第3話
明けて翌日。
「君たちを呼びつけたのは他でもない」
と、老人は居住まいを正して言った。
円座にちょこなんと座った二人の女の子は、全く同じ顔をして、高座に座っている父母を見た。彼はぱちん、と、出入りの商人から最近買ったばかりの、馥郁とした麝香の香りなんかが漂う扇などをぱちぱちと手のひらに打ち付けながら、まだあどけなさを残す、ふっくらとした面持ちの、かわいい二人の娘たちを眺めた。
その儀式に思い至ったのは、なにも彼だけのおもいつきではない。彼に知恵を入れたのは、老人夫婦がここへ越してきてから、関わり合いを持つようになった連中で、酒の席などで親族の話になり、娘が二人いるというのを打ち明けたら、歳は、婿の来手は、ないのであればどう考えているのか、など、やいのやいの言われ、「そりゃあ、まあ、いい人が居れば、いつだって構わないとおもうけど」などと、老人が適当なことを言っていると、「当然裳着は済ませたんだろう」とか、言われて、「も、もぎ?」と首を傾げたのが悪かった。
その場にいた二三人の男は顔を見合わせたが、ちょっと仕方なさそうに笑い合って、「してないの?」と尋ねた。
「や、ハア、しようとはおもっているんですけど。なかなか」
「娘さんいくつ?」
「ハ。その。なんといいますか。どうなんでしょうね。むすめたちにも、良い縁があれば、これはぜひとも結びつけたいとばかり願っている私ですのに」
「裳着も済ませないむすめさんでは、結びつけようたってこれは無理な話で。一体それで、おいくつなの?」
「はあ」
老人は乾いた目を瞬かせた。「そうですね。どうなんでしょう。十二歳くらいですか」などと言ったら、また馬鹿にされるだろうなというのはさすがの翁でも分かったらしく、ここはきっぱりと「はいお陰様で。今年でちょうど十二歳」と答えた。
「それはまあ」
「まあまあまあ」
「おめでとうございます」
「それでは私どもで腰結役などお世話しましょう。どうです、吉日など選んで」
「ええ、それは、もう。でもねえ」
老人は焦りつつ、「むすめたちにも聞いてみませんと」などとその場はお茶を濁し、翌日以降になって、都に出てきたとき散々世話になった親戚筋の家へ出掛けていって、裳着だの腰結だの、”人並みの”人間が当然知っているようなことを、教えてもらいに通った。その親戚筋の家の者は都に出仕してい、貴族の屋敷に雑色を出す程度の家ではあったが、それでも山出しの、最近になって急に羽振りの良くなった彼などよりはよほど”都会人”ではあった。そのようにまったくの田舎者であるところの彼を邪険にすることもなく、その家の者はこまかく様々のことを教えてくれた。彼はそのたびに、感謝の気持をこめて、まだ染め上げていない白絹だの米だのを送って、家のものに喜ばれた。
そのような予習学習を経ての今日である。まさかまさか、一家の家長であるところの彼が、裳着も知らないということでは具合の悪いことおびただしい。彼は、もはやむかしの竹取などではないのだ。すでにして、明日死ぬともしれないような身分では居られない。これからは教養だ。地位だ、名誉だ。金はうなるほどある。一生食うには困らないだろう。きれいな着物、清潔な檜造りの屋敷、檜皮葺きの屋根、うつくしいむすめたち。その先にあるのが我ら一族の幸福なのだ。それを叶えてやるのは、現実と実現してやれるのは、一家の家長たるところの、この俺しかいないだろう……
「どうだろう、君たちも、すっかりおとなになって」
「ほんとうに。おまえたちは、婆たちをわずらわせもしないで、すくすくと」
「はっきり言ってね、驚いてます。そうでしょ? 大病もしないで、健康に育って」
「まあわたしらはなにもしていませんが」
連れ合いはおっとりと言った。彼はちょっと隣の婆を睨んで、それから振分け髪の、ぽちゃぽちゃとした女の子ふたりのほうに目を向けた。
「とにかく、ほんとうに。大きく育ってくれて、私達はとてもうれしがっていると。そしてそのお祝いがしたいなどと、かねがねおもっていたのですが」彼は膝を乗り出し、「つまり、君たちのおとなになるお祝いがしたいという、こういうわけです」
子どもたち二人はじっと黙って彼らの方を見ている。
「じゃ、そういうことで。三間向かいの源さんが腰結役を引き受けてくれると言っていたんでね」
老人がうきうきとして、この話は終わりだとばかりに腰を上げた、その時だった。
「お父さん、僕は嫌ですよ」
それは長女の声だった。
長女は背筋をすっきりと伸ばし、どこかを決然と見つめているような、しかしその実何も見てなどはいないような、とにかく朝の冷たい水のような視線で、めのまえをまっすぐに見つめて言った。
「は? 何?」
「僕は学問がしたい」
「え?」
「僕はお友達と約束をしたのです。必ず再び会おうと。それまでに、僕は万全な体制で、彼と再びあいまみえたい」
「いや、そんなこと急に言われても」彼は後頭部をガリガリ掻いた。「ちょっとわからない。すいません」
「乱暴なことを言っているというのは承知しているのです」
言って、長女は目を伏せる。彼はそれで、少しホッとする。彼女の高圧的な……、というより、他人をその視線の先に縛ってしまうかのような、特有の目の使い方が苦手だった。こちらのちょっとした嘘、思惑、欺瞞、それすべてが暴かれ、まるで”すべて知っている”と見透かされているかのような……
「何を言っているのかわからない」
彼は、彼女の射るような視線から逃れられたのでちょっと元気を取り戻して、「女の子が……、一体、何を言い出すのかとおもえば」彼は隣の老婆を見、「まったく何を言い出すんだか」と援軍を求めるように言う。
「そうですよ。女の子が、学問だなんて、意味がわかりませんよ」媼はそれを受けて、本気で何も分かっていないような声色で言う。
「でも、裳着なんか済ませたら、婿取りなんかをしなくてはいけないんでしょう」
「ん? んん、まあな」
彼はしゃっちこばったそぶりを見せて腕など組み、「もちろんおまえも承知の通り、裳着というのはいちにんまえの女の子になる儀式であって、それなりの女性であるならば誰だって欠かしてはいけないものなんだよ。それをすることによってはじめて一人前の人間としてみとめられることになるんだからね。そういうたいせつな話をしている時に……学問とは何だ、学問とは」
「だって婿なんか取ったら、余計に学問しづらくなるでしょう」
長女が、なんでこんなかんたんなこともわかんねえんだ、みたいな言い方をしたので、翁の方もちょっとむきになって、「女の子はそんなことをする必要はない!」と、声を荒げてしまう。
「大体から何なんだ学問って。なんで突然そんな話になるんだ。お父さんはね、おまえたちのためをおもって」
「ですから僕にも多少の猶予が欲しいと言っているのです。こんな機会でないと頼めませんからね」
女の子は事務的に言いたいことだけを淡々と言うと、更に言葉を続けた。「それに、女ならもうひとりいるでしょう」
「だから?」
「だから私に、女性らしいものについての期待を掛けるのは今後一切止めにしてほしい」
「期待? 親が子に期待を掛けることのどこが悪い」
「女ばかりが二人いても仕様がないでしょ。それに人間というのは往々にして分というものがあるものです」
「…………」
こいつ一体どこでこのような言い回しを覚えてくるんだ、と翁はおもうが、そもそもこの女の子は普段からこういう喋り方をしているのだから仕方がない。昔はもっと違和感のない話し方をしていた気もするが、都で暮らすようになってからその違和感は顕著になった。しかし今に始まったことではないのだ、このなまいきな言葉遣いは……
「この家を統べるのはこの妹でいい。彼女はそういうことに向いている女です。僕はそういう方面はからっきし……駄目だ。であるからこそ、彼女の下支えがしたいんです。僕の言いたいことがわかりますか?」
「わかりませんね」老人はいらいらしながら言った。「それだとまるで、君の唯一の妹を、人身御供にでも立てるような言いぶりじゃないか。自分だけ、学問だの、友人との約束だの、かってなことを並べ立てて、妹の気持ちなど、ひとつも考えずに……」
「いいえ、これは双方の意見の合致した結果です」長女は悠然と答えた。「僕と妹は一心同体……いつでもおなじ心でいるんです。僕たちはいつでもいっしょでした。僕たちはいつでも仲良しだったんです」
「ほんとうか、それ?」
彼は訝しんで、長女の隣りに座って、いままで静かに俯いていた次女に向かって尋ねた。
「言わされているんじゃないの?」
「いいえお父さん」次女は透き通った、甘い水のような声で言った。「お姉さんの言う話はすべて本当のことです」
「いいですかお父さん。今からする話は、すべてこの一家の利害に一致しているんですよ」
老人はうろんなしぐさで顔を上げる。
「僕は寺に入りたいんです」
「……はあ?」
「でも女の身でそのようなことは、無理でしょう。後家になって髪でも切らない限り」
「当然だ」
「お父さんは『とりかへばや物語』を知っていますか?」
「は? 何?」
「”御心のうちにぞ、いとあさましく、返ゝとりかえへばやとおぼされける”……、分かります?」
チラリ、と挑戦的な目を向けられて、老人は真っ赤になって憤怒した。「なーにが分かりますじゃ。もったいぶってないでさっさと要件を言わんかい」
「残念ながら僕たちは男と女のきょうだいではありませんが」長女は次女を見て、にっこりと美しい弧を描いて微笑んだ。
「お父さん、僕は今日から、男になればいいとおもうんですよ」
「ああ?」
「つまり……」
で、長女の説明。
自分はこれから勉学に励みたい。世の中にはまだまだ自分の知りえないことがたくさんある。それを僕は他ならぬ、無二の友人から教わった。その時に自分は学問の楽しさと世界の広さを知った。ついてはその学問によって、今後は身を立ててゆきたい。それには莫大な時間と莫大な費用の他に、然るべき場所へと接続する必要がある。しかしてその手立てとは?
「だから宮中に出仕する?」
老人は、話のあまりの突飛さに、呆れてみせることしかできない。
「なにを寝惚けたことを。大それた。神をも恐れない……、自分を誰だとおもっているんだ。まだ大人にもならないこむすめのくせに。なまいきをいうんじゃないよ」
「ですから、裳着をするという話でしょう」
「だから?」
「だから、僕も元服をすれば、もはや立派な大人ですよ」
彼女は冷静な調子で、ごく日常的な会話に興じているかのような言い方をした。「そうすればもうこむすめなんかじゃありません。お父さんも、それを言いたくて、今日だってこうして話し合いの席を設けてくれたんでしょう?」
「…………」
ああ言えばこう言う彼女の弁舌に、彼はほとんどうんざりしながら、短くため息をついた。「まあ、そうだけど」
「それなら早いとこ、そんな面倒なことは済ませてしまいましょうよ。僕たちもずっと、その話をお父さんたちとしたかったんだ。ね」
「ええ、お姉さん」
などと、言い合って、姉妹は睦まじそうに視線を交わしている。
「いやいや待ってくれ。やっぱりわからないな」
話を終わらせようとしている二人に、老人は待ったを掛ける。「ぜんぜんわからない。それがどうして、この家のためになるんだ? 自分たちだけでわかっていないで、こっちにもちゃんと説明してほしいな」
「え? ああ、だから……」
落ち着いた様子で、長女は色々と話し始める。
ところで、多少唐突なようだが、この時代においてのその”美しい”とは、一体どういった状態を指しているのか。
その問題を私どもの生きる現代にうつしてみてもやはり、”美しい”という状態を指し示すには様々な価値基準がある。どんなものを”美しい”と感じるかというのは、もはや個人の感覚それのみに委ねられていると言ってもいい。他人が見て胃がムカムカするようなものでも、他方にしてみれば拝みたくなるほど麗しくなってしまう。それが美というものだ。そうあり得てしまうものが現代における美というものだ。
そのような現代において、絶対的な”美”という状態がありえようか? たとえあり得たとしても、その美の観覧者が対象とする美を美だと認めない限り、結局そこに他者に評価されるところの美は存在できなくなってしまう。万人がその美を認めるところの対象を、たった一人の、心根のねじまがってしまった、あるいは美を美と認識できない、あるいはしたくない、認めたくないものが「美しくなんかない!」とその状態を否定してしまえば、そこに美という状態は存在できない。他者の目に映し出され、他者がそれを認識し、それを“美”だと認めない限り、それがいくら美しくとも、いくらその他大多数の評価を得ようとも、そのたった一人の美の否定者としての他者の前では存在を認められることがない。美とはそれをそれとして肯定する他者がいてこそのものだからだ。
で、あるからこそ、現代においては美しい、などという抽象的でしかない、あいまいな概念は水に落ちたパンのようにぶよぶよ、もろもろになっていて、それひとつひとつについて”美しい”だの”美しくない”だのといちいち決めつけることはもはや無意味になっている。つまり、”美しいという状態”とは、「こうである」と断定する、決めつける、決定してしまう、という行為がもはや不可能になっているということ。
そういう現代における状態をふまえてこの時代のみにその問題を限定すると、正確な情報は各種然るべき文献をあたってもらうとして、この文章内においての「美しい女」という状態を大まかに表せば、その条件は五つ程度に絞ることができる。
第一に、肌の白さ。
第二に、黒々とした髪の長さ。
第三に、教養があること(特に歌、『和漢朗詠集』や『白氏文集』など過去に詠まれ、編まれた歌には通じているのが望ましい)。
第四に、あどけない、子どもっぽい、苦労知らずのような顔立ちであること。
そして第五番目に、然るべき家柄の、きちんとした基盤と格を持つ家の娘であるということ。
他にもまだまだ挙げようとおもえばあるのかもしれないが、それらの大体も、この第五番目の条件さえあればらくらく叶えられるものであるはずなので、この時代においての美しさとはやはり、家柄の良さそのものにほかならない(この美しさというのは”男にもてる”類のものとは全く違っていて、それはそれでまた条件が微妙に異なる)。
この時代はいわゆる「招婿婚」の時代で、「招婿婚」というのは読んで字の如く「婿を家へ招いて婚姻を取り計らう」ということだ。然るべき地位にいる貴族が、然るべき地位の貴族の家に住む娘のもとに夜ごと通う。それが三日続けば結婚と相成る。二日目で行くのを止めてしまったりすると婚姻は結ばれない。
晴れて夫婦同士となった彼らも、同じ家に暮らすことはない。婿は、その都度妻の家へ通うのだ。だから「通い婚」。よっぽど通いあう夫婦になれば夫の家に妻を迎えることもある。そしてこの頃は一夫多妻制が採用されていたので、気の利いた男なら、京の都のあちらこちらに通う家を持っていて、あっちへ子どもを作り、こっちへ子どもを作り、飽きれば通わなくなり、通わなくなればそれで離婚は成立したも同然というまったりしたもので、そういう状況に鬱々としていた人妻が書いたのが『蜻蛉日記』。そこには一人の女に心血を注いでくれない夫についてのあれやこれやが連綿と綴られていて、一夫多妻制というものを、その制度を強いられるすべての人々が歓迎していたわけではないというのがうかがわれる。
で、「美しい女」だから自動的に「もてる」ということでもなく、美しくなくても一夜限りの関係なら、あるいは愛人としての、遊び程度の関係なら、所々の条件が揃えば結ぶことができる。たとえばそれは会話に対する当意即妙さ、レスポンスのみごとさだったりする。
そのような態度がなぜ「モテ」につながるのかというと、この時代の貴族は、老いも若きも相手とのちょっとしたやり取りの手段に和歌を採用していたからだ。
『夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ』などいう、あれである。これはかの清少納言が同僚の職員に向けて歌ったもので、たったこれだけの歌でも、様々な意味が込められていて、その五十七五七々のなかにどれだけの情報が組み込めるかが宮中人の教養を色濃く物語るものになっていた。
たとえばこの歌は、夜になって清少納言の部屋に遊びに来た宮廷人(大納言、苦労人の行成氏)が早々に帰ってしまい、その翌朝に彼が手紙をよこしてきたので、清少納言はからかい半分に、この歌を送った(らしい)。彼女の送った歌の中には元ネタとして『史記』においての「函谷関の故事(孟嘗君という男が牢獄から逃げるとき、一番鶏が鳴くまでは開かない関所を、部下に命じて鶏の鳴き真似をさせてむりやり開けさせた)」を下敷きにして、「「逢坂(関所)」と男女の「逢う」を掛けた掛詞、「その故事のように、あなたのお手紙の中の内容だって、鶏の鳴き真似のような空言なんでしょうよ=どうせ本気じゃないのだから途中で帰ってしまったんでしょう?」的ニュアンスまで、あの短い歌の中で表現しているそうだ。これがいわゆる当時の「教養ある女性」であって、こういった軽快な手紙のやり取りなんかを男と交わすことができる女性が、「話せる女性」ということになって、その当時は大いにもてはやされたのだった。
同じく交流をするのなら、話が楽しくて、一緒にいて面白いほうがずっと良いということ。それは女というおのれそのものに、ひとつずつ付加価値をつけていくことでもあった。
これは、かの竹久某がかつて標榜したとかしないとか言われる、女などというものは私の良き人形であればいいというような考え方とは全く違っていて、あなたと呼べばあなたと答えるなどという頼もしいものでもなく、その場に合った適当な言葉を、会話の中にどのくらい織り込めるかということ、それ自体にその個人の女性の価値がおかれるようになるということ、受け答えがまずい女はその程度の教養だとおもわれて侮られるし、気の利いた歌で返してくれば、これはちょっとした女だ、そまつには扱えないぞ、と周囲が彼女に一目置いてくれる。宮中においては、そのひとつひとつの交流、ひとつひとつの会話において、常にその人の力量、能力が測られ、判別されていくということ。もちろん宮中におけるすべての働く女性が、ひとつひとつの会話を審査され、合否をつけられるということでもない。それはごく一部の部署に仕える女房たちにとっての話で、そのような審査される対象になった働き手たちが、のちに女房文学と呼ばれる一大ジャンルを築き上げたのだ。
彼女らがいわゆる”キャリア組”として誇りたかく働いていた部署が中宮職であり、それは宮様にお仕えする女房たち、つまり宮様の開く文芸サロンに最も適していると思われる女性たちが選ばれているわけで、彼女たちはそんじょそこらで仕えるような並の下人ではなく、神にも近い人のもとで、そのお世話を仰せつかっていた人々だということ。そのようなハイクラスの環境にいれば、誰だってその日常的な、職場においての言動は、そのいちいちを審査されてしまうだろう。この職場にふさわしい人物なのか、教養を持っているのか、家族構成は、出身大学は、成績は、日頃の態度は、交友関係は……、彼女たちは、その日常を職業として生きてきた人々なのだ。そんな彼女たちにしてみれば、職場恋愛や職場でのそういった行為は、当然ですらあった。そういう彼女たちにとってすれば、職場で”モテる”ということ(つまり、周囲の人物に好意を抱かれるということは人間関係を円満にするということにもつながる)も、職業の一部だったのかもしれないのだ。そういう人物に値する人間として、雅やかな、神にも等しい御方を中心として栄える、きらびやかな貴族たちから認められるということは……
彼女たちの教養は、そして彼女たちを外見以上に美しく飾ってくれる。それがその時代においての美しいということにも成り得る。教養ある女はそれすなわち自動的に美しいものでありうるのだ。
しかし、そのような美しさも、彼女たちの絶対的な安心や、絶対的な地位を確立させることはできない。
たしかに彼女たちはその才気を十分に発揮させて、蝶のように花のように公達たちを魅了する。しかし彼女らがそういった教養の交流の結果として、彼ら公達と永続的な縁を結ぶことはほとんどない。お互いがお互いの永続的な関係を、初めから求めていないからだ。女達は、宮仕えというものがそういうものだと割り切っているし、男たちは男たちで、職場に華を添えてくれる彼女たちの才気を歓迎こそすれ、それ以上のものは求めない。教養で彩られた美しさは蝶を誘うが、誘われた蝶は決して最後まで蜜を吸うことはない。教養のみの美しさで、彼女らは他人との婚姻を結べない。なぜなら、彼女たちには然るべき身分がないからだ。元々釣り合いの取れる家々の婚姻では決してありえないからだ。
たしかに名家から宮仕えに来る女性はいる。しかしそれも所詮は高位をもった貴族のお嫁さん候補、主上の後宮行き候補に過ぎず、そういう彼女らには、もしかすれば和歌の特別才気走ったものなど必要ないのかもしれない。それは、多少文のやり取りもできるような頭くらいはあってもいいのかもしれないが、先に上げたような清少納言の、その一歌に二つも三つも意味を織り込んだような、上等な和歌を読む必要はない。清少納言たちは万全とした後ろ盾がないからこそ(例えば女房文学で活躍した女性の父親は多くは受領階級(地方長官)だったりする)、そういった一芸が必要になるのであって、元々すべてを持っている女は、それ以上の武器を必要とすることはない。上等な歌を詠むことも、特別な後ろ盾のない彼女たちにとっては生きる手段のひとつなのだ。
しかし、立派な家に生まれ、世をときめく、高級貴族に愛され、その子どもを生みまでした女性も、結局『蜻蛉日記』などに見られるような恨み節を残している。地位を持った女も、持たない女も、結局不幸になってしまうのだとしたら……
考えてみれば……
宮中で働くなど、この世の天上で働くも同然だ。この世に主上以上のものは存在せず、あまてらす彼がすべてを見下ろし、その他諸々はその光の中でその発光体を見上げる、という体でこの世は進んでいる。もちろんその御代ごとによって力関係は違うだろう、主上に主権が置かれている場合もあれば、摂政関白がその全権を握っている場合もあるだろう。もしかすればそれ以上に、皇太后がその権を握っている場合も、しかしやはり形としては、主上の存在がこの世の絶対だ。
しかし、そのような場所で働いていたとしても、彼らのその地位は絶対ではない。それは男でも女でも同じように平等に、明日ともしれない日々を、形は優雅を装いながら、しかし背中にはキラリと光る刃物を突きつけられている……それは政敵であったり時勢であったり、飢饉であったり風土病であったり、人間関係であったり酒を飲みすぎての糖尿病であるかもしれない、様々ではあるだろう。後ろ盾が強力な公達だって、その後ろ盾が早くに死んでしまえば、そのまま自身の地位だって危うくなってしまう。元々高貴な生まれだったにもかかわらず、父が早くに死んで、その地位をガタつかせてしまった貴族もいる。だからそういう際の危機回避のためにも、縦のつながりはもちろん、横のつながりだって大切にしなければならない。
自身の境遇が危うくなった時に、どのくらいその自分を支えてくれる存在を作っておくことができるか。平安貴族と言ったら日がな一日蹴鞠したりポロしたり恋したりとまったりしている印象もあるだろうが、その反面、一寸先は闇という状況に置かれ続けていたのも事実なのだ。だから彼らは常日頃から忙しく奔走していた、実は平安貴族というのは超ハードだったのだ……と片付けるのも可能かもしれないが、やっぱりやることがないからそうやって無理やりするべきことを、色々な規則を作って行動をガチガチに固めて、”本来なら暇であるはず”というのを気づかせないために忙しがっていたのかもしれない……が、それもやっぱり物の見方の視点の位置の移動に過ぎなく、本当に忙しい人は忙しく、暇な人はそれなりに暇だった、ということに落ち着くのが一番無難なのかもしれない。
閑話休題(それはさておき)。
美には条件がある。一に外見二に教養三に家柄、そして他ならぬ美を一番に飾り付けるもの、それが”噂”だ。
男たちは、外見とか、教養とか、家柄とか、そういうものよりもまずはじめに、”噂”によって、女性を好きになったのだ 。
まず第一に、元服を済ませ、成人になった男は、その日常生活において、成人した異性の顔をまじまじと見るという機会を持たなくなる。成人した女性はそのつらおもてを他人に晒してはならなくなるからだ。一体これはどういうことだろう? そう決まっていたのだからそういうことになっていたのだろう。そこに絶対的に存在しているはずなのに見せないということは、隠しているということだ。なぜ隠す? そう決まっているからだ。
たとえばこの当時の、貴族以外の庶民においては、このようなことは”決まっていない”。だから、女は成人を迎えようと迎えまいと、平気でそのへんを歩いている。それを恥ずかしいことだともおもわない、隠すものだともおもっていない。そうする必要がないからだ。彼らは生活者である。というより、生活以外にやることなどない。重税にくるしめられ、それを払うのでひいひい言いつづけることを生活と呼べるかどうかという話もある……が、とにかく彼らは生活している、三村マサカズいうところの「すいみん食事SEX」を三本の柱として行う、健全な生活者だ。それは、それらを継続的に自身に行動させないでは、文字通り”生活ができないから”行っているという、まったく健全な循環なのだ。彼らの行動には余計なものがない。だから余計なことをすることもない。余計なことをしなくても生きていけるということを、彼らは日常的な行動から知っている。彼らなりの、日常生活における娯楽はあったかもしれないが、とにかくそれをすることによって苦痛を伴うのに、あえて苦痛を伴ってそれを行い、その結果になにも生み出さない、などといった非生産的なことはしないだろう。苦痛の後に快楽が待っているならまだしも……
が、都という、唯一の”人間が住まうところ”にいる彼らは、そういう苦痛の伴う意味のないことを、まったく意味のあるものとして、”決めていた”のだった。
というわけで、都における”成人した女性は男から顔を隠さなければならない”というのはあるコミュニティ内のみに有効な常識であって、その行動自体には何の意味もない。しかし、意味はある。それはそのコミュニティ内においては、それ自体が絶対的な価値と意味を生み出す。その界隈以外の人間がふと眺めてみると、「一体何の意味があるんだ?」と疑問におもうことすべてに、その界隈に生きる人々が、その生活のひとつひとつを積み重ねていく歴史の中で、ひとつひとつ規則として決めてきた、”村の決まり”なのだ。
人が群れて生きていくのであれば、人々は野放図ではいられなくなる。五人でも十人でも、規模はどうあれ、人が集まればそこに特有の規則が生まれる。それらははじめのころは、人々がそれぞれに気持ちよく生活していくための決まりだったのかもしれない。しかしその規模が大きくなるに連れ、その集団の集団の歴史が長くなるに連れ、環境が変われば人々の価値観も変わる。その都度改定していく規則もあれば、そのまま形骸化したまま残ることもある。たとえばこの時代の”成人した女性は顔を隠さなければならない”という規則が今現在でも続いているわけでもないのは、その規則が集団生活においての意味を次第になくしていったからだ。意味のないものはそのうちに歴史の流れの中で淘汰される。しかしこの時代にその意味はまだ残っていた。それだけのことだ。では、この時代においての”女は顔を隠す”というのは、どういった意味を持っていたのか。
想像をめぐらせれば、いくつか回答めいた意見は出るだろう。それが成人した女性の慎みだったからとか。昔からそう決まっているからとか。若い女はそもそもが他人に顔を晒すものではないから。将来自分の伴侶となるべき男以外には、その顔を見せることはふらちなこととされるから……しかしそのような上辺の意見の奥には、なにかもっと根本的な理由が潜んでいる気がする。……どういうのだろう?
で、まあ、そういうわけで成人した男というのはめったなことではその対象であるところの女の姿を見ることはできなかったから、というより”そういうことになっていたから”、女の顔を無理やり見るようなことはなかった。だから、彼らは想像した。
御簾のむこうにいる女という生き物は、すばらしいものだ。僕は、あまり見たことがないけど、女房とかいう職業婦人は見ることはあるけど(女房と呼ばれた宮仕えの女性は他人の前に素顔を晒すことは可能であったので)、彼女たちは、慎み深い彼女たちは、きっとそれとは違う生き物なんだろう。もっとあまやかで、華やかで、触ったらとけてしまいそうなくらいはかなくて、あえかな、何とも言い難いあまいかおりのする、そういう……御簾の奥に深く仕舞われて、多くの人々に傅かれて、ねむそうな目をして、このボクを、このボクの登場だけを待ってくれている……そんな素敵な女の子。
まあつまり、”めったに見ることができない女”という、価値づくりのために、女は暗い部屋の中に仕舞われ続けたのだった。日照不足でそれは、顔も青ざめる。しかしそんな真っ白な顔がまたいいわあ、なんて価値づくりにまた一役を買ったりして……
王朝人というものは得てして、その人そのものに恋するわけではない。その人の、”そこにいるらしい”という”噂”そのものに、恋をするというのである。
昔々あるところに住まっていた人々は、めったに人前には顔を出さなかった。
男性においてはそのようなことはない。京の都の四角い箱のなかから逃れて全国津々浦々を回れば、やっぱりそんなことはない。男女は平等に、どんな姿かたちをしていたとしても、立派に、まえむきに、お天道様に恥じることなく、そのつらおもてを他人の前にさらして平気な顔をしている。
が、そのようなことはこの四角い都の中では関係のない話で、というよりも、京の都の貴族には関係がない。関係がないというよりも、知らない。そういう生き物が他所で存在しているということを知らないのだ。知らない以上、対照化することができない。のでお姫様たちには自身が自身の顔を他人から隠さなければならないというのはただの日常的規範であって、であるからして、こういう例の上げ方も、やっぱりあんまり意味がない。
深窓のお姫様は深窓のお姫様であるからして他人にそのかんばせを露わにするなどということはなさらない。なぜかというと、女性というものは、本来的に、人前に姿を現すような生き物でないからだ。人並みの家に生まれ、人並みの教育を受け、人並みの結婚をすべきとされるその女性たちは、人並みの公達と契りを交わし、みずからの家の世継ぎを産み、”家”を存続させるために、大切に大切に、家の奥の、明かりも差さない暗い部屋に、一日中、たからものみたいに仕舞われている……、それが、立派な、人並みの、女性というものだ。
で、そんな深窓の姫君と、男たちがどうやって関係を持つかというと、それがやっぱり”噂”によってということになる。あっちの大臣の家には、結婚適齢期の娘がいるらしい。あっちの大臣の家にも、また同じように結婚適齢期の娘がいるとか。どっちにしよう? どっちのほうがより良いかな? その判断基準とは? 気立ての良さとか。料理上手とか……、性格がいいとか、とにかく若いとか、顔が可愛いとか……、まさか、そんなはずがない。そんなさまつなことが判断材料になるわけがない。判断するのなら、それは一に家柄、二に家柄、三四がなくて五に家柄、六あたりで、産後の肥立ちなんかが良ければ望ましい。貴族社会における男性にとって、といってもこの時代に置いて貴族社会以外の社会などは無いに等しいのだからいちいち”貴族”社会と銘打つ必要もないが、とにかく彼らにとって大切なのは、結婚によっての、自身の地位の基盤をできるかぎり丈夫にすることそれのみに終始しているのだ。そのためには、少しでも位の高い貴族の家と縁を結び、その家の家長によって、みずからの貴族社会においての立ち位置を保証してもらわなければならない。彼らの生活にとって、結婚とは絶対的なものだ。それによって妻の家に引き立てられ、舅と良好な関係を築き、役所での地位を確立してもらうこと。それこそが彼らの結婚の意義であり、それ以外のことは二の次三、女性のうつくしさなど、ここにおいては一顧だにもされないものなのだ、とすれば通りがよいのかもしれないが一概にもそうとはいえない。なぜなら、それなりの深窓の姫君であれば、その当時の”美しい”とされる条件は、ほとんどその”姫君である”という存在そのものの時点で、かなえられてしまうものだからである。
貴族の家にはたいてい金がある。金がなくて零落してしまった貴族の家に、人々は寄り付かない。そのようなものと関係を結んでも、なんらメリットはないからだ。だから平安の「平らかな」時代においても、零落した姫君が、腹をすかせて屋敷の外に出て、そのまま寒さで野垂れ死に、その死体を朝霧の中、犬の舌が舐めているというようなことも起こる。「平らかな」時代ではある。しかし医療もインフラも発達していない世の中で、疫病はある、自然災害はある、貴族以外は全員貧乏という超格差社会で野盗はそこらじゅうにはびこっている、生き物の生命をおびやかすような要因がたっぷり盛り込まれた社会の中で、人々は毎日、しのぎを削って、削っていないように見られていたとしても、やっぱり一日一日を、一寸先は闇を地で行って、けんめいに生きていた。
で、”姫君である”ということがなぜそのまま美に直結するのかと言うと、姫君というのは将来の妻がねとして、たいていは家で大切に、たっぷりとお金をかけて扶育される。髪をたっぷり伸ばしても、姫にかしずく幾人もの使用人によってきちんと管理され、痛むことはない。外になんか出たこともないから、肌は水を吸ったように重たく青白い色をしていて、それに白く化粧をして香をたきこめば、まだ照明も薄暗い闇の中で、ぽちゃぽちゃとした顔は真っ白く映る。苦労のしようがないので顔はあどけなく幼い。しかしそのような”容姿”に関する「美しさ」などというものは結局些末なことだ。やはり大切なことは彼女の肉体ではない。肉体の美しさなどほとんど問題にはならない。そうでなければ、普段から肉を食いつけないせいでやたらに長くなった腸をしまい込んでいるそのぶよぶよとした、運動不足栄養不足日照不足の、むくんだような、その肌に指を沈ませたらほとんどそのまま指の形が残りそうなほどの肌をした、なんだかよくわからない、言葉もまともに話せないような生き物を、どうやって愛せばいいというのだろう? 男たちは女の肉体を愛したのではない、彼らは、女の精神を、女の気配を、女という、男とは全く違っている別の生き物を、その高級な精神によって愛したのだ。
なるほど女だちは言葉もまともに話せないのかもしれない。でも歌は良くする。まともな家の女性なら、琴の類をじょうずに奏でるだろう。男たちが噂によって女たちの存在を知り、手紙を送ってアプローチをする、そのアプローチに対する受け答えのみごとさ、そのようなものによって女性の教養を確認し、”ああこの人は、私が愛するに足る人だ”という認識を強めていく、確認していく。
そうやって精神的に一人の女を”愛せる”という認識、自信、興奮を高めていった先に、そのじれた感情をほぐすように、女の身が褒美のようにして与えられる。そこでようやく、男たちは精神的にも肉体的にも、その女を愛した、のではないか。きっとそうなれば男たちは女の体を得難いものだとおもうし、女だって、今まで触れたこともない、感覚として味わったこともない、自分とはまったく違う形をした生き物を、多少の恐怖を伴ったとしても受け入れるだろう。それはまったく、男女両方にとって、未知との遭遇には違いがない。男女ともに裳着、元服を済ませた男女は御簾越しではないと会話もできなくなってしまうのだから、異性の体に触れるどころか、見ることさえ容易でなくなったところに、たっぷりと時間を掛けて、その肉体を求めるまでの時間が設けられる。その間には、あれこれと、両性が両性についての想像をするだろう、そしてその想像の果てに、暗闇の中で行われる諸々、私どもは、ついつい、戦後の西洋化教育によって、肉体の素晴らしさ、造形美というものは、八頭身、十頭身の、まるで清涼殿の丑寅の角の北のへだてなる御障子の『荒海の絵』に描かれた手足手長の生き物みたいなものを想像して、それ以外の均整の取れない肉体を「美しくない」としてしまいがちだが、貴族社会の、日中であってさえほとんど家屋のなかに日が差さない寝殿造の、更に照明器具もほとんど微量な明るさしかもたらすことのできない、夜闇の、墨を流したようなくらやみのなか、ほんのりと漏れる月明かりや、局に心細く灯る燈台の明かりの中で、真っ白に水っぽく膿んだような女の体、そして真っ白なその白おもては、この上なく美しいものにおもえた、のかもしれない。八頭身のモデル体型の女なんているはずもないし、比較対象がなければ、やはりめのまえにあるそのものこそが最上だ。やはり女というものは、美しいとおもえばこの上なく美しい。であるからこそ、人々は恋をしたし、人を愛した。この時代の美しさというものは、だいたいそのようなものだった、かもしれない。しかしその時代に生きた生き証人の存在が認められない以上、それらはすべて想像の範疇を超えるものではけしてありえない、というのはもちろんのことではある。
「というわけで、妹の美しさを持ってすれば、ひくてあまた、大勢の公達が詰めかけるに決まっていますよ」
「だから?」
「ねえ、お父さんも、少しはご自分で考えてみなさいよ」長女は少し呆れたように、「きっとその噂を聞きつけて、都のあちら、こちらから婿がねが、木に塗った蜜に群がる虫のように寄ってきてくれるでしょうよ」
「虫って、おまえね。恐れ多くも……」
「ですが、われわれが望むのはちっぽけな虫ではありません。もっとおおきな、上等な、素敵な虫ですよ」
「…………」
「お父さんだって」彼女はジリジリと音を立てる、今にも明かりが消えそうな燈台の方を見ている。「人に傅かれるのは好きでしょう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます