8 机上のピアニスト





扉のベルが鳴った。


服の整理をしていた西村川がそちらを見ると

中年の男性が立っていた。


「あの……、」


彼は戸惑ったように彼女を見た。

ここに来た人はほぼそう言う反応をする。


「いらっしゃいませ。」


と彼女は微笑んで頭を下げた。

慣れたものだ。

彼はきょろきょろと周りを見た。


「女の人の服ばかりだ。」

「そうですね、でも男性の服もございますよ。

どんなものがお好みですか?」


彼女は彼に言った。

だが彼は難しい顔をする。


「いや、その、俺は服はいらない。」

「いらないのですか?」


彼の姿を見ると普通のパジャマだ。

家で眠っている時に何かあったらしい。


「服より、その、ピアノが欲しい。」

「ピアノですか?」


西村川は少し驚いた。


「よろしければお座りになりませんか?」


と彼女は彼に椅子を勧めた。

彼は素直に座る。


「ピアノと言う事ですが、

そのようなお仕事をされていたのですか。」


と彼女は男の指をちらと見る。

かなり武骨な手だ。

ごつごつとしていて、体つきもがっちりとしている。

どうも力仕事をしていたようだ。


「いや違う。鉄工所で働いていたんだよ。

毎日暑い中でガンガンやってた。」

「大変なお仕事ですね。」

「ああ、正直暑くて辛かったよ。

でも鉄が赤くなって流れるのはなかなか綺麗だった。」


彼は遠い目をして微笑んだ。


「ならご趣味でピアノを?」


彼は少しばかり恥ずかしそうな顔をする。


「趣味と言うか、娘がピアノを習い出して

電子ピアノを買ったんだよ。

それで娘がいない時にちょこちょこと弾いてた。」

「あら、一緒に習っていたのですか?」

「いや、子どものバイエルをこっそりと見て。

そのうち子どもは飽きちゃったんだが、

俺は何となくそれを見て弾いてた。」


西村川が微笑む。


「ご一緒にピアノに通えば良かったのでは?」

「いやー、恥ずかしいよ、男がピアノって。」


そのような考え方は今でもあるかもしれない。

だが男らしさ女らしさは現在ではずいぶんと曖昧になった。

それはとても良い事だが

いまだにそれにこだわる人は多い。


「恥ずかしくありませんよ。

有名なピアニストの方には男性もたくさんいらっしゃいますよ。」


彼ははっとする。


「そ、そうだな……。」


西村川は彼を見た。


「では燕尾服はいかかでしょうか。

演奏会などでピアニストの方が身に着けておられますよ。」


彼は驚いて手を振った。


「いやいやいや、大袈裟でしょう。」

「構いませんよ。せっかくですから

最高級の礼服を着てみませんか?」

「いやー、子どもの結婚式でも着た事ないよ。」


と言いつつ彼もまんざらではない顔をした。


「こちらにお越しください。」


と彼女が倉庫に連れて行く。

そこにはずらりと服が並んでいた。

そしてすぐそばに男性用の礼服が並んでいる。


「凄いな、男の服もあるんだ。」


彼は驚いてそれを見た。


「黒にいたしますか?白もグレーも他の色もありますが。」


モノトーンの礼服と一緒に様々な色のものもあった。


「赤とかもあるのか、金色もある。」

「こちらはお芝居や舞台用ですね、

正式なものはやはり黒で白タイですよ。」

「だよな、俺が金色のを着るとお笑い芸人みたいだよな。」

「お客様は恰幅の良い方なので舞台映えはしますね。」


とマダムが言うと彼はははと笑った。


「でもまあ、格好良いなら黒かな。」

「はい、それが正式なものです。ご用意いたします。

お待ちください。」


しばらくして彼女は全てをそろえて彼の元に来た。


「俺は腹が出てるから着られるかな?」

「大丈夫ですよ、ぴったりのはずです。」


彼がそれを身に付けると丁度良かった。


「びっくりだ、すごく着心地が良いよ。」


彼は首元のホワイト・タイを少し動かした。

ベストも体を締め付けていない。

力仕事をしていた男だ。

体つきはがっちりしているので

腹は少し出ているが格好が良かった。


「お体がしっかりしているのでとても見栄えが良いですね。

素敵ですよ。」


彼は姿見に映った姿を何度も見た。

そして少し元気がなくなる。


「どうなされました?」


彼は少し俯いた。


「母ちゃんと娘に見せたかったな。」

「先ほどお子様の結婚式とおっしゃられましたが。」


彼が西村川を見た。


「ああ、5年前に結婚したんだ。孫が二人いる。」

「あら、可愛らしい。」


彼は優しい顔になった。


「ああ、すごく可愛い。

娘は出来ちゃった結婚でな、正直婿にムカついたんだが仕方ないよな。

でも赤ん坊が生まれたら本当に可愛くてな。

婿も案外と良い奴で、まあ結果オーライって事だ。

結婚式は子どもが生まれてから挙げたんだよ。

結婚写真も夫婦で子どもを抱いて写したけど、

あれはあれで良い写真だったよ。」


と彼は何かを思い出す。


「婿は時々家族で遊びに来てな、

ごはんを作ってくれるんだよ。

それがなかなか上手でな。

離乳食も作って赤ん坊に食べさせてたよ。

俺なんかやった事無かったけどな。

偉いもんだ。」


彼はははと笑った。


「それで心残りはもしかするとピアノですか?」


西村川が言う。


「そうかもしれんな。

子どもの時から音楽は嫌いじゃないんだよ。

でもピアノをやりたいと言ったら親に笑われてな。

男のくせにって。」

「昔はそんな感じですよね。」


西村川がため息をついた。


「それで娘がピアノをしたいと言ったからやらせたんだよ。

ちょっと自分の願望もあったかもな。

だから子どものバイエルを見て弾いたけど、

やっぱり独学ではバイエルどまりだったよ。

それでも一度でいいからグランドピアノが触りたかったな。」


彼は淋しそうに笑った。


「でしたらこの店で弾いてみますか?」


西村川が言う。


「えっ、ピアノあるの?」

「ありませんが真似事です。

せっかく燕尾服を着たのでエア・グランドピアノでも

良いじゃありませんか。

弾いた気分を味わってみてはいかがかしら。」


にっこりと笑う西村川を見て彼も少し笑った。


二人は店内に戻り彼女が店の中心に椅子を置いた。

彼は少し恥ずかしそうに彼女に頭を下げた。

彼女は拍手をする。

彼は椅子に座る時に燕尾服の裾を少し跳ねて腰を下ろした。


そしてしばらく何かに祈るように目を閉じて彼は上を見た。


彼は最初から自分がどうなったのか分かっている感じだった。

その事実を今噛みしめているのかもしれない。


彼の指が見えない鍵盤の上で動き出す。


しばらくすると何か音が聞こえて来た。


今まで聞いた事がない音楽だ。

滑らかな美しく優しい音だ。

西村川はまぶたを閉じてそれを聞く。


その音楽は彼から聞こえていた。


それは彼の心の中にある音だ。


今まで彼が生きて来た全てが音となって流れている。

辛かった事、悲しかった事、楽しかった事、幸せだった事、

その全てを彼は表現しているのだ。


彼の心の中には溢れる程の音楽があったのだ。


やがて彼は静かに手を降ろすと、

西村川が少し間を置いて拍手をした。

それを見て彼が恥ずかしそうに笑った。


「素晴らしかったわ。胸がいっぱいになりました。」


彼女は立ち上がり彼に握手を求めた。

彼はその手をそっと握った。

彼の手は大きく温かかった。


「いや、無茶苦茶ですよ、お恥ずかしい限りで。」

「いいえ、立派な音楽よ。人生の交響曲と言うのかしら。」


それを聞いて彼は笑った。


「じゃあ俺が生きて来た全部はとても良かったと?」

「ええ、聞きごたえのある音楽だったわ。」


それを聞いて彼は嬉しそうに笑った。


「では次のステージが待っていますよ。」


と西村川が裏の扉を開いた。


そこは舞台の裾だった。

その向こうではオーケストラが音合わせをしている。


舞台は光に照らされている。

そこには様々な楽器の音が響き、

やがて整えられて一つの音の塊となった。


「あ、あれ……、」


彼はオーケストラの前に置いてあるグランドピアノを見た。


「ピアノ奏者がいないと始まらないみたいです。

皆さん、お待ちですよ。」


西村川がにっこりと笑うと、

彼は嬉しそうに舞台へと出て行った。


そして客席に向かって深々と礼をして、

ピアノに向かった。

その時、いつも通りに燕尾服の裾を少し跳ねた。

彼は座る。

そして瞬間オーケストラにピリッとした気配が広がった。


演奏が始まるのだ。


そして西村川は扉を閉めた。






「お母さん、あの電子ピアノって壊れているんでしょ?」

「あ、そうだよ、出ない音があってね。」

「処分したら?修理したくても古くて部品もないんじゃない?」

「でもねえ。」


母親は布がかけられた電子ピアノを見た。

結構古い機種のようだ。


「お父さんが弾いていたからねぇ。」


娘が少し驚いた顔をする。


「お父さん、弾いてたの?」

「ああ、あんたのバイエルを見てね。」


母親がピアノに近づき下から古いバイエル教本を出した。


「うわー懐かしい、とってあったの?

ぼろぼろじゃない。」

「そうだよ、お父さんが見て弾いてたからね。」


娘がぱらぱらと中を見た。

自分のレッスンの時に先生がメモをしたものもあるが、

所々に父親が書いたらしいメモも残っており、

指番号や変音記号の付いた音符に薄く鉛筆で丸がうってあった。


「お父さん、ピアノが好きだったのかな。」

「多分ね。出ない音があっても弾いてたよ。」


母親が遠い目をした。


「そう言えばテレビでオーケストラとかの放送があると見てたわね。

ピアノを弾く人が座る時に服の裾とか

ひょいと上げるのを面白がって真似してたわ。

お父さん、意外とクラッシックの曲を知っていたのよ。」


娘が電子ピアノに触れた。


「そう言えばお父さんのお葬式の時に

どこかから音楽が流れて来たね。」

「ああ、すごく綺麗だった。」

「綺麗な曲だったから知り合いが音楽検索したけど

曲名は分からなかったって。

式場の人も音楽は流してないって言ってたし。」

「録画も回していたけど音楽は残ってなかったよね。」

「不思議だね。」


その時部屋に子どもが入って来た。


「おかあさん、おばあちゃん、おとうさんがお昼ご飯できたって。」

「ああ、ありがとう。」


母親が立ち上がり娘を見た。


「でも婿さんにしょっちゅうご飯を作ってもらうって良いのかい?

なかなか慣れないよ。」


娘が笑った。


「あの人、ご飯を作るのが趣味だから。

いつもはお母さんが作っているから休みぐらい甘えなよ。」

「でも男の人にそんな事させて。」


娘が首を振った。


「今の時代、男が女がって関係ないの。

もう同居したんだから慣れなきゃだめだよ。」


それを見て母親が苦笑いをする。


「まあ、婿さんの料理も美味しいし、

腕前はあんたより上なんじゃないかい?」

「えー、私もそれなりでしょ。

でもあの人一人暮らしが長かったから上手いのよ。」


母親がふふと笑う。


「お父さんも美味しいって言っていたねぇ。

もう男女って関係ない時代なんだね。」


その時、孫が祖母の手を握った。

小さな暖かい手だ。


祖母は孫を見た。


「ピアノ弾いてみたい?」


と彼女は聞いた。


「うん、ボク弾きたい。」


子どもはにっこりと笑った。






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