偽りの勇者に捧ぐ。
九十九行進
プロローグ ある男の一日(前編)
ぼさぼさの髪の男は、獲物をじっと待っていた。
大狼の森と呼ばれるこの場所には、かつての主のように雄大な巨木がいくつも生えている。その中の一本に彼が背中を預けて腰を落としてから、既に三十分以上経過していた。ここからであれば、身を隠しながら少し顔を覗かせるだけで狩場の一つである小川の辺を見渡すことができる。普段は大小さまざまな動物たちが水を飲むために、あるいは今息を潜めている狩人のように獲物を狙うためにここへ集まってくるのだが、なぜか今日は閑散としていた。
日の出も近いというのに、未だ収穫はない。幸い、家にはある程度の食糧の蓄えがあるのですぐに飢えたりはしないものの、この豊かな早春に手ぶらで帰るというのは狩猟で暮らす人間にとってはやはり気分がよいものではない。成果を求めてはやる気持ちを抑えようと、彼は自作の弓に目を落とす。この森に生えていた手ごろな木を素材とした装飾もない不格好な武器だが、素人が製作した割に性能は悪くない。もっとも、道具はあくまで道具であり、使い手の技量までは保証してくれないのだが。
少しだけ場所を変えてみようか、と男が白い吐息を漏らしながら考えていると、その耳に澄んだ音色が飛び込んできた。まるで鈴の音にも似たその鳴き声は、背後に流れる小川のすぐ近くから発せられたものだ。背中の矢筒に右手を伸ばしながら彼は振り返り、その辺りに視線を送る。
獲物はすぐに見つかった。視界に入った生物は、人間の子供程度の大きさの鳥だった。茶色の体にアイボリーの羽がよく映えるその生き物は、その嘴からもう一度、鈴を揺らしたような声を発する。そのまま数秒ほどその場に止まっていたが、やがて再び流水の方へぱたぱたと鈍くさい足取りで向かっていく。
こ の辺りでは滅多に見かけないやつだ。男は矢筒から矢を抜きながらわずかに息を吐いて脱力する。そして推測が正しければ、この鳥は市場でも高値で取引されている希少種だ。手ぶらで帰るはずだった今日の狩りが思わぬ好機へと変わったことを感じながら、彼は立ち上がると慣れた手つきで弓に矢をつがえ、そのまま目いっぱい引き絞る
標的の鳥は、自分が人間に狙われているとはつゆ知らず、冷たい水に嘴を浸すようにしながら水分補給をしていた。男との距離は二十歩ほど、しかもまるで無警戒の止まった的ならば、外す方が難しい。それでも一発で仕留めようと慎重に狙いを定めていた男だったが、射る直前で突然妙な胸騒ぎを覚え、照準がわずかに狂ってしまった。
「しまっ……!」
失敗を悟った射手が思わず声を出したものの、既に矢は放たれた後だ。手製の矢は呑気に休憩をしていた鳥の左羽に命中したが、一射で仕留めきるには至らなかった。ようやく自らの危機を知った哀れな標的は、先ほどよりも濁った音色の声を響かせながらばたばたと足を動かし、逃げようともがく。しかし、矢の刺さった羽で飛んで逃げることはできないようで、その鈍足では神の御加護でもない限り逃げおおせるのは難しい。
「……悪い」
懐から使い古された短刀を抜いた男が、哀れな獲物に小走りで接近する。既に鳥は歩くのをやめ、その体を鮮血で赤く染まった地面に横たえながら最期の時を待っていた。死の恐怖に怯えてかぎょろぎょろと動くその琥珀色の瞳をじっと見据えながら、彼は跪いて無精髭の目立つ口元を動かしながら祈りの言葉を紡ぐ。そして急所にその刃を突き立てると、鳥はぴくりとも動かなくなった。
やはり、自分に弓は向いていないのかもしれない。不必要な苦痛を与えてしまったことを悔やみながら、彼は仕留めた獲物を家に持ち帰る準備を始める。妙な胸騒ぎの原因について考えるのは、家に帰った後でも遅くはなかった。
狩りを終えた男――カミルの住む家は、森に入ってすぐの場所に建っている。彼がこの辺りを切り拓いた際に発生した木材を活用して作られたその家は、男一人で居住するには十分な大きさで、調理場や貯蔵庫なども充実している。人里離れた森の中で不自由ない生活を送るため、彼が長年少しずつ拡張してきた自慢の場所だ。
日の出を迎えて少し経った頃に帰宅したカミルは荷物を下ろすと、既に血抜きだけ済ませてある鳥をテーブルの上に置いて観察を始めた。かなり前に読んだ書物の中に描かれていた希少な鳥と特徴は一致するが、なにぶん彼も実際に見るのは初めてで自信はない。どうしたものか、と考えていたとき、カミルの脳内に今日この森にやってくるはずの商人の顔が思い浮かんだ。様々な品物を取り扱う彼ならば、この鳥についても自分より詳しいかもしれない。運が良ければ、そのまま彼に売り払うことだってできる。
下手に触ると爪や羽根が傷つくかもしれない。そう考えて一先ず鳥を貯蔵庫へと運び終えたカミルは、代わりに持ってきたパンとワインで軽い朝食を済ませることにした。この辺りは水も豊富なため無理に他の飲料にする必要はないのだが、彼は長年の習慣から朝食時はワインだと決めている。ただ、今日は普段ワインに入れる香辛料類を切らしており、少々酸っぱいその液体に顔をしかめる結果に終わった。商人から買うものを記した脳内のリストにそれを書き加えながら、彼はなんとかコップの中の紫色の液体を飲み干すことに成功した。
片づけを済ませたカミルは、今度は居間に置いていた剣を持ち、外に出る。そうして自らが木を切り倒して作った空間で鞘を外すと、愛剣のやや幅広の刀身が露わになった。陽光に照らされた鋼色の刃はまったく刃こぼれしておらず、手入れがよく行き届いていることがうかがえる。
緑色の輝きを放つ宝石が埋め込まれた柄を握る右手に力をこめたカミルは、中段に構えた剣をそのまま振り下ろす。風を切り裂くような鋭い振りから、今度は下段から上段へ垂直に剣を振る。その動作に連続して、今度は上段の水平斬り。その後も続く様々な素振りはどれも重く、そして実用的な動作で成り立っている。
見栄えという観点では王都でしばしば行われる剣舞に劣るものの、彼にとってはどうでもいいことらしかった。たとえ流麗な剣捌きであっても、実戦で役に立つかはまた別の話だ。敗れない、死なないための剣術。彼の一つ一つの所作からは、並々ならぬ経験とともにそうしたメッセージを読み取ることができた。
そのまま数時間、時折小休止しながらも殆ど中断なく鍛錬を行ってから、カミルは剣を置いてそのまま足元の芝生に腰を下ろす。ふうと長く息を吐いた彼は、目を瞑りながら両手を広げ、掌を空に向けて五指に神経を集中させる。程なくして、その両手の上にはオレンジ色の炎が出現した。初歩的な炎魔法である。
彼は集中を切らさずそのまま一分ほど手に炎を灯していたものの、徐々に火の勢いが弱まってきたのを察した彼は掌を上に押し上げるように動かし、空中へ炎を放出した。魔法の産物はなおも微かな光を発し続けたものの、高く昇りだした太陽の光に呑まれるようにしてふっと姿を消してしまった。
まだまだだな。自らの魔法に納得がいかなかったのか自嘲気味に呟いたのち、再び魔法を練ろうとしていたところで、森の入り口の方から声が聞こえてきた。
「旦那、カミルの旦那!」
彼にとって聞き覚えのある、そして今日は特に待ち望んでいた声。反応して立ち上がり、剣を背負いながら家から続く比較的広い道を進むと、すぐに荷馬車とそれを曳く二頭の馬、そしてそれを指揮する小太りの男の姿が見えた。
「久しぶりだな、エドモン。二月ぶりくらいか?」
商人エドモンは頭に被っていたバレットを脱ぎ、ケープの袖で汗を拭いながら挨拶を返してくる。
「旦那もお変わりなく。何かお取込み中でしたかね?」
「いや、いつもの趣味だよ」
カミルの言葉に、商人は背中の剣に視線を送りながら口を開く。
「あっしも旦那の剣技は何度か見学させてもらってますがね、あんなの手慰みで収まるようなレベルじゃねえですよ」
「褒めたって安売りしたりしないぞ、エドモン」
若作りだがそれでも皴の見える顔に微笑を浮かべたカミルは、そこで言葉を切ると荷馬車を動かすのを手伝った。二人が家に辿り着いたところで、彼は例の鳥の死骸を貯蔵庫から持ってきてエドモンに見せる。
「そいつは……?」
「今朝、小川の近くで仕留めたんだ」
彼が抱える茶色の鳥に目を落とした商人は、たちまちぎょろぎょろした目を見開いて素っ頓狂な声を上げた。
「あ、アイボリーベルガモじゃねえですか!」
やっぱりか、と呟くカミル。予想はしていたが、こうして人の口からその名前が出てくるとまた達成感がこみあげてくる。
アイボリーベルガモは希少で、しかも主な生息域は隣国のヴァイゼン帝国なのでこの国では極めて価値が高い。滋味深い肉だけでなく、名前の由来となったその目は装飾品に加工でき、羽根や嘴は薬屋で調合されると高熱によく効く薬となる。特に最近まで王都の周囲では流行り病が蔓延していたため、その価値はさらに跳ね上がるだろう。
「これを売りたいんだが、いくらで買い取ってくれる?」
「そうですね……ざっとこのくらいかと」
ようやく平静を取り戻したエドモンの提示した額は、カミルの予想していた数字よりもかなり大きなものだった。これならば、今日彼が目の前の商人から買う予定だった品物代を差し引いても少しお釣りがくる。
「本当にこの額でいいのか? これだとお前の儲けがほぼなくなるんじゃないか」
「いえいえ、あっしは王都で卸すだけですので、これが適正ってやつですよ。それに、じいさんの代からずっと、うちは売り手にも買い手にも正直なのが“売り”でして」
「ならいいんだが」
知人のお決まりのジョークを無視して引き下がったカミルは、パンやワイン、それに今朝痛い目を見た香辛料など今日購入予定の品物を告げ、自らは余分な干し肉や薬草などを取りに貯蔵庫へと戻った。
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