09.町を動かすもの
兄弟姉妹に挨拶をせずに出てきたことを後悔はしなかったし、決心もついていた。しかし別の選択として、もしも別人として修道院で暮らすことに決めていたら、という想像をしないではいられなくて、クレリアは何度か修道院を振り返った。だがそれも物理的な距離が遠ざかるにつれて、旅に出たのだという現実感へ引き込まれていったので、気にならなくなった。現実には少々不安があったものの、今はまだ、晴れた朝の街道を自分の歩幅で歩く清々しさに満ちていた。
クレリアは歩きながら、聖宮で詰めてもらった食料の一つを取って朝食とした。順番通りに魚と芋の揚げ物が入っている包みを開けて少しずつつまんだ。
そのようにのんびりと二時間ほど歩いて、ハニエという町に到着した。商人が多く住んでおり、王都から見ると下町といった場所だ。昔ながらの商店が軒を連ねる市場は広場も兼ねており、出店や屋台も並んでいる。色とりどりのテントがひしめく様子は花盛りの花壇のようだ。
しかし、町の景色とは裏腹に人々の表情は落ち込んでいた。新聞売りの少年だけが声を張っている。
「王様がお亡くなりだよ! ステファン陛下がお亡くなりになったよ!」
町の人々は店を開ける準備をしながら、それについて話していた。
「ご病気だったという噂は本当だったのかな」
「病気でも聖女様なら治せるんじゃなかったの?」
「秘術ってのも万能じゃないのかもねぇ」
先天的な能力者である秘術師は数が少ないため、治療費が高額になりやすい。しかも各地方の聖堂に務めることが義務付けられていることから、敬虔なシンス教徒しか治療が受けられないこともしばしばある。そういうわけで、秘術とは、多くの市民にとって理解しやすいものではなかった。
クレリアはなんだか気まずくなったので話し声から遠ざかった。すると宿屋の看板が目に入ってきて、その時ハッと気づいた。お金を持っていないということに。
「……そうだった……」
愕然として呟く。
修道院や聖宮で暮らしてきたクレリアには、世間で暮らすにはお金が結構必要だという常識が身についていなかったのだ。
さて、そうと気づくと心配になってきた。夜になったらどこで寝るのか? 宿に泊まる他ない。しかしお金がなければ? 泊まれない。ではどうするのか?
お金というものを知らないわけではない。修道院では生活のために皆であくせく働いていた。自給自足のため畑の世話をしたり、街に売るためのお菓子や日用品を作ったりだ。必要最低限の生活費を稼ぐならそれで十分だったものだ。
それと同じことをすればいいのだ。そう思いついてから町をもう一度眺めてみると、まさに同じことをしている人がたくさんいた。パン屋はパンを焼き、靴屋は靴を作り、商品が売れるとお金を受け取る。利益とは受け取ったお金から生産費用を引いた分のことである、とクレリアは知っている。
最大の問題は、クレリアは商品はおろか、商品を作るための原材料も道具も持っていないということだった。
まさか秘術で商売をするわけにもいかないので、どうしたものかと腕を組んで考え込んでいると、そこへ声がかかった。
「献立を悩んでるのかい?」
「え?」
「ずっとそこで難しい顔をしてるからさ」
知らない間に八百屋の前で立ち止まっていたのだ。エプロン姿の杖を持った老婆がクレリアの出で立ちを眺めて不思議そうにしている。
一人で考えていても思いつかなさそうなので、この老婆に素直に話してみることにした。
「旅をし始めたところなんですが、お金が無いんです」
「おやおや、若者らしい悩みだねぇ。だったら野菜を売るのを手伝ってみる?」
「いいんですか?」
「そりゃこっちの質問だねぇ」
老婆は手招きして店の奥へ誘った。値札を付けられた野菜が並んでいる台の間を抜けてついていくと、そこには店先の何倍もの量の野菜が種類別に大きな籠に入れられて置いてあった。
「町中の飯屋へ届けなくちゃいけないんだけど、まだ準備が終わってなくてねぇ。注文書に書いてあるものを籠ごとにまとめるだけなんだけど」
と、老婆は数枚のメモ紙を渡してきた。各店が申し込んだ野菜と個数のリストらしい。クレリアは顔を上げて頷いた。
「やります」
「それは助かるよ。今朝は悲しいニュースのせいでなんだか疲れちまったからねぇ……そうそう、あなたお名前は?」
「私はクレリアといいます」
「クレリアね。私ゃヘルダだよ。娘のラウラが最初の配達から帰ってくるまでに終わらせてちょうだいね」
「はい」
ヘルダはそう言い残すと、店先の椅子に腰掛けて新聞を読み始めた。クレリアは鞄を下ろし、早速仕事に取り掛かった。
そばに取っ手穴のある木箱が積み上げてあったので、それを一つ取って一店目の注文の野菜を揃えて入れた。二店目の箱も同じように作り、三店目、四店目と要領よくこなしていく。
修道院で野菜を自給自足していた分、クレリアは美味しそうな野菜を見分けることができた。葉物は新鮮で柔らかそうなものを、根菜は太いものを、トマトは鮮やかに赤いものと青みが残っているものを、それらを必要としている箱へ平等に分けた。各箱の総合的な質を同じにしたかったのだ。
そうやって野菜をあちらへこちらへと入れ替えていると、店の表に中年女性が空の引き車を停めた。
「あら? お母さん、次の配達品は準備できたの?」
「どうかねぇ。ねえクレリア、終わったかい?」
「えっと……はい。できました」
最後のキャベツを木箱に入れた見知らぬ少女に、ラウラは片眉を上げた。
「お母さんったら、また賭博新聞読むためにサボったでしょ!」
首を傾げてとぼける老婆の椅子と背中の間から、ラウラは新聞を抜き取って見せた。
ヘルダは次に肩をすくめる。
「どうせ今日はどこもやってやしないよ。王様が亡くなられて、それどころじゃないんだから」
ラウラは呆れ返って目を回した。
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