眠れる我はとこしえに
命の恩人を杖代わりにした罰当たりな姿で、なんとか宝物庫まで戻ってはこれた。
これたのだが、自分の意思に反して乱れる呼吸と歩調、額や背中を流れていく汗、それと、急激に増した倦怠感が実に不快でならない。我はもう……限界に達していた。
大理石の床を見下ろす。
今となっては眩暈を誘う淡黄色のマーブル模様。ほんのごくわずかだけ、重なってぼやけたように浮き上がる箇所の手前まで進み、そこで立ち止まる。
なにもあるように見えないが、彼女はそこに、たしかに存在する。その場所には、幻影魔法で守られた瀕死のロアが横たわっていた。
柄を伝いながらしゃがみ込んだ
片手を床へ向けて術を解くための詠唱を始める。その言葉のひとつひとつですら、残り少ない体力を激しく奪って苦しめた。
『
横たわる人影がうっすらと浮かび上がったかと思えば、瞬く間に水着姿のロアが現れた。
胸もとに刺さる痛々しい矢の数々、そして、渇いた血の痕。
とても生者には見えない凄惨な様子だが、微かな呼吸に呼応して矢筈がわずかに揺れていた。
「ロア、がんばったな」
腰に巻きつけた革ベルトを外してから横ずわりになり、ポーチを開けて香水瓶に似た小さくて丸い形状の水晶瓶──
手に力がもう入らない。震える指先で蓋を外せば、水晶の容器に刻まれた花びらのような文様にライムグリーンの輝きが煌めいてチャポンと音をたてた。
眠るロアを膝枕に乗せ、紫色の唇に飲み口を近づける。だが、貴重な霊薬は
やはりダメか……今度は
思わぬかたちで彼女のファーストキッスを奪ってしまったが、我も初めてなのだ。あとで怒らないでくれよ。
「……う……ん……」
「フッ、おまえは……心の声が聞こえているのか?」
血色を取り戻した頬と唇が、そんな声に応えて微笑んだような気がした。
「──くっ!」
そのとき意識が、ほんの一瞬だけ飛ぶ。
同時に、灰のように舞い上がる光の粒子が視界を覆う。
この光──我は、いつか見た夜空の流星群を思い出していた。虚ろな意識で手のひらを見れば、指先から徐々に手首へと消え始めていくところだった。
「時間切れ……か」
もうすぐ我はこの世から消滅する。
思い起こせば、この少女とかかわりを持ったことが運の尽きだったと言えよう。
だが不思議なことに、なにも感じなかった。いや、心の中で、なにかが確かにあった。けれどもそれは、憤りや怒りといった〝負〟の感情ではなく、それらとは真逆に位置するもののような気がしてならない。
胸に去来するこの気持ちは、いったいなんなのだろう。ヴァイン、おまえならわかるか?
「まあいい。もうよいのだ」
ぽろぽろと、おもしろいように胸もとから吐き出されてゆく眼下の矢を見つめながら、独りごつ。やがて傷口が完全に治癒し、眠り姫の小さな寝息が耳にまで届いた。
「……お願いだ、ロア。ヴァインを…………ヴァインを助けてやってくれ。あいつは……彼まで死なせたくは──」
「むにゃむにゃ……わかったわよ、お母様……」
「フフッ、母親ではない。まったく……本当におまえは、おもしろい人間だな……」
寝言まで実に愉快な少女だ。
前髪を撫でてやろうとしたが、触れるまえに半透明の指がついに消えてしまった。
これが最後かもしれない。
腕だけでロアの身体を抱き起こす。
お互いの頬をそっと寄せ、瞼を閉じる。
「おやすみ、ロア……」
彼女の体温があたたかい。
鏡面世界にはない感覚だ。
いま見えているもの、感じられているものは、あたたかい闇。
どこか懐かしくもあり、それでいて初めて知る闇の中で、陽光を浴びるようなぬくもりを感じていた。
それにしても…………。
ああ、疲れた。
のんびりとしばらくは、我も眠らせてもらうとしよう。
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