6 鐚一文



西村川の裏扉からドンと大きな音がした。


マダムが不思議に思い近くに寄ると、

扉越しに息切れのような音が聞こえた。


彼女が扉を開けると一人のかなり肥った男が座り込んでいる。


「おお、お前、助けろ。」


彼の顔は汗だくだった。


「嫌ですよ。」


マダムが知らん顔をして言った。


「なにっ、貴様、わしが誰だか知らんのか。」

「知りませんよ。」

「わしはな!」


と言うと彼の顔がぽかんとなる。

西村川はそれを見て言った。


「鍵は開けておくから自分で立って入って来て下さる?

どちらにしても時間はとうに過ぎているから。」


彼女は彼に顔を近づけていった。


「どうもあなたの相手をするのは無駄な気がするの。」


彼女はにっこりと笑う。

そして踵を返して部屋に戻って行った。


残された彼はしばらくあっけに取られていたが、


「なんだ、あの女、ただで済むと思うなよ。」


と彼は何度も失敗してやっと立ち上がり

コンテナを持って扉を開けた。


中では知らん顔をして西村川がミシンを踏んでいる。


男は彼女がいるそばに近寄りコンテナを落とすように置こうとした。

その時西村川がぎろりと彼を見た。

その途端男の体が動かなくなる。


「真面目にやりなさい。

コンテナはそこの棚の上に。」


彼の体は勝手に動いてコンテナをそこに置いた。

そしてやっと彼の体は自由になる。


「貴様、何者だ。」


彼ははあはあと息を切らせて言う。


「あなたには言いたくないわあ。」

「何をっ!」

「まず自分から名乗りなさいよ。」


彼の顔がぽかんとなる。


「子羊さんから言われたんじゃなぁい?」

「あ、ああ、あの眼鏡か。

びたとか言っていたが。」


西村川が少し笑う。


「あら、子羊さんにしては分かりやすい名前を付けたのね。」

「なんだ、鐚って。」

「知らないのね、まああなたそのものよ。」


西村川が微笑んだ。

鐚は彼女を見た。

少し歳を取っているがとても美しい女だ。

だが表情はどことなく薄い氷のような冷たい気配がした。


「名前を教えてくれたから礼は尽くしましょう。

私は西村川よ。マダムと呼びなさい。」


あくまで高圧的な態度だ。

鐚は腹が立った。


「お前の態度は、」

「マダムと呼びなさい。」


彼女はぴしりと言う。

鐚は口ごもった。


彼女は鐚が持って来たコンテナを見た。


「これ、全部子羊さんが集めたわね。

あなた何をしていたの?」

「うるさい、布なんか触れるか。

わしを誰だと思っているんだ。」


西村川が彼を見た。


「ただのバカよ。」

「バカだと?」


彼が西村川に近寄るが体が動かなくなる。


「な、なんだ、一体さっきから、お前は何者だ。」

「マダムよ。」


その時だ、

子羊が現れた。

それに鐚が気が付いて彼を見て言った。


「おい、バカ眼鏡、どうにかしろ。」


だが子羊は腕組みをして鐚を見返した。

西村川が子羊を見る。


「子羊さん、この人って本当に配達人なの?

どうしようもない人が多いけど、

この人は全然駄目な気がするのだけれど。」

「そうです、でもかつては理想を掲げて

立派な仕事をしていたのは確かなようで、

それでここに来たのですが、」


子羊がぎろりと鐚を見た。


「基準が変わりました。

このタイプのために命を落とした方が沢山いらっしゃいます。

なので鐚やまだ生きておられますが

同じような方がいずれ次々といらっしゃるので、

その方々は即別の場所に送られる事になりました。

数が多過ぎるので。

まあ鐚はその中で一番最初に死んだので

ここに来る事が出来たのですが……。」


鐚の顔が青くなる。


「死んだって、お前……、」

「思い出したか?」




鐚の頭の中でぐるぐると景色が回る。

気が付くと庶民では足も踏み入れられない店にいた。

だが彼は何百回も来た事がある。

秘密の話をする時はいつもここだった。


目の前には豪華な料理とにやにやと笑う人が何人もいる。

皆で酒を飲み交わしているのだ。


「全て済みました。」

「そうか、そうか、」


と鐚が高笑いをする。


「これで堂々と表に出て行けるな。

さっぱりしたぞ。」


周りの者が笑う。

笑う口元だけがはっきりと見えた。


鐚もぐっと酒を飲む。

これが終わったらあいつの所に行こうと。

そのあいつは女だろうか。

彼の顔が想像でだらりと崩れた。


(しばらく病院にいたからな。ほんとに暇だったな。

雲隠れとかいろいろ言われたが、わしは病人だったんだ。

仮病じゃないぞ。

医者は検査しろって言ったんだ。)




病院にいた時は医者が念の為に検査しましょうと言った。


「クソ面倒だ、やらんぞ。」

「でも先生、ついでですから。

しばらく表には出られないでしょ?」


医師が少し笑いながら言うと鐚はむっとした。


「お前、わしが誰だか知っとるのか、

わしは何も悪い事はしとらんぞ。

それに健康に決まっとるだろ、

毎日病人食ばかり出しやがって。肉、持って来い!」


彼は怒って枕を投げた。

医師と看護師は這う這うの体で病室から出て行った。


「どいつもこいつもわしを悪者扱いしよって。

しかも医者はわしが病気だと言いよる。

家にまで記者とか来るから隠れとるだけだろ。

おい、」


と彼は横を見た。

だがいつもの男はいない。


「ああ、あいつか。」


彼はふっといつも横にいた男を思い出した。

何でも言う事を聞く男だった。


「そう言う男を有能と言うんだ。」


彼はにやにやする。

今度もちゃんと言うことを聞くだろう。

そうすればすぐに退院できる。


「早く出てえなぁ。」


病衣を着た彼は呟いた。

大きな腹が目立った。






酒をぐっと飲んで鐚は大声で笑った。

周りの者も笑う。

鐚は目の前の料理を見た。

そこにあるのは彼が大好きな肉だ。


濃い味がつけられた脂も滴る高級肉だ。


そして彼は立ち上がる。


「すまん、ちょっとトイレ。」


そして頭の中でぷつんと何かが切れる音がした。






鐚は頭を押さえた。


「わしは……、死んだのか?」


子羊が鼻で笑うとその横に一人の男が現れた。

鐚が驚く。


「……お前、」

「鐚、お前の秘書だろ?」

「し、死んだだろ?」


と鐚の膝ががくがくとなり座り込んでしまった。


「お前、ビルから飛び降りただろ?え?」


秘書と言われた男がはっとなり鐚を見た。


「せ、先生、どうしてここに。」

「お前は一文だ。」


子羊が秘書に言った。

一文と呼ばれた彼は子羊の方を向いた。

すると自然と彼の後ろ頭が鐚に見えた。


「ぎゃーーーーーー。」


鐚が悲鳴を上げて目を押さえた。

一文は驚いて彼に近寄った。


「どうしたんですか、先生!」

「よ、寄るな、お前、後ろがぐちゃぐちゃだ、気持ち悪い!」


だが西村川と子羊には普通の姿にしか見えない。


「あーあ、察しの悪い男って大っ嫌い。」


大きな声で西村川が言った。

皆が彼女を見る。

するとまた鐚に一文の後ろ姿が見えたのだろう。

悲鳴を上げて顔を押さえた。


「誰のために一文さんがこうなったか分かってるの?鐚さん。」


彼女はかつかつと音を立てて彼に近寄った。


「この人はビルから飛び降りたの。

私が全部やりましたって遺書を書いてね。」


西村川が一文を見た。


「書かされて飛び降りさせられたんでしょ?

ビルの縁に座らされてどんと押されたんでしょ?」


一文の顔が白くなり鐚を見た。


「先生……。」

「思い出した?」


子羊が鐚を見た。


「と言う事で一文のような人が沢山来る。

だからお前はもうお役御免だ。

鐚よ、お前はまったく仕事出来ない男だな。」


と言うと子羊がずるずると座り込んでいる鐚を引っ張って

裏扉を開けた。


そこは薄暗く遠くには赤い炎が見えた。


「わしは、悪くない!」


放り出された鐚が叫んだが子羊は構わず扉を閉めた。

店にはぽかんとした顔で一文が立っている。


「あなたは何をしたか分かってる?」

「私は……、」


しばらく彼は立ったままだった。

そしてぼそぼそと言った。


「……多分黙って言われるままだったからだと思います。」

「正しいと思っていたの?」

「先生がおっしゃったから……。」


西村川が空になったコンテナを彼に渡した。


「明日からいらっしゃい。

詳しくは子羊さんに聞いてね。」


ちらと彼女は子羊を見た。


「言葉は乱暴だけどちゃんと仕事をすれば

何もしないわよ。」


子羊は頭を下げた。

そして二人の姿は消えた。


西村川はため息をついた。


「あんな人がこれからどんどん来るのかあ……。」


彼女が思い浮かべたのは鐚ではない。

一文だ。


多分鐚も一文も若い頃は

人の役に立つ仕事をしようと希望に燃えた若者だっただろう。

鐚は一瞬でもこの場所に来た。

かつては何かしらの善行があったのだ。

だが彼はその幸運に気が付かず別の所に送られた。


西村川には見えていた。

鐚の息切れはぶよぶよと肥った体のせいではない。

その足元には何千と言う人の魂が纏わりついていたのだ。

何があってそのようなものが彼に付いたのか彼女には分からなかった。

ただどの魂も恨みがこもっていた。

あんなものが付いていれば歩くにも不自由だろう


そしてその魂ごと彼は消えた。


そして同じように一文にも影がついている。

彼も言われるままに罪を重ねていたのだ。

だが彼は鐚をかばって死んだ。

自分の意志ではないが。


そんな一文のような人がこれからやって来る。

だが鐚のような人はまだ生きている。


その人達は自分の足元にどれほどの魂があるのか

分かっているのだろうか。

もしそれが見えたらどう思うのだろう。


だがその鐚もこれから次々と来る鐚のような人々も、

かつては正しく生きようとしていたのだ。

世界を変えようと使命に燃えていたはずだ。


一体何がそれを変えてしまったのだろうか。


「ま、私には関係ないわ。」


と西村川は立ち上がった。


「一文さんは鐚さんより真面目みたいだし、

早めに贖罪も終わるでしょ。

鐚より一文の方がまし。」


と彼女は布を広げた。


今度はドレスを作るのだ。

ドレスは綺麗に作るのは難しい。

だがだからこそ出来上がった時の喜びは大きい。


早く作ってしまいたいと彼女は思った。






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