16 柘榴





午前7時55分、

子羊が前を見ると子どもを背負った老婆がいた。


老婆はきょろきょろと周りを見ている。

赤ん坊は胸元が交差する昔ながらのおんぶ紐の中にいるらしい。

だがその姿は全く見えない。


「おい。」


子羊が老婆に声をかけた。

ぽかんとした顔で老婆が子羊を見た。


「仕事だ。

注文書を見て布と小物をそろえて配達するんだ。

午前8時にここに来て午前9時までに

この扉から出て届けろ。」


老婆はぼんやりとしている。


「お前、名前は?」

「……さあ、」


子羊はじっと彼女を見る。


「柘榴だ。お前の名前は柘榴だ。」

「柘榴……、」


柘榴と呼ばれて老婆はのろのろと部屋を出て言った。

そしてわりと早く物をそろえて戻って来た。


子羊もさすがに子どもを背負った老婆を

蹴り出しはしなかった。

時間通りに来た老婆を裏の扉から出し、行先を指さした。


その道は板張りの床だった。

そして周りは階段だ。

だがぺったりと壁に張り付いている感じで登れる階段ではない。

奇妙な景色だ。


老婆はぼんやりとした顔でのろのろと歩く。

やがて「西村川衣料洋品店 裏口」と書かれた扉があった。

老婆はコンテナを降ろすと扉を叩いた。


「どうぞ。」


中から女性の声がする。

老婆は扉を開けた。


「あら、ずいぶんとお年を召した方だこと。」


西村川が声をかけた。


「こちらに置いて頂ける?」


と彼女が場所を示すと老婆は黙ったままコンテナを置いた。

西村川が近寄りちらと背中のおんぶ紐の中を見た。


「まあ、なんて小さい赤ちゃん。」


そこにいたのは10センチほどの胎児だ。

背中のおんぶ紐の中でふわふわと浮いていて、

よく見るともじもじと動いている。

まるで人形のようだ。


「あなた、この赤ちゃんどうしたの?」


老婆は返事をせずぼうっとしているだけだ。


「あなたお名前は?」

「……柘榴。」

「柘榴さんね、私は西村川と言うの。マダムと呼んでちょうだい。」


西村川は柘榴を見た。

反抗的なタイプではない。

だが隠している事がかなりありそうな感じだ。

そして背中の赤ん坊だ。


西村川でもこのような人は初めてだった。

柘榴に関わる何かなのだろう。

胎児の大きさから言えば妊娠3、4ヶ月か。


ぼんやりと立っている柘榴の横で西村川は検品をする。


「あら、あなた、布の切り方が上手ね。

洋裁経験があるのかしら。」


西村川がちらと柘榴を見る。

すると彼女の顔が少し動いた。


「昔は服を作った。」


柘榴の年齢は70歳過ぎに見える。


「じゃあ、これから毎日よろしくね。

時間を守ってくれたし、この調子でお願い。」


と言うと柘榴は頭を下げた。




柘榴は毎日時間通りにやって来た。

ただ何もしゃべらず声をかけても少し返事をするぐらいだ。


西村川は別にそれでも良かったが、

時々盗み見ていた背中の胎児が気になった。


「ねえ、柘榴さん、」


西村川がコンテナを持って来た柘榴に話しかけた。


「背中の赤ちゃんって誰の赤ちゃんなの?」


柘榴がしばらくじっとしている。

だがはっと顔を上げた。


「赤ちゃん……、」


今まで全く気が付いていなかったような顔だ。


「ほらおんぶ紐で背負っているじゃない。」


彼女は自分の胸元を見た。

そこにはおんぶ紐が交差しているのが見えた。

彼女は悲鳴を上げた。


「知らない、知らない、どうしてこんな!」


と彼女は突然自分の体に巻き付いているおんぶ紐を取ろうとした。

だがそれは全く解けない。


しばらく彼女は泣き叫びながら自分の体を叩いたりしていたが、

おんぶ紐が取れないと分かると座り込んでめそめそと泣き出した。

西村川はその老婆のそばに近寄った。


「誰の赤ちゃん?」


西村川が静かに聞くと老婆が俯いたまま返事をした。


「……多分嫁の赤ちゃん。」


一体どう言う事なのか。


「でも小さな子よ、この大きさでは産まれても生きられないわ。」


老婆が顔を覆った。


「流れたのよ。私がやったの。」






「嫁を階段から突き落とした。」


柘榴を落ち着かせて椅子に座らせ、西村川が話を聞き始めた。


「突き落とすって、ダメじゃない、そんな事をしたら。」

「は、腹が立って……、私も昔されたから。」


西村川がため息をついた。


「されたからってお嫁さんにやっていい訳ないじゃない。

妊娠している事を知っていてやったの?」


柘榴が俯いたまま頷いた。


「じゃあ背中にいる子はその子ね。」


そう言うと柘榴がぶるぶる震えた。


「恨んでいるわね。」

「それはそうよ、恨んでるでしょ。お嫁さんも怒っているはずよ。」

「……、」


西村川が彼女の背中を見た。

そこは薄ぼんやりと光っている。


胎児の気配はあるが、恨みの感情は感じられなかった。


「まあ、しばらく正直にきちんとお仕事をしなさい。

あなたがなぜこのお仕事をしているか分かる?」

「何となく……、」


柘榴が言う。


「分かっているならとゃんとね。」


柘榴は無言で頷いた。




柘榴はそれからも真面目に仕事を続けた。

彼女はいつの間にか少し若返っていた。

3、40歳ぐらいだろうか。

西村川はちらちらとおんぶ紐の中を見る。

胎児は順調に大きくなっているようだ。


そしてしばらく経った頃だ。


コンテナを届けに来た柘榴が突然座り込んだ。


「生まれるかも……。」


いつの間にかおんぶ紐から赤ん坊の手足が出ている。


「えっ、待って、なんてこと!」


さすがの西村川も慌て出し奥からお湯を持って来た。


「産湯ってこんなので良いのかしら、出産なんて知らないわよ。

どうしたらいいの?」


マダムはおろおろしながら柘榴を見ていた。

彼女は床にうずくまっている。

そしておんぶ紐からずるりと赤ん坊が出て来た。


赤ん坊はつるつるとした綺麗な肌だった。

実際に生まれる子とは違う。

それはそうだろう、母の胎内から出て来た訳ではない。


「あー、良かった、洗ったりしなきゃならないかと……。」


柘榴が顔を上げてほっとした様子の西村川を見た。

そして赤ん坊を見る。

赤ん坊は上向いたままもぞもぞと動いていた。

柘榴がその子をそっと抱き、その顔に触れた。


ふっくらとした健康そうな赤ん坊だ。

艶やかな肌の色が美しい。

赤子は泣く事も無く抱いている柘榴の顔を見ていた。


柘榴はしばらく赤子を見て、そして西村川を見た。

その顔は笑っていた。

西村川は初めて柘榴の笑い顔を見た。


「女の子ね、おめでとうと言うのかしら。」

「そうかしら?」


柘榴が返事をすると西村川がふふと笑う。


「産着がいるわね。」


と西村川が奥に行く。

戻って来るとその手には白い産着とおむつとおむつカバーがあった。

昔ながの布おむつだ。


「ありがとうございます。」


柘榴はそれを受け取ると

慣れた手つきで赤ん坊に服を着せた。


「上手ね。」

「子どもは一人生んだから。」

「産んだ子は男の子?女の子?」

「男の子よ。」


柘榴が赤ん坊を抱いた。


「でもその前に一人流産したの。」

「流れちゃったの?」


柘榴がため息をついた。


「私も階段から突き落とされたの。姑がやったわ。」


柘榴の目が暗くなる。


「どうしてそんな事?」

「多分私が気に入らなかったのよ。

嫁いびりなんて昔はそんなものよ。

18で嫁に来てすぐに妊娠したけど、階段から落とされたわ。

主人にも言ったけど信じてくれなかった。」

「酷いわね。」

「それで20歳の時にまた妊娠して産んだら男の子だったから、

少しはましになったけど、それからも酷いものよ。」

「ずっといびられてたの?」

「そうね、姑が死んでほっとしたわ。」


西村川が柘榴を見た。


「だからと言ってあなたがお嫁さんをいびって良いの?」


柘榴がぎくりとする。


「それは、その……、」

「だめよね。」


柘榴の手がぶるぶると震える。

西村川がさっと赤ん坊を抱き上げた。

柘榴がはっと顔を上げる。


すると西村川の腕の中の赤ん坊が言った。


「おかあさん、いじめちゃだめ。」


可愛らしい声だ。

西村川が驚いて赤ん坊を見た。


「おかあさんをいじめないで。」


西村川がはっとする。

この赤ちゃんはお客様なのだ。


「お客様の前で大変失礼しました。

服はこの産着でよろしかったでしょうか。」

「うん、とてもきもちがいいの、ありがとう。」


西村川が扉を見る。


「それでどういたしましょうか。まだご自分で歩けませんが。」


赤ん坊が西村川を見た。


「おかあさんといっしょにいきたい。」

「分かりました。」


西村川が柘榴を見た。

柘榴は座ったままぽかんとした顔をしている。

西村川は彼女に赤子を返した。


「あなたの子よ。一緒に行きたいんですって。」


それを聞いた柘榴の眼から涙が溢れた。


「名前を付けてあげなさい。」


柘榴は赤ん坊を見る。

その顔にぽたぽたと涙が落ちた。

小さな手がその頬に触れる。


「優美、ゆみ、」


それを聞いて赤ちゃん、優美ゆみはにっこりと笑った。






柘榴はしばらく優美を背負って仕事を続けた。


「優美ちゃん、こんにちは。」


西村川が声をかけると柘榴はにっこりと笑って

優美を彼女に見せた。

柘榴はすっかり表情が豊かになり、姿も若返っていた。


「可愛いわねぇ。」

「ほんとねぇ。」


柘榴は白い割烹気姿でおんぶ紐だ。


「最近重くなってね、結構大変なの。」


にこにこと笑いながら柘榴が言うと背中の優美が言った。


「おかあさん、わたしもう歩ける気がする。」

「えっ?紐が外れないかも。」


今までおんぶ紐は彼女の体から外れなかった。

だが柘榴が紐の結び目を引くとあっさりと解けた。

西村川が背中に回り優美を抱きかかえた。


「歩けるかしら。」


彼女が優美を降ろすと彼女はよちよちと歩き出した。

二歳ぐらいの身長だろうか。


「まあなんて可愛い。」


だが優美は最初に着せた産着を羽織っているだけだ。


「服をご用意しなきゃ。」


慌てて西村川が奥に入り戻って来ると、

優美は柘榴の割烹着にくるまれていた。


「寒いといけないから。」


柘榴が笑う。

西村川が服を広げた。


「柘榴さん、どれが良いかしら。」


西村川が持って来たのはロンパースやカバーオールだ。

上下分れたものもある。

どれもとても可愛らしいものだ。

優美を抱いた柘榴が服を見る。


「今時のデザインばかりみたいね。」

「そうよ、一応私が作ったものよ。

赤ちゃんの服は本当に可愛いわね。」

「そう……。」


柘榴がいくつか手に取って服を見た。


「昔は自分で作らないと無かったわね。

私もいくつも縫ったわ。」


西村川がちらと彼女を見た。


「やっぱり経験者ね。

最初に布を持って来た時からそうかなと思っていたわ。」


柘榴がふっと笑うと服を見た。


「女の子だからやっぱり桃色かしら、可愛い服が良いわね。」


優美が柘榴を見てにっこりと笑った。


「おかあさんがいい服ならどれでもいいよ。」

「そぅお?」


柘榴と優美が笑い合う。


「わたしうれしいな、おかあさんとずっとこうしたかったんだ。

せっかく近くに来たのにおかあさんが階段から落とすし。」


柘榴がぎくりとする。


「……階段から落ちたのってお母さんでしょ?」

「一回目はおかあさんだけど、二回目はおかあさんが落としたんだよ。」


柘榴の手がぶるぶると震えた。

西村川が優美をさっと抱く。


柘榴は顔を押さえると座り込んだ。

西村川が優美を見た。


「二回目って柘榴さんのお嫁さんのお腹にいたの?」

「うん、せっかくたのんでそこに行ったのに、

ダメになっちゃって。

でも今度は本当におかあさんのそばに来れたから良かった。」


柘榴はそれを聞くとわっと泣き出した。


「ごめんなさい、本当にごめんなさい。

落としてごめんなさい……。

あの子が皆に大事にされてて悔しかったの、

主人も息子もあの子ばかりかばって。

私は誰もかばってくれなかったのに、悔しくて、悔しくて……。」


西村川が柘榴のそばに跪いた。

そして優美が彼女の手から降りて柘榴のそばに行くと、

その背中にそっと体を預けた。


「おかあさん、わたしは一緒にいるだけで全然良いんだよ。

ずっとこうしたかったから。」


柘榴が体を起こしてそっと優美を抱いた。


「本当にごめんね、それであの子にも謝りたい。

色々と嫌な事をした。

あの子に私と一緒になっちゃだめと言わなきゃいけない。

本当にごめんなさい。」


西村川はしばらく二人を見て服を持って近寄った。


「さあ、柘榴さん、優美ちゃんに服を着せてあげて。」

「……ありがとう。」


柘榴は涙を拭って優美に服を着せた。

服は彼女にぴったりだった。


「小さな子の服は可愛いわね。」


優美がよちよち歩くのを見て西村川が言った。


「ほんと、可愛い。私も女の子の服が作りたかった。」


柘榴が優美を見て言う。


「そう言えば柘榴さんは男の子を生んだんでしょ?」

「ええ、その子の服も作ったけど

男の子の服はやっぱり少し地味でしょ?」

「そうねぇ、今は男の子にもわりと明るい色も使うけど、

昔はやっぱり紺色とか青とかせいぜい黄色よね。」


西村川が柘榴を見た。


「柘榴さん、洋服を作ってみる?この子の。」

「えっ、作れるの?」

「ええ、少し前にここで服を作った人がいたの。

その道具がそのままあるから作れるわよ。

柘榴さんは経験者だから、

明日の注文書には好きな布と書いておくわ。必要な長さとか分かるでしょ?」

「良いのかしら?」


だが柘榴の顔は嬉しそうだ。

そして彼女の足元に優美が寄って来て笑って見上げている。




翌日、柘榴は優美と手を繋いでやって来た。

彼女は布を何枚か持って来ていた。

西村川が彼女の持って来た生地を見ると

その中にパンダの模様のものがあった。


「あら、パンダだわ。」

「それでブラウスを作ろうと思って。」


彼女はその生地を広げた。


「ちょうど一人目の子を妊娠した時にパンダブームがあったの。

日本にカンカンとランランというパンダが来たのよ。

それで子どもが生まれたら、

パンダの生地で服を作ってあげようと思っていたのよ。」


柘榴がふっと笑う。


「出来なかったけどね。」


優美が柘榴の近くに来る。


「おかあさん、スカートも作るんでしょ?

ジャンバースカート?」

「そうねぇ、肩の所にひらひらってつけて

可愛く出来ないかなあって。」

「白のパンダのブラウスとピンクのスカート?」

「うん、良いかな?」


優美がにっこりと笑った。


「うん、すごくうれしい!」


西村川が優美を見た。


「あら、優美ちゃん、少し大きくなったんじゃない?」


柘榴がはっとする。


「本当だわ、3歳?4歳かしら?」

「ちょっと大きめに作った方が良いんじゃないの?」

「そうねぇ、子どもってすぐに大きくなるわね。」

「ほんとねぇ。」


と二人は顔を合わせて笑った。


「さあ、柘榴さん、頑張って作ってちょうだい。」

「はい。そうします。」


と柘榴は笑う。

彼女はすっかり若返っていた。

ちょうど優美の母親らしい年齢だ。


最初の貧相な老婆から想像が出来ないぐらい、

品の良さそうな優しい顔立ちだ。

そしてどことなく裕福なイメージもある。

どこかのお嬢様という感じだ。


「あなた、お生まれは?

どちらかと言えばお金持ちだったんじゃない?」


西村川が聞く。

柘榴が布に待ち針を打ちながら答えた。


「そうねえ、いわゆるお嬢様学校に通っていたわ。

要するに花嫁修業学校よ。

教養はもちろん料理、洋裁、お掃除、洗濯、お花にお茶、

たいていの子は卒業とともに結婚したわ。

私もそう。」

「相手は選べるの?」

「選べる訳ないわ。親が言うままに私も結婚したの。

それが当たり前だと思っていたわ。」


柘榴がため息をつく。


「でもね、私もそれなりに結婚に夢を持っていたのよ。

相手の方は昔から重要な役職を担っていた家系の方なの。

だからお金には苦労しなかったけど、中は酷いものだったわ。」

「前に言っていた嫁いびり?」

「親戚中で寄ってたかってねちねちねちねち。

それしかやる事がないのよ。」


彼女は呆れた様子で手に持った待ち針を振った。


「それでも妊娠したんだけど階段から落とされちゃって。

落とされたと言っても主人はママ、ママで信用しないし。」

「マザコン?」

「そうよ。」


柘榴はははと笑った。


「でも病気になった時に仕返ししたわ。

動けなくなったから耳元で昔の事を呟いたの。

真っ青な顔をしていたわね。」


それを聞いて西村川の顔が険しくなる。

柘榴はそれを見てはっとした。


「柘榴さん、自分の手を見てごらんなさい。」


そう言われた彼女は待ち針を持つ手を見た。

するとそれは以前の老婆のような手でシミがあり皴々になっていた。

柘榴は顔色を変えるとさっとその手を隠した。

西村川が彼女を見た。


「それはどう言う事か分かるわよね。」

「……私はいけない事をしたのね、だけどずっと我慢していたのよ。」

「そうね、やられっぱなしで辛いわよね。」


西村川がその手をそっと握った。


「嫁いびりって文化みたいな感覚が昔の人はあったわね。

何も知らない嫁を鍛えるみたいな名目で、

自分がされたから私もする感じで。」


俯いた柘榴が少し頷いた。


「でもね、それは良くない文化よ。

子どもの虐待が連鎖しているのと同じ。

どこかで止めなきゃだめなのよ。」

「それを私がしなきゃいけなかったの?」

「そう言う事よ。」


柘榴は顔を上げて優美を見た。


「私の息子はね、結婚が遅かったの。」

「それも多分あなたのせいでしょ?」

「そうね、何人か連れて来たけどみんな追い出したわ。」

「やっぱりね。」


西村川が苦笑する。


「でね、息子が50歳近くなった頃にあの嫁を連れて来たのよ。

ちょうどコロナの頃よ。

話を聞いたら夜の仕事をしている子だって。

コロナで仕事が無くなったらしいの。

それで息子が結婚するって連れて来たのよ。」

「あらまあ、」

「話を聞いたら5年ぐらい前から付き合っていたらしいの。

もう35過ぎの女よ。

コロナで仕事も無くなったって言うから

これはもう絶対に金目当てねと思って。

それに調べたら家柄も何もない庶民の娘。どちらかと言えば貧乏よ。

母親を早くに亡くしたみたい。」

「いびりまくったの?」

「ええ、そりゃもう。

コロナだから式も挙げずにすぐ入籍して家に来たわ。

いきなり同居。

それで腹が立つことになんでも出来る嫁だったのよ。」


柘榴が指折って数えだした。


「綺麗な上に掃除洗濯、料理にお花もお茶も、

ただの水商売と思っていたけどどうも高級クラブで働いていたのよ。

そう言う所で働く子は教養もすごいのよね。

経済新聞を読んでインターネットもやっていたわ。

だからその辺りもお手の物、

私は指一本でポチポチって感じだけどブラインドなんとかって

キーボードで何かいつもやっていたわね。

主人も息子もあの子に夢中で、

あの子も私を上手にあしらうだけで悔しくてね。

それで妊娠したと聞いてつい……、」

「階段から突き落としたのね。」


柘榴は頷いた。


「……でも一番悔しかったのは人が決めた相手じゃなくて

恋愛結婚したってこと。」

「でも今は自分が悪い事をしたって分かってる?」


柘榴が西村川を見た。


「ええ、分かってるわ。

私が死ぬ時、病院にあの子が来たの。

その時は私が悪い事をしたから別居していたけど。

来ないと思っていたからびっくりしたわ。」

「その時あなたは意識はあった?」

「もう無いわ。上から見てたの。それであの子、私の耳元に囁いたのよ。

また来ますって。」


そう彼女は言うと無言になった。

そしてしばらくすると目を閉じて一筋涙を流した。


「もう死にそうなのよ。でもまた来ますって。

どういう事かしらね。

でもその時私は悪い事をした、と思ったの。」


西村川がじっと彼女を見た。


「でも一つ心配があるの。」

「なに?」

「さっきマダムが言ったでしょ?

こう言うのは連鎖するって。」

「ああ、あれね。多分あなたのお嫁さんは大丈夫よ。」

「えっ?」

「心配しないであなたはあなたのお仕事をしなさいね。」


と西村川が遊んでいる優美を見た。

優美はその視線に気が付いて笑いかけると

柘榴のそばに来て服を見た。


「お母さん、服出来た?」

「まだまだよ、これからミシンをするの。

ミシンは危ないから手を出してだめよ。」

「はあい。」


二人の楽しそうな声が聞こえる。

それを見て西村川も自分の仕事を進めていた。


優しい時間だ。


そしてふと柘榴が西村川を見る。


「私、こんなに楽しくて良いのかしら。」


柘榴が呟いた。

西村川は手を休めて彼女に近づいた。

優美は少し離れた所で鏡を見て遊んでいる。


「楽しい?」


西村川が聞く。


「ええ、楽しい。

子どもといるのがこんなに楽しいのって忘れてたわ。

でもこんな楽しい時間を私はあの子から奪ってしまった。」


と彼女の顔が暗くなる。


「配達のお仕事はね、事情がある人が付くお仕事なの。

多分あなたもその辺りが配慮されてここに来ているのよ。」

「配慮……。」

「そう、多分最初に子どもが流れてしまった事だと思う。

あの時はあなたは被害者だったのよ。

でもその後あなたは加害者になってしまった。」


柘榴は手を止めて無言で俯いた。


「今あなたは心から悪い事をしたと思っているみたいね。」


彼女の手は既に綺麗になっている。

柘榴は顔を上げた。


「ええ、出来るならあの時に戻ってどんな事をしてでも止めたいと思う。

そしてあの子の前に行って私が悪かった、

私みたいにならないでと伝えたい。」


西村川が微笑んだ。


「柘榴さんは偉い方のお嫁さんとして立派に勤めた方だと思うわ。

それも配慮されているかもね。

周りから色々と言われるばかりで辛い事もあったんじゃない?」


柘榴はふっと笑った。


「世間体ばかり気にしていたわね。

夫婦仲はもうビジネスみたいなものよ。

息子だけが生きがいだったわね。

だから余計執着してしまったのね。」


柘榴が優美を見た。

子どもは母親の視線に気が付いて手を振った。

柘榴が笑って手を振り返した。


「この子が生きていたらどうなっていたかしらね。

私は違う生き方が出来たかしら。」


西村川は自分が作っている服を広げた。


「さあどうかしら。

それより服を作ってしまいなさい。

あなたならすぐ出来るわよ。」

「はい。」


柘榴は素直に返事をしてミシンに向かった。




服は程なく出来た。

案の定優美は少し大きくなっており、大きめに作った服はぴったりだった。


「素人だからマダムには敵わないけど。」


と柘榴は笑う。


「まあ、それはそうね。でも綺麗に出来ているわよ。

肩のフリルが可愛いわね。」


優美はパンダ柄のブラウスと桃色のジャンバースカートを身に付けていた。

西村川が姿見を優美の前に持って来た。


「おかあさん、わたしかわいい?」

「すごく可愛いわよ。」


柘榴もにこにことしながら優美を見た。


「優美ちゃん、良かったわね、とても似合うわよ、

お母さんにお礼を言った?」

「言ってない。」

「言わなきゃ。」


優美が柘榴に抱きついた。


「おかあさん、ありがとう!」


柘榴は娘をぎゅっと抱いた。


「うん、優美も本当にありがとう。」


二人は嬉しそうに抱き合っている。

西村川はそれを見て裏の扉を開けた。


そこは大きな公園だった。

芝生が広がり真新しい遊具が沢山ある。

花壇には季節の花が咲いて風に揺れていた。


優美がそれを見て顔を輝かせた。


「おかあさんすごい!たくさん遊べるよ。」


柘榴もそれを見る。だが彼女は首を振った。


「優美はあそこに行って遊んでおいで。」

「えっ、おかあさんも行こうよ。」


柘榴は淋しげに笑った。


「お母さんは行く資格がないわ。

それに優美はもう一人で歩けるでしょ?」


だが西村川が彼女のそばに寄る。


「子ども一人で行かせちゃだめじゃない。危ないわよ。」


柘榴がはっとして彼女を見た。


「服はご用意出来なかったけど、多分一緒に行って良いわよ。

それとも大急ぎで着替える?」


柘榴は自分の姿を見る。


「ううん、これが良いわ。この割烹着が良い。

白くてお母さんらしいから。」


柘榴はにっこりと笑った。西村川が頷く。


「それでお嫁さんね、」


柘榴がはっとする。


「今はあなたのご主人と息子さん夫婦は同居してるわ。」


それを聞いて柘榴は泣きそうな顔になった。


「主人は一人じゃないのね。」

「そうよ、それであなたの写真を飾って花を添えているわよ。

あなたはご主人とはビジネスみたいと言っていたけど、

そうでもなかったみたいよ。

みんな仲良く暮らしているわ。良かったわね。」


柘榴はマダムに深々と頭を下げた。

それを見て優美が西村川に近寄り抱きついた。


「おばちゃん、おばちゃんも本当にありがとう。」


西村川は跪いて優美をそっと抱いた。


「おばちゃんじゃなくて、お姉さんかマダムと言ってね。」


優美がマダムを見た。


「おばちゃん!」


皆が笑う。


そして二人は手を繋いで裏の扉を出て行った。

公園には明るい日差しが降り注いでいる。


二人は顔を見合わせて何かをしゃべりながら歩いている。

楽しい話なのだろうか。

にっこりと笑うと姿がゆっくりと消えた。




翌日子羊が配達に来た。


「柘榴は行きましたね。」

「ええ、昨日ね。」

「でもまたしばらくお仕事が進みませんでしたね、

前ほどではありませんでしたが。」

「いいじゃない、この前揃えた道具を無駄にしていないから。」

「まあそうですが、珍しいパターンでしたね。」

「あの赤ちゃんね。」


人の魂はいつから体に宿るのか、それは良く分からない。


あの優美は3ヶ月か4ヶ月の胎児の時から魂が宿っていたらしい。

だが彼女は特殊だろう。

あの母親を助けるために生まれて来たのだから。


「でもあんなに小さな頃からお母さんが恋しいのね。」

「そんなものでしょうか。」


西村川がため息をついた。


「でもやっぱり子どもは可愛いわね。また来ないかなあ。」

「子どものお客様ですか?」

「あー、でもやっぱりだめ。」

「なぜですか。」


西村川が少し膨れた。


「おばさんって呼ぶんだもの。」


子羊が口に手を持っていき、しばらく何も言わなかった。


「何か変かしら。」


静かに彼女が言った。


「いえ、変ではありません。

子どもは真実を語るものです。」


と西村川が子羊を見るとその姿は既になかった。


「ほんと子羊さんは口が悪いわ。」


と西村川が少し膨れた。


そして彼女は店内を見た。

いつもは優美が走り回っていたが今はがらんとしている。


「子ども一人だけで全然違うわね。」


と彼女は服の整理を始めた。


柘榴は鬼子母神の象徴だ。

鬼子母神は自分の子達を育てるために人の子を攫って食べていた。

だが自分の子が攫われた時には気が狂ったようにその子を探した。

それを見てお釈迦様は子を亡くすことは

どれほど悲しい事かと諭したのだ。

それは人も同じだと。


柘榴は自分の子を亡くした時に

子が攫われた時の鬼子母神と同じ気持ちになったのだろうか。

そしてその子と再会できて気持ちが変わったのだろう。


だから我が罪を見て嫁に対して詫びた。

そして自分と同じにならない様にと。


「まあ、あのお嫁さんは大丈夫よ。」


西村川は分かっていた。

あの嫁は柘榴の息子を好きだったのは確かだが、

その中には経済的に豊かであるとの計算はあった。

それも人の魅力の一つであるのは間違いないだろう。


そして今時の人らしく、

ネットの情報などで虐めの連鎖についての知識もある。

お嫁さんをいびる人の話もよく知っていた。

だから適当にいなすことが出来たのだろう。

難しい仕事をしている夫と結婚しても

それを上手にこなす力量がある女性だ。


水商売は人の欲に近い難しい部類の仕事だ。

そこで仕事を続けて来た人だ、ただ者ではない。

だからお嬢様育ちの姑などなんとも思っていなかったのだ。


「だけど階段から突き落とされるのは想定外だったみたいね。」


そしてその後柘榴が危篤の時にやって来たのは嫁の意志だ。

腹の中には怒りがあったはずだ。

だが目の前には意識のない柘榴がいる。

彼女は自分の母親が亡くなった時の景色を思い出した。


思わず彼女は柘榴のそばに寄る。


「また来ます。」


その声には怒りや恨みはなかった。

亡くなってしまう人に対しての精一杯の思いやりの言葉だ。

死んでしまう人とは二度と会えない。

小さな頃からこの女性はそれを知っていた。


「柘榴さんもどうのこうの言いつつ、お嬢様だったのよね。

心底悪くはなれなかったのよ。

それにお嫁さんも良い人よ。

いずれここにお客様としていらっしゃるかもしれないわね。」


西村川は呟く。


そしてその女性は小さな女の子二人と手を繋いでいる。


それはそれほど遠くない未来だ。





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