プロローグ ある男の一日(後編)

 森で暮らすカミルは肉や薬草、その他珍しいものをエドモンに売り、エドモンは王都や商都を巡って仕入れてきたパンやワインなどをカミルに売る。この二人の関係は二十年ほど前からこのような感じで継続してきた。


 この商売は、お互いにメリットのあるものだった。カミルはどういうわけかこの森からあまり出たがらないため、最寄りの村からも数時間かかる辺鄙なこの地にわざわざやってきて取引をしてくれるエドモンの存在は彼にとって非常にありがたいものだ。エドモンの側も、今日のように他の取引先では手に入らない珍しい商品を仕入れることができる。加えて、この商人は人嫌いだが決して性格は悪くないこの中年の狩人のことをかなり気に入っており、そのため取引価格も良心的なものとなっている。


 貯蔵庫から木箱を持って上がってきたカミルは、そのまま購入予定の積み荷を馬車から下ろすのを手伝う。パンの箱やワイン樽を運び、そしてうずたかく積まれた本の山から何冊か見繕っていたところで、彼は小さな発見をした。

「エドモン、この本は?」

 荷馬車から身を乗り出すようにしながら、彼は下にいたエドモンに一冊の本を示した。それは子供向けの絵本らしく、他の本よりもずっと薄い。表紙には四人の人物が描かれており、その上には『ゆうしゃたちのだいぼうけん』と太字で記してある。


「ああ、それは商都で仕入れたやつですよ」エドモンは少し照れくさそうに、バレットを押さえながら答える。

「うちの娘、エミリア様の話が大好きでしてね。今回はあっしの帰りも遅くなっちまいますし、ご機嫌取りのためにプレゼントしようかと」

 その言葉を聞きながら、カミルは再び手元の絵本に目を落とす。表紙の女性は豊かな銀髪を後ろで束ね、その顔立ちは凛として美しい。深緑の衣服に身を包んだ彼女の後ろには、ごつごつとした鎧に身を包んだ大柄の男と黒衣の前で十字架を掲げる痩せぎすの男。そしてさらに後ろには、自らの顔ほどの大きさの魔導書を開いて何かを唱える小柄なエルフの少女が描かれている。

 この国に生まれた人間ならだれでも知っている、魔王を討伐した勇者エミリアとその仲間たちだ。


「あっしも勇者様にお会いしてみてえんですがね、たまに王都に行ってもなかなか会えませんで。娘の気持ちも少しわかるんですよ」

 苦笑いを浮かべたエドモンは、そこでカミルの顔を覗き込むようにしながら彼に尋ねた。

「そういえば、旦那は昔国中を旅していたんでしょう? 勇者様にお会いしたこととかねえんですか?」

 そう問われた狩人は、少し考え込むような仕草を見せたのちに口を開いた。

「……ある。一回だけだがな」

「どうでした? 本物の勇者様は?」

 やや興奮を抑えきれない調子で続きを促す商人とは対照的に、カミルは表情を変えないままプレゼント用らしい絵本を本の山に戻しながら答えた。

「とても綺麗な方だよ、本当に」



 王都でベルガモを売り捌いてから商都の自宅へ戻る。そう言ってエドモンは帰っていった。それを見送ったカミルは少し遅めの昼食をとってから再び魔法の修練へ戻り、日が沈みかける頃に切り上げて家に戻った。パンとスープに干し肉、そして今度はシナモンをたっぷりと入れたワインを飲んで充実した夕食の時間を終えた彼は、蝋燭の光をベッドの方へと移動してからそこに寝転がり、本を開いた。


 昼間に商人から買ったその分厚い本には最近の王都の文化や出来事などが記されており、その中には例の流行り病についての項目もあった。高熱とめまい、嘔吐や手足の痙攣、そして最も特徴的な症状は、全身に青紫色の斑点がいくつも出現することらしい。

 その流行は終息したとエドモンから聞いていたが、この本を読むと勇者エミリアもその病気の治療に尽力していたという。彼女は仲間とともに王都周辺の村を回って回復魔法による治療を施したほか、選り抜きの薬師たちを集めて特効薬を作ったと記してある。その部分の末尾には、ベッドに横たわる小さな子供の手を握って励ます勇者の姿が描かれており、その表情は慈愛に満ちていた。


 さすが勇者だ。なんて素晴らしい方なのだろう。感銘を受けたところで読みかけの本を閉じると、急に睡魔がカミルの身体を襲ってきた。明日も早朝から狩りに行かなくてはならないため、彼は蝋燭の火を吹き消して毛布を被り睡眠の準備に入る。今日はたまたま極上の獲物に出会えたものの、明日はもう少し確実に戦果を挙げる必要がある。明日はもう少し森の奥の狩場にしようかと考えているうちに、男はゆっくりと深い眠りへと落ちていった。



 ドンドン、と玄関のドアを叩く音でカミルは再び目を覚ました。

 いったい何事だ、と未だ回転の鈍い頭を無理やり動かしながら窓の外を見ると、上半分の欠けた月がくっきりと見えた。少なくとも、彼がいつも目を覚ます時間よりはずっと早いことは確かだった。


 再び木の扉が二度叩かれる。この規則的な動きからして扉の向こうにいるのが野生動物である確率は低いし、人間を襲って食らう魔人ならば馬鹿正直に玄関をノックして存在を知らせる必要もない。となると訪ねてきたのは人間ということになるが、しかしこんな場所にわざわざ、しかも夜中にやってくる人間がいるとも思えない。


 炎魔法で蝋燭に火を灯したカミルは、明るくなった居間に置いてあった剣を携えて扉へ向かう。わずかに開けてある覗き穴から外を窺おうとしたが、夜闇が深くほとんど何も見えない。誰か尋ねてみようかとも考えたが、一刻も早く寝床へと戻りたい気持ちが勝った彼は、これ以上時間を浪費したくないとばかりにぞんざいな手つきで扉を開けた。


 蝋燭の光で照らされたのは、一人の少女だった。黒いローブを着た彼女は青みがかった前髪をわずかに払い、黒い瞳をカミルに向けている。

「……こんな夜更けに何の用だ」

 眉をひそめながらそう問いかけたところで、カミルは彼女のそばにもう一人誰かいることに気付いた。灯りをそちらに向けると、でっぷりとした腹と鼠色のケープが見えた。

「エドモン……?」

 どうしてここにいるんだ。彼がその言葉を口にする前に、向こうが先に説明を始めた。

「近くの村に寄ったらこの方と遭遇したんです。なんでも、王都からの使いらしくて、旦那を探しておられたのでここまで案内することになりまして」

 申し訳なさそうな表情を浮かべる商人に対し、長髪の少女が丁寧に声をかける。


「お忙しい中、道案内ありがとうございました。重ね重ね申し訳ないのですが、この方と二人きりでお話したいので、少しの間離れたところでお待ちいただいても――」

「いや、エドモンはいいからとっとと用件を聞かせてくれ」

 眠気もあってか面倒そうに話を促すカミルに対し、少女は狼狽えながら反駁を試みる。

「で、ですが」

 だが、彼はそれを無視するように言葉を続ける。

「こいつは俺と長い付き合いだし、口の堅い商人だ。何を聞かれたって構わないから、早いところ済ませてくれ」

 そこまで言い終えてから彼が馴染みの商人の方をちらりと見ると、彼の言葉を肯定するように短い首が縦に動いた。二人の反応に圧されてか、少女はやや躊躇いがちに自己紹介を始める。

「私はレーネと申します。王都の神官見習いで、大司教キルゴール様の伝言を預かってまいりました」


 キルゴール。彼女の細い声に含まれたその名前を聞いた瞬間、エドモンは思わずえっと小さく声を漏らした。カミルもまた、寝起きで冴えない顔に微かな驚きの色を浮かべる。勇者エミリアとともに魔王を倒した、当代最高の回復魔法の使い手。現在は王都で大司教として後進の育成に励んでいる彼が、わざわざ森で細々と暮らす男に使いを派遣したのだ。


レーネと名乗った少女は少し顔を曇らせながら、しかしはっきりとした声で本題を告げる。大司教の伝言とあって身構えていた二人だったが、その衝撃は想像をはるかに超えるものだった。


「今日の夜明け前に、勇者エミリア様がお亡くなりになられました」

「な……」

 今度はカミルが声を漏らした。驚愕に目を見開く彼の顔を見据えながら、レーネは続ける。

「数日後に王都カイガウで葬儀が行われます。詳しくはキルゴール様から直接説明があるかと」

 そこで改めて、彼女は彼の名前を、横で青ざめた顔をしたエドモンも知らない、その過去を口にする。


「勇者パーティの一人、カミル様。今からカイガウへ向かいますので、すぐにご支度をなさってください」

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