10月19日 傷口の腐血
「お引き取り下さい」
硬く冷たい口舌で、吐き捨てるようにレティシアが告げる。
白い仮面で覆われた顔を見つめながら、ルカは僅かに肩をすくめた。
「せめて来客を伝えに行く素振りくらい、見せて欲しいのだけれど」
「クロード様は体調が優れません。三日前に貴女が訪問されて以降、満足な食事も召し上がらず、自室に篭っておられます」
お前のせいだと言わんばかり、ルカに向けられる静かな敵意。
「お帰りを。これ以上、
必要な心労を抱えさせているつもりなのだけれど、と胸の内でのみ軽口を呟くルカ。
実際に声に出すほど彼女は馬鹿ではない。それこそ要らぬ不興を買うだけの結果に終わることなど、目を合わせずとも明白だった。
──ともあれ、レティシアの態度は頑なで、恐らく何を言っても無駄。
そして相手は、ヘビー級ボクサーだろうとも片手で制圧出来る身体能力と格闘技術を備え付けられた魔造メイド。
ルカならば無理やり押し退けることも可能は可能だが、ひとまず彼女にそこまでの強硬手段を選択する意思は無かった。
「分かったわ」
ゆえに代替案を採るべく、指を鳴らすルカ。
小気味良い音が響いた後、その手中には、いつの間にか紙とペンが握られていた。
「大人しく引き上げる代わりに、一筆届けて貰えるかしら」
昼間だと言うのに、カーテンを閉め切った薄暗い室内。
つい先程、二時間にも満たぬ浅い睡眠から目覚め、ベッドに腰掛けていた蔵人が、緩慢な動きで視線を窓の外に向ける。
「(……帰った、か)」
レティシアすら遠ざけ、まともに眠れない夜が続き、鉛のように鈍く頭痛を伴う思考。
にも拘らず感覚は異様に鋭敏で、今や
「(ヴシュケに一人。イベリスに二人。蛍はいつもの場所……となるとルカの奴だな。寝る前、ルーダンにあった異物の気配が無い……)」
初戦で敗れた候補者のうち
二回戦及び三回戦では、それぞれ
すなわち現状の敗残者は計五人。その総員が、蔵人の
もっとも、現代的な設備が整った生活拠点をマリアリィから与えられた候補者は五十五番目以降の最後発組のみであるため、偏りが生ずるのも当然の成り行きだろう。
文明の恩恵に慣れきった二十一世紀の先進国出身者で、最先端の娯楽どころか温水シャワーや水洗トイレすら無い生活に長く耐えられる者は、多くないのだから。
閑話休題。
「ッッ……」
ルカの名を脳裏に浮かばせた蔵人は、連鎖的に三日前の彼女とのやり取りを思い出し、表情を歪め、疼く顔の傷を包帯越しに掻きむしる。
「あァ、くそッ」
針を刺すように頭の中で響く、緩やかで穏やかな声。
『──あなたを壊すのが忍びなかったからよ』
まずリフレインしたのは、何故三回戦を放棄した、と問うた蔵人に対するルカの返答。
次いで、記憶に焼き付いた言葉の数々が、堰を切って思考へと雪崩れ込む。
『あなたの心は悲鳴を上げている。今日は昨日よりも強く、明日は今日よりも強く』
『そんなあなたが、リンボなどという精神が剥き出しの空間でわたしと会えばどうなるかなんて、火を見るより明らか』
真っ直ぐに蔵人を捉え、彼の精神を暴き立てる、揺らめく極彩色の双眸。
忖度も脚色も無く、見たままをありのままに紡ぐ、明鏡の如し舌先。
『あなたの心は傷だらけよ。他人を傷付ける度、それ以上に自分自身が血を流している』
『あなたには加害を楽しむことなんて出来ないわ。あなたが本当に悪行を心底面白がっているのなら、何故このギルボアの住民達は誰一人として毒花に冒されていないの?』
語り口と共に水面へと引き上げられて行く、胸の奥底に深く沈めた、蔵人の本性。
『幼い頃から、ご両親をずっと案じていたあなたは、人の痛みにとても敏感よ』
『他人の傷を、まるで自分のもののように受け取ってしまうくらいに』
それは例えるならば、汚れた針と糸で無理やり縫い合わせた傷口を抉り、そこに溜まる腐り果てた血を掻き出す作業。
『司さんとの継承戦だって、結局は苦しむ彼女を見ていられなくて、でも今更助けることも出来なくて、苦渋の末、早々にトドメを刺した』
『初戦が終わった後、司さんが生きていたと知ったあなたは心底安堵した。十月八日に彼女のところへ行った本当の理由は用心棒の依頼なんかじゃなく、自分のせいで廃人にしてしまったかも知れないと心配で仕方なかったから』
傷を癒すには不可欠な、けれども苦痛を伴う荒療治。
『
『あなたは
ルカの言葉を思い出すほど心が乱れ、心が乱れるほど顔の傷は疼きを増し、歯を食いしばった蔵人は一層に傷を掻きむしる。
『でも受け容れられなかった。甘い理想を受け容れるには、あなたは傷付き過ぎていた』
『だけど、そうして本心に逆らって、何もかもどうでもいいと投げやりを演じて心に蓋をし続けるほど、あなたは更に傷付いて行く』
傷口が開き、溢れ出た血が、真っ白な包帯に点々と滲む。
『だって、あなたは──とても優しい人だもの』
やがて包帯を突き抜けた血がひと筋、まるで涙のように頰を伝い、足元へ滴り落ちる。
併せて蔵人は、固く握りしめた拳を、膝に叩き付けた。
「(ふざけんな。ふざけんなよ、あの女。デリカシーってもんがねぇのか)」
己を偽り、薄っぺらく悪意を取り繕い、癇癪に任せて子供のような八つ当たりを繰り返したところで、憂さなど微塵も晴れはしない。
それどころか、押し込めた良心の呵責が、余計に自分の首を絞め上げるばかり。
「(ああ、そうとも。きっと何もかも、お前の言う通りさ)」
実に無価値で、誰一人得をしない、馬鹿馬鹿しい振る舞い。
「(だが……だったらなんだって言うんだ。どうしろって言うんだ)」
「(俺は……俺には、もう……何も……)」
潰れた右目が最後に映し、脳髄に焼き付いて離れない、両親の顔。
夫婦揃って他人を疑うことを知らぬ底抜けの善人で、その愚かしさに苛立ち、時には疎ましくすら感じながらも、この世の誰より大切だった家族。
そんな最愛を最悪な形でいっぺんに喪い、紙片を丸めるかのように捻り潰れた心。
夜毎に家族の夢を見、目覚める度に独りとなった現実を突き付けられ、日を追うほど更に擦り切れて行く精神。
まるで、絶えず頭の中をミキサーでかき混ぜられているかの如き感覚。
絶望が深過ぎて、半ば麻痺してしまった感情。
蔵人には、最早──自分がどうしたいのかさえ、分からないのだ。
「クロード、様。失礼致します」
嗚咽にも似た小さな呼吸音だけが響く室内に混ざり込む、控えめなノック。
やや間を置いて扉が開かれ、入室するレティシア。
彼女は赤く染まった蔵人の包帯を見とめると、慌てて踵を返そうとした。
「すぐに薬と、新しい包帯を──」
「待て」
掠れた声でレティシアを呼び止め、顔を上げる蔵人。
「今、ルカの奴が来てただろう」
「…………はい。文を預かっています」
「寄越せ」
真っ直ぐ四つ折りにされたメモ用紙。
それを差し出した後、レティシアは今度こそ薬箱を取りに向かう。
「……ッ」
メモの内容を検めた後、蔵人は目を見開き、それを破り捨てる。
真っ二つに裂かれた紙面には、たった一行、こう走り書きされていた。
──ご両親の最期を、思い出して。
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