君が家にいることが、僕にとっての宝物だから

シファニクス

君が家にいることが、僕にとっての宝物だから

 朝、目が覚めるとフィルターが掛かったような微睡みの中から君の姿を探す僕がいた。深かった眠りが水流に従って抜け出した海に浮かぶ夏雲のような、柔らかい感触が息の詰まった僕の視界を覆いつくしている。

みゃ~と喉を鳴らして尻尾を顔に擦りつけてくる君に、僕は朝の挨拶を投げかける。


「おはよう」


 僕が起き上がってベッドから足を下ろすと、君もベッドから降りて僕の足の周りを歩く。

 洗面所に向かい、顔を洗い、寝癖を直している間君は僕の足に頬ずりする。


「ちょっと待ってね。今ご飯を用意するから」


 みゃ~と答えた君に笑いかけながら、君のお気に入りの封を開いてお皿に盛りつける。水の入ったお皿と一緒に目の前に出してやれば、君は元気よく食らいついた。

 

僕も、そんな君の無邪気な姿を数秒眺めてから朝食の支度をする。

生卵を二つ、油を引いたフライパンの上に割って乗せる。電源ボタンを押してIHを起動させ、温度を調整しながら開いた片手でスマホを開き、ネットニュースを流し読む。


「今日は雨か。傘持って行かせないと」


 適当に割った卵の位置を軽く整えてから、食パンを二枚取り出してトースターに乗せてタイマーのネジを適当に回す。昨晩コロッケの付け合わせにしようと思ってみじん切りにしたキャベツの残りとハムを冷蔵から取り出してから、拾ったピッチャーに水を入れる。

 フライパンに少しの水を入れて蓋をした後、麦茶のパックを引っ張り出してピッチャーに投入。ちょっとピッチャーを振った後は包丁を握り、ハムを四等分に切り分ける。


 包丁のまな板を叩く音に被るように、君は一鳴き。入り込んでいた料理の世界から僕を引きずり出した君は歩調に合わせて尻尾を揺らしながら近寄ってくる。


「ん、もう食べ終わったのかい?」


 包丁を軽く漱いで流しに置いたところ、君は再び僕の足回りをウロチョロし始める。


「邪魔はしないでくれよ」


 僕の声に応えるように、また一鳴き。


 再び頬ずりし始めた君の顔を見ながら、パンが焼きあがるのを待ってみる。

 大きな瞳と飛び出た鼻。ぴくぴくと動く耳やゆらゆらと揺れる尻尾。柔らかくて、それでも筋肉質な体とか、もふもふの毛だとか。君を形作るすべては、眺めているだけで時間を忘れられるほどに魅力的だ。

 その青空に漂う雲のような白に浮かぶ他を寄せ付けない黒も君のチャームポイントだ。一緒に暮らし始めてもう二年になるかな。君のお気に入りの寝場所はベッドの僕の隣になった。昼寝はいつもリビングの窓辺で、ご飯は硬くないほうが好きだよね。

 僕が作業しているときには何もしないのに、僕がいなくなった途端ノートパソコンのキーボードを踏む。それで打たれたメールを君が送信したことが、一度だけあったかな。


 君の可愛い姿を眺めていたら、すぐに時間が流れていった。会話の要らない触れ合いは、気心の知れた友との談笑より暖かく、優しい。つつけば弾けるようなシャボンの中で、僕は君を触れ難く思いながらも優しく撫でる。

 トースターが焼き上がりの音を鳴らし、卵もいい感じ。半熟よりもちょっと硬くて、それでもとろけるくらいの塩梅に慣れるのにはそれなりの時間がかかった。


 焼きあがった食パンにキャベツとハムを乗せて形を整え、その後で目玉焼きを乗せる。塩コショウで軽く味をつけてお皿に盛りつける。


「よし、完成」


 お皿二つを持ち上げてダイニングテーブルの上に運ぶ。君が椅子の上を経由して机の上に登るのを眺めながら、薄く茶色に染まったピッチャーとコップを二つ運ぶ。

 僕がピッチャーを置いてコップを配って席に着く頃には、君は目玉焼きのふくらみの上に頭が覗くように寝そべっている。


「いただきます」


 両手を合わせて挨拶一つ。お皿に向かって手を伸ばしかけたところで足音が聞こえてきて、振り向いた。


「あ、仁美(ひとみ)さん。おはよう」

「おはようございます、岳(たける)さん」


 リビングの扉を開いてこちらを見つめたのは、猫のように丸まった背中とぼさぼさの短髪を誤魔化すように大きなあくびで口を開く、一人の女の子。ちょっと着崩れたパジャマと、少しだけ隈の浮かんだ目元が自堕落さを物語っている。

 そんな彼女の纏う雰囲気は、その幼さとかけ離れたように整然としていて、大人びている。無邪気な彼女の笑顔も笑い声も大好きだけど、その起き抜けの本性が見せる達観した表情が連れてくる達人の間合いとも思える現世との指一本分の距離が、僕にはたまらなく愛おしく思えた。


 そんな彼女はこちらに向かって歩きながら、テーブルの上を一瞥。薄く色付いた唇を動かして言った。


「今日はパンですか?」

「うん、サンドしないサンドウィッチのつもり」

「手抜きですね」

「手抜きじゃないよ。オリジナルだから」

「オリジナルをつけても、サンドしないサンドウィッチは手抜きです。だってサンドしてないんだもの」

「おっしゃる通りです」


 彼女が僕の対面の椅子を引くと、君は立ち上がって静かにテーブルから降り立った。彼女はそんな君に余った袖を振りながら席に着く。


「たまにはパンもいいですね。食欲をそそられます」

「イースト菌の香りだね。ちなみに、小麦に含まれるグルテンには中毒作用があるから食べ過ぎは注意だよ」

「……食欲が失せました。やっぱり白米がいいです」

「仁美さんは現代人には珍しいご飯派だよね。でも今日は許して。もうお米がないんだよ」


 農家をやっているおじからの仕送りは今日の午後頃到着予定。その仕送りの中にお米が入っているので、今日の晩は仁美さんのご希望通りご飯に出来そうだ。


「分かりました。背に腹は代えられませんし、腹が減っては戦が出来ません。備えなくては憂いだらけなので、今日は仕方なくパンを食べます。そしてこの家にあるすべてのパンを食べ、今度はお菓子を食べます。しかしそれも小麦だと意味がないので、グルテンフリーがいいです」

「じゃあ、帰りにプリンを買ってくるよ」

「おお、いいですね、プリン。小麦類を一切使わない卵一色の至極のスイーツです」


 ウキウキとした様子で体を揺らしながら、彼女は口元に弧を描いてそう言う。


「それはそうと、まずは朝食です。一枚目を片付けます。いただきます」

「はい、召し上がれ」


 余った袖を引き、束ねて白くて細い指を露にした仁美さんは、その小さな両手でトーストを掴む。持ち上げると同時にキャベツが零れかけるのを、これまた小さな口でかぶりついて防いだ。

 目玉焼きの白身や切り分けられたハムを一緒に食らいながら、ちょっと多めのキャベツを口に押し込む。そして咀嚼を何度か、飲み込んでからコップを手に取り、ピッチャーから麦茶を注ぐ。


「美味しいですね、及第点です。これで小麦でなければ完璧なのですが」

「じゃあ今度、米粉のパンを探してみるよ」

「いえ、ホームベーカリーを買いましょう。私と岳さんで一緒に米粉パンを焼くんです」

「そんなお金の余裕があるかな」

「金がないなら働けばいいのです」

「ごもっとも、って言いたいけど欲しいのも金がないのも仁美さんでしょ」

「バレましたか」


 そんな冗談を挟みながらも、仁美さんは順調にサンドしないサンドウィッチを平らげていく。

挟んでないサンドウィッチを食べながら、冗談を挟む。上手いこと言った。


「どうしたんですか、得意げな顔を浮かべて」

「いや、なんでもない」

「突然ニヤニヤするとキモがられますよ。万人色を好む時代ですのでもっと清潔感ある表情を保ってください」

「辛辣なことで」


 相も変わらず、仁美さんはお口が強い。


「あ、そう言えば仁美さん。今日の帰りは雨が降りそうだから、傘を持って行ってね」

「帰りですか? 岳さん、お忘れかもしれませんが私たち中学生は今日から夏季休暇ですよ」

「え、そうなの?」

「はい、そうなのです」

「マジか」

「マジです」 


 そんな中身のない会話の間も、仁美さんはサンドしないサンドウィッチに食らいつく。咀嚼の合間に時折見せる満足気な笑みが、言葉にせずとも感謝の意を伝えてくれているような気がして満たされる。


「じゃあ、午後に来る荷物の受け取りは任せてもいい? 仕事も遅くまでやるかも」

「む、それは聞き捨てなりませんね。残業は許しません」

「残業じゃないよ。いつもは仁美さんをお出迎えしないといけないから早く帰らせてもらえないかってお願いしてるんだもの。今日からしばらくは定時まで働けるかな」

「ダメなものはダメですよ。今日は一緒にプリンを食べながら一番星を探し、星が綺麗だねと言い合う日です。日暮れ前には帰ってきてもらわないと困ります」

「じゃあ、それまでには帰ってくるよ」


 食パンを詰め込んだせいか怒りのせいか、若干頬を膨らませる仁美さんをなだめるつもりでそう言った。

 纏うものが何であろうとも、その中身は少女そのものだ。取り繕いきれない子ども心を損なってほしくないからこそ、僕は彼女を出来る限り優先したい。


「まあ、そう言うことなら許してあげます。荷物も受け取ってあげましょう」

「荷物の中身はお米とか野菜だよ。いつものおじさんからの仕送り」

「なら開封までして必要ならば冷蔵庫の野菜室の整理整頓もしてあげます」

「おお、突然やる気を出されたようで」

「私はいつでも、やると決めたことは全力ですよ。タイタニックに乗ったつもりで任せてください」

「それ沈むんだけど」


 トースト最後の一口を平らげながら、仁美さんはにこやかに笑顔を浮かべた。

 仁美さんはお米や野菜が好きで、本人の言う通り好きなことはやると決めたらやる人だから荷物の受け取りは任せても大丈夫そうだ。

 でも逆を言えばやりたくないことはとことんやらないタイプ。


「なら、夏休みの宿題も早く終わらせておいてね」

「善処しましょう。今日はとりあえず、ペルダの伝説RTAに挑戦する予定なので、どこかのスケジュールに組み込んでおきます」

「最終日まで溜め込まないでよね。手伝えるか分からないから」

「安心してください。私は岳さんのお手伝いがなくても課題を成し遂げられるくらいには大人です。そして大人なので出費がかさむのです。お小遣いを増やしてください」

「どさくさに紛れて要求しないでよ。あと、大人なら自分で働いてほしい」

「いえ、法律上は子どもなので労働は出来ません。ですが私は大人なので金銭が必要なのです。あと、もう一枚サンドしないサンドウィッチをお願いします」

「今度は卵じゃなくてサラダチキンでいい?」

「いいですね、お肉のタンパク質も大事です」


 小さく頷いた仁美さんの期待に応えようと、僕は空になったお皿を片付けつつ食パンをもう一枚、トースターの上に置いた。


「ふう、これで我が家のパンはすべて無くなりましたね。パンが無くなったのでお菓子を食べましょう」

「まだおやつの時間には早いよ。あと、とりあえず寝癖を直しておいで。顔も洗って、歯磨きもすること。誰にも会わなくても、身なりくらい整えないと」

「岳さんは時々年寄り臭いことを言うのです。私はいつ岳さんの子どもになったんですか。あなたの子どもになった覚えはないのでお父さんぶるのはやめてください」

「なぜ僕は責められているのだろうか」


 食パンを五枚ほど平らげた後、仁美さんは満足そうな表情でお皿を片付け、ちょうど仕事へ出かける準備を終えた僕に文句を言って来た。

 頬を膨らませ、両手を腰に当て。胸を張って不機嫌顔だ。


 仁美さん、よっぽど僕の帰りが遅いのが嫌なのだろう。


「出来るだけ早く帰ってくるよ。プリンも上にたくさん生クリームとか果物がたくさん乗っかってるやつを買ってきてあげるから」

「……それなら許してあげます」


 膨らんでいた頬を綻ばせ、嬉しそうに笑顔を浮かべながら仁美さんはそう言ってくれた。


「よかった。それじゃあ、行ってきます」

「はい、早いお帰りをお待ちしていますよ!」

「うん、何かあったら連絡して。すぐ帰ってくるから」

「分かっていますよ」


 元気よく送り出してくれた仁美さんのエールを受けて、僕は職場への道を歩み出した。


「椹沢(くぬぎざわ)社長、おはようございます」


 職場に着いて一番初めに聞いたのはそんな言葉だった。後ろから流れるように隣を陣取って挨拶をしてきたのは、同僚の西方さん。学生時代から縁のある友人で、気の置けない女性だ。

 彼女は彼女で仁美さんのように達観した雰囲気を纏っているが、彼女のそれは生真面目さや几帳面さ、何よりその自己を律する姿勢から来るもの。一緒に歩んできた日々の中で見た彼女の横顔は、どれも真っすぐ前を向いていたことを思い出す。

 今日もスーツをよく着こなし、長い黒髪を一つに結んでポニーテールを揺らしながら前を向いて淡々と歩を進めている。


「うん、西方(にしかた)さんおはよう。今日はいつもよりお仕事できそう。でも、やっぱりみんなより先に上がらせてもらうね」

「分かりました」

「よろしくお願いします」


 社長室、なんて大仰な掛札の見える部屋の扉の前に立つ。もう慣れたとはいえ、社長と呼ばれることも、こんな厳格な名前の部屋に入ることも最初は抵抗があった。

 呼ばれてみれば、入ってみればなんてことのない肩書も、それでも僕を見るときに透かして見るフィルターなのだと思うと気が重くなるのもまた事実。


 開いた扉の先に広がる見慣れた自室の最奥、ワークデスクを目指しながら西方さんに声をかける。


「今日の予定は?」

「本日の業務は週に一度の社内ミーティングと、社長は書類整理くらいですかね」

「おお、相変わらずの業務量の少なさ。助かるよ」

「ちゃんと感謝してくださいよ、社長」


 机に荷物を置いたところでそんなことを言われた。

 置いた荷物以上の重荷を背負わされている背中のむず痒さと不快感を吐き出すように、西方さんに向き直る。


「その社長っての、止めない?」

「無理よ、そんなの。いくら業務をまともにやらないで私に押し付けたり文字通り名ばかりだったりしても、社長は社長なんだもの」

「その皮肉は効くからやめてくれ」

「ふんっ、誰が悪いんだか」


 西方さんは鼻を鳴らしながら腕を組み、鋭い視線を向けてくる。口調が柔らかくなっただけに、耳と目とで受け取るギャップに苦笑いを浮かべてしまう。

 ただ、本来なら睨まれている僕には、西方さんのクールビューティーさとポージングとがマッチしすぎて怒られていると言うよりも何か芸術作品を見せられているように思えてしまう。

 まあ、そんなことを言ったらより怒られるので口にはしない。


「じゃあ、二十分後にミーティングだから遅れないでね、岳」

「分かったよ。ありがとう西方さん」


 ひらひらと手を振りながら背を向け、部屋を去ろうとした西方さんに礼を言う。その言葉を受けた僅かな間の後、西方さんは若干頬を赤く染めながら振り向いて言って来た。


「そ、その呼び方止めなさいよ。せっかく私が呼び方とか口調、気を遣って戻したのにあんたがそれじゃその、私が好きでやってるみたいじゃない」

「ああ、確かにそうかも。悪い、茜(あかね)。今度から二人きりの時は気を付けるよ」

「……ええ、そうして頂戴。あ、あと!」


 不満そうな表情を一変、何かに気付いたように口を開いて捲し立ててくる。


「あんた、また合コンの誘いを断ったって本当?」

「仕方ないだろ、僕だって暇じゃないんだ」

「そうはいってもねぇ、あんたは身寄りがいないんだし早くパートナー見つけないと、後々困ることになるんじゃないの?」


 そう言ってくる茜の顔は、真摯に心配してくれている様子。眼の淵を下げ、いつも通り強めの口調も責めるようなものではなく、どこか優しく聞こえてくる。

 ツンデレなんて言葉が流行ったのはいつのことだったか。実際に相手にしてみると不器用とか頑固とかではなく、そういう性分なのだなと肌で感じさせる。矛盾を抱えた人格は別に珍しくはない。


 きっとお調子者だとか高圧的だとか、馬鹿でも天才でもいいけど、きっとそう呼ばれている人たちにも違う一面がある。むしろ最近は、日常生活の中でその二面性を他人に見せられる茜は器用なんじゃないかと思っているくらいだ。


「今はまだいいかな。会社のほうに専念したいし、まだ相手を作るつもりはないよ」

「そ、そう? まあ、最悪相手が見つからなかったらその、私が養ってあげてもいいわよ」


 腕を組み、目を逸らしながら言う茜の表情は大学時代の頃と変わらない。冗談ではなく、本気で照れている。可愛いな、なんて少しだけ思う。


「うん、ありがとう。まあ養うって言っても、茜も僕もこの会社が倒産でもしたらお先真っ暗なんだけどね」

「じょ、冗談でも止めなさいそんなこと。これからって時に」

「これは冗談以前の仮定だよ。安心して、僕が生きてるうちはこの会社に関わる全ての人に損をさせるつもりはないから」

「……ったく、いつもその真剣な表情作ってればもっと格好いいのに」


 想いを口にしてみれば、茜は小さく呟くのが聞こえた。


「え? 何か言った?」

「いえ、普段働かないのに格好づけられても見るに堪えない、って言ったのよ」

「辛辣だなぁ……」

「言われたくなかったらせいぜい頑張りなさい」


 それだけ言って西方さん、茜は今度こそ部屋を去っていった。ひらひらと手を振りながら、扉の閉じ際にこちらをあざとく見つめるいつもの癖を披露しながら。


「さて、今日も頑張るかな」


 まず、恐らく昨日僕が帰ってから机に積まれたであろう書類を整理することから始めた。


「じゃあ、先に上がらせてもらうね。みんなお疲れ様」


 時計の長針と短針が一直線に伸びる頃、僕はみんなより一足先に帰宅することにした。これくらいの時間なら仁美さんも文句は言わないだろう。

 考えながらエントランスまで足を運んでいると、後ろから足音が聞こえてきた。


「岳、私も早めに上がったから、帰り一緒にどう? 実は目をつけてるスイーツ屋さんがあるのよ」

「ん? うん、構わないよ」


 ヒールの音を軽く響かせながら駆け寄って来た茜は軽く呼吸を整えてからエントランスの方へと歩き出す。

 

「じゃあ、行きましょう」


 思わず漏らした笑みを自覚する頃には、足は自然と動いていた。そして雨音の中に重なっていく薄っすらとした幻想は、こちらを振り返えることなく進んでいく。馬の尻尾はどうか知らないけど、犬は嬉しい時に尻尾を振ると言う。

 彼女のそれを動物に例えるのは失礼だと思いながらも、僕は揺れるポニーテールに抱いた憧れを目で追い続けた。


「って、雨音?」


 コンクリートを連続して打つ音に気付いたのは、エントランスの自動ドア越しに実物を見てからだった。


「そう言えば今日は雨の予定だったわね」

「しまった……いつも帰る時間の天気予報しか見てなかったから、傘持ってきてないや。どうしよう」


 いつも三時頃には帰っているから、その頃の予報だけ見て傘はいらないと思い込んでしまっていた。折り畳み傘なんてものは持ち歩いていないし、ガラス越しに見ても鞄で凌げる雨量でもなさそうだ。


「……私、傘持ってるけど駅まで入ってく?」

「え、いいのか?」

「いいわよ、別に。駅まで行けば傘くらい買える場所あるでしょ?」

「コンビニがあったと思う。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」


 鞄から折り畳み傘を取り出す茜は表情こそ取り繕っているが、声のトーンが数段高い。分かり難い違いではあるが、一度違っていることに気が付いてしまえばその度意識して気付ける程度。

 そんな茜の勇気や心遣いを無碍にする気もないし、ここは素直に気持ちを受け取っておこう。


 そう思って答えた時、茜が外の方へと視線を向けて小首を傾げた。


「どうかしたのか?」

「いや、あそこ。小さな女の子がこっちに向かって走ってきてるんだけど……」


 言われて茜の指さした方を見ると、ピンク色の大きさ傘を差した少女がこちらに向かって走ってきている。復唱になってしまったが、傘で顔が覆われているのでそれ以外の情報がない。

 でも、あの背丈と服、靴に見覚えがある。いや、見覚えと言うよりは確信だ。


「あ、仁美さん」

「知り合い?」

「えっと、まあ、うん。知り合い、たぶんね」


 あの服もスカートも靴も、なんなら傘も全部僕が買ってあげたものだ。初めて家に来た時にプレゼントしたら、とても喜んでくれていたのを覚えている。何着かセットでプレゼントしたけど、気に入ってくれたらしく普段はそれを着まわしている。

 そんなことを考えているうちに仁美さんは自動ドアを開いた。


「あ、岳さん。傘をお持ちでなかったようなので、お迎えに上がりました」

「僕、この時間に帰るって言ったっけ?」

「考えていることはお見通しですよ。以心伝心です」

「一方通行なんだけど」

「おかしいですね、相思相愛なのに」

「そこはイコールにならないし公共の場でそういう表現は控えていただきたい」


 もっと言えば、隣に茜がいる状況では。

 

 傘を閉じ、表面に着いた水を払いながら自動ドアをくぐって来た仁美さんを見て、茜は開いた口が閉じないようだった。


「え、岳、この子誰?」

「えっと、誤解しないで欲しいんだけど仁美さんは――」

「どうも、岳さんと同棲させていただいてます、仁美って言います。趣味は岳さんと映画を見ること、好きな食べ物は岳さんの作る料理、帰ったら岳さんと星が綺麗だねと囁き合いながらプリンを食べさせあう予定です」

「なっ⁉」

「ちょっと仁美さん落ち着こうか」


 今の仁美さんは笑顔だが、その瞳は笑っていないとかいうジョーク。なぜか茜に若干の敵意を込めながらのその発言は、茜の心情を僅かばかりにでも察している身からすると爆弾のようにしか思えない。


「岳あなた、こんな小さな子に手を出したの⁉」

「え、そっち?」

「そう言えば、同年代の合コンは全部断って、私とも……あんた、ロリコンだったの?」

「俺の信頼度どうなってんだ、色々と誤解が進んでいる」


 ここ数年の付き合いは何だったのだろうか。


「大丈夫よ仁美ちゃん、私が悪い大人から守ってあげるからね」

「おい」

「悪い大人に変なことされたらすぐ言ってちょうだい」

「今現在見知らぬ大人の女性に両肩を掴まれていて怖いです」

「仁美さんも仁美さんですごいな」


 毒舌が同じ空間に二人もいると喋る度誰かが口撃されるものらしい。


「それで、あなたと仁美ちゃんはどんな関係なの?」

「出会って早々ちゃん呼びなのは置いておくとして、仁美さんは僕の――」

「同棲相手です」

「……いや血縁――」

「もはや家族です」

「だから従妹――」

「愛おしく想い合える間柄です」

「仁美さんは僕をどうしたいんだ」


 と言うかどこから湧いて来ているのだろうかその言語能力は。手札が多すぎじゃないだろうか。


「ふーん、なるほどね。それであなたは雨が降っている中、岳を迎えに来たってことね?」

「先ほどまでの言葉でどうやって納得したのか教えて欲しい」

「はい、そう言うことです。私はこれから一つ傘の下岳さんと雨音に包まれる予定ですので、失礼しますね」

「……そう、よかったわね岳。お迎えが来て」

「いやまあ、うん、よかったけど」


 どうやら茜の機嫌は悪くなっているようだ。


「さっさと帰りなよ岳。ただ、あんたの趣味は尊重してあげるけど犯罪は起こさないでよね」

「本当に何もやましいことはないんだけどな……まあ、じゃあ先に帰るよ。お疲れ様」

「……ええ」


 不機嫌そうに腕を組む茜に手を振りながら仁美さんの隣まで歩を進める。


「じゃあ仁美さん、行こうか」

「はい。帰りにコンビニでプリンを買ってもらうのです」

「分かってるよ。傘、持つよ」

「お願いします」


 大きなピンクの傘を受け取って、僕は自動ドアをくぐって外に出た。激しくなってきた雨脚を描き分けるように進んでいくピンクの中で、少女は涼し気な笑みを浮かべていた。


「残念ながら星空は見えませんでしたが、プリンは美味しかったです」

「良かった。満足してもらえたみたいで」


 夕食後、二人分の空のカップに視線を送りながら満足気に呟いた仁美さんの笑顔は、プリンより甘くて柔らかい。


「ですが、今度こそ綺麗なお星さまが見たいですね」

「星が見たいの? でも、ここらへんだと難しいかもね」

「では山に登りましょう。夏休みですし」

「夏休みなのは仁美さんだけだよ。でも、そうだね。星を見に行くなら、プラネタリウムとかどうかな」

「プラネタリウム、ですか?」


 僕も行ったことはないが、室内で星を眺めるならあれが一番だと思う。


「近くに大きなプラネタリウムがある施設があったと思うし、そこに行こうよ」

「いいですね、プラネタリウム。星座を探したいです。オリオン座とか、てんびん座とか、おうし座とか」

「いいね。なんだか僕も楽しみになって来たよ。……あ、それじゃあ約束だ」

「約束、ですか?」


 突発的に思いついた提案だけど、問題を解決できて仁美さんも喜ばせられるなら一石二鳥だろう。


「来週の土曜日、プラネタリウムに行こう。でも、仁美さんの夏休みの宿題が全部終わってたら、ね」

「なっ、ひ、卑怯です。もので子どもを釣るだなんて」

「朝の、私大人なのでお小遣い増やしてください発言を忘れたの?」

「子ども心を弄ぶ大人は許しませんよ。バツとして私にゲームの新作を買ってください」

「またもやどさくさに紛れて要求を突き付けてくる。まあでも、それはそうと宿題が終わらないとプラネタリウムにはいきません」

「ぐぬぬ、悪魔め」


 プラネタリウムで釣れると思っていた僕も僕だけど、高々プラネタリウムで悪魔呼ばわりはいかがなものか。


「しかし、いいでしょう。魂だって売ってやります」

「そこまでしろとは言ってない。そもそも僕は悪魔じゃない」

「これから毎日計画を立て、前日にラストスパートをかけて終わらせます」

「それラストスパートとかじゃなくて無謀っていうんだよ。これから毎日頑張ってよ」

「むぅ、要求の多い人ですね」

「宿題を終わらせてほしい以外の要求をした覚えがない」


 どうやらどうしても宿題をやりたくないようだ。


「はぁ、仕方がありません。プラネタリウムのためですし、そもそも学校の宿題程度私に掛かれば赤子の手をひねる様なものです。三日で終わらせます」

「期待はしないでおくよ」

「そういうわけなので明日から頑張るために今日はもうお風呂に入って寝ます。英気を養うのです」

「あ、しばらくやらないな、これ」


 実際、終わらなくても僕は仁美さんをプラネタリウムに連れて行ってしまうのだろう。でも、僕だっていつまでも仁美さんの我儘に振り回されてばかりもいられない。信頼されて、とは違うかもしれないが任されている以上、仁美さんを立派な人に育てたい。

 お風呂場の方に去っていく仁美さんの背を目で追いながら背が伸びたら、髪が伸びたらどんな綺麗な人になるんだろう、なんて想像を膨らませている僕がいた。


 そしてその週末、まだ日も登り切らいない頃チャイムが部屋に鳴り響いた。

 朝食の目玉焼きに醤油をかけようか塩コショウにしようかと悩んでいた僕は小さく首をかしげる。


「こんな時間に誰だろう。大家さんかな」

「どうでしょう。夜間私がゲーム音を響かせていることにいちゃもんをつけに来たお隣さんかもしれません」

「それはいちゃもんじゃないしもしそうならもうちょっと自分事のように言って欲しい。……とりあえず出てくるよ」

「はい、行ってらっしゃい。岳さんの目玉焼きが覚めないように口内で保存しておくのでご安心を」

「そのままでお願いします」


 仁美さんが口内に含んだ目玉焼きを食べるにしても食べないにしても、僕によい未来は待っていないと思うのだ。特に後者。前者なら僕が損をするだけで済むが、後者の場合仁美さんは何かしらの方法で口内の目玉焼きを僕に食べさせることになる。

 それが口移しでも吐き出すのでも、僕は勘弁願いたい。


 そんなくだらないことを考えながらでも玄関にはたどり着く。

 うちのアパートはカメラ付きのインターホンを備えていないので相手の顔を確認できていないけど、連続でインターホンを鳴らしてきたりドアを叩いてきたりはしていない。荒事にはならなそうと安心することは出来ないが、扉を開く前から怯える必要はなくなった。

 靴に片足を突っ込み、玄関の扉を開けた。


「あ、岳」


 朝の鋭い光と共に家の中に差し込んできたのは聞き慣れた声。

 僕の出迎えが遅かったからか扉から遠ざかっていた後ろ姿には見慣れたポニーテールが揺れている。

 

 扉の開く音に気付いて振り返った彼女は、顔を出したばかりの朝日のように明るい笑顔を浮かべた。直後、不機嫌そうな顔に変わった


「茜? どうしたんだ、こんな朝早くから」

「どうしたんだじゃないわよ、出迎えが遅いんじゃない?」

「朝一でチャイム鳴らされてすぐに出る支度が出来ると思わないで欲しい」

「何してたのよ」

「朝食取ってたんだよ。まだ朝七時だぞ」


 学生たちは夏休みに入った今でも、これくらいの時間ならまだ涼しい。良く透き通って見える空と熱気を帯びていない風。その中で佇む茜の姿は凛としていて、夏のひと時とは思えないくらいに爽やかだ。

 そんな日の朝一番にアポなしで訪れ、その上難癖付けられる身にもなってほしい。


「で、何か用事があるのか?」

「ええ。電話でもどうかと思って、直接会って話したかったんだけど。ちょうどこの近くで予定があったから早い方がいいかと思ってね」

「週末明けじゃダメだったのか?」

「早ければ早いほどいいのよ。ま、とりあえず上げてもらえる? 立ち話もなんでしょう?」

「それはたぶんそっちのセリフじゃない」


 強引な奴だと思いつつ、特に断る理由も思いつかなかった。


「いいけど、あんまり綺麗にしてないからな。文句言うなよ」

「この機会に岳の生活レベルを確認してあげるわよ。あまりに低いようだったら、そうね。定期的に家事を手伝ってあげるくらいは吝かじゃないわ」

「はいはい、いいから上がってくれ。朝っぱらから玄関前で喋ってたら迷惑だ」

「それもそうね。上がらせてもらうわ」


 特に遠慮するそぶりも見せないまま、茜は敷居をまたいで部屋に入る。僕から文句を言うつもりはないけど、茜はもう少し僕に親身になってくれてもいいと思う。素っ気ない人だってことは分かったうえで続けてきた付き合いだけど、そろそろ心を開いてくれないものだろうか。

 なんてことを考えながら、扉を後ろ手に閉じた。


「あ、この前の」


 そんな声が聞こえてきて視線を声のした方に向ければ、そこにはバナナを片手に握りしめた仁美さんがいた。


「仁美ちゃん、だったわね。おはよう」

「茜でしたね。おはようございます」

「呼び捨て……」

「はぁ、玄関で止まらないでくれ。リビングで話をしよう」


 バナナを頬張り始めた仁美さんに茜が挨拶をすると、仁美さんは素っ気なく返してリビングの方へと引き返していく。茜はそんな仁美さんの態度に少し絶望したような間の抜けた表情を浮かべながらその場で固まってしまった。


「仁美さんは人見知りなんだよ。声をかけてくれればこっちから外に出たけど、家に来ちゃった以上我慢してほしい」

「ああうん、まあ、大丈夫よ。それはそうと、結構片付いているのね。もっと汚いかと思ってたわ」

「僕に対する印象に文句をつけたいところだが……まあ、仁美さんがいる以上汚いままにはしておけないさ」

「ああなるほど」


 靴を脱ぎ、僕が用意したお客用のスリッパに足を通した茜は納得したように呟いた。


「あんた、あの子の世話をしてるから仕事の帰りが早かったのね」

「ご明察。従妹なんだ、一応この前も言ったけど」


 ちょうど、今から二年ほど前からだろうか。僕が一人暮らしを始めた頃におじさんから預かった従妹。と言っても、それまで一度も顔を合わせたこともなかったのだが。


「まだ中学生、初めて会った頃には小学生だったからさ。僕が親代わりみたいなものだし、反抗期を迎えるまではしっかり面倒見ないと仁美さんのご両親に申し訳なくて」

「ふぅん。でも、どうして仁美ちゃんくらいの年齢であなたの世話になるの? ここら辺の私立校に入学したとか?」

「ああ、まあ。僕しか育ての親になる人がいなかった、って言えばわかるかな」

「……ごめん、ちょっと考えればわかったかも」


 僕しか親になる人がいなかった。つまり、僕以外、仁美さんの親戚に成人し、且つ子ども一人の面倒を見られる余裕がある人がいなかったと言うこと。大前提として、仁美さんはご両親を失っていると言うこと。

 茜もそれが分かったからだろう、少し顔を俯けて悲しそうな、申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「まあ、仁美さんも多分気にしないよ。積極的に話題に上げたいことはないと思うけどね」

「そうね。出来る限り触れないようにするわ」

「お願いするよ」


 仁美さんはなんともなさそうにしているし、あの人の人柄を見ていれば本当に何ともないんじゃないかと思う。けれど、仁美さんにだって個別の部屋はある。そこで一人泣いていたって、なにもおかしくない。

 でもやっぱり、そうやって苦しさを隠す人にも思えない。


 そんなことを考えながら茜を先導してリビングに入る。扉を開けてダイニングの方を見れば、そこでは仁美さんが朝食の続きを取っていた。


「仁美さんはご飯の続きを食べてていいよ。僕たちは少し話があるから、食べ終わったら食器を片付けて遊んでてね」

「……はい、分かりました」


 出来るだけ優しい声音で言うと、それでも仁美さんは不機嫌そうな顔を一瞬浮かべた後で仕方なさそうに頷いてくれた。以前もそうだったけど、ほとんど初対面のはずの茜を仁美さんは敵視しすぎだと思う。


 そんな仁美さんに思わず苦笑いを浮かべつつ、僕はリビングのローテーブルを茜に勧める。


「ちょっと待ってて、お茶淹れてくる」

「紅茶がいいわ」

「……出す品については普通こっちが提案するものだと思うんだけど」


 そう? なんて真面目な顔で返してくる茜に嘆息付きながらも、ちょうどお気に入りの紅茶ブランドの新商品を購入していたな、となんとなく考える。

 自転車にまたがるくらいには自然な流れで電子ポットに水を入れ、電源をつけ、紅茶のパックとカップを取り出す。お茶菓子がなかったかと探して、仁美さんと食べようとしていたショートケーキを見つけた。


「僕の分を分けてあげようかな」


 二人分、今日の夜食べようと思って買っておいた物だ。仁美さんとの約束を破るわけにもいかない、よな。ただ、せっかく訪ねてきてくれたのにお茶だけってのも。そんなことを考えていると、食器のぶつかる音と足音が聞こえて来た。


 音の聞こえた方を見てみれば、食器を持った仁美さんが流しに食器を入れているところだった。そして流し終えた仁美さんがこちらを向くと、僕たちの視線は自然と重なった。


「岳さん? 茜に出すお菓子を迷っているんですか?」

「え? ああ、うん。特に何も買ってなかったし、どうしようかなって」

「あんな人にお菓子なんて出さなくてもいいと思います」

「まあ、茜がこんな時間に来たのが悪いし、用意してなくても仕方ないんだけどね」


 茜に聞こえないようにそう答えるのと同時、電子ポットが笛を鳴らした。


「じゃあ、今日はいいや。また今度お客用に何か用意しておこうかな」

「そうするのがいいですね。では、私は部屋でゲー、いえ、宿題をやっていますので。静かにしていてくださいね」

「それはお互い様だよ。さ、勉強頑張ってね」

「うっ、分かって言ってますよね、それ」


 笑って言えば、仁美さんはバツが悪そうに視線を逸らしながら立ち去っていく。去り際、全くいい性格をしています、なんて不服そうに呟いたのを聞き逃したりはしない。誉め言葉だと受け取っておくことにして、僕は茜に紅茶を淹れた。


「へぇ、あんた紅茶を淹れるの上手いわね」

「どっちかって言えば紅茶そのものが美味しいんだよ。僕は特別なことはしてないからね」

「特別なことをしなくても紅茶をまずくするやつはまずくするのよ。私も自分で淹れることはあんまりないけど、この前友達が淹れてくれた紅茶は一度凍らせたスポーツドリングの上澄みだけ飲んで、後になって溶け出てきた水くらい薄かったわ」

「例えが具体的過ぎて味を想像してしまった……。確かに、あんまり飲みたいとは思わないね」


 茜が褒めるなんて珍しいと思って内心喜んでいたが、比較対象が比較対象なので僕の紅茶はそれよりはましくらいに思っておいた方がいいかもしれない。事前に飲んだものが悪すぎてまともなだけで美味しいと感じてしまっている可能性が高い。

 どちらにしても、口にはしないでおこう。


「さて、一服着いたところで本題に移らせてもらうわね」

「ああ、そう言えば何か大切な話があるんだよな。わざわざ直接言いに来るなんて」

「ええ、それなりにね」


 紅茶のカップを置き、足と腕を組んだ茜は澄ました顔を浮かべながらもこちらを見ることなく言ってくる。


「来週の今日、取引先のお偉いさんがあんたをパーティーに招待したいんだって」

「パーティー? 僕を?」


 取引先、と聞くといくつか思いつくけど、そんな行事に招待される間柄の相手がいただろうか。


「ほら、うちの株も結構買ってくれてる企業の取締役の人。あの人が開くパーティーで、最近起業した人たちを集めての意見交換なんかの意図もあるらしいの。うちは一応成功例、みたいな枠かしら。昨日の夜、一応社長秘書ってことになっている私に連絡が来たんだけど、どう? 行く?」

「急に言われてもなぁ……」


 一応パーティーの意図と呼ばれた理由はなんとなくわかった。行くだけの価値はありそうだし、大事な取引先の人が開催したパーティーだ。あまり無碍にも出来ない。


「その日、仁美さんとの約束があるんだよね。悩ましい」

「……このチャンスにそんなことを言うなんて、あんた相当あの子が大切なのね」

「どう、だろうね。先約がある以上失礼にはならないと思うし、今のところ前向きな返答は出来そうじゃないね。先方にそう返してくれないか?」

「そんなことを言うだろうと思ってたから、今日来たのよ」


 そんな風に適当に答えていると、茜は突然改まった表情を浮かべてこちらを見た。


「このパーティー、逃したらいけないわ」

「どうしてだ? 確かに大切なものだとは思うけど、そこまで重要なのか?」

「今後の新規企業たちに顔を売れるだけじゃなく、私たちの会社のことを認知させられれば取引先の候補になれる。新人をうまく育てられればそれだけで先輩たちには気に入られるし、何より、他の企業がそういうチャンスをものにしている中、うちだけ逃すだなんてできるわけがないでしょ?」


 いつになく熱く語る茜は、きっと本気で僕や僕の会社のことを考えてくれているのだろう。

 確かに、改めて考えてみればこれはチャンスであると同時にピンチなのだ。もしこのチャンスをものに出来なかった場合、僕たちの足場が崩れ始める可能性は十二分にある。大袈裟かもしれないが、それくらい些細なことで傾きかけないのが小さく、新しい僕の会社だ。


「ね? 仁美ちゃんには悪いけど、また違う日にしてもらえない?」

「……そうするしか、ないのかな」


 このパーティー、最初はリターンだけ考えていたけど、考えれば考えるほどリスクがちらつく。人生を一転させるほどのものかと言われればそうではないが、きっとじわじわと地盤を蝕み、いずれは崩れる原因を作りかねない。

 ここで理性的に天秤にかけるのなら、きっと仁美さんとの約束は上へと昇る。ただ、感情的な話をするのなら仁美さんとの約束を破りたくなんてない。


「はぁ……どうしてもっと早く伝えてくれなかったんだ」

「先方もゲストを呼ぶつもりはなかったんだって。パーティー自体はだいぶ前から開催が決まっていたけど、私たちが招待される予定はなかった。でも、どうやらもともと招待される予定だった企業のいくつかが参加できなくなったらしくて、人を集め直すのも大変だから一部の企業に招待状を送って自由参加、って形にしたんだって」

「なるほどな。……どうしたものかな」


 正直、仁美さんとの約束はやり直すことが出来る。そういう観点で言ったら今回のパーティーは唯一無二のチャンスだろうし、逃すことは出来ない。

 それでも、僕の心情として約束を破ることはしたくないし、何より楽しみにしているはずの仁美さんをがっかりさせたくない。


 今、社長としての僕と仁美さんと共に過ごす僕が心の中でせめぎ合っている。


「……分かってるわよ」

「え?」


 僕の中で天使と悪魔が揉めていると、茜はため息交じりにそんなことを言って来た。その言葉の意味が分からなかったのと、茜が普段見せないような柔らかい笑みを浮かべているところを見て驚いてしまった。


「あなたが、人との約束を破れない人だってことも、それだけ優しい人だってことも。だからこそ私たちのために、と思ってそんな苦しそうな表情で悩んでいることを、私たちは責めたりしないわ」

「茜……」

「でも、私は仁美ちゃんの何でもない。会社の立場から言わせてもらえば、このパーティーには参加して欲しいの。でも友人として言うのなら、自分のしたいようにしなさい、としか言えない。ごめんなさい」


 申し訳なさそうに目を伏せながら、茜は言葉を続ける。


「だから、分かってる。あなたの心労も優しさも。これが無責任さの対価のつもりよ」

「……そんなものはいらないよ。ちょっと時間を貰っていいか? 仁美さんと話をしてくる」

「ええ、ゆっくり話してちょうだい。どちらを選んでも責めたりしないわ」


 いつにもなく優しい茜に、顔の筋肉が緩むのを自覚する。そればかりか優しい目でも浮かべてしまっていたのだろうか。数秒見つめていた茜の方が、はっきりと分かるくらいに赤くなっていった。

 これ以上見つめていると怒鳴られそうなので、僕は仁美さんの部屋に向かうべく立ち上がる。


「じゃあ、どうする? 待ってるか?」

「いえ、これだけ貰って帰るわ。返事は週明けでもいいからね」

「分かった。それじゃあ」

「ええ」


 柔和な笑みを浮かべて返事した茜を、リビングの扉をくぐるまで肩越しに見続ける。小さく手を振る彼女に見送られながらリビングを出る光景をちょっと引きで見てみると、何とも言えない感覚になった。

 

 その感覚を引きずりながら、僕は仁美さんの部屋の扉の前に立ち、ノックする。


「仁美さん、ちょっといいかな?」

「はっ、はいっ、なんですか? ちゃんと宿題やってますよ?」

「……入るよ?」

「ちょっと待ってください散らかっているので!」


 上擦った返答を聞きながら、どうせゲームしてたんだろうなと思う。いつも散らかっている仁美さんの部屋を片付けているのは僕だし、見栄えが悪いからって部屋に入れない理由にはならない。察するにゲームを片付け、宿題の準備をする時間なのだと思う。

 けどまあ、仁美さんのプライドを不用意に傷つける必要もないのでおとなしく扉の前で待つことにする。


「ど、どうぞ!」


 しばらくして、どこか息の切れかけた声でそう応答があったので扉を開ける。すると、いつもなら散らかっているはずの部屋が片付けられ、仁美さんの勉強机の上には勉強道具が用意されていた。

 仁美さんはと言えば、ベッドの上でぐったりしていた。


「何してるの?」

「きゅ、休憩です。ちょっと集中し過ぎましたし、片付けに労力を割いてしまったので」

「体力のなさがありありと伝わってくるよ」

「うるさいですね。私はインドア派なのでエネルギー効率が悪いだけです」

「それを体力がないって言うんだよ?」


 なんて言いつつ後ろ手に扉を閉め、ベッドの仁美さんの頭の隣に腰を下ろす。


「……茜との話は終わったんですか?」

「終わったと言うか、中断したと言うか。仁美さんとも関わることだったから仁美さんに相談しようと思ってね」

「私の関わること、ですか?」


 僕の言葉を聞いて、仁美さんはぐでっ、としていた体をゆっくりと起き上がらせてこちらを見上げる。


「言い出しにくいんだけど、聞いてくれるかな」

「もちろん内容によります」

「余計言い出しにくいよ……」


 仁美さんのSっ気ある発言に苦笑いを浮かべながらも、僕は話さなくてはだめだと決心する。


「この前約束したプラネタリウムを見に行く日に仕事の依頼が来たんだ」


 反応はない。ただ、こちらを静かに見上げていた。


「それで、依頼をしてきた方は断ってくれてもいいって言ってる。ただ、受けるのなら僕が直接相手をしなくちゃいけない、とも言われてる。まだ答えは出してないんだけど、その日は仁美さんとの約束があるから。……できれば、仁美さんとも話がしたいと思ったんだ」


 言い切った達成感と同じくらいの後悔が、予想より勢いよく押し寄せてくる。胃が潰されるような感覚に襲われながらも、唇を噛んで嗚咽を堪える。

 そしていまだ返事のない仁美さんに向けて、決定的な一言を放つ。


「それで、どう思う? 僕はどうするべきかな」


 無責任な一言だと思った。

 僕は大人で、仁美さんは中学生だ。絶対に僕は相手に委ねる立場じゃない。でもそんな理性的な思考以上に、仁美さんを悲しませたくないなんて子どもじみた考えの方が大きく、強かった。

 家族としての正しい関わり方なんて、普通の関わり方なんて分からない。家族は支え合うべきだから僕だけが背負う必要はない、なんて主張は自己中心的過ぎる気がして喉元を通らない。それでも、仁美さんを頼ってしまうのは僕の怠慢か。


 それとも、仁美さんに最後の選択を委ねるのは、それが仁美さんを悲しませないための最善手だと、いつまでも勘違いを続けているからなのだろうか。


「そうですね、私は行った方がいいと思います」


 そんな、仁美さんのどこか落ち込んだ声が聞こえて来たのは、何度かくだらない言い訳が頭を巡ってからだった。

 その間が実際に何秒だったか、何分だったかなんて分からない。ただ、永遠にも思える一瞬、なんてありふれた言葉が当てはまるくらいには長く感じた短い時間だった。


「お仕事は大切です。多分、そのお仕事は他のお仕事とは違うんだと思います」


 そう淡々と告げる仁美さんの目が下を向いていることに気付いたのは、どれくらいが経ってからだっただろうか。


「……私のことはいいです。お仕事を優先してください。私のせいで悩んでいたのなら、気にしなくていいです。私は十分――」


 そこまでつらつらと告げられた言葉に、嗚咽が挟まった。


「仁美さん?」

「……ごめんなさい、これから勉強するので出て行ってください」

「ひとみさっ――」

「出て行ってください!」


 部屋中に怒号が響くと同時に向けられた鋭い仁美の淵に、僅かに雫が見えたのは気のせいではないと思う。ただ、その後すぐ露にしたことがなかった仁美さんの怒りをまともに受け止めたからかショートした頭では、それから数秒間の出来事を記録できなかった。


 リビングの入り口で呆然と佇む自分に気付いたのは、昼ご飯をねだる君が足元で鳴いた時だった。


「仁美さん、お昼ごはん食べる?」


 昼過ぎ。正直話しかけるのも心苦しくて、空腹感に満たされた頃になってようやく扉をノックした。

 しばらく応答はなかったけど、仁美さんもお腹が空いていたのだろう。低い声音で答えた。


「食べます。すいませんが扉の前に置いておいてくれませんか?」

「……分かった。少し待っててね」


 昼ごはんの支度にとりかかり、三十分と経たずに出来上がる。

 今が夏休みでよかった、と心底思う。もしそうでなかったら、もし家で共に過ごす時間がもっと少なければ、会話を要さない寂しい同居が始まっていたような気がするから。


 その平行線はいつか曲がるかもしれない。けどそれはきっと、互いに離れていくように曲がるのだと思う。でも今、この時間だけは線が伸びるのを留めてくれる。一日中同じ空間で過ごす、っていう何でもない事実だけが今僕たちを保ってくれている。

 日常のなんてことのない出来事が引き裂くのと同じくらい、引き留めるのもなんてことないことなのだと実感する。


「じゃあ、ここに置いておくね。食べ終わったらまた出しておいてくれればいいから」

「……はい、分かりました。ありがとうございます」


 返事を聞くだけ聞いて満足した僕はリビングに戻り、何をするでもなくソファに腰を下ろす。そして天井を見上げ、やがて足の上に乗ってきた君の頭を優しく撫でる。サラサラとした毛が指を抜けるたび、僕の中の余計な思考が消え去っていく。

 

 仁美さんはたぶん、怒っていると言うよりかは混乱しているのだ。そういう部分では、僕と同じだろう。ただどうしていいか分からず、何も手に着かない。謝るのも違うと思うし、だからと言って何もしないのは心細い。

 もしこのままお互いに離れて行ってしまう、なんてことになったら耐えられない。その不安に怯えながらも、時間が解決してくれるんじゃないかっていう淡い期待を抱いている。何も、相手を理解することは万能の解決策じゃないんだ。

 僕も仁美さんも、たぶん悩んでいる。


「何が正解なんだろう」


 岳さんは、きっと私と同じ悩みを抱えている。

 そうでなかったら許さないところだけど、そんなことはあり得ない。だって岳さんは私のことをよく分かってくれているし、私よりも大人だから。


「我儘ばかり言っていられない、けど、これくらいの我儘言わせて欲しいよ……」


 まだ岳さんの温かさを感じるご飯を前に、私は膝を抱えて横になっている。視界を濁す涙が枕を濡らす度、気持ち悪いと頬が熱を帯びる。痛いほどに揺れる瞳はどっちを向いたらいいのか分からない。


 初めて出会ったあの日、当然、私たちはお互いのことを何も知らなかった。

 知らないままに手探りで、知ろうと必死に手を伸ばした日々だった、と思っている。それでも結局手を引いてくれたのは岳さんだ。私は内気な自覚があったし、人と喋るのも得意じゃない。だからと言うわけでもないけど、私よりずっと大人な岳さんは優しく接してくれた。

 まだ小学生で右も左も分からなかった道を、岳さんは私の歩幅に合わせて歩いてくれた。だんだんと手は繋がなくなった。それでもずっと、岳さんは前を歩いてくれていた。だんだんと見上げる角度が下がって、岳さんの横を歩こうとしてみたり。でも、後になって私はずっと右隣を歩いていたことに気付いたり。

 だから、まだまだ私はこれからなんだなって思っていた。対等な関係になって、もっと互いを知って。これからも一緒に歩く日々が続くんだろうなって、深く考えなくたって、そう思っていたはずだ。


 でも、些細なきっかけで岳さんを見失ってみると、このまま一生再会できないんじゃないかって不安に襲われるんだ。築いてきた信頼とか安心感を一蹴する不安が、背後から迫ってくるような気がする。

 知らない道を後戻りできない、止められない足で歩き続けることが。岳さんなしで進んでいくことが、無性に怖い。


 そう思ってしまったら一層、もう一度手を繋いで欲しいだなんて甘えられなくて。


「私、不器用だな」


 なんて漏らす独り言は、やっぱり自分の声に聞こえない。

 重くて、低くて、寂しげで。何より、意思が籠ってなくて。今私は病んでいるんだろうなぁ、とか鬱診断を受けたことがあるわけでも、鬱になっている人を見たわけでもない癖に考える。

 ただ、こういう面倒くさい思考を働かせる人って大体病んでいるんだって、ネットの記事で見たことある。別に病んでなくてもいいんだ。普段と違うんだってことさえ自覚していれば、気を付けられる。

 小さな綻びを目いっぱい引っ張ってしまうような、傷口に塩を零してしまうようなことはしなくて済む、はずだ。


 大抵人を殺めたり、家を燃やしたりする人は普段から荒っぽかったり考えなしだったりはしない。唐突に怒りに支配されたり、考えもせず火に油を注いだりしてしまう。私のそれはずっと下らないことだけど、下らないからこそ、不意にそして無意識に止めを刺すことになりかねない。


 私はどうすることも出来ないまま、腹の音の導くままにいつもよりしょっぱいオムライスを頬張った。


「ご馳走様」


 お昼ごはんと同じく仁美さんなしで食べた夜ご飯は、やけに味気なく感じた。食器を片付け、風呂を沸かし、仁美さんに一声かける。部屋の扉の開く音と、僅かばかりのシャワーの音をしっかりと聞きながらも、沈み込んだソファから這い上がれずにいる自分を情けなく思う。

 これでいいとも思う。


「どうしたらいいんだろう」


 まずは、仁美さんがお風呂から上がった後で仁美さんの分の食器を片付けて、お風呂に入り、今日は寝よう。明日の朝になったらいつも通り朝ご飯を作って、手元に残っている仕事を終わらせてしまおう。

 お昼ご飯を食べて、時間をつぶして、夜ご飯を食べて、お風呂に入って寝る。そうすれば月曜日になって仕事に行くことになる。そうしたら仁美さんのためにお弁当を作っておこう。そうすれば仁美さんはお昼ご飯に困らなくて済む。

 会社に着いた後は茜にパーティーに出席する旨を伝えて、仁美さんを怒らせてしまった分うまくいかせるために入念な準備をしよう。それから――


 なんて考えていると、スマホが鳴った。

 仁美さんから、お風呂あがりました、と連絡が来ていた。


 二日後の朝、僕は仁美さんのお弁当と君を残し、家を出た。安心感と罪悪感に後ろ髪を引かれながら、今戻るのも正解ではないと足を動かす。締め付けられるような不快感と込みゆく人の流れに目を回しながら、つま先だけは迷うことなく目的地を示していた。


「あらおはよう、ってすごい顔してるわよ。寝てないの?」

「寝られなかった、のほうが近いのかな。ごめん、今日は本調子が出なさそう」

「いやまあ、見ればわかるけど……」


 エントランスを抜け、社長室なんて立札が見える見掛け倒しの部屋に入ってみれば茜がいた。二人きりだからか柔らかい雰囲気を前に、どうやら僕は一瞬で身の不健康を見透かされたらしい。


「もしかして、あの件で仁美ちゃんと喧嘩しちゃったとか?」

「喧嘩、って言うのかな。土曜日の昼前にパーティーの件を話してから、一度も顔を合わせてないんだ。機嫌を損ねてしまった、っていうかなんというか。僕としては早く仲直りして埋め合わせしたいところなんだけど、今は信用を完全に失っているからさ」

「対応に困っている、ってわけね。まあ気持ちは分かるわ。私も最近お父さんと気まずい感じだしね。何をすればいいのか分からないと言うか、何かすべきなのかもわからないと言うか。手が付けられないって感じ」


 僕の心のうちを代弁して見せた茜に感心しつつ、僕は自分の席に重い腰を下ろす。もう抜け出せなさそうなくらい沈んだ腰は悲鳴を上げ、僕の背中はぐったりと背もたれに寄り掛かる。


「時間が解決してくれるとも言い辛いから、あまり放っておけないわよね。まあ仕方ないわ、仕事に手がつかない様だったら言いなさい。今後の会社のための決断で消耗した社長の労い位はしてあげるわ」

「手伝ってはくれないのか?」

「当然よ、ただでさえ仕事量を減らしてるんだから」


 苦笑い以外の返答を思いつかない文句を投げつけられて困ってしまうが、そこに溢れんばかりの気心があると分かるからつい頬が緩む。苦しそうな笑みかもしれないけど。


「さて、それじゃあ私は自分の事務作業があるから一旦失礼するわ。……ああ、後、今度こそ帰りに付き合ってよね。まだ例のお店に行けてないんだから」

「……うん、分かった」


 例のお店、って言うのはスイーツ屋さんのことだろう。僕が一緒でなくとも一人で行くとか、他の友人でも連れて行けばいいだろう、なんて思いつつ。そうやって気を遣ってくれたり、僕に関心を向けてくれたりする茜に感謝の念に堪えない。

 いつかこの温情に報いないと、なんて決意を一人固める。


「じゃあ、またね」


 なんて、朝出かけていくような調子で扉をくぐった茜が、扉を閉じる最後の一瞬でこちらを覗く仕草に愛らしさを覚えながら、変わらない日常を噛み締める。できれば、変わっていく日常の味を忘れられるようになんて、傲慢な願いを抱きながら。


「みんな、お疲れ様」


 オフィスに顔を出し、社員のみんなに一声かけてからエントランスホールに向かう。と言っても、ほんの数秒でつく短い道のりだ。それでも、その短い道のりで追いてきた茜は小さく呼吸を乱しながら文句をぶつけて来た。


「ちょっと、どうして待っててくれないのよ」

「この先で待ってるつもりだったんだよ。狭いところで立ってたら邪魔になるだろ?」

「それはそうだけど、駆け足で追いかけてきた私が馬鹿みたいじゃない」


 憎らしそうにこちらを睨んでくる茜の視線に背筋を伸ばしながら、だんだんと遠のいていく夕焼け雲を自動ドア越しに見上げる。


「ちょっと早すぎたかな」

「いいのよ、別に。そこまで急ぐ案件があるわけでもないわ。事業が停滞しないくらいにさっさと切り上げて、余暇時間を謳歌した方がよっぽど為になるわ。他のみんなにも一区切りついたら上がって頂戴って伝えておいたから」

「そっか、ありがとう」


 二人並んで自動ドアをくぐる。湿っぽい熱がゆったりと全身を飲み込んだ。


「それにしても暑いわね。予報だとこれからもっと暑くなるらしいんだけど、どうしてこうも暑いのかしら」

「暑い暑い言ってたら余計暑く感じるぞ。涼しい話題をしよう」

「そうはいっても、涼しい話題って何よ」

「……そうだな」


 言い出してはみたもののなかなか湧いてこない涼しい話題に唸り声をあげながら、気が休まっていくのを実感する。だいぶ、調子が戻って来たと思う。


「スイーツの話とか。これから行くお店、何が美味しいんだ?」

「ケーキはもちろん、バームクーヘンとかアップルパイとか。ありきたりって言ったら聞こえは悪いけど、昔ながらの洋菓子が人気らしいわ」

「なるほどね。会社終わりに甘いお菓子を食べるなんて、僕には贅沢すぎる気がしてたけどたまにはいいかもね。ちょっとテンション上がって来たよ」

「良かったわ。もちろん持ち帰りもできるし、お土産でも買っていったらどう?」


 お土産、って言葉が耳に入ったと同時。全部とは言わないけど、上がっていったテンションが少し鳴りを潜めた。僕には帰る場所があって、待っている人がいる。その人のことを僕は大切に思っているし、待ってくれている人も僕のことを大切に思ってくれているはずだ。

 そう思うと急に、寄り道をしていることに罪の意識を感じてしまう。別に、そこまで気に病むことでもないのだろうけど。


「色々買って行ってあげようかな。美味しそうなもの全部」

「大丈夫? 流石にいい値段するわよ?」


 なんて言いながらも茜は笑ってくれている。


「いいよ。どうせ、僕は所持金のわりに物欲がないことに定評があるからね」

「一体誰からの定評よ。まあ、確かにそんな気はするけどね。たまには散財しないともったいないわね」


 一つ驚いたのは、僕にとっての茜は想像以上に大きな存在だったこと。

 毎日、その一日のほとんどを一緒に過ごしている仁美さんとの間に空いた小さな穴を、その笑顔一つで埋めてくれるくらいには大きな存在だった。

 それと同時に、茜はこんなにも僕に笑顔を向けてくれる相手だったんだなって、純粋に嬉しくなった自分がいた。


 人は一人では生きていけない。だからと言って二人だけで生きていけるかと問われれば、そうともいかない。二人、三人、四人と輪を広げていく中で、きっとのその輪は他の輪と重なっていく。

 そうやってできていく輪を、きっと僕はまだ認識できていないんだ。


「なあ、茜」

「どうしたの?」


 スイーツ屋さんの飲食コーナーで、それぞれ選んだスイーツを食べ始め、一区切りつくまで考えていたことを、僕は小さく口にした。


「ありがとな」

「急に何よ、受け取っておくけど」


 言い終わってからケーキをすくったスプーンに食らいついた茜の顔が、美味しそうに食べて緩むその笑みが、煌めくように装飾されたどのスイーツよりも綺麗に見えた。


「仁美さん、ただいま」


 名前を呼んでおきながら、誰にでもなく投げかけられた挨拶に返す人はやはりいない。鍵を閉め、靴を脱ぎ、玄関の明かりを消し、仁美さんの部屋の前に立った。

 帰りの時間はそこまで遅くなっていない。もちろん、いつもと比べれば寄り道した分遅くなっているけれど、十分程度だ。誤差の範囲、だと思う。


 それでも手を動かすのに数秒の準備を要した。息を整えてから扉をノックする。


「仁美さん、ただいま。お土産買って来たんだ。ケーキ、食べない?」


 仁美さんに見えるわけもないのに、示すようにケーキを入れた箱を持ち上げる。


「……お帰りなさい。食後に頂きます。悪いですが、ご飯と一緒に持ってきてください」

「うん、分かった」


 手元の箱を落としそうになった。

 力なくぶら下がった右手に力を入れ直してから歩き出し、冷蔵庫の中にケーキをしまう。どうしようもない無気力感に蝕まれていく両手に鞭打って作る料理の味は、やはり塩味が濃かった気がした。


 翌朝になって、昨日、寝ぼけながら片付けたケーキの箱を捨てようとしたとき、一枚のメモ書きがあることに気が付いた。恐らく、仁美さんが書いたものだろう。そこには小さな丸文字で、震えたような筆跡で示されていた。

『もう少しだけ、時間をください』

 

 出かける時間になって玄関に向かう。その途中、通り過ぎた仁美さんの部屋の扉に声をかけることはしなかった。


「行ってきます」


 そんな声が聞こえてから、君を探して部屋を出る。やっと見つけた君は、岳さんの部屋の窓際にいた。


「なお、私の愚痴に付き合ってください」

 

みゃ~、と鳴いて見せた君(なお)を抱え、私は部屋に戻る。ベッドに腰を下ろし、君を膝に乗せる。


「岳さん、怒ってませんよね」


 喧嘩別れ、なんて言葉がある。それ即ち、僅かばかりにでも私と岳さんがこのまま距離を置いてしまう可能性はある、と言うことだ。それ以前に私は恐らく思春期で、そろそろ反抗期を迎えることになる。そんな自分が岳さんと接する中で、こんな関係を続けていくことは、自然なことなのだろうか。

 岳さんとは血縁とはいえ、あくまで生まれは赤の他人。数年前まで名前も知らなかったような関係の人と、円滑に続いてきたこの数年がむしろおかしかったのだろうか。


「なんて、馬鹿らしいですね」


 今膝の上に乗っている君だってもとは顔も知らない猫だったはず。それでも私より長い間、岳さんの一緒にいるのだ。生まれも身の上も関係ない。一緒にいたいと思えれば、それだけで一緒にいられる。そこに規則なんてない。

 規則なんてないから難しいけど、規則なんてないから簡単なんだ。


 ただ、今は私が心の準備を出来ていないだけ。


「もう少しだけ、時間をください」

 

 仁美さんがメモ書きに残したその言葉を、片手間に仕事を熟しながら呟く。きっと、心の整理がつかなくて、どう切り出していいのか分からないから。それとも、どうしても冷めない煮えたぎる怒りとか、裏腹に冷め切った寂しさとかに蝕まれていて、その処置をする時間が欲しいのか。

 多分、僕が仁美さんのことを分かれないのと同じくらい、仁美さん自身も自分がどんな状態で、何をしたいのか分かっていないのだと思う。そしてそれは僕も同じだ。


「茜、僕はどうしたらいいんだろう」

「全く……さっきからうわごとのように……五月蠅いわよ、静かにしなさい」

「労ってくれるんじゃなかったのか?」

「流石にしつこいわよ」


 朝からずっとこの調子じゃない、と文句を投げつけてくる茜から視線を外しながら、手元の資料を流し読む。ハンコ一つ押すか否かの采配を前に、やはり仁美さんとの関係をどう修復するかが頭をよぎる。


「人付き合いが苦手な自覚はあったけど、ここまで下手くそだったなんて」

「……別に気に病むことなんてないわよ。私だって、年の離れた相手とのコミュニケーションは苦手だもの」


 少しだけ沈んだ声が耳に入れば、自然と顔はそちらに傾いた。


「今朝ね、お父さんとついに喧嘩になったわ。理由はいろいろだし、言い分はまとまってなかったけど、最後に出ていけ、って言われたことだけは確かでね。身近な人ほど、やっぱり完璧にわかり合うのは難しいし、普段一緒にいるからこそ、些細な衝突で引き離されてしまうものよ」


 そういう茜の表情は声とは裏腹にいつも通りで凛としていた。取り繕っている、のだろうか。もしそうだとしたら、やっぱりこの女は凄すぎる。


「安心しなさい。仁美さんとあんたは似た境遇なんだし、お互い他に身を寄せる相手もいないでしょう? 私とお父さんほどどうしようもなくはならないわよ」

「それもそうだな。悪いな、慰めてもらっちゃって」

「私の愚痴を漏らしただけよ。頑固なオヤジがうざい、ってね」


 柔和な笑みを浮かべた茜は、時々刻々と流れてくるファックスをプリンターから取り出して、ため息交じりにこちらに来る。


「そういうわけだから、日中はちゃんと働いてちょうだい」

「はいはい、分かってますよ」


 少しばかり乱雑に積み重ねた紙の束に片手をついて覗き込んでくる茜の瞳を見上げる。


「返事は一回でよろしい」


 ぷいっ、と逸らされた視線とほんのり赤く染まっていく頬を隠すように背を向けながら。一瞬で表情を取り繕った茜はひらひらと手を振りながら、やはり最後まで覗き込む仕草を取って部屋を出て行った。


「頑張りなさいよ」


 そんな捨て台詞を吐きながら。


「ああ」


 その日の夜、改めて機会を設けようと思った。別に今すぐ、と言うわけではない。その気になったらそうできる準備、それを始めたのだ。

 そのために、僕は今日の晩ご飯を乗せたお盆に、先日に仁美さんをまねてメモ書きをトッピングした。こうやって文通をするだけなら、感情の整理がついてなくても理性的に物事を飲み込めるはずだ。


 十代前半の、一般的な中学生にする対応ではないかもしれない。でも、仁美さんはたぶん一般的とはかけ離れている。大人っぽいだけじゃなくて、ちゃんと賢い子だ。賢いからこそコミュニケーションが難しくなっている一面はもちろんある。だけど、逆に言えばその賢さをしっかりと活かせる場面であれば、それだけ簡単になるはずなのだ。

『仲直りをさせて欲しい。機会を貰えるなら、また連絡をください』

 走り書くように綴ったメモ書きを確認してから、僕は扉の前にお盆を置いた。


「仁美さん、夜ご飯だよ」


 一声かけて、寝る準備を始めた。


「行ってきます」


 今日もまた、そんな声が聞こえた後で君を迎えに行く。

 コップ一杯の水を飲んでから部屋に戻り、閉塞感に嫌気がさして窓を開ける。部屋の扉は開いたままだ。

 風が吹き抜け、エアコンから出る冷房とは違った心地よさが首元を流れる。扇風機の首を回し、循環していく空気と明るくなった部屋を見渡すように、君を膝の上に乗せてベッドに座る。


「空いてますよ、岳さん」


 呟いてみた一言が窓の外に消えてから、私はポケットに入れてあったメモ書きを取り出して読み上げる。


「仲直りをさせて欲しい。機会を貰えるなら、また連絡をください……怒ってなかった、ってことでいいんだよね」


 両手で開いて、安堵の息を吹きかける。胸元に引き寄せて、背中を倒すのと合わせて胸に置く。空いた右手で窓から注ぐ光を遮りながら見上げる天井は、いつにも増して白っぽく見えた。


 君はそんな私の膝から降り、ベッドを経由してお腹の上に乗ってくる。メモ書きの上に前足を乗せて、寝床を探すようにお腹を踏みつける。


「許可もなしに飼い主をベッドにしないでください」


 文句をぶつければ、君は一声鳴いてからそのまま丸まって眠りについた。なんとも肝の据わった飼い猫だ。


「ベッドに寝転ぶ飼い主をベッドにするペット……何言ってるんだろう」


 なんとなく思いついた言葉の羅列を発してから、何が面白くて言っているんだと恥ずかしくなる。


 久しぶりに自分で部屋の片付けをした。散らかっていた勉強机の上も整理して、今はやりかけの夏休みの宿題と使いかけの筆記用具が並んでいる。実は昨日半日、岳さんが出かけている間お外に干しておいた掛け布団はふわふわで、仕上げに換気を。

 恐らくは初めて、自分なりに部屋を掃除した。そんな、少なからず綺麗になったはずの部屋で達成感と一緒に寝転ぶのはとても心地よい。でもそれと同じくらい、虚無感に包まれて心地悪い。


「吐きそう」


 とりあえず口にする。数秒後、肺の奥底から重たいため息が吹きあがる。なんか、もやもやも一緒に噴き出た気がした。君がお腹を圧迫してくれたおかげかもしれない。


「明日、お話ししましょうか」


 君の踏みつけるメモ書きを見ながら呟いた声は、熱っぽい風に吹かれて散って行った。


 木曜日の朝、久しぶりに仁美さんの顔を見た。


「お、おはよう、仁美さん」

「岳さん、おはようございます」


 でも、いつもの仁美さんとはどこか違った。いつものような寝癖は見えないし、顔もしっかり洗ってあるのか眠気を感じさせない。服もしっかり着替えていて、その真っすぐな視線をこちらに向けていた。


「今日は、出かける前に一つお話したいことがあります」

「な、なんでしょうか」


 仁美さんの凄みに慄きながらも、僕は勧められるがままにソファに座る。仁美さんも僕の隣に座り、一呼吸着いた。そしてこちらを見上げてゆったりとした口調で言う。


「この前は、すいませんでした」

「い、いえ、こちらこそ……」

「ですが、やっぱり……すぐには仲直りできそうもありません」

「うぅっ、ごめん」


 突きつけられた罪状を前にうめき声しか盛らせない僕に向けて、仁美さんはため息を一つ吐いた。


「ですが、私も理不尽なことはしたくありません。条件です。今週の土曜日、岳さんの大事な仕事が終わるまで、私は部屋に引き籠ります」

「……うん」

「そして、日曜日になったら、またいつも通りにしてください」


 たった一瞬も目を逸らさずにそう言い終えた仁美さんを前に、僕は安堵と、そして情けなさを覚えた。

 仁美さんは、僕よりもずっと大人だ。


 思わず口を噤んでいると、その間を埋めるためか、それとももとより話そうとしていたのか。どちらにしても、仁美さんは気まずそうに俯いてから言葉を続けた。


「これも私の我儘です。やはり私にも原因があるので、こんな口調ではいけないと思いました。なので、お願いです。また、いつも通りにしてくれませんか?」

「……もちろんだよ。僕も仁美さんと仲直りがしたい」


 僕がそう返せば、仁美さんはこちらを見上げ、微笑を浮かべながら言うのだ。


「良かった」


 そう呟いて安堵の息を吐いた僕に、茜も優しい笑みを浮かべて見せた。


「ええ、そうね。でも、仁美ちゃんに言ってもらうんじゃなくて、自分で言いなさいよ」

「そのつもりでいたんだけどね。仁美さんが想像以上に大人だったんだよ」

「大人、ねぇ」


 仕事の合間の昼休憩、茜を誘ってお弁当を食べながら今朝の件について話をした。茜も関係がないわけではないし、改善傾向にあることを知ったら、茜も気負わなくて済むかと思ったからだ。

 しかし、僕が安心するのとは裏腹に、茜は少しまじめな表情を浮かべて手元のお弁当を見つめていた。


「大人って言ってもね、限界があるわよ」

「限界? それはどういう意味なんだ?」

「簡単に言えば、大人っぽい子どもは確かにいるし、そういう子は私たちよりも賢かったり、冷静だったりする。でも、それは子どもが大人になり切ろうとしているだけ。実際には、どれだけ表面が大人っぽくても、子どもは子どもで、どこかで無理をしているものなのよ」

「……それは、そうかもね」


 正直に言えば、なんとなく感じていた。仁美さんはどこか無理をしている。僕と対等であるために、もしくは、僕と一緒であるために。

 親のいない仁美さんにとって、僕はきっと親ではない。年の離れた親戚、よくても友人くらいにしか思われていない。僕は甘えられる対象ではないのだ。だから、仁美さんは僕に対して建前を使ったり、愛想笑いを浮かべたりしているのかもしれない。

 そしてそれは、仁美さんにとっての負担になっているかもしれない。


「……分かっているのならいいのよ。あんまり無理をさせないで。あの子だって、楽しい夏休み、ずっと気を張っていたなんて思ってないわよ」

「うん、そうだね。僕も、どこかで連休を取って旅行にでも連れて行こうかな」

「ふぅん、いいじゃない」


 素っ気なく返し、茜は箸を進める。その横顔を数秒眺めてから、意を決して誘いを投げかける。


「……仁美さんも茜なら一緒に連れて行ってもいい、って言ってくれるかもね」

「何よ、私に来て欲しいの?」


 僕の言葉に悪戯っぽい笑みを返した茜に、相変わらずガードが堅いなと思いつつ、素直に言葉にする。


「まあね。日々のお礼もあるし、今回はだいぶ迷惑をかけたからね」

「あらそう。まあ、本当に仁美ちゃんが良いって言うならいいんじゃない? 私だって息抜きくらいしたいしね」

「良かった。今度確認してみるよ」

「いいの? また機嫌を悪くするかもしれないわよ」

「大丈夫だよ。そんなことで機嫌を悪くする子じゃないから」

「考えておくわ」


 それだけ言ってお弁当を片付け始めた茜を、頬杖を突きながら見上げていると、茜は小さくため息を吐いて、頬を淡い赤に染めた。


「どうせなら、私は二人っきりがいいけどね……冗談よ」


 恥ずかしくなったのか早足に去って行った茜の背中。そこに揺れる髪を見ていると、やっぱり過るのは純白のヘッドドレス。手の届かない高嶺の花も、こうもあちらから手を伸ばしてくれるのなら、摘んでみようと思えるものだ。


「まず、仁美さんと仲直りしないとな」


 一人呟いて立ち上がり、午後の仕事を終わらせるべく伸びをした。


「ごめん、泊めてくれない?」


 その日の夜、太陽が完全に沈み、お風呂にでも入ろうかなと考えていた頃、チャイムが鳴った。こんな夜に誰だろうと思いつつ覗き穴を見てみれば、そこには見知った顔が映っていた。


「茜、どうしたんだ急に」

「出ていけ、って言われたのよ。昨日言ったでしょう?」

「うん、知ってる。でもてっきり、友達のところにでも泊めてもらったのかと」


 茜は昨日、ついにお父さんと喧嘩して家を追い出されたらしい。茜の父はとある企業の重鎮を務めている、と言う話を聞いたことがある。そのため実家も大きく、立地的にも不便がないため茜は生まれてこの方実家以外で暮らしたことがないはず。

 追い出された、って話を聞いたときは心配になったけど、器用な茜のことだ、何とかするかなと思っていた。実際今朝は元気そうにしていたし、別れ際も特段困った様子ではなかった。


「昨日はホテルに泊まったんだけどね……やっぱり勝手が違い過ぎるのよね。性に合わないし、二日連続で泊まるってことを考えたら、エントランスで足が竦んじゃってね」

「それは分かったけど……だからって俺のところに来るのか? 仁美さんもいるし、立場的に色々問題があるんだが」


 異性同士であるとかそんな幼稚な問題もあるが、それ以上に仮にも社長と社長秘書だ。スクープされるほどの大企業ではないが、万が一と言うものがある。


「……それは分かってるわよ。けど、私のメンツも考えて欲しいわ。親に追い出されたなんて子ども臭い話、今更誰に出来るのよ」

「俺にしただろう」

「あんたは立場があるでしょう? 社長くらい私の所在を知らないと困るじゃない」

「そう言うものか?」


 何か引っかかるものを感じながらも、とりあえず茜を家の中に入れる。夏とはいえ、風が吹けば夜は涼しい。あまり女性を外に立たせておくことは出来ない。


「まあ、とりあえず適当に座っててくれればいいよ。仁美さんにも、事情を伝えておく。紅茶でいいか?」

「ええ、ありがとう。……悪いわね、夜分遅くに」

「別にいいよ、迷惑ってほどでもない」


 実際、この程度のことはなんてことはない。僕は仮にも社長で、とっている部屋もそれなりの広さがある。まあ、この部屋を借り始めた当時は親の資産から出していたが、今はすべて自分で払っている。

 人一人を泊めるくらいなんてことはないし、その相手が茜ならなおのこと、別段嫌な気はしない。


 紅茶を淹れるために電子ポットの電源を入れてから、スマホを取り出して仁美さんに茜が今晩泊ると言う旨を事情と共に送信する。しっかりと事情を報告しないと仁美さんは勘違いしそうだし、その勘違いが無用な争いを起こしかねないので出来るだけ懇切丁寧に説明した。

 すぐに既読が付き、分かりました、と言う旨の連絡が返ってくる。ついでに、どこか不満そうな表情のスタンプが添えられていた。


 これだけで済むのなら、可愛いものだ。


 電子ポットの音が鳴り、寄り添ってくる君の頭をなでてから紅茶を淹れる。ソファ前のローテーブルに二人分の紅茶を並べ、茜に勧める。


「隣どうぞ」

「……ええ」


 少し間をおいてから返事した茜は、返事をした後も多少の躊躇を見せ、そうしてからゆっくりとソファに腰を下ろした。

 そして茜が腰を落ち着け、一呼吸着く間もなく君が茜の膝の上に寄って来る。


「な、何よこの子。人懐っこいのね」

「猫は苦手か?」

「別に苦手じゃないけど、こうも急に甘えられると」

 

 君に頬擦りされる茜は珍しく動揺し、困った様子でこちらに視線を向けてくる。助けて欲しそうな瞳ではあるが、ここはひとつ、茜にも君と仲良くなってもらおう。


「緊張することはないぞ。君(なお)は噛んだり引っかいたりはしないから。優しく撫でてやってくれ」

「な、なおちゃん? 変わった名前ね……」


 そんなことを言いながら、茜は恐る恐ると言った感じで君の頭に手を伸ばす。

 やはり猫と触れ合うのは慣れないのだろう。その手つきはだいぶぎこちない。それでも君は逃げたりしないし、茜も嬉しそうに頬を緩める。気持ちよさそうに目を細める君を見ながら、ああ、やっぱり君は可愛いな、なんて他人事のように思う。


「それで、どうする? お風呂は沸いてるけど」

「……私に裸になれと?」

「別に変なことはしないよ。出来るはずもない」

「それもそうだけど……まあ、疲れてるし入らせてもらっておくわ」

「ああ、仁美さんはもう入った後だし、ゆっくりどうぞ」


 少し遠慮がちに立ち上がった茜に風呂場の位置を教え、鞄を持って向かった茜を見送ってから僕は再びソファに沈む。今度は僕の膝の上に乗って来た君の頭を撫でながら、天井を見上げて少し考える。

 この部屋なら、別に三人でも暮らせる。仁美さんは人見知りこそするが訳もなく人を嫌うことはない。なんだかんだ茜を嫌ってはいないだろうし、茜も満更でもないと思う。当然、僕自身も。三人で一緒過ごす日々も、想像してみれば悪くない。


「なんてな」


 スマホを取り出して画面を覗く。カートに入れてあった品物の詳細をしっかり確認して、土曜の夜に間に合うように注文する。決して安い買い物でもないけど、やはり僕は物欲が少ないほうの人間だ。たまに高い買い物したって、何の問題もないだろう。

 それに、お金を気にするような場面でもない。


 購入ボタンを押して、急に重量を増したスマホを叩きつけるようにソファに置く。二度三度と跳ねたスマホが落ち着くころには、僕の瞼はゆっくりとだが閉じ切っていた。


「悪くはない、かな」


 瞼の裏でこれからのことを少しだけ想像し、襲ってきた微睡みに対抗する気力も沸かないまま、僕の意識は更に深くソファに沈んでいった。


「――っと、ちょっと岳、起きなさい」


 誰かに肩を揺すられ、名前を呼ばれているようだった。

 微睡む視界とは裏腹に、一瞬で覚醒した意識の中で茜を認識する。


「茜? ああ、そうか、俺寝てたんだな」

「そうよ、全く。その様子じゃお風呂も入ってないんでしょう? 夜遅くに押し掛けた身で言う事じゃないのは重々承知の上だけど、明日も仕事なんだしさっさとお風呂入ってしっかり寝なさい。明後日の支度、ちゃんとしないとでしょう?」

「それもそうだな、そうするよ」


 だんだんとはっきりとしてきた景色に映る湯上り美人。その外観が鮮明になるのを恐れるように、僕は足早に脱衣所へと向かう。寝起きにあんなものを見せられたら、どう抑制しろと言うのだ。

 スッピンでも可愛いとか、ズルだろ。


 全く、これだから無自覚は怖い。


「はぁ、何とか誤魔化せたかな」


 脱衣所の方へと消えて行った岳は、まだ完璧に目が覚めている様子ではなかった。特に何を言ってくることもなかったし、終始私の顔を見ることもなかったと思う。

 お風呂から上がって、ソファで君(なお)ちゃんと一緒に寝こけている岳を見つけて。岳を起こしている最中でノーメイクだったことに気付いた。出来るだけ分からないように光の当たる角度とかを工夫したけど、取りこし苦労だったようだ。


「まあ、あいつが私のメイクとか、気にしてるとも思えないけどね」


 いつだって鈍感な友人の顔を想像しながら、足に頬ずりしてきた君(なお)ちゃんを抱き上げる。


「あなたのご主人様はいつもああも自堕落なのかしら? それとも、最近仁美ちゃんとうまく行ってなかったり、私が突然押しかけて来たりしたから疲れちゃっただけなのかしら? まあ、どっちでもいいけどね」


 抱き上げても暴れることなかった君(なお)ちゃんを膝の上に乗せ、後になって岳が出てきたら、どうやってスッピンを隠すかな、なんて考える。ああでもない、こうでもないと数秒考えていると、そのうち君(なお)ちゃんが私の膝から降りてリビングの入り口の方へと向かって行った。


「どうしたの?」


 返事がないのを分かりながら問いかけ、君(なお)ちゃんを目で追う。そしてだんだんと上がっていく視線の、そこに映る景色の最上部に白くて細い足が見えた。慌てて視線を上げると、そこにはパジャマ姿の仁美ちゃんがいた。


「茜、スッピンでも意外と美人ですよね」

「意外は余計よ、意外は……こんばんは。突然お邪魔してごめんなさいね」

「別に」


 仁美ちゃんはそれだけ答え、君(なお)ちゃんを抱き上げてこちらに歩いてくる。そのままの格好で私の隣に立ち、間を開けてからぼすんっ、と音を立ててソファに座る。


「いいの? 岳来るわよ」

「岳さんは長風呂だから当分出てきませんよ。だからこそ茜に先を譲ったわけですし」

「そうなの? 意外だわ。シャワーだけで済ませちゃう人かと思った。ほら、岳適当だから」


 互いに視線を合わせることはない。私は仁美ちゃんの頭上を見ているが、仁美ちゃんは君(なお)ちゃんを見下ろしている。


「そんなことないですよ。人一倍清潔には気を使いますし、健康に気を付けているのでご飯はすべて手作りです。言葉遣いも人当たりも柔らかいですし、生真面目で几帳面な人ですよ」

「……それ、誰の話?」

「もちろん岳さんですよ」


 淡々と、それこそ岳の言うように、まるで子どもでなくなった子どものようにつらつらと言葉を放つ仁美ちゃん。


「あの人、外では、と言うより茜の前ではガサツな人になるんですね」

「私の前だけじゃないと思うわよ? ガサツだし、色々適当で、投げやりで、情熱を感じなくて。何というか、無関心な人よね」

「それ、誰の話ですか?」

「だから岳だって」


 先ほど、似たようなやり取りをした気がする。

 そのやり取りの後で数秒間が開く。慌てて埋めようとも思わない穴を、仁美ちゃんは丁寧に埋め始める。


「岳さんは、私に対してだけ特別な態度をとっているわけではありません。相手にとって、それが不愉快や不誠実でないのなら、きっとどんな所でも私の知る岳さんになり、茜の知る岳さんになります。でも、これは珍しいことではありません。私だって、人によって態度を変えます」

「その言い方はどうかと思うけどね」


 思わず苦笑いを浮かべれば、仁美ちゃんの声のトーンも少しだけ上がる。


「なので、茜ならここにいてもいいですよ。私とこの子だけでは、岳さんの表情は引き出しきれないので」


 そう言って、仁美ちゃんはこちらを向いた。それだけ言って、君(なお)ちゃんを私の膝の上に預け、立ち上がる。


「それではまた。イチャイチャしてもいいですけど、私の視界に入らないところでにしてください」

「し、しないわよ。明日も仕事だし」

「仕事じゃなかったらどうしていたんですか?」

「……どうもしないわよ」


 この子は本当に、大人らしいな。


「では、おやすみなさい」

「ええ、おやすみ」


 そんな私の声を背中で受け止めて、仁美ちゃんは去って行った。台風のような子だったな。今思えば、さっき君(なお)ちゃんを撫でていた安らかな時間は、嵐の前の静けさと言うやつだったのだろうか。

 なんて思いながら、私はスマホを取り出してカメラを起動し、内カメにして覗き込む。


「スッピン美人、か」


 呟いてみて、思い出す。鏡に映る自分の顔の上に、薄っすらと茜の顔が。メイクと言うのは、やはりがらっと印象を変えるらしい。普段の凛とした顔つきが、メイクなしだとああも幼げに映るものか。普段との対比が大きいのか、純粋に茜が童顔なのかは分からない。

 けれど、そうだな。知っている人の知らない一面と言うのはきっと、綺麗でなくとも心に来るものがあるのだろう。それが綺麗だったなら、なおのこと。


 心を落ち着けてから脱衣所を出て、茜の顔を正面から見ないようにするにはどうすればいいだろうと考える。


「考えても仕方ないか」


 平然を装おう。もしくは、どうせ明日の朝も見るのだから見慣れてしまおう。もし茜がもうしばらくここに泊まるつもりでいるのなら、それこそ見慣れてしまうほうが気楽だろう。

 先ほども思ったが、知らない一面だからこうも心臓に悪いのだ。見知った顔にすることが出来れば何も動揺することなく、それこそ見つめ合っても真顔を保てるはずだ。

 やっぱり自信ない。


「茜、上がったぞ」


 一声かけながらリビングに入ると、スマホを覗き込む茜の姿が見えた。何か小さく呟いているようだったが、その呟きを拾えるような距離でもなかった。


「えっ、あっ、岳」


 少し驚いた様子で顔を上げ、困ったような表情で茜がこちらを見つめた。必然、僕も茜の顔を直視することとなる。数秒視線を重ね、僕は思わずそれを逸らしてしまった。

 一瞬後になって後悔する。なに目を逸らしてるんだ、と言う非難の声を待つ数秒が過ぎ、互いに無言の数秒が流れた。不思議に思って茜の方を見ると、僕と同じく、恐る恐ると言った様子でこちらを覗いていた。


「な、なに目を逸らしてるのよ」

「……そっちこそ」


 確かに予想していた言葉ではあったが、この状況は予想していなかった。


「いや、別に……ノーメイクだし、ちょっとね。そっちは何でよ」

「僕もノーメイクだし」

「それは常時でしょ」


 こんな時でも突っ込みは鋭かった。


「……見知った人の見慣れない顔を見るのは、なんか気恥ずかしいんだよ」

「っ、な、何言ってるのよ」


 俯きながら、それでも茜の顔を視界に収めながら言えば、茜も頬を赤くして顔を背けてそう毒づく。一瞬映ったその頬は、覆うものがないからかいつもよりはっきりと赤くなっているように見えた。


「……変なこと言ってないで早く寝ましょう。明日だって仕事なんだし」

「そ、そうだな。空いてる部屋があるから、案内するよ」

「ええ」


 茜の返事を聞いてからリビングを出て、しばらく使っていない部屋の扉を開ける。電気をつけ、異常がないか辺りを見渡す。部屋にあるのはベッドと作業机、クローゼットくらい。もともとは作業用の部屋として使っていたが、使わなくなって短くない。

 それでもこまめに掃除はしていたし、特に異常は見当たらなかった。


「じゃあ、ここを使ってくれ」

「いいの? ここ、岳の部屋じゃないの?」

「違うよ。僕のは別にある」

「ふぅん」


 茜は興味なさげに呟きながら僕の脇を通って部屋に入り、視線を右往左往とさせた後、満足そうに振り返って素っ気なく言った。


「ん、ありがとう。それじゃあおやすみ」


 いつもの調子の茜に思わず頬を緩ませながら。交わしたことのない会話に浮き立つ足を押さえつけ、何とか踏みとどまりながら口を開いた。


「おやすみ」


 翌朝。

 朝のシャワーを浴びている茜と遭遇、みたいなイベントは発生せず、しかし、少なからず事件が発生した。顔を洗おうとして洗面所に向かったところ、先客がいた。


「あら、岳。おはよう。おかげでよく眠れたわ」

「お、おはよう」


 こんな場所とタイミングで交わすと思っていなかった挨拶と、起き抜けでも凛とした茜の佇まい。そして、やはりメイクを終えているのだろう。いつも通りの茜を、いつも通りではない場所で見る違和感が、僕の息を多少なりとも乱す。


「勝手に使っちゃったけど、ごめんね。私、朝は早いし、支度も早く終わらせたい質で」

「ああうん、構わないよ。ちょっと待ってて、朝ご飯はすぐに作るから」

「そう、期待してるわ。私は部屋で支度してるから、何か用があったら声かけて」


 そう言って出て行く茜の入れ違いで洗面所に入りながら、僕は新たな感覚で高鳴る心臓を押さえつけるように胸元に手を当てる。


「まったく、本当に心臓に悪い」


 同棲しているカップルは、こんな感覚に陥ることはあるのだろうか。なんて考えながら顔を洗った。


「あら、意外と手が凝ってるのね」

「流石に多少は意識したけど、まあ毎日こんな感じかな」


 朝食の支度を終え、茜を呼びに行くと既に出かける支度を終えていた。いつも通りのスーツを身に纏い、髪も纏め、鞄も持った状態で部屋から出て来た時は多少なりとも驚いた。僕はいつも朝食を食べてから支度をして、さらに少し時間をおいてから出かけているのだ。

 そんな茜の生真面さに支えられてきた身としては、どうしたって頭が上がらない。


「仁美さんの分を運んでくるから、先に食べてて」

「ああ、待って。私が持っていくわ」

「え、そう?」


 ここ数日の習慣となっていた配達用のトレーを抱えたところで茜が待ったをかける。こちらに近寄り、お盆に手をかけて言う。


「仁美ちゃんとは話したいことがあるし、改めて挨拶くらいしておかないとね」

「茜は律儀だね。そう言うことなら任せるけど。部屋の場所は分かる?」

「一応ね」


 お盆を受け取った茜は小さく笑みを見せた後でリビングから出て行った。しばらくして扉をノックした音が聞こえたあたりで、僕はお言葉に甘えて先に朝食を食べ始めることにした。しばらくして、朝食の片づけを始める頃になって茜は戻って来た。


「お帰り、どうだった」


 なんて聞いてみるのは、茜の表情は一切変化しないすまし顔だったから。


「元気そうで安心したわ」

「それは良かった。ちょっと待ってて、冷めちゃいけないと思って一旦片付けたから、今出す」

「ええ、ありがとう」


 茜がダイビングテーブルに座るのを見ながらご飯を盛り直し、みそ汁を汲み直す。出来上がった朝食を前に手を合わせた茜を見てから、僕も出かける支度を開始した。


「ご馳走様、美味しかったわ」

「お粗末様。……どうする? 僕は少し時間をつぶしてから行くけど」


 茜が朝食を食べ終える頃には支度を済ませていた僕は、洗面所で茜の分の食器を受け取りながらそう聞く。


「岳がいつも着くくらいの時間に間に合うのなら、一緒に行きましょう。同じ場所から同じ場所に行くのだし、いいでしょう。別に」


 いいでしょう、って言葉に込められている意味も、別に、って言葉で誤魔化した本音も推し量ることは簡単で。だからこそそれを聞く必要もなくて、僕自身、聞かれたくなくて。


「茜がいいなら僕もいいよ」

「そう、それならそうしましょう」


 それだけ言ってソファに腰を下ろした茜はスマホを開いて視線を落とす。その様子を眺めながら手元の作業を進め、やはりいたたまれない現状から逃げるように流れる水の音に意識を向けた。

 それからは、あまり意識せずに日常をなぞれた。


 一緒に出勤、と言う小学生の一斉登校以来のようなことをしながら向かう過程では、当たり障りのない談笑でその場を繋いだ。唯一の救いは普段からよく互いの近況や話題になっている物事について語り合う間柄であったために気まずい間が空いたりはしなかったことくらいか。

 会社についてからは多少社員に一緒に来ていたことに言及されたが、偶然出会ったと言ってしまえば収まるほどのコンテンツだ。すぐに消費されつくし、いつも通りの業務内容を熟していくだけとなった。


 そして、帰り道。明日のパーティーに持っていく資料や事前の準備のための荷物が増えたこと以外は大した変化もなく、俺は茜を連れて帰路に就いた。しかしまあ、途中まで一緒に帰ることは珍しくないとはいえ、目指す場所が同じとなると多少は意識してしまうものだが。


「今から帰って夕食の支度をするの? 大変ね」

「茜も一度一人暮らしをしてみればいいよ。最初は慣れないかもしれないけど、案外自炊もいいものだよ」


 ずっと実家暮らしだった茜には自炊の経験も、なんならスーパー等の使用経験もないかもしれない。


「今日は買い物をしていく日だけど、一緒に来る? 先に帰っててもいいけど」

「いいえ、一緒に行くわ。食事だってお世話になっているんだもの、手伝いくらいさせなさい」

「そう? なら一緒に行こうか」


 茜を連れ添ってスーパーに立ち寄る。うちの会社は特段服装に拘っていないが、茜の方はスーツ姿だ。俺のそれもだいぶ緩めだがスーツの類と言えなくもない。仕事帰りの男女が二人でスーパー、と言う構図が見事に出来上がったわけだ。

 それ自体はそこまで珍しくないのであろうから、特に視線を集めることもない。ただ、自分がそういう状況下でスーパーにいることに、やけに注意を割いてしまうのは男女経験の少ない俺の悲しい性なのだろうと思う。


「それで? 何を買うの?」

「特に決めてないけど、栄養バランスがよさそうなものを、出来るだけ安く買うように意識しているよ。僕だって何も家事のプロじゃない。聞かれて答えられるような知識はあいにく持ち合わせていないよ」

「そう。まあ、いつも通りにしてちょうだい」


 そんな言葉を頂いてからは普段通りに店を回り、よく見る定員さんに会計をしてもらった後で商品をマイバッグに詰め、そのまま帰路に着いた。しかしやはり、このまま一緒に帰るのだと意識すると、隣が気になるもので。

 スマホを覗きながら歩く茜に、嫌でも視線を寄せてしまう。


「……何よさっきからちらちらと。私に何か言いたいことがあるの?」


 薄く睨むようにそう言いながら茜はスマホをしまった。 


「ああいや、そういうわけじゃないけどさ。こんなところを知り合いにでも見られたら、勘違いじゃすまないだろうなぁ、って」

「……ふんっ、勘違いさせておけばいいのよ。みんな根も葉もないうわさ話が好きなのだし、仕方のないことよ」

「誰のせいでその可能性が生まれているのか考えて欲しい」


 なんともまあ無自覚な人だ、と思う。茜は強気でいて真面目、いつでも落ち着き払っているクールビューティーと言えなくもないが、都合の悪いことは徹底的に無視すると言う悪すぎる癖がある。

 日常会話においても幾度それに皮肉を拒まれてきたか分かったものじゃない。が、それも茜のいいところだと思う。都合の悪いことにばかり目を向ける僕とは真反対だが、それはそれでよいのだろう。


 きっと、僕と茜の間にあるそんな些細な問題も、僕たちを繋ぎとめる糸の一本なのだと改めて思う。


「それはそうと、明日、大丈夫なんでしょうね」

「え? ああ、それはもちろん。念入りに準備したから大丈夫だと思うよ」

「……そう、ならいいけど」


 それは、どこか不満そうで、かつ納得するような返事だった。噛み砕いて飲み込むころには、不満そうだと思った感覚はどこかへ流れていき、僕は少しの違和感と共にその言葉を受け取った。


「茜はどうする? 僕は一日家を空けることになるけど、部屋は自由に使ってくれていいよ。鍵も渡しておく」

「いいの? あまりに不用心過ぎないかしら」

「僕は、茜が何か僕によからぬことをしてきたら、まず間違いなく人間不信になって実家から出られなくなるね」

「……あなたにとってのそれは、居場所のないのと同じでしょ」


 笑みを含もうとして、茜にはそれが出来なかったらしい。どこか痛ましそうな表情を浮かべながら、同情っぽくそう言ってくる。その答えに曖昧に応えながら――


 ――その言葉の裏に込めたつもりの思いを、自分の中でだけ響かせる。


 隙間を埋めるような談笑を交わすうち、いつもよりも短く感じた帰り道を歩ききり家へと帰る。時刻を見てみれば普段よりも遅れていて、楽しさは恐ろしいと改めて思う。


「ただいま」

「……ただいま、で合ってるかしら」

「もちろん」


 二人揃って無人の玄関に帰宅を告げる。鍵を閉め、靴を脱ぎ、リビングへと向かう。急かす空腹感に引かれるようにキッチンに向かい、買いだした品々の内冷蔵、冷凍が必要なものだけを冷蔵庫にしまう。

 手を洗い、包丁とまな板を用意しながらリビングでソファに座る茜に問いかける。


「さて、今晩は何を作ろうかな。茜、リクエストある?」

「なんでもいいわよ……どうせ、しばらく岳のご飯を食べ続けることになりそうだしね」

「それなら、いつも通り適当に作ろうかな」


 仁美さんのためと思いながら作る料理が、茜と仁美さんのために作る料理へと変わっていることを自覚しながら。やはり、誰かのためと意識して作る料理は気分がいいなと呟く。それを聞いてか、茜の横顔に優しい笑みが浮かんだ。


「お風呂沸いたけど、どうする? 仁美さんが先になると思うけど」

「そうね、二日連続で家主を最後にさせるのもどうかと思うし、先に入って頂戴」

「了解。それまでは適当に時間を潰しておいて」

「ええ……ああ、そうだ。岳がお風呂に入っている間は仁美ちゃんとお話ししておくわ。少し仲良くなれた気がするの」


 夕食後、ソファで並んでテレビを見ながら茜に聞くと、そんな答えが返って来た。仁美さんとはちょうど疎遠になりかけていたし、仁美さんに僕以外の親しい人が出来るのは素直に嬉しい。しかも同姓だ、僕に話せないことも行く行くは茜に相談するようになってくれれば僕としても気が楽だ。


「それは良かった。これからも仲良くしてくれると嬉しい」

「ええ、もちろん。仁美ちゃんは賢い子だし、いつかはうちで働いてほしいくらいね」

「……コネ採用はしないでくれよ?」

「あら、親代わりの癖に厳しいのね」


 厳しいのね、ではない。立場が立場なだけしようと思えばできてしまうのが恐ろしいが、世間体的にも企業理念的にもダメなものはダメだ。まあ、そんなことをしなくても仁美さんなら会社の面接に乗り込んできそうなものだけど。

 そうやって正規の方法で入社してくれるのなら、僕としても喜ばしい限りだ。一つ問題があるとすればそれが現実となった場合、収入減が一つの会社に限られるせいで僕の采配一つで一気に一文無しになりかねないことだ。


 なんて、意地でもそんなことにはさせないつもりでいるのだが。


「……なんだかんだ言って、楽しみね」

「そうだね。みんなで楽しく働ける職場って言うのは、昔から目指していた場所だったし」

「仕事が楽しいものになるなんて、小さい頃は想像もしてなかったわ。これも、なんだかんだ言って業務をさぼり続ける社長のおかげなのかしらね」


 悪戯っぽい笑みを浮かべながら、茜はそんなことを言ってくる。


「そうだったらいいけどね」

「あら、反論はしないのね」

「出来ないの間違いかな」

「潔いことね」

「素直って言って欲しいかな」


 そんなとりとめない会話の途中で響き始めたシャワーの音をBGMにしながら。

 いつかあり得るかもしれないと妄想していた光景を、自分が体感している現状に酔いしれる。緩まっていく心のどこかで引き留める現実を見た理性も、今だけは休んでくれていいのだと、隣で囁いているように感じる。


「開業当時はもっとやる気があったものなのだけれど」

「何事も最初が肝心なんだよ。鉄は熱いうちに打つ。そうすれば冷え固まっても、それが停滞する平行線上で、必ず報われるんだから」

「あら、もう冷めちゃったの?」

「何度でも熱し直せるさ」


 ちょうど、だんだんと熱くなっているところだよ。そんなことを考えながら。


「まあ、とりあえず明日頑張りなさい。応援してるわ」

「ありがと。茜にも、仁美さんにも迷惑をかけたんだ。必ずうまくやるよ」

「期待しておいてあげる」

「励みになるよ」


 軽い調子で会話が弾む。口数の少ない僕にとって、これだけすらすらと言葉が流れるのは珍しいと言える。それを自覚しているからこそ、やはり確信を持って言えるのだ。


「そう、それは良かった」


 隣で浮かんだその笑みが、ずっと前から好きだったのだと。


 それから続いたしばらくの談笑の後、仁美さんからお風呂から上がった旨を伝える連絡があった。それを見て立ち上がり、茜に一言。


「じゃあ、先にお風呂行ってくる」


 そう言って岳がリビングを出たのを確認した後。少し間を開けてから私は仁美ちゃんの部屋を訪れた。


「失礼するわよ」

「失礼するなら帰ってください」

「屁理屈はいいわよ」


 ノックをしてから部屋に入れば、仁美ちゃんは勉強机に向かって黙々と右手を動かしていた。私への返答も、一瞥もくれずに投げやりだ。本当に切羽詰まった様子で、何としてでもやり遂げると言う覚悟が背中に溢れている。

 小さな背中に流れる長い髪と同じくらい、その可愛らしい顔つきには似つかない真剣な態度だ。見直した、と言っては失礼になるのかもしれない。仁美ちゃんは元来より、きっとあれくらい根が真面目で根気強い子だったのだろう。

 そういう一面を、普段からは見せてくれないっていうだけで。


「どう? 順調?」

「一言で言えば、ぎりぎり、ですね」

「そう。でも感心したわ、そんなに頑張れる子だなんて思ってなかったもの」

「……」


 その右手の動きは緩めないまま、仁美ちゃんは少しだけ考え込むように間を開ける。


「……物に釣られただけの、単純で強欲な子なだけですよ」

「あら、自己評価が低いことね。面接では減点ポイントよ」

「面接を受けているつもりはありません」

「それもそうね」


 意地っ張りで理屈的。一見お堅いようでそれは瘦せ我慢のようにも思える。ただ、それだけ自分を追い詰めてまで何かに全力になれると言うのは、一種の評価されるべき才能であり、努力だ。

 そして自分を律して何かに取り組めるその性格は社会人として評価されるべき点である。私が人事の担当だったとして、仁美ちゃんが面接に来たら贔屓無しでも合格にする気がしてしまう。


「明日、岳は午後の四時頃には用事を終わらせて帰ってくるはずよ」

「そうですか。まあ、私は優秀なのでそれまでには終わりますよ」

「そう。後、明日私は一日中フリーだから。何かあったら言いなさい。手伝ってあげるから」

「では、パンと牛乳をお願いします」

「パシリにしていいとは言ってないわよ」


 なんと図々しいことだ。しかもこれがやはり勉強机に向かいながらであるので、多少なりともイラついてしまった。けれどまあ、確かにこれだけふざける余裕があるのなら心配せずとも大丈夫なのかもしれない。


「ま、無理しないように頑張りなさい。あなたが寝込んだりしたら本末転倒なんだから」

「ご心配ありがとうございます」


 そんな素直な感謝を聞いた直後、私は脳内で次に飛んでくる皮肉を想像した。息継ぎの仕方とか、彼女の性格からして感謝に続くように何かしら私の感動を真っ向からぶっ壊す一言が飛んでくるだろうと予測したからだ。

 でも、それはいい意味で杞憂に終わった。


「もし茜がいなければ私はこうも躍起になって取り組んでいなかったでしょう。それに、岳さんだって迷いながらお仕事に取り組むことになったかもしれません。本当にありがとうございます」

「仁美ちゃん……」


 予想外の言葉を聞いて、私は思わず名前を呟いていた。台無しにされると思っていた感動が、むしろ増幅して私を満たしているとさえ思えた。出来れば目と目を合わせて言って欲しかったけれど、今は集中しているのだろうし、高望みはしない。

 そんな現状に満足感を覚えていると、仁美ちゃんが付け足すように口を開いた。


「まあ、茜が岳さんにお仕事の話をしなければそもそもこんなことにはならなかったんですけどね」

「……仕方ないでしょう。仕事なんだから。給料が掛かってんのよ」

「冗談です」


 結局、感動は粉砕された感覚だ。

 でも、まあ。さっきの感謝の言葉は本心のように聞こえたし、いいことをしたと思って満足しておこうと思う。


「それじゃ、ほどほどにね」

「あなたが言い出したことでしょう。まあ、私だって岳さんに心配をかけたくはありません。無理は出来ませんよ」

「そう」


 いろいろ言いながらも、自分が岳にとってどんな存在なのかちゃんと自覚がある様で安心した。私も私で、仁美ちゃんを疲労困憊で倒れさせた原因、だなんて思われたくないしぜひともそうして貰いたいところだ。


「それじゃあ、私はこれで失礼するわ」

「はい――」


 部屋を出ようと扉に手を伸ばした時、仁美ちゃんが何かに思い至ったように動きを止め、ペンを置いた。そして、ゆっくりとこちらに振り返りながら言って来た。


「――おやすみなさい」

「……ええ」


 私も、仁美ちゃんから目を逸らさないように扉をくぐりながら。扉の閉じ際で、出来るだけ笑顔で返す。


「おやすみ」


 茜にそんな返事を貰い、僕は自分の部屋に向かう。

 お風呂から上がった後、仁美さんと話していたらしい茜は何やら嬉しそうな表情をしていた。どんな話をしていたのかは分からないけど、茜の性格が相当悪くない限り、様子を考えれば仲良く会話が出来ているのだろう。

 本当に、嬉しい限りだ。


「はぁ……明日、頑張らなくちゃな」


 ベッドに背中を預け、スマホの画面を見上げる。

 配送日時、翌日十七時頃。それだけ確認して、明日持っていくもののチェックリストを確認する。


「問題なし、かな」


 スマホに充電器のコードを繋ぎ、枕元に置く。目覚ましの設定がちゃんとされているかだけ確認して、部屋の電気を消した。そして、明日全力を出せるよう、英気を養うためにその日は早めに寝ることにした。


 みゃ~

「……おはよう」


 目覚ましよりも早い君の声で目が覚めて、鳴る寸前だった目覚ましを止めて起き上がる。慌ててベッドから降りた君の背を追うように部屋の扉に向かおうとして、茜がいるかもしれないことを思い出して手を止める。


「まあ、いいか」


 寝惚けた思考でそう判断し、部屋を出る。僕の足元をくぐってリビングへと向かった君と分かれ、洗面所へ。いざ向かってみれば茜はおらず、拍子抜けした表情を整えるように顔を洗った。

 そしてリビングへと向かい、そこで何やらいい香りがしている気が付いた。慌ててキッチンの方を見てみれば、IHの前に立つ茜の横顔が見えた。


 足音で気づいたのだろうか。茜がこっちに振り向いて声をかけて来た。


「あら、おはよう。勝手にキッチン使わせてもらってるわよ」

「お、おはよう……それは構わないんだけど、茜って料理できるのか?」


 普段ならそんな失礼なことは聞かなかった、と思いたい。寝惚けた言葉が失言だと思って口を閉ざした瞬間には、その言葉は茜の耳に届いていた。

 機嫌の良さそうだった茜の目元がじとーっ、と睨むようなものになり、僕は思わず後退りした。


「何よ。岳私が料理できないずぼらな女だとでも思ってたの?」

「いや、その。ほら、ずっと実家暮らしだったし」

「実家に住んでても料理ぐらいするわよ。失礼しちゃうわ」


 ふんっ、と不機嫌そうな様子を隠すことなくそっぽを向いてしまった茜へとかける言葉を見失った僕は、その場でたじろいてしまう。どうしていいかと悩んでいれば、先ほどのすねた表情が嘘だったかのような優しい笑みを浮かべて茜が言ってくる。


「冗談よ。いいから支度しなさい。遅れたら困るんだから」

「あ、ああ、うん。本当に任せていいの? 何か手伝おうか?」

「大丈夫だって言ってるでしょ。ほら、さっさとしなさい」

「お、おう……」


 きっと気遣ってくれているんだろうな、と部屋に戻りながら思う。まあそれと、失敗したら取り返しがつかなくなるかもしれないイベントがある日なのだ。社員として社長を応援したい、と言う意識もあるのかもしれない。

 その本心は、よくわからなかったけど。


「僕の家で朝ご飯を作る茜、か」


 その言葉が自分のものとは思えないくらい浮ついていると言う事実だけで、僕の緊張はどこかへと飛んでいったような気がした。


「どうぞ、召し上がれ」

「い、頂きます」


 一通りの支度を終え、ダイニングテーブルの前に立ってみればすでに料理が並んでいた。


「私仁美ちゃんに渡してくるから、先に食べてていいわよ」

「う、うん……」


 僕の詰まり気味の返事に小首を傾げながらも去って行った茜の背中から、手元の料理へと視線を落とす。

 結論だけを先に述べるのなら、茜は料理上手だった。


 献立もそうだが、一品一品の完成度も高い。もともとたくさん材料があったわけでもないのにバリエーション豊富で、香りや飾りつけも僕のそれよりだいぶ手が込んでいる。

 が、問題は料理そのものにはない。いや、そうとも言えるのかもしれない。


「茜さん……量が多すぎます」


 今日一日僕が頑張れるように、とか考えてくれたのだろうか。朝食とは思えない量のおかずが並んでいた。これが三人前ならまだ分かる。しかし、今茜が仁美さんの分を持って行ったと言うことは、ここに並んでいるのは二人分だ。

 少なくとも、僕の二食分よりは圧倒的に多い。だからと言って茜が大食いなのかと問われれば、決してそんなことはないだろう。同僚としてその昼食をとる姿は何度か見たことがあるが、決して大食いの気質はなく、むしろ一般よりも量に気を使っていそうに見えたほどだ。


 考えられる可能性はひとつ。

 気持ちが先走り、張り切り過ぎたのだろう。そう考えれば嬉しいものの、多すぎるものは多すぎるのだ。これが僕の己惚れた発想でなければだが、茜は初めて彼氏に手前料理をふるまう感覚で今日の調理に臨んだに違いない。そうであればこの結果は可愛らしい失敗として収まるのかもしれないが……あいつには自分がいい大人であることを自覚してほしい。


「まあ、ひとまず食べるか」


 最悪、今までのすべての予想が外れていて、残った分は昼食に回すつもりでいるのかもしれない。残してしまったとして、茜はそれを理由に不機嫌になるような奴ではないはずだ。今のところは、ありがたく朝食をいただいておくとしよう。


「いただきます」


 一人そう言って食べ始めた朝食は見た目を裏切ることはなくとても美味しくて、いつも以上に食べてしまったのは嬉しい誤算だった。

 

 しばらくしてから戻って来た茜は、対面の席に座ると開口一番聞いてくる。


「どう?」

「うん、美味しいよ。驚いた」

「そう、口に合ったようでよかったわ。別に残してもいいから、満足いくだけ食べて頂戴」

「そうさせてもらうよ」


 それだけ言って食べ始めたのだが、茜がちらちらと視線を送ってくるのが気になる。茜自身も食べてはいるが箸の進みは遅く、それよりもこちらを気にしている様子。どうしたのかと思って考えてみれば、当然のことを忘れていたような気もする。


「これ、本当に美味しいね。ありがとう」

「っ、え、ええ、当然よ。これくらいなんてことはないわ」


 感謝の一言を告げてみれば、茜は目に見えて上機嫌になってそう返す。頬は緩み、目は輝いている。そんな姿を見ていると、やはりこちらまで嬉しくなるものだ。

 久しぶりに賑やかで、暖かい雰囲気に包まれた朝食を終えた後、僕は改めて支度を整えた。そして、余裕を持った時刻に家を出る。


「それじゃあ、行ってきます」


 玄関先、扉を開きながら振り返り、茜に言う。


「ええ、行ってらっしゃい」


 茜のそんな声が聞こえた。数日前まではそこのポジションは私だっただろうと言う怒りと、それはそれとして岳さんにいい人が出来ていると言う現状に少しだけ安心を覚えていたりもする。その相手が茜なら、今はもう見知った仲であるのだし許容範囲だ。


「はぁ、終わらせないと」


 さっさと完食した朝食のトレーを退かし、昨日の続きに取り掛かる。必死にやれば終わる、けれど逆に言えば必死にならないと終われないのだ。一瞬たりとも無駄には出来ない。勉強机に向き合って、こんなに集中したことはなかったかもしれない。けれど、これはこれで悪くない。今までやってこなかったし、食わず嫌いしていた勉強だったけど、うん、案外悪くない。

 何かのために必死になると言う初めての経験は、満足感にも似た何かを私に与えてくれていた。でも、これをすることが目標ではない。私は今日中に、それも出来れば午前中に終わらせて約束を守るのだ。


「頑張ってるかしら?」


 そんなことを言いながら邪魔しに来たのは最近家に居候している茜だ。美人で気が強く、第一印象としては立派な大人の女性って感じだった。岳さんと一緒にいたところを見てしまったし、仲がよさそうだったし。

 最初こそ少し嫌悪感を覚えていたが、今ではそれも薄れている。私の人徳の素晴らしいところもあるのだろうが、すぐに良縁を結べたからだ。


 茜は確かに賢く、周りを見て、的確な判断が出来る人なのだろう。大抵のことを熟すだけの力を持っていて、岳さんを支えている存在なんだなと、一緒に過ごすうちになんとなく思った。

 まだまだ出会って日は浅いが、その日の浅さの内に同じ屋根の下で過ごす羽目になったのは、ある意味ではよかったのかもしれない。私の茜に対する悪感情的第一印象が定着する前に、茜に対して善意で接せられるようになったから。


「まあ、ぼちぼちです」

「そう。あまり気を張り詰めないようにね。欲しいものがあったら買ってきてあげるから。遠慮なく言ってちょうだい」

「はい、そうさせてもらいます」

「じゃあ、頑張ってね。また昼食頃になったら来るわ」

「分かりました」


 応援してるわよ、と言い残して茜は去って行った。その声音の優しさと心地よさに背中を押され、私は深く入り込むように目の前の約束と向き合った。


 気付かぬうちに、数時間。喉の渇きも忘れるほどの集中力が、私に約束へと手を届かせた。


「終わっ、たっ!」


 目の前の完成品を掲げて見上げる。私の成果がぎっしりと書き連ねられたそれを前に、思わず感動に泣いてしまいそうなくらい、私は喜びを感じていた。押し寄せてくる達成感と満足感が、私の涙腺を破壊しようと押し寄せてきているのだ。

 そんな感動もつかの間、部屋にノックの音が響いた。


「仁美ちゃん、ご飯にしましょう。入ってもいいかしら?」

「ええ、いいですよ」


 自分の声音が上がっていることに気付きながら、両手に握ったノートを広げて扉の前に立つ。そして入って来た茜の眼前にそれを広げて見せてやった。


「終わりました、終わりましたよ茜!」

「え、嘘。あんなにたくさんあった課題、もう終わらせたの?」

「はい!」


 そう、課題。私が岳さんとの約束を守るために課せられた試練であり、鬱陶しくも憎たらしい学校から出された夏休みの課題でもある。それをやっとの思いで終わらせたのだ。


「人はやればできますね。私は自分がこんなにも優秀だったとは思いもしませんでした。これなら茜や岳さんでは手も届かない有名大学にも入れてしまいます」

「嬉しそうで何よりだわ」


 小さく笑いながらそう言って来た茜の手元には、トレーに乗った昼食が。


「あ、それは持って帰ってください。久しぶりにダイニングで食べたい気分です」

「ええ、そうしましょうか。勉強道具を片付けてからでいいから、来て頂戴ね」

「はい!」


 何かを成し遂げることがこんなにも嬉しくて、この嬉しさを共有できる人がいるのがこんなにも幸せだったんだと言うことを、私は身をもって体感した。飛び上がりたいほどの高揚感を何とか抑えながら片づけを済ませ、ダイニングに向かってみれば豪華なご飯が並んでいた。


「つ、作りすぎではないですか?」

「いいのよ、余ったら夜ご飯にすればいいんだもの。それより、たくさん使った栄養を補給しなさい。お代わりならたくさんあるから」


 そんな茜の優しさが彷彿とさせるものを。忘れたいようなその記憶を、私はまだ覚えている。けれど、成り替わったなんて思わないし、思う必要はないんだ。今私は、茜と、茜を茜として接しているのだから。


「はい! では、さっそくいただきますね!」


 茜の作る料理は岳さんの作るものとは違ったけれど。ちょっぴり甘くて、幸せの味がした。

 

 久しぶりに誰かとご飯を食べたからだろうか。自分の想像以上に食べ過ぎてしまった満腹感に思考を支配されながら、壁に掛かった時計を見上げた。


「まだ、時間はありますね」

「そうね。どうする? どこかに遊びに行く?」

「いえ、掃除とか洗濯とか。家事を、お手伝いをしましょう」

「へぇ、偉いわね。ただ、私は当てにしないで頂戴」


 食器を流しに運びながらそう言って苦笑を浮かべた茜は、申し訳なさそうに言ってくる。


「私、料理以外の家事はからっきしだから」

「……なるほど、了解です。では、私が伝授してあげましょう」

「伝授?」

 

 茜が家に泊まることになった経緯を聞く限り、少なからずもうしばらく。場合によってはずっと一緒に暮らすことになるはず。そこで料理しかできない、だなんて言われては困る。私だって、岳さんに美味しい料理をふるまってみたいのだから。


「私、一通りの家事は出来るんですよ? 料理の腕は、茜には劣るかもしれませんが。社会人たるもの、身の回りのことくらい自分でできないと困ると思います」

「ごもっともなんだけど、仁美ちゃん年はいくつ? 本当に中学生?」

「ええ、そうです。では、まずは手元の食器洗いから始めましょうか」

「わ、分かったわ」


 こうして、私の茜に家事を覚えさせるぞ大作戦は決行されたのだった。


 それから三時間ほど経った頃。そろそろいい時間となったので私たちは出かける支度を始めることにした。


「それにしても仁美ちゃん、本当に何でもできるのね」

「なんでもできるわけではありませんよ。出来ることだけやったにすぎません」

「謙遜までしちゃって……私の幼い頃はここまで大人にはなれていなかったわ」

「別に、私もまだまだ子どもですよ」


 と呟く私は、茜の運転する車の助手席で見慣れない景色を堪能していた。本当に久しぶりだ。特に、大切な人を失ってからは一度も乗っていない。それこそ助手席に乗ったのは本当に初めてだ。


「茜、運転できたんですね」

「車の免許は大学に入る前には持ってたわよ? ま、ペーパードライバーだけど」

「……急に不安になりました。降ろしてください」

「失礼ね。万一にも事故は起こさないわよ」


 どこから湧いてくる自信かは分からないけど、確かに茜の運転する様は見ていて不安なところはない。普段から運転していないと言うことだが、どうしてこんなにも胸を張っていられるのか。虚勢を張っているのか、はたまた茜の性格故か。自信家なのかな、とでも思っておくことにする。

 実際、乗り心地は悪くない。ゆらゆらと揺れることも、ゆっくり過ぎることも早すぎることもない。ひとまず安心してもよさそうだ。


「ほら、そろそろ着くわよ。あそこが岳の今いる会場」

「よそ見しないでくださいお願いしますお願いしますお願いします」

「……ちょっと、どれだけ信用無いのよ」


 急にわき見しだした茜の視線が前に戻ったのを見て、もう一安心。しかし油断はならない。せっかく課題を終わらせたのに人生まで終わってしまっては本末転倒どころか崩壊だ。それだけは何としてでも避けなければならない。

 しかし、不安は杞憂に終わった。茜が先に言った通り、それからほどなくして目的地に到着したからだ。車を降り、人気のない入口の前まで来た私は息を飲んでその時を待った。茜も、そんな私のすぐ隣に静かに立っていた。


 そして、その時が来た。

 扉が開き、疲れた顔で出て来た彼を見た瞬間。開口一番で私は、この一週間言えてなかった言葉を叫んだ。


「っ、お帰りなさいっ!」


 そんな声が聞こえたのは、度重なる社交的なあいさつやプレゼンテーションで披露しきった体を引きずるようにしてビルを出た、その直後だった。

 顔を上げて正面を見てみると、そこには顔を真っ赤にして叫ぶ仁美さんと微笑を浮かべてその隣に立っている茜が見えた。一体何事かと思っていると、仁美さんが一歩、二歩とゆっくり踏み出し、段々と早くなる歩調で僕の方へと駆け寄って来た。そしてその勢いを緩めないままに僕に抱き着いてきた。


「お帰りなさい! お帰りなさい! 岳さん、お帰りなさい!」

「……仁美さん……」


 その声はどこか上擦っていて、顔を僕にうずめているから見えないけれど泣いていることは直ぐに分かった。泣きながらそんな言葉をかけてくれていることに気付いた僕は、想像以上に仁美さんに無理をさせていたんだと、今更ながらに知った。


「ほら、頭でも撫でてやりなさい。今日まで頑張ったんだから」

「あ、ああ……仁美さん、ただいま」

「っ⁉ は、はいっ! お帰りなさい!」


 顔を上げた仁美さんの目元には、赤くなった跡と涙の跡が見えた。泣き顔に浮かんだ笑顔が、無理をしていると言うよりは、思いがけない物だったからか不自然に思えてしまう。けど、それは自然なことなのだろう。

 それはただ、涙で汚れた笑みがただ、どうしようもなく美しすぎた。その美しさを、僕は完璧には理解できなかっただけなんだと、そう思う。


 ぎゅっ、と再び腕に込める力を強くして顔をうずめて来た仁美さんの頭を、僕はゆっくりと優しく撫でた。そして改めて茜の方を見て、感謝の意を込めて笑顔を向けてやる。茜もまた、しょうがないと言わんばかりの余裕のある笑みを浮かべて腕を組んだ。

 それを見てもう少し甘えてもいいかなと仁美さんを見下ろすと、仁美さんもちょうどこちらを見上げるところだった。不意に目が合ったことに心臓が跳ねるのを感じながらも、平然を装って問いかける。


「どうかした?」

「いえ、その……あのっ! お、お願いが、あります」


 小さくなる言葉尻とともに下がった視線から、頼みづらいことなのかなと考える。もう一度仁美さんの頭を撫でようとしたところで、仁美さんが固い決意のこもった瞳をこちらに向けた。


「今から、私と一緒にプラネタリウムを見に行きませんか⁉」

「プラネタリウム? それって、どういう……」


 助けを求めようと思って茜を見ると、茜は汲んでいた腕をほどいてこちらに近づいてきて言った。


「仁美ちゃん、ずっと宿題頑張ってたのよ。今日はちゃんと終わらせてきて、約束を守るんだ、って」


 思わず、目を見開いた。もしかしたら開いた口が塞がっていないかもしれない。安直に仁美さんを見てしまえば、仁美さんは自慢気な笑みを浮かべていた。


「はいっ! ちゃんと終わらせてきました! 証拠、証拠もありますから! 茜、出してください!」


 興奮気味に仁美さんは茜を振り返り、茜は呆れたようにため息を吐く。


「ま、そういう事よ。車の中に成果があるし、後で見てあげて」

「う、うん……って、車? なに、二人は車で来たの?」

「ええ、そりゃあそうよ。これからちょっと遠くに行くんだし。電車の方が時間かかりそうだったから」

「そんなことまで……」


 仁美さんの頑張りも、茜の気遣いもどうしようもなく嬉しくて。僕は不覚にも、泣いてしまいそうになった。


「二人とも、ありがとう。うん、そうだね仁美さん。約束は守らないと。仁美さんが宿題を終わらせたなら、今から行こうか、プラネタリウム」

「はいっ!」


 少し遠くに、橙色に色付く雲が浮かんでいる。その合間から抜けた天から注ぐ光が、仁美さんの笑顔を明るく照らしているように見えた。


「ど、どうですか?」

「うん、すごいよく出来てる。偉いね、仁美さん」

「は、はいっ! ありがとうございます!」


 車に乗るのはいつぶりだろうか。僕も免許は持っているけど、仁美さんが来てからは車で外出する機会もまったくなくなった。一つ驚いたと言うか、忘れていたのはそのことだ。仁美さん、もう車に乗れるようになったんだ。

 そんなことを考えながら、遠くで沈んでいく太陽を横目に僕は仁美さんが取り組んだ宿題を見ていた。丁寧な字で、余すことなく埋められている。それにどうやら回答を丸写しした、とかではなさそうだ。僕みたいに容量の悪いタイプはそうせざるを得ないのだけれど、仁美さんはしっかりと自力ですべての宿題を終わらせていた。

 素直に、僕との約束を守るために必死になってくれたことが、何よりも嬉しかった。


「本当に、凄いよ」

「ほ、褒めすぎですって! えへへ」


 そう言って嬉しそうに笑う仁美さんと隣同士で座りながら、前で一人運転を頑張ってくれている茜にもお礼を言う。


「茜もありがとな。レンタル代、後で払うから」

「いいわよこれくらい。私だってたまには運転しないと免許更新できなくなっちゃうし」

「どうせ、数年に一度しか使わないんだろ?」

「数年に一度は使うから大切にするのよ、分かってないわね」


 それは不満そうな口調だったが、ミラー越しに笑っているのがよくわかった。茜も、本当にいいやつだ。


「さて、そろそろ着くわよ。降りる支度しておきなさい」

「「はーい」」

「……何よ、その間延びした返事は」

「「別に~?」」

「だから何なのよ!」


 茜がちょっぴり声を荒げるのを聞きながら、仁美さんと一緒になって笑ってしまう。何が面白かったのかと言えば、きっと僕と仁美さんとの意見は一致しているんだろう。


「だって、母親みたいだったから、つい」


 茜にそんな風に謝りながら、それでも私は笑い続けていた。と言うより、笑いを止めることが出来ずにいた。


「ちょ、ちょっとそこまで笑うことないでしょ⁉」

「ご、ごめんごめん、なんかツボ入った」

「私も、す、すいません、ふふっ」

「ああもう何なのよ! よくわからないわねあなたたち」


 深く息を吐きながら怒りを鎮めた茜は、頬を緩ませながら言葉を続けた。


「母親みたい、か」


 隣で笑っていた岳さんは、茜のそんな呟きを聞き取っていたのだろうか。


 それからしばらくしてプラネタリウムに着いた。

 私たちは茜が予約したチケットで入場し、さっそく会場に入れさせてもらった。


「わ~っ! 凄いですね!」

「うん、僕も初めて見るけど、なんか壮観」

「まだ何も始まってないけどね」


 興奮していることを自覚しながらも、このワクワクやドキドキを抑えることは出来なかった。それは本当に、どうしようもない興奮だった。

 どうしようもない、胸の高鳴りだった。


 右隣に岳さん、左隣に茜を置いて私は真ん中に座った。そして静かに、開演の時を待ちまつ。今か今かと、一番星を待ち続けた。


「ほんっ、とうに楽しかったです!」

「うん、面白かった!」

「それは良かったわ」


 楽しい時間とは、あっという間に過ぎていく。室内に輝いた星々は瞬いて消えてしまった。けれど、その輝きが、一瞬の輝きが目に焼き付いて離れない。私が憧れた、夜空の輝きそのものだった。


「もう一回、もう一回見ましょう!」

「残念ながら、今のが最後の公演だね」

「うぅ……なら明日! 明日も来ましょう!」

「日曜日は閉館だって」

「じゃ、じゃあその次!」

「残念ながらお仕事です」

「む~」


 岳さんが意地悪する。


「けど、そうだね。また来ようか、皆で」

「……はいっ!」


 そんな岳さんが大好きだった。


「じゃ、二人ともそろそろ帰りましょ。夜ご飯の支度が間に合わなくなる」

「うん、そうだね。仁美さん、行こうか」

「はい。帰りましょうか、我が家に」


 帰り道の車の中、私ははしゃぎ過ぎたからか寝てしまった。眠いっている間のことなんて覚えているはずはないのだけれど、ちょっぴり夢の中身だけは覚えていた。

 私が白いドレスを着て、そんな私を綺麗だと言ってくれた岳さんが、誓いの口付けを交わしてくれる夢だった。


「じゃ、私は車返してくるから。夜ご飯はお昼の残りだけじゃ足りないだろうけど……今日はもう遅いし、ついでに何か買ってくるわ」

「そう? じゃあ買って欲しい物メールしとくよ」

「あんまり多くしないでよね」

「分かってるよ。じゃ、お願い」

「ええ」


 そんな短いやり取りの後で、茜は車の窓を閉めてしめて去って行った。ガソリンの香りがまだ残る中で、私たちは先に家に入ることにした。

 岳さんが部屋の鍵を開け、私を先に入れてくれた。


「ありがとうございます」

「ううん、これくらい。じゃあ、改めまして」

「え?」


 私が靴を脱いでいると、岳さんは後ろ手に扉を閉めながら大きく息を吸って言いました。


「ただいま!」


 玄関先に届いていたものを隠しながら、僕は出来るだけの笑顔で仁美さんにそう言った。靴を脱ぎかけの仁美さんは振り返りながら少しフリーズしたけれど、すぐに気を持ち直して靴を脱ぎ、正面を向いてこう返す。


「はい! お帰りなさい!」


 そして僕たちはしばらくの間見つめ合い、どちらともなく笑いだした。そんな時間が、最高に楽しくてならなかった。


「はぁ、笑いました」

「うん、僕も」

「楽しかった、ですね」

「そうだね、楽しかった」


 ソファに並んで座りながら、僕たちは少し天井を見上げた。余韻が頬を撫でる中、仁美さんが何かに気付いたように僕の手元を見た。


「あれ? 岳さん、それは何ですか?」

「え? ああ、これ? 実は、仁美さんにプレゼントを用意したんだ。本当はお詫びのつもりだったんだけど……受け取ってくれるかな?」

 

 思わぬ発言だったのか、仁美さんは少し呆けたように僕を見上げた。しかしその上目遣いはだんだんと崩れていき、とびっきりの笑顔へと変化した。


「もちろんです!」

「じゃあ、どうぞ」

「ありがとうございますっ!」


 大切そうに両手で受け取った仁美さんは、中身が何かも分かっていないだろうに目を輝かせ、本当に嬉しそうに笑っていた。やっぱり、それを見ていると僕まで笑ってしまうのだ。


「開けて良いですか⁉」

「うん、もちろん」

「じゃあ――」


 そう言って仁美さんは梱包を懇切丁寧に開封し始めた。その様子を出来るだけ見守っていたいと思いながらも、僕は用事を思い出してキッチンへと向かう。開けることに集中している仁美さんを横目に置きながら、僕は目的のものを見つけて冷蔵庫から取り出した。

 そしてリビングに戻るとちょうど、仁美さんがプレゼントを目の前に掲げているところだった。


「これは……」


 僕も実物は初めて見るのだけれど、どこか近未来感のある丸いそれは、間違いなく僕が注文した物。約束を守ってあげられないと思ったから購入した、簡易版プラネタリウム装置、的な物だ。


「プラネタリウム! プラネタリウムですよ! 岳さん!」

「うん、仁美さんへのプレゼント。これで家でも星空が見られるね」


 僕は言いながら右手に持ったプリンとスプーンを仁美さんの前に置く。左手に持った自分の分も置きながら、仁美さんの隣に座る。そしてもう一つのプリンを、仁美さんとは反対側の隣に置いた。


「おお、プリン」

「これも買っておきました。……じゃあ、電気消すね」

「え?」


 部屋の照明を消せば、辺りは薄暗くなった。外はもうすぐ夜だし、カーテンを閉めれば十分暗い。僅かな明るさを頼りに仁美さんの手元のプラネタリウムに手を伸ばし、電源を入れた。

 星々が、瞬いた。


「わぁ……綺麗」

「うん。本物を見た後だと見劣りするけど、これでも十分綺麗だね」


 いつもは何の変哲もない部屋の中が、今だけは何よりも輝いて見えた。そんなことを考えていると、仁美さんが小さく呟くのだ。


「岳さん、私、幸せです」

「そんなに嬉しかった? 喜んでくれたなら、何よりだよ」

「いえ、そうではなく。もちろんこのプレゼントも嬉しいのですが、違くって」


 仁美さんの調子は、少しよく分からなかった。今までに聞いたことのないような声音で、少し動揺した。そして何より、僕の知っている雰囲気と照らし合わせてみると、今の状況がとても甘くて、幸せに思えた。

 仁美さんが僕に、告白しているように聞こえた。


「今こうして岳さんと二人で星空を見上げる時間とか、一緒にプリンを食べる時間とか。お帰りとただいまを言い合っている時とか。おはようも、おやすみもです。そうやって岳さんと過ごす時間が、とっても幸せなんです」

「仁美さん……」

「そして今回、それをより実感しました」


 それは切なくて、苦しくて、胸の締め付けられるような痛みで、それでいて喜びだった。


「私、この一週間、ずっと寂しかったです。岳さんと顔を合わせたら溢れだした感情とか、会えない間に溜まっていった感情とか。今まで深く考えていなかった気持ちが全部、今なら分かるんです。私やっぱり、岳さんが好きです。岳さんと過ごす時間が好きです」


 僕はただ、静かに聞いていた。ただ静かに、その星空を見上げる横顔を見つめていた。


「私にとって、岳さんと一緒に家で過ごすこの時間は、何よりもの宝物なんです」


 暗闇で輝くヒトミが、僕を照らした。


「だからこれからも、一緒にいてください、岳さん」

「もちろん。こちらこそ、お願いするよ」

「……はい」


 噛み締めるようなその返事が、仁美さんが感じたような感情を僕にも纏わせた。

 だから僕も、想いに応えるように口にする。


「家で仁美さんと過ごすこの時間が、僕にとっても最高の宝物だよ

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君が家にいることが、僕にとっての宝物だから シファニクス @sihulanikusu

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