7 ロカビリー
西村川衣料洋品店の裏口が開いた。
今は午前8時50分だ。
「あら、」
西村川がそちらを見ると
90歳ぐらいの髪の薄い老年男性が立っていた。
彼は西村川を見ると真っ赤な顔で直立不動になり
大きな声で言った。
「水星と言いまぁす。今日からお世話になりまぁす。」
彼女はあっけにとられたがくすくすと笑い出した。
それを見て水星が赤い顔のまま戸惑ったように彼女を見た。
「あ、いや、その……、」
「いえ、ごめんなさい、
私は西村川と言います。この店のマダムよ。」
と彼女は水星に右手を差し出した。
水星の様子は武骨ながら実直な感じだ。
彼も手を差し出す。
思ったよりしなやかな彼の手だ。
だがその右手の甲には大きな傷跡があった。
「あの、今日から配達をしてくれと言われましたぁ。」
彼は大声で言ってコンテナを差し出した。
「はい、こちらに置いて頂ける?」
と西村川が裁断台のそばの棚を差す。
水星は素直にそれを置いた。
そして彼女が中を検品する。
「あらあ……、」
マダムが残念そうな声を出した。
水星が彼女に向くと
西村川がちらと彼を見て中から布を出した。
「もしかしてあなたは布を裁つのは初めてだった?」
「あー、そうです。」
彼女は布を広げた。
切り口が斜めになっている。
「次からはなるべく真っすぐに切ってね。」
水星は頭を掻いた。
「すみません。」
「良いのよ、コツを子羊さんから聞いてみてね。」
「はい。」
水星は実に素直だ。
少しばかり西村川は彼と話がしたくなった。
「少しお話を聞かせて頂ける?」
と彼女が彼に椅子を勧めた。
彼は頭を下げて座った。
「お名前が水星さんとおっしゃるけど、
本名なの?」
少し首を傾げて彼は言った。
「いえ、名前がどうしても思い出せないので
子羊さんがつけました。」
「あらそう。」
水星がじっと西村川を見た。
「あの、わしは死んだんですよね?」
彼女がはっとする。
「分かるの?」
「はい。何となく。
子羊さんにも聞いたらそうだと言われました。」
「珍しい事、
ここでご自分の立場が分かる人はほとんどいないのよ。」
西村川は彼を見た。
自分の状況は分かってはいるが
少しばかり認知力が落ちている気がする。
どことなくぼんやりした感じがするのだ。
「でもどうしてこのお仕事に……。」
彼女が呟いた。
「あの、ばあさんを待っているんです。」
「ばあさん?」
「連れ合いですよ、洋子って言うんですが
介護してたんですがわしが先に死んじゃって。
待ちたいと言ったら仕事を紹介されました。」
「まあ……。」
自分の名前は忘れているが妻の名前は憶えているのだ。
「わしが死んだあとばあさんは施設に入れられたみたいで、
それまで近くにいました。
今はどうなっているか分かりませんが。」
水星の元気が少しばかり無くなる。
「大切な方なのね。
心配よね、私が調べてみましょうか。」
すると彼の顔がぱっと明るくなった。
「お願い出来ますか?」
「ええ、良いわよ、
その代わりちゃんと正直にお仕事をしてね。
そうすれば必ず会えるわよ。」
「はい。」
と彼は嬉しそうな顔をして彼女を見た。
それから毎日水星は配達に来た。
徐々に布の裁ち方も上手になり小物も間違えなくなった。
そして彼は時間にとても正確だった。
むしろ早いぐらいだ。
「奥様の事を調べたわ。
今は施設でちゃんと暮らしているわよ。」
「そうですか、ありがとうございます。」
水星が頭を下げた。
その時だ、彼の右手がすうと裁断台の上に伸びると、
裁断台の上のシンブルに一瞬触れた。
銀色に輝く小さな指ぬきだ。
だが彼の手はそこで止まってぶるぶると震えた。
それを西村川が見た。
水星は彼女の目に気が付くとはっとして手を戻し
胸の上で右手を左手で押さえた。
右手の甲の傷跡が見える。
そして気まずい顔で彼女を見た。
「す、すみません、勝手に手が……、」
そんな様子を彼女は何度も見た。
水星は長年連れ添った妻を待っていると言った。
それも一つの理由だろうが、
その彼の様子がここに来た最大の理由だろう。
「そうね、それをどうにかしないと
奥様と一緒に行けないわよ。」
一瞬彼の顔がショックを受けたように固まり、
歪むとぽろぽろと泣き出した。
「そうです、一緒に行きたいです。
あいつが、洋子がいたからわしは止められたから……。」
彼女は水星を見た。
「私もそうして欲しいと思うわ。
今までいろいろな人が配達したけど、
あなたはとても良く分かっているから。
このお仕事に就けたのは奥様が本当に
あなたと一緒になれるよう願っているからなのよ。」
彼は彼女を見て泣きながら何度も頷いた。
「もうしません、しちゃだめだって分かってます。
スリなんて……。」
西村川は彼の手を見る。
年に合わない細くてしなやかな手だ。
そして子羊がつけた名前だ。
水星、それはギリシャ神話のヘルメスだ。
ヘルメスには色々な名前があるがその中に泥棒の神の名もある。
そして速足で駆けるものだ。
水星は泣きながら扉から出て行った。
彼は物を盗むと言う衝動と戦っているのだろう。
そしてこの仕事に就いたのは今まで繰り返した罪の
そして何年経った頃だろうか。
相変わらず水星は時間前にやって来る。
何度も物をかすめ取ろうとしたが、
その度に手を押さえていた。
「水星さん、今日は沢山あったけど時間前に来られたわね。」
「時間に遅れてはいけないので。」
「間違いも無いわ。ありがとう、お疲れさま。」
水星はにっこりと笑った。
なぜかその姿は以前より若くなっている。
活発そうな若者だ。
目がきらきらとしている。
まだ何も罪を犯していない者のようだ。
その時扉のベルが鳴り、西村川が店の中を見た。
そこには一人の女性が立っていた。
西村川と水星がそれを見る。
「洋子……、」
水星が呟いた。
そこには優しい顔立ちの若い女性がいた。
だが着ているのは白い病衣だ。
水星が彼女に近づく。
洋子と呼ばれた女性ははっとして水星を見た。
「剛。」
水星、剛が戸惑いながら彼女の方に歩いて行く。
二人は近づくと確かめるようにお互いの顔に触れた。
「洋子、いつ来たんだ。」
「あの、よく分からないけど、気が付いたらここに……。」
西村川が二人に近づいた。
二人は彼女を見る。
「いらっしゃいませ。」
マダムは深々と頭を下げた。
「ご用件をお伺いします。
お会い出来たのにその病衣のままでは残念ですから。」
洋子が自分の姿を見た。
「せっかくのデートが台無しですよ。」
西村川が微笑む。
二人は顔を合わせた。
「どうぞ、こちらに。」
とマダムが服の元へと二人を誘った。
そこには派手な色のシャツやサーキュラースカートがある。
いわゆるロカビリーファッションだ。
二人の顔がぱっと明るくなった。
「すげぇ!」
剛が服のそばに駆け寄った。
洋子はいまだに訳が分からないと言う顔をしている。
「あの、ここは一体……、」
洋子が西村川を見た。
「服をご用意しているのですよ。
お二人はこのようなファッションが流行っている頃に
お付き合いが始まったかと。」
洋子がはっとする。
「そ、そうよ、そうだったわ、
あの人、歳を取ったら無くなったけど
リーゼントをバシッと決めて……、」
彼女の顔が暗くなる。
「今はどうしてか若い姿だけど、
あの頃にあの人、悪い仲間と知り合って……、」
「スリをされたのですか。」
洋子が西村川を見た。
「どうして知ってるの?」
「ここでお仕事をする方はたいてい何かされた方です。
何度もそのような事をしようとしました。」
「やっぱり……、」
洋子が顔を手で覆う。
だが微笑みながら西村川は彼女に近寄り肩を抱いた。
「でもね、いつもかならず左手で右手を押さえて途中で止めたわ。
洋子が止めてくれた、洋子と一緒になりたいからって。
ここでは一度もしていないのよ。
それに自分の名前は忘れていたけどあなたの名前は憶えていたわ。」
洋子が顔を上げて彼女を見た。
「そうなの?」
西村川が頷く。
洋子が俯きがちに喋り出した。
「あの人、とても手先が器用だったの。
それで悪い先輩がスリのやり方を教えてあの人は夢中になった。
私は何度も止めたのよ、警察にも捕まった事もあった。
でもどうしてもあの人を見捨てられなくて、
結婚したら変わるかと思ったけど駄目だったの。」
「右手に大きな傷があるわね。」
洋子がふっと寂しげに笑う。
「剛が左手で右手に自分で刃物を刺したの。」
「どうしてそんな事をしたの?」
「私、二回妊娠したのよ。でもどちらも流れちゃって。
丁度あの人が服役している時。
それであの人が自分がやった事が子どもに返っていると思って、
この手が悪いと包丁を刺したのよ。」
「そうなの……。」
洋子はその時の事を思い出す。
刃物は剛の右手の神経を少し傷つけたらしい。
以前より動きが悪くなった。
傷が塞がってから二人で
何度も剛を捕まえた刑事の元に挨拶に行った。
最初彼は自首をしに来たと思ったらしいが、
右手の傷を見て話を聞いてからぽつりと言った。
「お前も辛かったな。」
それを聞いて二人は泣いた。
それから子どもには恵まれなかったが、
二人はお互いを労わるように生きて来た。
あの刑事は時々二人の所に遊びに来た。
彼は一人でずっと生きて来た人だった。
刑事の方が年上だ。
剛は彼の事を兄ちゃんと呼んでいた。
まるで本当の兄弟のように仲が良かった。
そして彼が一人で亡くなっているのを見つけたのは剛だった。
剛が彼の家を訪れなければ発見はもっと遅かっただろう。
剛と洋子で彼の葬式を出した。
ほとんど人が来ない葬式の間、剛はずっと泣いていた。
昔は何度も殴られて蹴られて叱られたのに。
「おい、洋子、お前はどれが良いんだ。」
剛が洋子に笑いながら声をかけた。
少し戸惑ったように洋子は西村川を見た。
「あの……、」
「気にせずに選びなさい。
水星さん、剛さんはあなたと一緒に行くために
ここで頑張ったのよ。
それで今日それが明けたの。」
洋子はそれを聞いて花のように笑った。
「あの人ね、私が体を悪くしたらずっと面倒を見てくれたの。」
「らしいわね。
あなたが施設に入るまでは近くにいたみたいよ。
ここに来てからも心配していたから
どうしているか調べて教えたらほっとしてたわよ。」
「施設の方は良い人ばかりだったの。
私の周りにはずっと良い人ばかりで本当に助かったわ。
特にあの人が一番だった。」
洋子が剛を見た。
「色々あったけど?」
「もう忘れたわ。」
そして剛の元に駆け寄った。
「洋子は赤がいいんじゃないか。」
「剛はやっぱり赤でしょ?同じ色でも良いの?」
「おんなじにしようぜ、みんなわーわー言うからよ。」
二人は顔を合わせて笑う。
西村川はその二人を楽しそうに見た。
「洋子は女だからマダムに見てもらえよ。
マダム、頼んでいいか。」
「あら、私が見ても良いのかしら。」
「当たり前だよ、カッコ良いの選んでよ。」
「お願いします。」
「じゃあ、白シャツに真っ赤なスカートはどうかしら。」
マダムが服の中からそれを出す。
スカートは赤地に白い水玉の模様だ。
「スカートの下にペチコートを入れるとふわっとなるわ。
そして白くて太いベルトをしましょう。
ウエストが細く見えて可愛らしいわよ。」
「素敵……。」
「じゃあ試着しましょうね。」
「俺はこの赤シャツとズボンにするよ。」
「そうね、プレスリーみたい。格好良いわよ。」
西村川がそう言うと剛が嬉しそうに笑った。
やがて試着室から洋子が出て来た。
彼女の髪はポニーテールに結い上げられて、
スカートの共生地で作られたリボンが結ばれていた。
それを剛が見ると顔が真っ赤になり、
洋子が少し恥ずかしそうに彼を見た。
「剛、どうかしら。」
剛が何度も瞬きをする。
「……いや、その、すごく、綺麗だ。」
それを聞いて洋子が嬉しそうに笑った。
「さあ、靴も履き替えて。ピカピカの靴よ。」
二人は用意された靴に着替え、手を繋いで西村川を見た。
剛は真っ赤なシャツにぴったりとしたパンツ、
靴下はアーガイル柄だ。
髪型もリーゼントに決めている。
それを見て彼女はため息をついた。
「とっても素敵。お二人はダンスとか踊ったのかしら。」
剛が笑う。
「ああ、俺はすごく上手いんだ。」
「私の方が上手いわよ。」
剛が紳士のように彼女に手を差し出すと
洋子は笑いながらそこに手を添えた。
二人は店内で踊り出した。
剛がステップを踏み、足を延ばしたりして巧みに踊る。
ツイストだろう。
その横で洋子も手拍子をしてくるりと回った。
その度にスカートがふわりと広がり華やかに見えた。
西村川はその傍の椅子に座り、楽しそうに見ている。
音楽は流れていないがそれが聞こえてくるようだった。
そして西村川が裏の扉を開ける。
するとそこにはダンスホールがあった。
ざわざわとした気配がする。
そして音楽だ。
剛はホールを見た。
「兄ちゃん!」
「えっ!」
一瞬洋子はぎょっとする。
もしかすると彼にスリの技術を教えた先輩だろうか。
だがその人を剛は兄貴と呼んでいた。
兄ちゃんと呼んだのは……。
「刑事なのにホールにいるの?」
「いるよ、兄ちゃん踊れるんかな。」
洋子が目を凝らした。
薄暗い中で確かに誰かが手を振っている。
「いるだろ?」
「そうみたい。」
剛がにかりと笑った。
「行こうぜ洋子!」
「うん!久し振りだもんね。」
「兄ちゃんにも教えてやるよ。多分踊れないからな。」
二人は嬉しそうな顔で手を繋いで扉からホールに向かった。
そしてそこに入りしばらくするとその姿は消えた。
西村川が静かに扉を閉めて裁断台に向かった。
その時彼女の後ろに人の気配がする。
「失礼します。」
子羊だ。
「あら、いらっしゃい。」
「水星は行きましたか。」
「ええ、さっきね。」
西村川が彼を見た。
「ここしばらく配達をした人の中では
一番行いの善い人だったわね。」
「そうですね、まあ何度も刑務所に行ったみたいですから、
その癖が抜けなかったのかもしれませんが。」
マダムはふっと笑う。
「でもそういう経験をしたから、
自分が今何をしたらいいのか分かっていたのよ。
だから贖罪も思ったより早く済んだ。」
子羊がちらと西村川を見た。
「明日からしばらく俺が配達しますので。」
西村川が大きなため息をつく。
「もう子羊さんじゃ面白味が無いわ。見飽きたわよ。」
「仕方ありません。配達も俺の仕事なので。」
「それに持って来た材料は必ず使わなきゃいけない取り決めがあるから
考えるのが面倒くさーい。」
「そう言う契約です。」
無表情で子羊が言った。
「マダムの年季奉公はいつ明けるのですか?」
西村川は両手を軽く上にあげてやれやれと言った顔をした。
「知らないわ。忘れちゃったし、もうどうでも良くなったわ。
いつか明けるでしょ。」
それを聞くと子羊が頭を下げて裏口から出て行った。
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