーっと身を固くして聞いているのもおもしろい。そうやって一日いちにちをぼんやりと過ごして、傍目には何をしているのか知らんが、本人は結構満足している……とか。

 しかしその反対、全く逆のことも考えられる。彼女には感じる能がない。何を見ても何を聞いてもみんないっしょ。ちょっとでもあはれの心を解する人が見れば、どんなに素晴らしいものだったとしても、彼女の目を通してみてしまえば、それはただの風、ただの鳥、ただの花、ただの雑草。桜もぺんぺん草も、地面から生えているということだけで、みんな一緒くたにされてしまう。それで本人は平気なんだ。なぜなら彼女には、美を解する気も、醜に惑う気も、あはれやおかしという感情を自分のものにする気も、さらさらないから。ない、と決めて、自覚することもないから。

 そういう彼女は気の毒な存在かもしれないけど、それでも彼女にしてみれば、そのような目を向けられること自体が大きなお世話かもしれないんだ。だって本人はそれで結構立派に、自分の生を維持できていたんだから。そして、そろそろ財政難で、召使いたちが食べるお米にも欠く、屋敷のめぼしい調度品なんかも叔母だの何だのに盗み取られ、それでも「あれあれ」としているうちに逼迫した状況はますます逼迫し、そうしたところに我らが光が、大旗を振って凱旋……

 そしてたくましい彼女は、その”退屈知らず”というまったく、この時代の人間にとっては得難いような、誰もが実は喉から手が出るほど欲しているんじゃないか? というような特性で持って、自分の将来を勝ち得る。これは素晴らしいことなんだよ。

 だってさ、考えてもみてよ。他の人々は”あしひきの……”にならないように、あれこれと手をこまねいて、あくせくと自身の時間を潰すために、あらゆる手段を持ってしてだよ、忙しがっている。人はうまくいかない自身の生に手をこまねき、あくせくし、じりじりし、胃を痛め、酒に走り、女に走り、政治に走り……とあらゆる状態に身を置いて、たくさんのものを自身と対応させることにやっきになっている。どれもこれも、僕に言わせれば、退屈を恐れるためだよ。孤独を恐れるためだよ。しかし彼女にはそのような恐怖など一粒たりとも持ち合わせがない! 本来であるならば、宮中の人々はみんな、末摘花になりたいと望むべきなんだよ!

 彼女には他人は必要ない。それは、女の身であるから、食わせてくれる庇護者くらいは必要だろう。でもそれは光が保証してくれた。だから彼女はあの二条の屋敷で、一日いちにちを、孤独で退屈であるにもかかわらず、優雅に生きていくだろう。その生活は、他人にとっては苦笑ものの様相であるかもしれない。人々は彼女の赤い鼻を笑うだろう。恋もろくにできない、歌も満足に詠めない、服装や態度など当世風の様子もろくにとれない、どうしようもない、そしてそれを気に病むような態度すら見せない彼女はとんでもない、怪物のような女ではあるけれど……しかしどのような、光を取り巻く女よりも不幸ではない。幸福を知らない代わりに、彼女は不幸になることもない。そういう状態の彼女に、憧れることだって決して不可能なことではないはずだ。

 しかしどうする? 妹よ、僕たちは幸か不幸か、末摘花のような立派な人格は到底持ち得ない。僕たちは学識の喜びを、物語の快楽を、四季の素晴らしさを、他人と意見を交わす爽快さを、歌や音楽の楽しさを知ってしまった。僕たちはすでにして、快楽を知っている。それは同時に、退屈というものを知っているということだ。ああ、どうする? あなたがつまらない男とくっついて、その男が、今話したような楽しみを、ひとつだって君に分け与えようとしなかったのなら。君は退屈で死んでしまうだろう。それとも、座敷の一番薄暗いところで、御簾の影に隠れながら、四季の様々を、庭に植えられたごく微量の木々や花々、時々降る雪や雨や、そういうもので紛らわせられるほど、君の中の退屈は薄いだろうか? 僕はそれが心配でたまらない。お前は、僕がここの家へ来る手紙をえりごのみしすぎるとおもっているかもしれないが、結婚するということは君、こういうことを取ってしてみても、なみたいていのことではないのだよ」

 妹は紙にまだまだなにやらを書き付けていたが、姉が言葉を切ったのを同時に、ふと手を止めて、言った。 「お姉さんの言った”えど”というのは、どういう字を書くの」

「ええ? ……話を聞いていなかったの?」 「聞いていたけど。……だから気になったのよ」

 仕方がないので、彼女は妹の筆を借りて、陸奥紙のほんの隅に、小さく言葉を書きつける。「穢土……汚れた地」

「ひどいこと言うのねえ」

「僕が言い始めたのではない」

「では誰が?」

「これはね、『往生要集』といって……」

「源信僧都なの」

「そう」

「お姉さんが、好きそうなことではあるけれど……」妹はさして興味を持っている風もなく言った。「お姉さんはつまり、私に対する言い訳がしたいわけ?」

「いや、そうじゃなくてね……」

「おあいにくさまだけど私は、お姉さんのように悟りきったようなふりをして、すべてをくだらないものとすることはできないの」

「いや、決してくだらないなんてことは言ってはいないよ。だからね」

「お姉さんの言いなさり方。まるでこの世には本物の愛なんてないとばかりに」 「そんなことは言ってない。そうじゃなくて、一度女と生まれた日には、男などにはとうてい愛されようがないということだよ」

「同じじゃないですか」

「同じ……じゃないんだけどなあ」

「人と人は、ほんらいであるならば……」妹はくるしそうに眉根を寄せて、言葉を喉から押し出すように言う。「わたしたちきょうだいのように、意見が違ってもわかりあえるということ……それを教えてくださったのは他ならぬお姉さんではないですか」

「まあ……君がそうおもうのなら、それもいいでしょう」

「私には女たちの気持ちのほうがわからない」

「女……」

「どうしてあれほどみな臆病なのかしら。どうして一縷の望みに掛けてみないの? 恋をする前からそれ自体に怯えたようになって、可能性をきょぜつして」

「いや、だから、それはね」

「どうせお姉さんは、女の立場の弱さとか、裏切られた時の反動が怖いとか、そんなようなことを言おうとしているんでしょう」

「怒っているの?」

「怒ってないわよ」

 しかし妹はイライラしたように、親指の爪を噛んでいる。それは見た目に似合わず激情家の彼女が、物事がうまく運ばない時によくする動作だった。

「物語の中の女はみんなそうだわ。男に虐げられて、好き勝手に方々に女を作られて、かえりみられず、飽きられて、通いもなくなって……」

「まあでもほら、幸福な結末を迎えるお話なんかもあるでしょう。君の話は藤式部の連綿たるあの物語の女たちにのみ特化された憤りなんじゃないの」

「だって私は源氏切りしか知りませんもの。お姉さんのように古今東西のあれこれに通じているわけではないわ」

「じゃ、読めばいいじゃない」

「そんなものにかかずらわっている暇は、私にはないの」

 妹は(姉からしてみれば)、理屈も何もあったものではない好き勝手なことを言って、姉を苦笑させる。いつもこうなのだ、その時頭にのぼった言葉をただ口に出しているだけで、それらにそれらしい理屈の整合性などというものは、とうていのぞめないような……

「女が幸福にならないから不満なんでしょう? そういう話なんかを……探して読めばいいんじゃないの」

「そういう問題ではないわ」

「だって源氏の物語の中で幸福になる女なんかひとりもいないんだよ。それなのに源氏に拘泥する意味がわからないんだけど……」

「悲しいわ。だから私は源氏を読んでしまうの」

「……はあ」あいまいに相槌を打つ。

 彼女は硯の上に筆を置くと、たった今まで何やらを書き付けていた巻紙を取って片手のひらに置き広げ、見下ろす。その長い紙は局の向こう側まで伸び、そこへはなよやかな筆致の、さまざまな趣向を凝らした人物たちが、物語の様々な場面を演じている。姉は近くに広がっている紙を手に取ってそれらの絵を見下ろした。

 妹が言う。

「彼女たちの男に対する態度は当然の行為だった、そうしないでは他にはいられなかったというのも分かる。でもこの世界にはもっと素晴らしい感情があるはずなのに。どうして男女の仲というものは、結局結び得ないとか、むなしいとか、たかが知れているとか、計算づくとか……そういうものでしか測ることができないというの」

「いや、まあ、そうは言っていないけど」

「私は違うとおもうの。本当に好きな同士だったら、分かりあえる、愛を分け合うことができる……」

 カサカサと紙が揺れる。

「でもそういう人はこの世に立った一人しかいない。源氏の女たちはそれを間違っただけ」

「……………」

 姉が見下ろした、その絵はすばらしかった。墨一色で描かれてはいるが、その自由闊達な線は、そのやわらかさと幽玄ゆえに、着色のけばけばしさ、華やかさ、毒々しさ、ドギツさを拒んでいるようにも見える。その筆致に、色は必要ないのだ。それが加われば、かえってこの世界のうつくしさを削ぐことになるだろう。

「まるで『太郎の屋根に雪ふりつむ』だね」

「なんですかそれは?」

「詩を読む人の言だけどね。そういう静かな情景が、紙から匂ってくるようだ、君の絵は……」姉はうっとりして言った。「こんな絵を、いつまでも見ていたいな。君は書の方はまずいが、絵の方はすばらしい。君は本当に天才だよ。こんな絵、宮中のお抱え絵師でだって表現できない。君の画才はとくべつのものだ。君はその才能を誇りにおもうべきだよ……」

「女には必要のない教養だといいたいのでしょう」

「まあ、そうだけど。絵よりも書の方を優先したほうが、それは懸命だろうね」

 姉は手のひらにするすると紙を滑らせ、まだまだ墨痕鮮やかなそれらを眺め見る。「でもあなたはそういうことからは超越している人だから。はじめから、普通の女みたいに考えてみたところで無駄だろう。ところでここの空白はもしかして、わざと残してあるの?」

 絵の描かれている右上辺りに指を這わせる。

「お姉さんに書いてもらおうと思って」

「場面の書き抜きを? 自分で書きなさいよ」

「やっぱり書の素晴らしい人に書いてほしいから」

「こういうものは自分の手のみで完成させるべきだとおもうけど……」姉はさらに紙を右に送りながら、絵を見ていく。「それにしても、ずいぶん描いたね。ちょっと尋常では考えられないくらい。これみんな君が描いたの?」

「ええ、暇に任せて」

「こういう事実が知れたら、殿方たちは紛糾するだろうね。そんならちもないことに時間を費やしているひまがあるなら……」

「まあ、特別興味を惹かない言葉を書き付けてくるほうが悪いんだから」

「言いますね」

「でも、楽しげな人はいくにんかいました」

「そう? 眼鏡にかなう人がいたのなら、頼もしいよ」

「でも絵を描くほうがもっと楽しい」彼女が筆を取り上げる。ちいさく音が立ち、姉は顔を上げた。「みやびやかな方々は、それぞれに綺羅綺羅しいことばで、様々に工夫をこらして、うつくしく装った歌と言葉、薄様紙に重色の色もあざやかに、花だの香りだのを添えて愛の言葉を送ってくれる。それはこの世の中で一番にうつくしいものに成り得るはずなのに、それが達成されない……というのが、そもそもおかしい話で」

「まあね」

「それはやはり、彼らは私には必要がない……」

「それは早急だよ」

「それでも私は、彼らの中からひとりを選び出して、その人のみを頼りにして、それに対して愛情をはぐくんでいくという努力を……」

「そんなことはする必要はない」彼女はぴしゃりと言った。「そんなことをする必要ないよ。愛せないものを無理に愛すだなんて、そのような不健康なことをする必要はない」

「お姉さんはそれを私にを強いようとしているのでしょ」

「していない。誰も好きにならないのならならないでいい。僕はあなたの自由意志を尊重したい」

「それならば、私がついに誰のことも好きにならないで、このお屋敷の暗い隅で、おばあちゃんになるまで好きな絵を描き続けるだけに終わっても、お姉さんは私のことをとがめたてないというわけ?」

「君が……そうしたいと望むなら」妹が責め立てるような詰め寄りをすると、姉は多少へどもどした。「しかし……それもやはり君の自由だろう」

「お姉さんやお父さん、お母さんと、いつまでも一緒に暮らしたいと、私が望むなら……」

 彼女は見ていた薄紙を横へやると、妹の方に体を向けた。「でも君は、ほんとうにそんなことを望んでいるの? 屋敷の中に閉じ込められて、世間の色ひとつ知らず、物語の世界の中ばかりに羽根を伸ばして、それで一生のまんぞくを得るの?」

「…………」

「君にはもっと、闊達な心や、好奇心が残っているとおもっていたが……」

「外に出たって、同じではありませんか?」妹は静かに言った。「女の身などつまらないもの。どれほど男の方から求婚を受けたって、誰彼にからだを望まれたって、結局棲まう屋敷が変わるだけじゃないですか? 好きでもない男に傅かれて、その男のみを頼りにして、その男の言動だけが世界のすべて、そんなちいさな世界より、物語の中の世界の中のほうが、どんなにいいだろう……源氏の女たちだってみんなそうだわ。本当に彼女たちは、源氏なんかのことが好きだったのかしら。みんな、不幸そうな顔をして。被害者ぶって、おのれの身に起きた悲劇を楽しんでいる……」

「被害者ぶる……ということはないだろう」

「どうして女などに生まれたのかしら。ちっとも面白くない。つまらない男からつまらない話を延々と聞かされて、そういうものがうつくしくてあまやかな行動だと信じ込まされて、それでこっちはそのつまらなさに感謝さえもしなくてはならない……、あの男たちが藤式部以上に私のことを楽しませてくれることが一度でもあったの。源氏が与えてくれたような陶酔を、私に与えてくれたことがあったの……」

 言って、女はしばらくめそめそと泣いていた。それを眺めながら、姉は短くため息をついた。

 現実よりも空想の方が面白い。妹の言っているのはそれだろう。確かに、幼少期より様々なものから遮断され、話し相手といえば姉か両親以外には誰も持たなかった彼女だ。他人に対する思慕の念を抱く暇もなく、妹は成人してしまった。彼女は小さな頃からほとんど外にも出なかったから、そういう意味では、家族以外の他人と接触を持つ機会にめぐまれ、それによって学問なんかを生活の楽しみのひとつとしてしまった彼女と妹では、現実に対する期待値の大小がそもそも異なっていたのだろう。妹は、家族以外の他人と接触する機会を持たなかったのだ。そして、そういった他人との直接の接触にによって心動かされたというような体験を、今までにおいて持たない……、それは彼女が考える以上に、深刻な問題だったのかも知れなかった。

「ごめんね、君がそんなふうにおもっていたとは知らなかったんだ」

「お姉さんはいいわよ。男の身になって、方々を好き勝手に駆け回っているんだから」

「君が……それほど女の身を嘆いているとはおもっていなくて」

「いいのよ、別に。今更のことなんだもの。それにどうせ今から女から男に鞍替えしようとしたって、ここまで私の存在が都じゅうに広まっている以上、むだなことなんだし」

「……………」

「だから、私のことはもうどうでもいい」

 妹は、低くそして透き通った声で言った。

「私はその代わりに、女たちにたった一人の人を見つけてあげたい」

「……女?」

「そうでないと、ここへ来た意味がない」

 風がザザザと蔀戸を撫で、すき間から入った冷たい空気がそれをガタガタと揺らした。燈台のちいさな炎が揺れ、ゆらゆらと女の濃い影がそれにつれて揺れた。

 それをぼんやりと見ていたら、ふとした情景が彼女の頭の中に思い浮かんだ。彼女は少し笑った。自分の考えついたことが楽しくて、おもわず笑ってしまったのだった。「僕たちで源氏の続きを勝手に書いてしまおうか」

 彼女は言った。

「それもおもいきり楽しいやつ。出てくる女すべてが不幸な状態に、いやでも陥らないやつ」

「……………」

「源氏の続きというのは正確には違うかも知れないな。源氏を下地にした……、源氏の内容をふまえて……、それを正として……君の言っているような反をひとつひとつ挙げていく、正、反、合、これだよ。僕たちの描くべきものというものはこれなんだ」

 姉は自身のおもいつきにひとり興奮してまだまだ自分の言いたいことをそれから半時ほど(一時間ほど)べらべらと捲し立てていた。妹はおとなしく、どんな動作を取ることもなく、じっとその話を聞いていたが、やがて弁舌も尽きた姉が一息つくと、妹は彼女の熱が丸々移ってしまったかのような口調で言った。

「なぜ、あなたは……」妹は恍惚に似たため息をついた。「なぜ、そうやっていつも、面白いことばかりをいうの」

「いい暇つぶし程度にはなるだろう」

「無いのであれば想像すればいい、物語の女たちに。たった一人の対になる、ほんとうに心から愛せるような人、せめて私の描いた女の子たちには、幸せな結末が訪れるように……」

 姉の興奮がそっくりそのまま妹に移ってしまったらしく、姉は内心気落ちしていたはずの彼女のそういう態度の変化を見て安堵して、今度は彼女が妹の弁舌を拝聴する番になってはいたが、その裡では熱が妹にすっかり奪われてしまったかのように冷めてしまっているのが分かる。

 なぜならやはり、そういうことは単なる気休めに過ぎないからだ。

 そもそもの話が、架空の女が架空の男に恋したり、恋されたりするような話を理想とするのが間違いだ。現実の女は男を恋心によっては選ばない。それでは何によって男をえらぶのかというと、それは恋心によって選ぶのである。

 ……………………

 つまり……彼女の妹の欲するような恋心と、この時代の男たちが彼女に提供しようとしているいわゆる”恋”とは、まったく別物であるということだ。

 まず、この時代の奥ゆかしい姫君であるのならば、とにかく男というものを自分より他の”第二の性”と認めなくてはいけない。ここでの認めるということは、”男”という状態そのものに、まず価値をおかなければならない、”男”であって、”他人”であるその対象に対して、男である、自分とは違う性である、という時点で、その対象に価値をおかなければならないといこと。つまり、彼らは”男”である、”女”の対象になる、全く別の性別を有している生き物だ、という時点で、”お姫様”である”女”であるところの妹は、その対象に全自動的な好意を元々搭載している……という存在であらねばならないのだ、本来ならば。だから、そういう価値基準を今までの教育を受けてきた経験やら、人の教えやらによって所有している普通のお姫様なら、”男”から求愛行動を取られたという時点で、その男にある程度の好意を持つべきなのだ。もちろん、その時代に即した真っ当な女性たちでも、気乗りしないこともあるだろう、男からどんなに求愛行動としての文を送られても、季節の花を添えたうつくしい言葉の入った和歌を送られたとしても、出来のまずいものが送られてくれば首を傾げざるを得ないだろう。しかし彼女たちは、男というものはそうやって、自分の歌のまずさや上手さを飛び越えても、これだ、と決めた女性には文を送るものだということを、「常識的に」知っている。だから文が送られてくるのも当然だとおもう。それが礼儀だから、規則だからだ。世間で通用している社会的規範が正常に行われている場合に、その行為に疑問を持つ人はいないだろう。顔も名前も知らない者同士が、どうやってその距離を縮めていくか。会って会話を重ねる? お互いに初めから好意を少なからず持っていたとすれば、その好意の確認を少しずつ取っていくとか。少しずつそうやって知らない者同士が距離を縮めていくという経過は、女性の多くが望むひとつの理想形かもしれない。しかしそのような悠長なことを、すべての人が望んでいるわけでもない。時として、お互いの感情が同一線上に立っていないときにでも、強引に距離が縮まってしまうこともある。そしてそれはこの時代の大体において、男のほうが女に仕掛ける行為であるということ。

 彼女の妹が文句を言いつつ離れようとしない、『光る源氏の物語』なんかはその典型で、源氏が「こう」と決めれば、決められた女たちは「こう」に従うしかない。その「こう」から逃げようとおもう、拒もうと望むのなら、彼に会わないことだ。源氏の求愛を拒み続けた朝顔の斎院のように、初めから勝てない戦には参戦しないこと。そうしなければ、どうせいつかは冷めていく男のきまぐれな愛情を、いつまでも待ち続けていなければならないはめになる。そういう未来を想像できる頭のある賢い女が、源氏という、”男”を与えようとする彼を拒み、しかしその”男”の発する誘惑に苦しみ、悩み抜き、その悩みから逃れたいと、様々なものをまた望んだのではなかったか……

 玉鬘十帖でも見られたように、多くの男に求められた『玉鬘』という女は、別に誰のことも望んでやしないのに、結局彼女に一方的に恋い焦がれた髭黒の大将にその身を強引に奪われ、婚姻は結ばれてしまう。こうして強引な既成事実を結んでしまえば、恋い焦がれた人を手中に収めることも可能になってしまう。しかしそれも”恋”には違いない。ここでの”恋”は男側の一方的な思慕でしかないだろうが、それでも恋は恋だ。男は、そういう強硬手段を使っておのれの欲を女に対して表現した。その結果子どものひとつでもふたつでもうまれて、家自体の繁栄につながる結果が生まれ得るとするのならば、これも恋……なのだろう。

 というわけで、時代そのものに傅かれているとでもいうべき都のお姫様連中というものは、そうそうすてきな恋愛ができるというわけでもない。大体において、家同士が決めた男女がその婚姻以前にちょっと文を送りあって、まあこの程度の頭があれば及第点でしょうねというところで手を打ち、通ってくる間中も殆どその顔を見ることなく、三日目の露顕の宴ではじめてお互いの顔を見る……というようなもので、恋愛がしたいのなら婚姻より後に始めるしかない。とにかく女から男にアプローチするということは(めったに)ない。そういうことをするのは”女”ではない。なくなってしまう、というべきかもしれないが……

 そういうのがこの時代における恋だ。お互いがお互いのことを少しずつ知り合って、とか、初めて会った時に一目惚れして、とか、そういうたぐいのものでは決してありえない、女たちはこれと決められた男のなかに、自身の愛すべきものをそれなりに見出して、そういうものだけを対象として”男”というものを認識する……しかし男の方はもっと自由だ。古い女に飽きれば新しい女に走る。高貴な女は高貴であるがゆえにたからもののように暗い座敷の奥に仕舞われて”大切に”保管されているが、男は(たった一人の誰かを除いて)保管されるどころか、穴の空いた風船のように、どこでもビュービュー飛んでいく……

 だから源氏の女たちはそういう悲劇をよく知っていて、男心は秋の空、頼りにならないものと、もっと他の、自身の生活の基盤に成り得るような別なものを求めた。でもそれがやっぱりうまく見つからないから、嘆いたり、苦しんだり、している。そういう彼女たちを、彼女の妹は救ってやりたいという。本来の愛にめざめて、たった一人の誰かをまちのぞむ彼女たちが、そのような相手にめぐまれるように……と。

 しかしそのようなものが、本当にこの世に存在するのか?

 源氏のような男のどこがいいんだ、と彼女はおもった。あんなものはくだらない。しかしあの男こそもっともすばらしい”男”だ。そもそも貴族以下の男というのは男ではない。性別としての”男”を所有する生き物など、それは掃いて捨てるほどいるが、しかしそもそもの話、宮中にいる官位を持たない、いや五位以下の官僚など人ですらない。彼らは人間ではないのだ。人間でないものを好意の延長上で伴侶に結ぶというのは考えづらいことだ。例えばの話、動物に好意を持っていたとしても、それを将来の伴侶としたいと望む誰かがいるだろうか? まあ、私どもの生きる現代というねじれそのものといった時代においては、そういう”自由”も尊重されるのかも知れないが、しかし尊重といってみても、その婚姻を望む甲の意志だけが尊重されているのであって、勝手に婚姻を望まれた乙の感情の尊重はなされないのか、という問題もあるかもしれないが……

 閑話休題。

 ここまで見てきたように、この時代は価値、価値、価値でガチガチになっている。好意を向ける価値のあるもの、時間を費やす価値のあるもの、媚を売る価値のあるもの、婚姻を結ぶに足る価値のあるもの……そういうものにしか、”常識的な”人々は価値をおかない。

 で、そういう価値基準でいくと、やはりお姫様が恋をするのは貴族の男以外にはありえない。時代が上がればそれなりに、姫君が滝口武者に恋する話とか、僧侶に恋される姫君とか、色々出てくるだろうが、それだって珍しいからこそ物語として書き記され、後世に伝承されたのだ。ふつうの、一般的なお姫様たちに、そのようなスキャンダルは殆ど起こらない。起こったとしてもそれは結局悲劇で終わってしまう。彼女の妹はそういうものを望まないという。ただ幸福な女を。

「『とりかへばや』などではだめなの?」

 姉は疑問に思って尋ねる。「あれこそ幸福な結末だろう。継母にいじめられたけど困難を乗り越えて男とむすばれて」

「あれは最後がざんこくだから嫌です」妹はにべもなく言う。「継母に対するしうちがひどすぎます」「まあ、でも、それなりのことはされたんだからさ」「だからといって後味が悪いわ。そういう行為を放置してのうのうと幸せになるあのお姫様もどうかとおもうけどね。良心が痛まないのかしら」「されたことは本人に返ってくるんだよ。いいじゃないの幸せならば」「だめ。そういうことはさせない。私の女たちには」「……………」

 なんだかそういうことで話が進んでしまっているらしい。彼女は、うかつに新しい物語を作ろうだなんて言った言葉をすでに後悔しつつあった。

「僕は、貴族ばかりに目を向けていれば、それは視野が狭まるばかりだとおもうけど」

「どういう意味ですか?」

「公達以外にも男はいるよ。でも、それは動物に目を向けているということと似ているんだろうな」

「言っている意味がわかりませんが」

「ところで君の婿探しはこのまま進めてもいいのかな?」

「わたしにも、えらぶ権利はあるの?」

「ありますよ。それはもちろん」

 ふ、とどこかで、噛み潰したようなあくびの名残が聞こえた。廂の間に控えていた女房たちの誰かがこぼしたもののようだった。

 ずいぶん長く話してしまった。もう夜も遅い。このまま話し続けていれば、彼女たちに仕える女房たちも、おちおち眠れないだろう。

「まあ……今日のところはそういうことで。頼むよ、ひとつ」

「動物に目を向ける……」妹は姉の発した無責任な言葉の意味を、じっと考えている。

「でも、お姉さんは、めったなところから婿は迎えられないと言ったわ。それは宮中の、できる限り身分の高い方こそがすばらしいということではないの? 高ければ、高いほど……」

「そうだよ」彼女は円座から腰を浮かした。直衣が擦れてキュウキュウと音を立てる。立った拍子に、それまで凭れていた脇息がパタンと乾いた音を立てて倒れた。「常識的に考えればね。だから”そんなこと”をしている女は、この世のどこにもいないんだ」

 この私以外には。


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