08.新たな名前

 院長はおくるみを丁寧に広げた。アレッシアは、自分がかつてその布で包めるほど小さかったことに我ながら感心した。

 アレッシアは生まれて数か月と見られる頃に玄関の前で院長に拾われたという。どこの誰の子か分かるものは無かった、と教えられていた。


「どうして今まで見せてくれなかったんですか?」

「ここが理由なのです……」


 と、院長はおくるみの隅の刺繍を指した。

 金色の糸で縫われたそれは古代文字のようなものを形作っていた。古代文字はシンス教と関係性のある文字で、修道士なら必ず習うものだが、刺繍の文字はそれとは少し違った。


「これはなんですか?」

「多分、あなたの名前です。でも良くない名前です」

「良くない?」

「私の推測を先に言っておくと、場所や家によっては幼名として邪悪なものの名前を付けることで子どもの魔除けにする風習があるらしいので、これもそういう意味だと思います」

「そうなのですか。それで……なんて名前なんですか?」


 院長は声を低めて答えた。


「クルアーシュ。調べてみたら、魔女を意味するようです」

「……クルアーシュ……」


 アレッシアはショックを受けてはいなかった。むしろ、今まで平穏に暮らせていた分だけ気にすることを忘れていた自分の過去を、新鮮な気持ちで受け止めていた。


「でも、今までこのことを教えなかったのは、この名前を嫌ってのことではないのです。もちろん、あなたが不安に思うことを少し心配したけれど。一番の理由は、この魔除けの役目は、私があなたを見つけた時に終わったと思ったからでした。あなたが玄関で誰かを待っている間、この名前はあなたをあらゆる害から守っていた、ということにしたのです」


 院長はおくるみを畳み直すと、アレッシアへ差し出した。


「さあ、あなたがお持ちなさい」


 アレッシアはそれを慎重に受け取った。

 今日までアレッシアは、自分が持っているものは修道院で与えられたものだけであり、それで十分だと思っていた。だが自分の原点により近いものが現れた今は、ピースが不足していると分かっているジグソーパズルをやっているような、もやもやした気分だ。


「院長先生……私、両親を探してみたいです。ここに私を置いていったのが別の人なら、その人でもいい。生まれた時の私を知っている誰かに会ってみたいです」


 その話は院長にとって意外ではないようだった。


「ということは、旅をするのですね」

「ここにはいつでも帰ってこれるようになりましたから」

「一緒にいないのは寂しいですが、あなたも他の兄弟姉妹のように世間を見て、自分を追究したい年頃になったということなのでしょう。私はその気持ちを支えますよ。そうなると、よそで名乗るための別の名前が必要ですね」


 追放刑に処された者は、元の名前を名乗って生きてはいけないとされているからだ。


「じゃあ、院長先生がまた私に名前を付けてくれませんか?」

「ええ! 喜んで」


 院長は少し考えた後、何かを思い出したようだった。


「あなたに付ける名前の候補がもう一つあったんです。それにしましょう。クレリアです」

「クレリア……」


 アレッシアは――新たな名を受け取ってはにかんだ。


「はい。私、今からクレリア……です」


 院長は苦笑した。


「ぎこちないですね。うっかり間違わないように、唱えてごらんなさい?」

「私はクレリアです」

「もっと自信を持って名乗って」

「私はクレリアといいます」

「なんと呼べばいいか尋ねられたら?」

「クレリアと呼んでください」


 二人は顔を見合わせて笑ったが、段々と寂しさが滲んでいった。もう一つの名を馴染ませることは、アレッシアとして生きてきた人生をやんわりと、しかし確実に包み隠してしまうことだ。追加の罰を回避するための手段に過ぎないとしても、やるせなさがあった。

 だが、クレリアはこれからの目標を定めたし、院長は新たな名を授けた。二人には自分たちが一歩前進したことを喜ぶ気持ちもあったのだった。


「具体的には、どのように人を探すつもりですか?」

「このおくるみが手がかりになると思います。生まれた子に魔除けの名前を付ける風習について調べたら何かが分かるはずです」

「それがいいでしょう。もう少し手助けになりたかったですが、私はそのような風習のある地域や家を突き止めたわけではないので、道を示すことはできそうにありません。蔵書室でもっとヒントが見つかるかもしれませんよ」

「いえ、明日の朝、すぐに出ようと思います」


 院長は思わずといったようにクレリアの腕をつかんだ。言外に強く引き止めたがっているその手に、クレリアは自分の手をそっと重ねる。


「私の新しい名前は院長先生が皆に教えてください。自分で言うのは緊張するから。帰ってくるのは、皆が新しい名前を覚えた頃にします」

「……そう。なら、そうしましょう」


 名残惜しみながら院長とクレリアはソファを立った。

 時刻はまだ午後十一時頃だが、世間よりも早い就寝時刻に体が慣れている二人はそろそろ眠さの限界だ。クレリアは客間に戻った。安心感と疲れのお陰で、今度はすぐに寝入ることができた。

 そして夜明けとともに起きると、部屋にあったメモ用紙にこう書きつけ、人知れず修道院を出発したのだった。


『お世話になりました。一宿一飯の御恩を忘れません。』


 麻紐の肩掛け鞄とその中身を、いつか同じ場所に帰る自分の身代わりとして残して。

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