10月4日 前夜
「お茶が入りました」
「ああ」
レティシアの呼び掛けを受けて白い本を置き、湯気の立つティーカップを取る蔵人。
内容が微塵も分からぬ本を読むのも面白いものだと、ここ数日で思い始めていた。
翌日の準備があると言って日暮れ前にマリアリィが帰って行き、動力源の魔力を自己補完可能なレティシアは飲食や睡眠の必要がないため、先程まで一人分だけ夕食が並んでいた八人がけのダイニングテーブル。
今夜の食後茶はジンジャーティー。体調が万全とは言いがたい蔵人を気遣ってか、
「お身体の具合は、いかがですか」
「明日には治る」
昨日の蛍との衝突で火傷を負い、その分だけ増えた手当ての跡。
とは言え大した怪我ではなく、多少ひりつく程度。本人の言葉通り、あと一夜も過ごせば問題無く癒えるだろう。
顔の傷と、ぎこちない右腕は、まだ当面かかりそうだが。
「就寝される前に軟膏を塗らせていただきます」
「ああ」
「それと、もう十分ほどで浴室の用意が整いますので、湯浴みの際は
「……ああ」
入浴も最初の数日は一人で済ませていたが、何度断っても毎回手伝いを申し出る上、実際に傷の痛みや動作の鈍い利き腕のせいで手間取っていたのも確かだったため、最終的には折れて任せるようになった。
蔵人自身、多くを頼りきりとなりつつある現状に思うところが全く無いと言えば嘘になるが、一切ストレスを感じさせず仕事を円滑にこなすレティシアの奉仕を無理に拒む理由も思い当たらず、今を迎えている。
あえて言うなら、レティシアが有能過ぎるのが悪い。
「クロード様。ひとつ質問をお許し下さいますか」
半分ほどカップの中身を飲み干した頃合、おもむろに請うてきたレティシア。
「……ああ」
奉仕以外の内容でレティシアが口を開くのは、少し珍しい。
小さく疑問符を浮かべながら、蔵人は質問とやらを許す。
「クロード様は何故、
深い一礼の後に向けられたのは、なんとも奇妙な問いだった。
顔を余さず覆った白い仮面を外すことで、レティシアは己の容姿を主人が望むまま自由自在に変えることが出来る。
しかし今夜に至るまで、蔵人がその機能を使ったことは一度も無い。
「不要だからだ」
口数少なく告げた蔵人に、レティシアはいくらか間を置き、言葉を返す。
「クロード様。
唐突な話題の飛躍。
頭上の疑問符を増やしつつも、蔵人は横槍を入れることなく話を聞く。
「
「だろうな」
あれだけ巧みかつ即座に魔法を扱えるのなら、極めて優秀な使用人以上の能力を持たないレティシアに何かさせるより、自ら指を鳴らした方が遥かに早く済む筈。
そう蔵人が思案する傍ら、レティシアは語りを続ける。
「人それぞれに異なる幸福のカタチが存在するように、
しかしマリアリィの元では、それを満たすことが出来なかった。
蔵人の侍従となるまで、ほんの一瞬たりとも、その鬱屈を晴らせなかった。
「クロード様にお仕えする今この時こそ、
「そうか」
レティシアの伝えんとするところを理解したのか、腑に落ちた様子で目を伏せる蔵人。
「感謝しております。お慕い申し上げております。故にこそ
いつになく強い自己主張。
対する蔵人は胸の内を上手く表せる語彙を頭の中で探しているのか、しばし押し黙る。
「……俺は人が嫌いだ。特に
やがて紡ぎ出されたのは、蔵人と関わったことがある者の大半にとって、取り立てて意外にも感じないだろう独白。
「だから今の、どこか作り物めいた風体をしたお前の方が……マシだ。変に姿形を弄り回されるよりも、ずっとな」
そんな蔵人の口振りに何を思ったのか、レティシアもまた、しばし沈黙する。
次に静寂が破られたのは、蔵人のカップが完全に空となった頃だった。
「申し訳ありません。もうひとつだけ質問をお許し下さい」
「ああ」
再度レティシアが請い、蔵人が許す。
「もしも明日、結果がふるわなければ。クロード様は、帰ってしまわれるのですか?」
その問いに返すべき答えを、今の蔵人は持たなかった。
と言うより、今の蔵人にとって、考えるにも値しないことだった。
「敗けた後のことは、敗けた時にでもゆっくり決める」
投げやりな態度で、空のカップがソーサーに置かれる。
「まあ」
一旦言葉を区切り、自嘲混じりに、或いはどうでもよさそうに、蔵人は吐き捨てた。
「どのみち俺には──帰る場所など、どこにも無いがな」
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