第5話 凶報と忠告
魔人。邪悪なる魔法を用いて人を殺して喰らい、土地を荒廃させる怪物たち。それを統べる存在として人々に恐れられていたのが、魔王という存在だ。
長らく大陸の西を魔人領としてそこに留まっていた彼らは、しかし三十五年前に突如として人間側へと宣戦布告を行うと同時に侵攻を開始。魔人領に面した三か国の中でも最もその被害を受けたのがこの王国だった。
一部の村は滅ぼされ、あるいはその暴威に耐えかねた住民によって放棄されるなどして魔人の支配領域は拡大し、主要な街道もしばしば襲われた。拠点を守る兵力も徐々に目減りしていく絶望的な状況の中、それを救うべく現れたのが勇者エミリアとその仲間たちだった。
彼女たちが魔王を倒したのち、侵攻していた魔人たちは元の領地へ撤退。以降は散発的な出没はあれど、彼らによる大規模な侵攻は三十年間一度も起こっていない。かくしてこの地には、再び平和な世が訪れた。
そのはずだった。今日までは。
「……それは真の情報か?」
国王の問いかけに対し、息が戻ってきた男は体を震わせながらはいと答える。
「魔人領から帰還した冒険者による証言が複数寄せられているようです。他に、共和国側もこの情報を把握していると報告が」
大陸南部に位置する共和国にも伝わっているということは、情報の確度はかなり高いと認めざるを得ないだろう。大陸北部の帝国も遅くないうちにその情報を入手するはずだ。
王は紅い肘置きを使いながら顔を曇らせ、その横に立つキルゴールへ視線を送る。書類を脇に抱えて複雑な表情を浮かべていた彼は、小さく呟く。
「エミリアの恐れていたことが、現実のものになってしまいましたか」
「……おい、オレはそんなの聞いたことねえぞ」
唐突に出された勇者の名前に即座に反応し、レッケンがブーツで地面を打ち鳴らしながら追及する。陛下の御前で非常識な振る舞いではあるが、俺も似たような気持ちではある。
「まさか隠してたんじゃねえよな。団長のオレに、同じ飯を食ったオレによ」
「レッケン、落ち着いてくれ。私がそう指示したのだ」
キルゴールを庇うようにそう言った王は、苛立っていた彼が少し落ち着くのを待ってから説明を始める。
「父上が存命であった頃から、エミリアはしばしば魔王の再来を憂慮していた。――これはあくまで個人的な推測にすぎないが、カミルを王都の近くへ留めておいたのも、彼女の助言を部分的に聞き容れたからであると思う」
確かに、と俺は当時の状況を思い出す。国王が俺を疎んでいたのは確かだが、その気になればもっと辺境に追放することだってできたはずだ。それをわざわざ王都から比較的近い大狼の森へと封じたのは、有事の際に即座に召喚できるようにという考えがどこかにあったのかもしれない。
「私が即位後初めてその話を聞かされた時、あくまでも可能性の話で民に不安を与えることは控えようと考えた。そして、この話をキルゴールも含めた三人のみで共有することにしたのだ。レッケン、そなたにも伝えるべきであったな。申し訳ない」
「……いえ、私は戦士長として陛下のお考えに従うだけですよ……それでキルゴール、何か策でもあんのか?」
君主の謝罪に頭を下げたレッケンは、かつての旅の仲間の方に向き直るとぞんざいな口調でそう尋ねる。問われた方は少し考え込んでから、状況を整理するように言葉を放つ。
「……三十年前のことを考えると、再び侵攻してくる可能性は極めて高いでしょう。相手は忌まわしき魔人たち、交渉による平和的解決も絶望的です。よってこちらも迎え撃つしかありませんが、過去の教訓を踏まえるとそれだけでは不十分であることは明らかです」
「……それで?」
旅の途中で目撃した数々の、この世のものとは認めたくないほどの悲惨な光景を思い出しながら、俺が続きを促す。レッケンは先ほどまでの勢いはどこへやら、腕組みして口を真一文字に結んだまま動かない。
「一つ策を思いつきましたが、しかし……」
大司教はそう思わせぶりに言葉を切ってから、横に座る国王へ問いかける。
「陛下、この後少しお時間をいただけますでしょうか?」
「世界の危機だぞ。勿論構わないさ」
その返事に感謝の意を表したキルゴールは、今度は俺たちの方に向き直る。
「水晶番は戻って構いません。このことはくれぐれも内密に頼みます。他の三人はもう遅いですし、明日の朝にまた私から――」
「いや、ここに集まってほしい」王は玉座から腰を上げながら大司教の言葉を訂正する。
「二人で話し合った内容をそのまま伝えようと思う。そなたら、特にレッケンとカミルはそれに対して何か意見を述べてほしい。可能な限り尊重しよう」
戦士団長はともかく、どうして俺まで。少し不思議に思いながらもその呼びかけに頷くと、王は右手を開いて解散を告げる。
「それでは、明日の朝に再び会おう」
「……大変なことになってしまいました」
帰宅するレッケンと別れて自室へ戻る途中、それまで口をつぐんでいたレーネがぽつぽつと呟きだした。凶報があまりにも衝撃的だったのか、その指先は微かに震えていた。
「魔王は討ち滅ぼされたのだと安心しておりましたが、まさか再び現れるとは……」
「俺だって驚いてるさ。まあ、直接戦ったことはないんだが」
「そうなのですか? 私はてっきり、カミル様も含めた五人で力を合わせて倒したのだとばかり」
彼女の心情に共感を示そうとしたのだが、どうも新たな驚きを与えてしまったらしい。
「いや、協力したというのはある意味では正しくて……。エミリアが一人で魔王と戦い、残りは手下の魔族たちを相手にする作戦だったんだ」
当時の王宮内は警備が厚く、固まって突破しようとしても数で押し切られる可能性が高かった。やむなくエミリア自身が発案したこの無謀にも見える作戦に賭けることとなった俺たちは、王の間への道を切り拓いた後は彼女が戻るまでずっと魔人たちの猛攻をなんとか凌ぎ続けていた。そのため、魔王の姿もそれを彼女が倒す瞬間も目撃していない。
俺の説明を聞き終えたレーネは、初耳でしたと述べてから続ける。
「キルゴール様は魔人領での出来事についてはあまりお話になりませんし、勇者一行についての伝記でもその辺りは省略されていましたので」
元来口の重く、しかも魔人の非道さに心を痛めていた彼が弟子に伏せるのも無理はない。ただ、勇者一行についての伝記において、自分の存在以外にも不正確な部分が存在するというのは知らなかった。
もとより、昔話というものは総じてフィクションの混じったものであるとも言えるが。心の中で主語の大きすぎる文章を思い浮かべていると、横を歩いていた彼女が唐突にその整った顔をぐっと近づけてきた。
「あの、私、旅のお話についてもっと詳しく伺いたいのですが」
「近い近い離れろ! ……今日は遅いから、また今度教えてやるよ」
慌てた俺の返答に対して彼女がにこやかな表情で頷いたところで、ちょうど俺にあてがわれた部屋の前に到達した。じゃあなと別れかけたところで、ふと心に浮かんだちょっとした疑問を口にする。
「そういえば、レーネはどこに住んでるんだ?」
「大聖堂の近くにある、共同司祭館という場所です。キルゴール様はこの建物の一室に住まわれてますが……どうかしました?」
タイミングが不自然すぎたのか、不思議そうにそう聞き返してきた。こちらとしては単なる思い付きだったのだが、生真面目な彼女は質問の意味を深読みしようとしてしまったらしい。
「一応、朝食の時間前にはこちらに伺いますので、寝坊の心配はなさらずとも結構ですよ」
「いや、早起きは慣れてる」
そうでしたか、と背筋を正す彼女。その姿勢を見た俺は、昼間キルゴールが言っていたことを思い出しながら続ける。
「……魔王のことはお前の師匠たちがどうにかするだろうから、きっと大丈夫だ。それと、真面目なのは素晴らしいことだが、あんまり肩肘張っても疲れるだけだぞ」
我ながら気味の悪い説教だが、彼女の振る舞いを見て不安に思ったのも確かだ。レッケンと過ごしているときを除いて、常に正しく在ろうと気を張るその姿勢はあまりにも過剰で、病的なものさえ感じていた。
「……ご心配ありがとうございます。それでは」
俺のお節介に対し、彼女は複雑な表情を浮かべながらお礼を述べ、そのまま去っていった。その小さな背中が廊下の向こう側に消えるのを見送ってから、俺は部屋に入って即ベッドにその身を投げ出した。
「人間って難しい……」
魔人のような台詞が思わず口をついて出た。今日一日であまりにも多くの出来事があり、三十年前とのギャップも激しかった。情報を整理すべくパンクしそうな頭を枕に横たえているうちに、抗いがたい猛烈な眠気に襲われてくる。
意識を落とす寸前、何故かレーネの姿が頭をよぎった。いきなり顔を寄せてきた際に俺が過剰なほど動揺したのは、もしかするとその所作がエミリアに似ていたせいかもしれない。変な考えを一蹴しようとしたところで、とうとう意識が暗い海に沈んでしまった。
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