第五章

第二十二話 恒星クジラはパン屋に寄る

ジリリリリ


 目覚まし時計が鳴っている。

 ああくそ、うるせぇな……もうちょっと寝かせてくれぇ。


ジリリリリリリリリリ


 うう、仕方ない。そろそろ起き……ぐぅ。


パァンッ!

「どうわぁっ!?」


 なんだなんだなんだ!?耳元で何かが爆発したぞ!?


 夢と現実の境をフラフラしていた意識が、あっという間に現実へと引き戻された。ガバッと勢いよく上体を起こし、爆発音を聞いた片耳を手で押さえて部屋の中を見回す。


「…………」

『おは』


 クジラがいた。


 彼女の隣の空中にあるのは破れた薄手のビニール袋。ああそれか、膨らませて勢いよく叩き潰したんだな。朝一の悪戯にしては結構悪質じゃぁないか。


「ああ、おはようゴザイマス」


 口の端を歪めて、俺は笑顔を向けてやった。






 朝食に玉子焼きを作ったら一本全部食べられる。味噌汁を作ったはずなのに鍋の中が空。仕方ないと納豆を出して器に放り込んだら、ミキサーの如く混ぜ混ぜされる。半分だけ消滅して、残りを俺に渡してくれた。


 …………ネギとちりめんじゃこ入れてカスタムするか。


 食費がちょっと心配になる朝食を終えて、俺は仕事に取り掛かる。今日は写真整理からだ。方々へ赴いて撮った一枚一枚。それは全て資料であり、そして思い出だ。


 事務的な作業をしながら、その時の事を思い出す。


 ここの料理は旨かった。

 またここに行こうと思ってたのに忘れてたな。

 ベストな状態で写真が撮れなかったから、もう一回訪問しないと。


 クジラ印ミキサーで混ぜられた納豆と違って、非常に多くの写真を乱雑に保管してしまうと滅茶苦茶になってしまう。ちゃんとフォルダ分けして、一つ一つに識別名を付けておく。


 これを後でやろうとするとほぼ確実にやらない、面倒臭いからだ。今しか出来ない作業、一気呵成に畳み掛けるのである。


 おおよそ半分くらいを終わらせた時、手元にシュパァッと一枚の紙が滑り込んできた。セイからの意思表示、このタイミングだと何となく内容が推測出来る気がする。


『暇』


 だよな、絶対にそうだと思った。


 家の中で出来る事はテレビを見るか、外を眺めるか、本を読むか、その程度だ。


 ああいや、もう一つあった。盗み食いをするか、である。


 これはマズい、このまま放っておくと食費がっ!しかしどうするか、散歩に出るにしても仕事を放っておくのも良くはない。ここ数日だけでエンゲル係数が爆増状態だからな、ちゃんと稼がないと破産してしまう。


 ふーむ、どうしたものか。


 仕事をしつつ、セイの気も紛らわせられる。そんな都合のいい場所は有るだろうか?


 喫茶店で作業……絶対ダメだ、自ら破産しに行くようなものだ。コワーキングスペースはセイが退屈するだろうな、他の利用者に迷惑かけそう。


 お、そうだ、図書館に行こう。


 PCは持込出来ないが、ちょうど調べものをしたいと思っていた所。セイは意外と読書家、というか雑誌好きなのでそれを与えておけば静かにしてくれる。端っこに居れば目立たないしな。


 よし、じゃあ外出だ。肩掛け鞄にノートやらなんやらを詰め込む。


「お求めに応じて外出しますよ、っと」

『わーい』


 無表情無感情、体の動きも全くなしでセイが喜びの言葉を投げつけてきた。


 シュパッと変えた服装は先日と同じだ。奇抜な恰好で無ければ問題無し、必要以上に目立たなければ良い。元々すっごい目立つからな、セイは。


 今日は車を使わない。普段がデスクワークだからな、こういう時に自分の脚を使わないと不健康極まりないのである。


 かといって大きめの図書館は遠い、徒歩で行くのは現実的な選択ではない。と鳴ればどうするか。


 電車移動である。


 いやまあ普通の交通手段だから、勿体もったい付けて言うような事じゃないな。普段は車移動が多いから、ちょっと特別な感覚になってたよ。


 アパートからてくてく、テクテク。二人揃って歩いていく。鯉が泳ぎさぎが舞い降りる小さな川を眺めながら、ゆったりと橋を超えた。先日訪れた公園よりもこじんまりとしたそれを横目に、更に進む。


 駅舎が見えてきた、それほど大きくはない。通勤ラッシュ時間は既に過ぎているからか、そこへ向かう人はまばらだ。


 セイが走り出す、何処へ行く気だ?追いかけないと面倒事が起きそうだ、俺も小走りで彼女に続く。少女の目的地は、駅に併設されたパン屋であった。


 オイ、朝食で俺の飯を強奪しておいてまだ食う気か。昼食までまだ時間があるんだぞ?


 そんな俺の顔を、セイは輝くライトグリーンの目で見る。『パン食べたい、買って?買え、分かってるよな、拒否したら店の物を全部食らい尽くす』とでも言っているかのようだ。いや、確実にそれを伝えてきている。


 俺は諦め、一つ溜息をいた。


「へいへい、分かりましたよ。ただし、一つだけだぞ!」

『えー』

「それ以上は買わん。嫌ならソレも無しだ」

『チッ』

「文字で舌打ちすんな」


 全く動かない顔とは違って、こっそりと飛んでくるメモは感情豊かである。表情や体の動きでそれを表してくれたら、もうちょっと可愛げがあるというものなのだが。


 いや、そうされたらもっと五月蠅くなる。今のままが最適解だ。


「いらっしゃませ~」


 自動ドアが開いて来店を知らせるベルが鳴ると、店員さんからの柔らかな歓迎を受けた。セイの代わりにトレイとトングを手にし、店内に並ぶパンの棚を巡る。


かちかち

カチカチ


 なんでだろうな、パン屋でトングを持つとパンを威嚇してしまう。コレ、結構多くの人が同じことしてないだろうか。焼き立てパン威嚇症候群だ。


 他の客や店員に見られないようにセイがメモ用紙を飛ばす。それが差したのは、棚の上段に置かれた一際ひときわ大きなスイートブール、半球ドーム状の柔らかなフランスパンである。


 え、コレ?普通は家で切り分けて食べるモンだろ。俺、これ持って電車に乗るの?


 じぃっとセイが俺の事を見ている。


 『一個って言ったよな?』という脅迫だ。くっ、コイツ店で一番大きな奴を頼みやがった…………!確かに一個だけどっ、一個だけどっっ!


 仕方がない、言ってしまった以上は。ちょっと苦労しながらデッカイパンをトレイに乗せる。一個でトレイが一杯だよ、コレ普通は店員さんに言って取ってもらうパンじゃないか……?


 レジで会計をする。流石にこんなものを「ここで食べていきますか?」とは聞かれなかった。丁寧に紙で包んでくれて、シックなデザインのビニール袋に入れてくれる。


 ありがとうございました、の声を背に受けて俺達は店を後にした。


 店員さん、多分家で切り分けて食べるんだろうな~、と思っていらっしゃると思いますが違います。コイツ、これを図書館に行く道中で食べるつもりなんです。


 ビニール袋の中のパンが、良い重さを片手に掛けてくれる。絶対に美味しい奴なのは間違いないが、俺は欠片も食わせてもらえない。


 この半球は全て、隣を歩く少女の物なのだ。

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