咎人の祈り

はじめアキラ

咎人の祈り

 これは、私が小学生だった頃の話だ。一生後悔していることなので、やや暗い内容だけれど聴いて貰えると嬉しい。


 今は障害者手帳を持った上で働いている私だが、子供の頃の自分は普通に“健常者”だと思って生活していた。

 というか、私が子供の頃は今ほど精神面や知的面の障害についての認識が広まっていなかったように思う。差別的な用語もわりと普通に飛び交っていた。私は自分自身にも問題があるということに気が付かないまま(明確に顕在化したのがもっと成長してからだったというのもあるが)そういうものをただぼんやりと遠くで聴いていたのだ。

 対岸の火事どころか、遠い遠い絵空事のようなものだった。

 世の中には、そういう困った特性を持っていて悩んでいる人がいるんだな、とか。周りの人も苦労しているんだろうな、とか。まあそういうことである。


 そんな私が、小学校の二年生くらいの時だっただろうか。


 今思うと、この当時のうちの学校には今では考えられないような問題がいくつもあった。というより、担任の先生に問題があった。年輩の女性の先生だったと言っておく。

 例えば、クラスの女の子が“〇〇君にいじめられた”と先生に言ったとする。本来なら先生は、〇〇君も話を訊いて事実確認をしなければならないだろう。場合によっては、被害を訴えた女の子の方がいじめっ子である可能性もある。ようは、被害者ムーブをして〇〇君を貶めようとしているケースだ。

 または、いじめようと思ったわけではないのに〇〇君が誤解を受けたという可能性もあるだろう。まあようするに、教師はあらゆる可能性を鑑みて、どちらかに寄らない判断をしなければならないということだ。完全な客観視は無理でも、可能な限り客観的に見て、偏りのない決断をすることが求められるというわけである。

 ところがこの担任の先生は、女の子から話を聴くとそのまま〇〇君に“駄目でしょう女の子をいじめたら!”と鵜呑みにして叱ってしまうような人だったのである。〇〇君の側から、一切話を聴かずに、だ。

 一番恐ろしいのは、この話を目撃した当時私は先生の不平等さにまったく気づいていなかったことである。先生などの大人が“私は正しいので”ムーブで行ったことは、まだ未熟な子供達にも正しいことのように映ってしまいがちだ。私から話を聴いた母に“それは平等じゃないね”と言われて初めて、先生が間違ったことをしたと気づいたのである。もっとも、これを指摘してきたのが、当時私の中で“正しさの最上位”にある親の言葉でなければ納得しなかったかもしれないのもまた怖いことなのだが。


 また、この先生は他にもこんな事をやらかしていた。


 二年生の時に、とある男子生徒が悪戯をして蛍光灯を割ってしまったことがあったのである。そして、顔に大きな怪我をした。どんな悪戯だったのか、私は現場を見ていないので詳細を知らない。ただ、先生の言葉から“この子は何かヤバイやらかしをしたらしい”と察しただけだ。ちなみに、隣のクラスの生徒だった。

 先生は(というか、少なくとも隣のクラスの先生も同意していたのだろうが)、あろうことか少年の顔の傷を簡単に手当だけすると、見せしめのように教室の中を歩かせたのである。こういう悪戯をするとこの子のようになるからやめなさい、と生徒達に伝えたかったらしい。

 が、今の倫理観では考えられないだろう。まだ幼い少年を、すぐに病院にも連れていかずにさらし者にしたわけなのだから。

 確かに悪戯をしたのは悪いことだが、小学校低学年の子供に判断できる善悪などたかが知れている。教師の保護責任が問われるレベルの話だろう。それを、彼一人が諸悪の根源のように扱い、あまつさえ魔女裁判のようなやり方で晒し挙げるのはあまりにも非道が過ぎている。

 これも恐ろしいことに、私は当時は先生の行いが間違っていることに気づかなかったのだった。まじまじ、じろじろと彼の顔の傷を見てしまった。少しあとになって、学校はなんて恐ろしいことをしていたのだろうと怖くなったほどである。


 さて、前置きが長くなったが。


 そんな私が小学校二年生の時に、とある事件が起きたのだった。というか、多分私が知らない間からたくさん事件が起きていたのに、私がずっと気づいていなかっただけとも言うのだが。

 当時のうちの学校に、障害を持つ子供達のためのクラスなんてものはなかった。というか、精神・知的の障害に関する認識が広まっていなかった。ちょっと学習面に問題がある子や、発達が遅れているような子も普通の子供達のクラスに混ざっていた。そして、そう言う子供達は先生に叱られたり非難されることさえあれど、障害を持っているからと配慮されるようなことは殆どなかったわけである。

 今思うと当時から私にもそういった障害の片鱗はあったわけだが、私にはその自覚はなかったし、何より“もっと大変な”子はいくらでもいた。そのうちの一人が、クラスメートのA君である。


 先に言っておくと、彼がどのような障害を持っていたかは私も知らない。

 多分精神か知的のどちらかの障害があっただろう、くらいの認識である。


 彼はクラスで孤立気味だった。なんとなくクラスの子に嫌われてしまっているんだな、ということを私も感じ取っていて不思議だった。というのも、時々話しても普通の子のように感じていたし、むしろ明朗で印象の良い少年であったからである。

 多分、この時点でいくつもトラブルを起こした後だったのだろう。私のように鈍い子以外は、みんなそれを知っていて彼を避けていたというわけだ。

 ある日、席替えをすることになった。ここで出てくるのが、先ほど散々紹介したとんでもない担任の先生である。

 彼女はまたしても、今の学校ならまずやってはいけないであろうことを言いだしたのだった。


「皆さんの中で、A君の隣の席になってもいいよという子はいますかー?」


 これである。

 恐らく、彼女のところにはたくさん相談が寄せられていたのだろう。席替えは、今までくじ引きで行われることが多かった。つまり、運である。しかし、運であっても“A君の隣になりたくない”と訴えた子がたくさんいたのだろう。

 だからこそ、先生は“望んでA君の隣になってくれる子”を隣にしようと思ったに違いない。が、今思うとこれもまた恐ろしい晒し上げに他ならなかった。彼が例えば誰の目から見ても配慮するべき障害を持っていたなら、“彼のサポートが出来る人”を募るというのも一つやり方だったかもしれない。しかし、少なくともこのクラスで、A君が障害児だと認識している者は誰もいなかっただろう。先生が募ったのは単に“嫌われ者のA君と仲良く出来る人”や、“隣の席になっても文句を言わない人”であったはずだ。

 それはつまり、A君が嫌われ者だとみんなに喧伝したも同然である。A君にとっては、針の筵も同然だったに違いない。例え、本人になんらかの問題があったのだとしても、だ。


「あ、あの」


 今回ばかりは、私も酷いと思ったし、A君に同情してしまった。みんな俯いて、誰も手を挙げない。このままではA君があまりにも可哀想だ、と。

 鬱屈し、教室そのものが暗く沈み込んでいるような状況に耐えられなかったというのもある。

 だから。


「私、いいですよ」


 再三になるが、この時点で私はA君を嫌ってはいなかった。友達になれるならなりたいとも思っていた。まあ、ついでに言うなら“A君に気があるんだろ”とからかわれるかもしれないという事に頭が回っていなかったとも言う。


「ありがとう。じゃあ、A君ははじめさんの隣ね」


 先生は、心の底から安堵したように言った。みんなが少しざわめいたことに、私はまだ気が付いていなかった。




 ***




 最初は特に大きな問題はなかったように思う。A君と、少しお喋りをする機会が増えたかな、というくらいだ。

 ところが、暫くして事件が起きた。


「え、な、何これ……?」


 私が当時気に入っていた、ふかふかの手袋。去年のクリスマスに、大好きなおばあちゃんにプレゼントしてもらったものだった。寒い季節だったので、毎日それを身に付けて学校に通っていたのである。

 その手袋を教室に置いていたら、目を離した隙におかしなことになっていた。

 二つある、真っ白な白い飾り。二つのふわふわな丸い玉のようなものが手の甲についていたのだが――両手とも、その飾りの色がおかしくなっていたのである。

 両手のどっちも、真っ青に染まっていた。

 油性ペンで青く染めたのは間違いないことだった。なんせ、飾り以外の部分にもしみだした青いインクがべったりとついてしまっていたのだから。


――ひどい。誰がこんな悪戯したの。


 白いふわふわの飾りが本当に気に入っていた私は、泣きそうな気持ちになった。すると、クラスメートの友達の一人が教えてくれたのである。


「あの、はじめちゃん。もうA君に関わるのやめた方がいいよ。みんな、A君に困ってるから」

「どういうこと?」

「はじめちゃんの手袋に悪戯したの、A君なの。わたし、見てたから知ってる」

「え!?」


 私はショックだった。自分なりに、精一杯A君と友達になろうと努力していたつもりだ。少なくとも、他の子達の何倍も親切にしたし、彼もまた私に好意(もちろん、これは恋愛的な意味ではない)を持ってくれているとばかり思っていたのである。

 少なくともいつもにこにこしていて、私に悪意があるように見えなかった。それなのに、よりにもよって私のお気に入りの手袋にこんな酷いことをするなんて。言ってはなんだが、恩を仇で返されたような気分になったのである。


――酷い、酷い、酷い!A君酷いよ、酷い!


 私の頭は、その感情に完全に染め上げられてしまっていた。

 だから、その話を聴いて以降はA君に自分から話しかけに行くのはやめたし、話しかけられても冷たくするようになってしまったのである。


 最終的に、A君はこのすぐ後に転校していって、もう二度と会うことはなかった。

 私が自分の咎に気が付いたのは、それからずーっと後のことだったのである。


「はじめちゃんの、小学校の時の先生に酷い先生いたよね。●●先生とか」


 中学くらいになってから、なんとなく両親との会話で当時の担任の先生の話が出て。そこで、●●先生の何が問題だったのか、を私は明確に自覚したのだった。普通に、優しいおばちゃんの先生として慕っていた私にはショックも大きかったわけだが。

 そして、もう一つここで気づいたのである。


――あの手袋。……本当に、青く染めたのは……A君だったのかな。


 実は、A君がやったという証拠は何もなかった。ただ、仲良しの友達がそう言ったから信じてしまったというだけだ。ひょっとしたら、冤罪だったのではないか。今更にして、そんな可能性に気づいてしまったのである。

 いや、仮にA君だったとしても、何か事情があったのかもしれない。私は何故、自分の感情だけでA君に直接問いただすこともせず、犯人と決め付けてしまったのだろう?


――最低だ、私。


 私は知らず知らずに、先生と同じことをやってしまっていたのである。

 安い同情だけで彼に近づいて、余計傷つけて。それでいて、親切にしてやった、優しくしてやったつもり、なんてなんたる偽善者だろうか。小学校二年生の子供だったから許される、なんてことはきっとない。

 今、自分が障害を持つ身であると発覚して、余計考えることが増えている。彼もきっとそうだった。あの頃一人でも、彼に正しく寄り添える人がいたなら。そして先生のあれらの行為に“それは間違っている”と言える勇気が私にあったなら。

 もはや彼がどこでどうしているかもわからない。

 それでも今、私は考えてはいるのである。


 祈るばかりの咎人にも、できることはあるのだろうかと。

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