9 子羊
子羊がこの仕事に就いて何年になるかもう覚えていない。
少し前は着物を扱っていた気がする。
ここしばらくは洋服地だ。
時々新しい配達人が彼の元にやって来た。
最初はみんな薄ぼんやりとした顔で目の前に立っている。
そして注文書を見せて布を切らせる。
小物も探させてすべてコンテナにまとめて届けさせるのだ。
やってくる人間はたいてい反抗的だ。
文句ばかり言う。
たまに従順な者もいるがそんな事は滅多にない。
何しろここに来るのは何かをやらかした者ばかりだ。
しかもほとんどが自分がやったのを認めていない。
と言うか分かっていないのだ。
説明しても自分を正当化するだけだ。
実に自己中心的な者ばかりで、自分は悪くないと主張する。
自分の名前も覚えていない者が多い。
当たり前だろう。
自分がやった事も覚えていないのに
名前だけ憶えているなんて図々し過ぎる。
なのでそんな時は子羊が名前を付けるのだ。
ふと頭に名前が浮いて来る。
それはどうしてか分からない。
マダムに言わせると言い得て妙の時もあるらしいが、
文句を言われる事の方が多い。
自分が決めた訳ではないのにと子羊は思うが
言い返すと倍の言葉が返って来るので彼は黙っている。
そしてそんな相手に子羊は以前はやった事をとうとうと聞かせたが、
彼らは怒るか暴れ出すかだ。
なのでいつの間にか彼は相手に反省を促すのは止めて、
強制的に仕事をさせた。
彼もうんざりしているのだ。
時々彼は思う。
一体どうして自分はこんな事をしているのかと。
遠い、とても遠い昔、
自分にも名前があったはずだ。
だが今は自分は子羊と呼ばれている。
誰がつけたのかそれも覚えていなかった。
自分の名前は全く思い出せない。
今呼ばれている名前も、
付けた者の頭にその名前が浮かんだのだろうか。
子羊が罪人に付ける名前の様に。
子羊は人々の代わりに神に捧げられるものだ。
いたいけな何も知らない可愛い顔をした子羊だ。
どうして子羊は捧げられるのか。
人々の象徴としてのものなのだろうか。
人はそれほど可愛らしく無垢なものなのだろうか。
彼は今まで自分の前に現れた配達人を思い返す。
全ての人は罪を犯していた。とても純粋な子羊が表すものではない。
生きているうちにその罪を償えずここに来るのだ。
だが彼らには罪を犯してしまった事情がある。
だからここで仕事をする。
深刻な罪を犯した者はここには来ない。
そんな者より子羊の元に来る者はまだましだ。
だがそれでも捧げられる子羊とは比べ物にはならないだろう。
子羊はまだ母の乳の味を覚えているような幼い者だ。
罪など犯していない。
そんな無辜の子羊を捧げるより、
罪を犯した人を捧げる方が
無垢ないけにえを捧げなければ人は暮らせないのは
なにかしら妙な気がするのだ。
「子羊さん、どうしたの。」
彼ははっとする。
ここは西村川衣料洋品店だ。
今は配達人がおらず、今日は子羊が配達に来た。
少しばかりマダムと喋っていて
ついぼんやりとしてしまったのだ。
「すみません、ちょっと考え事をしました。」
西村川が少し笑う。
「珍しいわね、あなたがぼんやりするなんて。」
「そうですね。」
少しずり落ちた眼鏡を子羊が指で押し上げた。
彼の素顔が少し見える。
分厚い眼鏡にいつも隠れているが端正な彫刻のような顔立ちだ。
「あ、子羊さん、首から血が出てるわよ。」
と西村川がちらと彼を見てタオルを差し出した。
子羊の首には横に一筋赤い線が入っている。
そこから少しだけ血が流れ出ていた。
「ああ、ありがとうございます。」
と彼はタオルを受け取り首を押さえた。
「少しYシャツが汚れちゃったわね。
新しいシャツはあるの?」
心配そうにマダムが彼を見た。
「あります。」
「それならいいけど。」
とマダムがちらと彼の姿を見た。
「でも相変わらずくたびれた背広ねぇ。
新しい背広を仕立てましょうか?」
子羊は首を振った。
「いえ、これが私の仕事着なので。」
「支給されてるの?」
「これしかありません。」
彼女は少しばかり残念そうな顔をする。
「それなら仕方ないけどたまには新しい物が着たいって
申請しなさいよ。」
「そうですね。」
と子羊は言うが多分何もしないだろうと
彼女は思った。
「あなた、年季奉公いつ明けるの?」
西村川が聞く。
子羊がタオルを当てたまま首をひねった。
「さあいつでしょうか。忘れました。」
彼女がふふと笑う。
「そうよね、私ももう忘れちゃったわ。
でもあなたは私より前からいるわよね。」
「そうですね……。」
子羊が周りを見て思い出す。
彼女の洋裁室には反物が沢山ある。
昔はもっと小さなものだった。
着物の反物だ。幅も小さい。それしかなかった。
そしてその前も布だったが白くて幅広いものだ。
それを人々は体に巻き付けて着ていた。
自分はそれを知っている……。
子羊が黙り込む。
それを心配そうに西村川が覗き込んだ。
「どうしたの?今日は少し変よ、子羊さん。」
子羊は立ち上がる。
「そうですね。帰ります。」
彼は裏の扉に近寄り彼女に振り向いた。
「タオルは洗ってお返しします。」
「良いわよ、そのまま持って行きなさい。
布物はいくらでもあるから。」
子羊はちらとタオルを見た。
薄っぺらなもので縁にどこかの温泉の名前が書いてある。
市外局番の次の番号の頭が二桁だ。
子羊は頭を下げて部屋を出て行った。
彼は本当はもう少し彼女といたかった。
何しろ彼が話せるのは西村川と時々来る配達人だけだ。
しかし、配達人とはまともに話が出来ない。
ちゃんとした話が出来るのは彼女だけだ。
だがこれ以上西村川といると言ってはいけない事まで
言いそうな気がした。
彼は常に感情を押さえている。
もう麻痺して消えかけているかもしれない。
だが西村川といると思い出さなくて良い事まで
思い出しそうなのだ。
消えてしまった感情が戻って爆発してしまうかもしれない。
今日もそうだった。
子羊がいけにえとして捧げられる事を考えてしまった。
多分それは自分にはとても都合の悪い事なのだろう。
思い出したり考えてはいけないのだ。
そのような事を思い出すといつも首から血が流れるのだ。
彼は裏口から出て外を見た。
そこにあるのは石畳の道と両脇には石造りの建物の壁だ。
どこか異国の景色だ。
彼はこれを見ると憂鬱な気分になる。
遠い昔にこのようなものを見た気がする。
沢山の人の罪を被って捧げられた子羊。
薄暗い蝋燭の下で少しだけ悲鳴が聞こえて静かになる。
人々はそれを聞いて自分の罪が軽くなったと思うのだ。
だが罪を被せられて捧げられた子羊はどうなるのか。
それを背負ったまま黄泉への道を歩くのか。
自身は何もしていないのに。
彼は小部屋への扉を開けた。
殺風景な部屋だ。
誰もいない。
だが彼にはそれで良かった。
何かあれば考えなければいけないからだ。
そして明日は誰か新しい配達人が来ると良いと思った。
そうすればあの道は見なくて済むからだ。
それでもたまにはあのマダムと話はしたい。
なかなか難しい選択だと彼は思った。
彼は首に当てたタオルを外した。
赤い血がついている。
これはいつ流れた血なのだろうか。
どれほど流れたのだろうか。
どうして今も赤い血が自分の体に流れているのか、
何故なのか。
それはどれだけ考えても子羊には理解出来なかった。
それならば考えない方が楽だろう。
彼は部屋に戻る。
汚れたYシャツも明日には別の物になっている。
そして自分は色々な事を忘れるのだ。
そしてタオルに書いてある温泉の名前を見る。
「マダムは温泉に行ったのだろうか……。」
それも多分明日には忘れるだろう。
タオル自体消えてしまうからだ。
残っているのは仕事だけだ。
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