2 ドキノ君
「ドキノ、今日からお前は配達だ。」
会社のボイラー室の隣にある小部屋にドキノは立っていた。
殺風景な部屋だ。
目の前には子羊と言う名前の瓶底眼鏡をかけて
ドキノとはしゃべった事がない男がいる。
彼は流行遅れの少しばかりくたびれた背広を着ていた。
部屋には一つ机があり、そこに子羊が座っている。
壁はくすんだ灰色で時計だけが妙に大きく見えた。
「えっと……、」
ドキノは2年程前にこの会社に就職をした若手だ。
この会社は布を扱っている。
小売りもしているので毎日たくさんの人が買いに来て、
彼は主に注文を聞いて布を切る仕事をしていた。
「内勤じゃなくなるんですか?
それに配達なんてここではしているんですか?」
子羊はちらと彼を見た。
「特別にしている所がある。
だからお前の仕事はその注文を聞いて
布や糸、ボタンなど様々なものを用意して届けるんだ。
それでみんなが出勤してくる前に準備するんだ。
だから午前8時に来て午前9時までに済ます事。」
お前呼ばわりされてドキノは嫌そうな顔をした。
「その顔はなんだ。これがお前の仕事だ。」
瓶底眼鏡の遠くに見える彼の目がギラリと光った。
それを見るとドキノはぞっとした。
この子羊と言う男をドキノは一度見たような気がするだけだ。
朝早くこの小部屋に来て一番遅くに帰って行くらしい。
かなりの古株らしいが知っている人は殆どいなかった。
そして子羊の首には真横に赤い筋が一本あった。
それは良く見ないと分からない。
「あの、子羊さん……、」
ドキノがきつい顔で子羊を見た。
「その物言い、パワハラですか?人事部に言いつけて良いですかぁ。」
「どうぞ。出来るならな。」
それを聞いて子羊は顔色も変えない。
ドキノはむっとして部屋を出ようとしたが今は午前8時前だ。
まだ誰も出社していないだろう。
そして気がつくとドキノは片手に注文書を持っていた。
彼はそれを見る。
「白シフォン、15メーター、オオバヤシの花柄各色1メーター、
木製ボタン15ミリ……、」
「それを準備したらこの扉から出て届けろ。」
子羊が自分の後ろの扉を指した。
ドキノはそこを見てあんな所に扉があったか、と驚いた。
「まっすぐ行けば分かる。
西村川衣料洋品店の裏口がある。」
何の事かドキノは分からなかったが少しばかり好奇心がそそられた。
彼は大きなため息をわざとつくと部屋を出た。
社内はまだ誰もいない。
電気はついていないが周りはよく見えた。
なので彼は布を探し出し裁断を始めた。
それはお手の物だ。
布を切るのは好きだった。
注文の布がある場所もよく分かっていた。
かなり量があったが手際よく集めて裁断し、小物も探す。
「ふん、ちょろいもんだぜ。」
彼は鼻を鳴らした。
若手の中では器用で仕事も出来る方だろう。
だが、
彼はふっと壁の時計を見た。
もうすぐ午前9時になる。
彼は慌てて用意したものをコンテナに入れて小部屋に戻った。
部屋に戻ると子羊がいらいらした顔で待っていた。
「遅いぞ。」
「仕方ないでしょ、一人でやってるんだから。」
「口答えするな。」
ドキノは怒りが湧き上がってくるのを感じ
大きな声で言い返しそうになった時だ、
子羊が扉を開く。
そこには細い裏通りがあった。
両脇は古い商店街の裏のような建物だ。
トタンの壁で小さな窓はあるが扉はどこにもない。
ドキノははっとする。
自分が育った街のようだ……。
ドキノがそこをぼんやりと見ていると、
子羊が彼の胸倉を掴みコンテナごと扉の外に放り出した。
「何を!」
とドキノが言うと扉はすぐに閉められてしまった。
「くそっ!」
ドキノは吐き捨てるように言ったが、
どこかに行こうと思ってもあるのはこの古い裏道だけだ。
彼は仕方なくコンテナを持つと歩き出した。
すると数分歩くとそこに扉があった。
小さな表札があり「西村川衣料洋品店 裏口」と書いてあった。
子羊が言っていた名前だ。
彼は恐る恐る扉を叩くと中から女性の声がした。
しばらくすると扉が開く。
「遅かったわね。」
出て来たのは品の良い顔立ちの中年の女性だった。
華やかなワンピースを着ている。
「あ、すみません、ご注文のものを。」
ドキノは少しばかり気後れしながら言った。
「こちらまで持って来てちょうだい。」
と彼女は彼を部屋に招いた。
そこは洋裁室だった。
ミシンが何台も置いてある。
古い足踏みミシン、電子ミシン、工業用ミシン、ロックミシン、
刺繍用の高いミシンもあった。
そして大きな裁断台があり、
針山、L尺、メジャーにありとあらゆるものがある。
そして壁には沢山の反物があった。
糸も棚に沢山あり、
ボタンや小物が入れられているだろう引き出しもあった。
彼は裁断台の上を見た。
綺麗な布が広げてあり、そこにはハサミがいくつか置いてあった。
裁ち鋏、糸切鋏、ロータリーカッターなど布を切るのに必要な物だ。
その中には鳥の形をした糸切鋏があった。
手に乗る位の物で綺麗に光っている。
ドキノがコンテナを彼女が指示した棚に置くと
彼女が中を確かめた。
「大丈夫ね。お疲れ様。」
と彼女が笑いかけた。
「あの、」
ドキノが聞く。
「ここは服屋さんですか?」
「ええ、そうよ。」
洋裁室の向こうには店内が見えた。
服が沢山並んでいて、入り口のガラス越しに人が歩く影が見えた。
「何だか高そうな服ばかりだな。」
彼女が少し笑った。
だが妙に何かを含んだように彼を見ている。
「全て一点物だから。お客様は特別な人しか来ないの。」
彼女はとても綺麗な人だとドキノは思った。
だがどことなくうすら寒い気がした。
「あの、失礼します。」
「そう、また明日よろしくね。」
「明日ですか?」
「そうよ。」
彼女はじっと彼を見た。
「私の事はマダムと呼んでいただける?
それと明日からは絶対に遅れては駄目よ。
早い分には構わないけど午前9時までには会社を出なさい。」
それを聞いてドキノが嫌そうな顔をした。
子羊もそうだがこの女も同じことを言うのだ。
「それがあなたの為なのがそのうち分かるわ。」
それは一体どう言う事なのか。
ドキノには全く分からなかった。
そして翌日、彼はまた午前8時前に子羊の前に現れた。
彼は無言で注文書を出す。
ドキノは何も言わず受け取った。
昨日の事もありドキノは怒っていたのだ。
だが子羊は何も感じていないのだろう。
黙っているならそれでいいと言う感じだった。
彼は無表情に椅子に座った。
そして午前9時の5分前に注文品をそろえてコンテナに詰め、
子羊の後ろの扉から出た。
今日は彼は黙ったまま扉を開けただけだ。
そしてやはり西村川衣料洋品店の裏扉がある。
ノックをするとマダムの声がして、
「おはいりなさい。」
と言われたのでドキノは入って行った。
彼女の洋裁室は昨日と少し変わっていた。
ミシンのそばにはトルソーがあり、
昨日裁断台に置いてあった布が服の形になって着せられている。
爽やかな感じのワンピースだ。
「綺麗だなあ。」
とドキノがそれに触ろうとした。
するとマダムが言った。
「触ってはいけません。」
ドキノが彼女を見た。
「どうして。」
彼女はにっこりと笑った。
「
ドキノが手をひっこめた。
だが、汚れるとは。
その物言いは。
「汚れるってどういう事だ。」
ドキノは低い声で言った。
だがマダムは何も表情を変えず、微笑ながら言った。
「あなたは何も聞いていないみたいね。
と言うか覚えてもいないのね。
子羊さんに言うように伝えないと。」
腹を立てたドキノは両手に力が入り彼女に殴りかかりそうになった。
いつものことだ。
自分に逆らうムカつく女は殴らなきゃいけない。
言う事を聞かせるために。
だが体が急に動かなくなる。
それを見ても西村川は顔色を変えない。
「今日は昨日より早かったわね。
あと何分か早く来られると良くなるわよ。」
と言った。
そしてしばらくドキノは毎日配達をした。
腹の立つ事ばかりだが仕事は仕事だ。
だがある時ふっと気が付いた。
給料の払い込み日はとうに過ぎていた。
明細も貰っていない。
口座を調べなければ引き落としが滞るかもしれない。
彼はかなりの額のリボ払いがあった。
「あの、子羊さん。」
ずっと口をきいていなかったがドキノは彼に話しかけた。
子羊は座ったままだ。
瓶底眼鏡の奥の眼は冷たくドキノを見た。
「うるさいな、なんだ。」
相変わらず人を人と思わないような言い方だ。
ドキノはむっとしたが聞かなくてはいけない。
「あの、給料の明細は。」
すると子羊が口を歪めて馬鹿にするようにふっと笑った。
「もらえると思ったのか。」
ドキノはそれを聞いて愕然とする。
「仕事をしたら金がもらえるのが当たり前だろう。
ただ働きをさせて良いと思ってるのか。」
子羊は彼を小馬鹿にしたように見ているだけだ。
「生意気な事を言うな。
むしろお前が金を払わなきゃならないような立場だぞ。
この仕事をしているだけでそれを払っているようなものだ。
本当はお前がありがたく思わなきゃならんのだぞ。
お前はある意味ラッキーなんだ。
俺がそうしたんだからな。感謝ぐらいするべきだ。」
ドキノは訳が分からなくなった。
「うるせえ、借金があるんだ、それを払わなきゃならん。」
「ああ、それか、
どうもお前の故郷のお母さんが払った様だぞ。
払わなくても良かったのにな。」
「か、かあちゃんが……、」
就職してから一度も会っていない母親だ。
彼は片親育ちだった。
母親は暴力的な父親と離婚して女手一つでドキノを育てた。
だが彼は母親が大嫌いだった。
いつもびくびくしてみっともない女だと思っていた。
何度殴っただろうか。
昔、母親は夫に殴られると最後に鋏を握って
怯えた顔をして言った。
「もっと殴るなら刺してやる。」
これ以上暴力を振るうと相手ではなく自分を刺すだろう。
そう言う女だ。
子どもの彼はそれを母親の背中越しに聞いた。
母越しに父親の顔が見える。
その時の父親は泣きそうな顔をしていた。
さっきまで鬼のような顔で妻を殴っていたのに。
多分鋏は彼女の限界なのだろう。
そこを越えたら血が流れる。
だからそれを見たらあの父親でも手を止めるのだ。
あの父親はいつも髪がぼさぼさで汚れた作業着を着ていた。
汚れたズックを履いて踵は踏んで潰れていた。
父親がどうしてそうなってしまったのか、
子どもの彼には全く分からない。
ただそれが玄関にあるのを見ると家に父親がいる事が分かった。
扉は静かに閉めて足音を立てずに部屋に入った。
それが当たり前だった。
喧嘩は毎日だった。
やがて両親は離婚をする。
そしてドキノは荒れた。
母や同級生を殴り暴れた。物も盗み壊した。
未成年でなければどうなっていただろうか。
その頃は父親がどうしているのか全く分からなかった。
どこかで野垂れ死にしたかもしれない。
だがドキノは何とも思わなかった。
だが成年を迎える前にさすがにこのままではと考え直し、
自分の事を誰も知らない街でこの会社に就職した。
故郷を出る寸前までドキノは毎日のように母親に暴力を振るっていた。
もう習いのようになっていたのだ。
まるで自分の父親の様だった。
上手く行かない事は全て親のせいだとドキノは思っていた。
母親は彼に殴られてもいつもじっと我慢をしていた。
だがある時ついに母親は鋏を出して涙を流しながら彼を睨んだ。
彼ははっとする。
限界なのだ。
そして自分も父親と同じことをしたと初めて自覚した。
もうここに居られないと彼は家を出たのだ。
それから故郷を出るまでドキノは母親と一言も口をきかず、
荷物をまとめて後ろも見ず家を出た。
母親も何も言わない。
もう二度と会う事はないだろうと彼は思った。
新しい街でドキノは初めて自由になった気がした。
何も知らない同僚が自分を誘う。
その中の一人に彼女がいた。
言葉の優しい穏やかな女性だ。
いつの間にかドキノは彼女の事が好きになっていた。
どうにか彼女を振り向かせたいと仕事も頑張った。
同僚には間抜けな奴もいる。
そんな男を押しのけるのは簡単だった。
そして帰りに彼女の姿を見ると声をかけた。
「そのうち俺を好きになるよな。」
と彼には自信があった。
だが、
彼女と間抜けと思っていた同僚が街を歩いているのを見た。
二人は手を繋いでいる。
後をつけると同じマンションに入って行った。
しばらくすると部屋に明かりが点く。
その部屋の郵便受けを見ると彼女の苗字があった。
会社でその二人のことを聞くと誰もが知らないと言った。
だがある時こっそりと誰かが話しているのを聞いてしまった。
「ドキノ君が怖いから相談しているうちに
仲良くなったなんて言えないわよねぇ。」
それからドキノは間抜けな同僚の鋏を何度も盗み捨てた。
そして彼女の事務道具からも鋏を探し盗んで帰り道に捨てた。
やがて自分の周りには人が近寄って来なくなった。
なので会社では止めてあのマンションに
ポスティングのふりをして
彼女の郵便受けに鋏で切り刻んだいらないチラシを
何度も入れた。
そして、ある時、
郵便受けにチラシを入れていると後ろに人の気配があった。
ぎょっとしてドキノが振り向く。
するとそこには警察官が二人立っていた。
ばれたと思った。
そして彼は走り出す。
警察官の手が一瞬彼を掴んだがそれもすり抜けた。
後ろから制止する大声がする。
彼はふっとマンションの部屋を見た。
ベランダには彼女とあの男の顔があった。
そして道路に飛び出すと車が間近にいた。
運転手の驚いた顔が見える。
その顔はあっという間に遠くなり、意識が消えた。
そしてドキノは大声をあげて顔を押さえて膝を突いた。
そこはボイラー室の隣の小部屋だ。
車に跳ね飛ばされて自分はどうなった?
ドキノは混乱した。
「俺は!俺は!」
彼は何度も叫んだ後顔を上げて前を見た。
椅子から立ち上がり彼に近寄って子羊が無表情で見降ろしていた。
彼の首の薄赤い傷がちらりと見える。
それを見るとドキノはかっとして立ち上がり、
彼を突き飛ばして裏扉を開けて外に出た。
子羊の顔を見て彼は自分がやった全てを知っていると悟った。
それがどうしてなのか分からない。
ただドキノが嫌がらせをしていたのは同じ会社の人間だ。
子羊もこの会社にいる。
それを知られた以上ここにはいられないと思ったのだ。
だが外に出ても道はまっすぐあるだけだ。
周りのトタン壁には窓しかなく、全ては固く閉じられている。
彼は後ろを見た。
出てきたはずの扉は無かった。
彼は泣きそうな顔になりどうしていいのか分からなくなった。
だがその時西村川衣料洋品店の表の扉を思い出した。
ガラス扉の向こうには人が通り過ぎる影が見えた。
あそこに行けば外に出られるだろう。
彼は前を見た。
すると目前に西村川衣料洋品店の裏口があった。
ドキノはぎょっとする。
歩いてもいないのにそこにあるのだ。
そして気が付くと出てきた扉があったはずの壁がじりじりと近づいている。
そして周りの壁も。
彼がいる空間がゆっくりと狭くなっているのだ。
彼はぞっとした。
慌てて裏口の扉を開いて中に入った。
中に入ると洋裁室の裁断台で西村川が作業をしていた。
布を裁った後の様で、待ち針を刺していた。
左手の手首にアームピンクッションを付けている。
彼女がちらとドキノを見ると作業を止めた。
「時間外よ。」
彼女が静かに言う。
それを聞いてドキノはまた怒りが湧いた。
「うるさい、お前らはなんだ。人を馬鹿にしやがって。
ただ働きか、金を寄越せ!」
だが彼女は顔色も変えずため息をついた。
「もう、子羊さんはちゃんと話さなかったのね。」
「申し訳ありません。」
ドキノの後ろで子羊の声がする。
驚いてドキノは振り向き後ろに数歩下がった。
彼の体は裁断台に当たる。
そして手をついた所には金色の鳥の形をした鋏があった。
彼はそれに気が付き鋏を握り、
ぶるぶると震える手でそれを二人に向けた。
「なんだ、お前らは化け物か、
それにあの道はなんだ、どんどん狭くなったぞ。」
子羊が鼻で笑う。
「壁に潰されて消えれば良かったのに。」
「もう子羊さんはそんな事を言う。」
西村川が少し笑ってドキノを見た。
「どうせ消えるならちゃんと説明して欲しいわよね。」
ドキノは二人が何を言っているのか全然分からなかった。
彼はふと自分の手元の鋏を見た。
鳥の目が鋏のねじになっている。
それがギラリと光った。
それを見たドキノは鋏を握っている手から力が抜けた。
鋏は床に落ちて硬い音を立てた。
「まあ、ひどいわ、ドキノ君。切れ味が変わるじゃない。」
と西村川が声を上げた。
「弁償してもらうわと言っても遅いわね。」
「そうですね、もうドキノは駄目です。」
「お前らが言っている事は全然分からん。」
ドキノが呟くように言うと座り込んでしまった。
しばらく誰も何も言わない。
やがて西村川が彼を見下すように近寄り喋り出した。
「子羊さんは説明する気がないみたいだから
私が教えてあげるわ。
あなたがしていたお仕事は贖罪よ。」
「贖罪?」
「ええ。
あなた相当な事を今までしていたでしょ。」
ドキノはぎくりとする。
「あ、あ、俺は……、」
子羊がため息をついた。
「だからな、俺がお前を救ったんだよ。
お前は詫びなきゃいけない人が沢山いる。
だから本当はすぐに別の場所に送られるはずだったんだ。
だがお前が悪くなったのも家庭環境が良くなかったからだ。
だからここでしばらく仕事をさせて
少しでも罪を軽くするはずだったんだ。馬鹿め。」
「だからそれを説明してあげれば良かったじゃない。」
「だめですよ、こういうバカはそれを話すと
すぐに馴れ馴れしくなってだらける。
がつがつ働かせなきゃならんのです。」
ドキノがぽかんと二人を見た。
「贖罪とか罪とか、さっぱり……。」
マダムがきっとドキノを見た。
「いい加減理解しなさいよ。察しの悪いこと。
あなたはね、車にはねられて死んだの。
あなたはお母さんや同級生や先生とか周りの人に散々迷惑をかけて、
働き出したら同僚にも嫌がらせをした。
逃げる時には警察官の手も煩わせて、
全然関係ないあなたをはねた運転手さんにも迷惑をかけたのよ。
それだけでないわ、会社内の人も色々と気分が悪いし、
あの運転手さんの家族も……。
そう言えばあなたが嫌がらせをしていた女の子、
結局あの彼と結婚出来なかったのよ。
彼氏といるとあなたがはねられた時の事を思い出すんだって。
だからお別れして会社も辞めちゃって心の病院通いよ。
彼氏も彼女も泣いていたわ。」
「それとお前は一緒に住んでいた女の子がいただろう。
あの子にも酷かったな。」
ドキノははっとする。
「同じ会社の子だろう。酔った勢いで襲ったんだよな。
同じ会社に好きな女がいたのにな。」
「なんで知ってるんだ……。」
ドキノの声は弱々しい。
「隠せるわけないだろ、ばーか。」
子羊が鼻で笑った。
「それでもな、社内で泥棒の噂が立った時に
あの子はお前をかばっていたんだ。
まあ男を見る目がないのはあの子が悪いがな。
だがみんなはお前が死んでほっとしてるぞ。」
「どう言う事だよ、それ!」
ドキノが怒って立ち上がった。
そして彼は落とした鋏を踏みつけた。
「あっ、いい加減にして、鋏を踏んだじゃない!」
西村川が怒った声を上げた。
「もうだめね、この人。反省する気は全くないわ。
同居していた女の子も殴っていたのでしょ?最低よね。」
「ええ、最低です。
こいつの親父も最低だったけど、
俺が悪かった、あいつだけは助けてくれと言われたから、
仕方なくこの仕事に就けたけど無駄だった。」
西村川が裏口の扉を見た。
「出て行きなさい。」
「で、でも……。」
西村川がにっこりと笑って優しく言った。
「大丈夫よ、広い場所に行けるわ。
そこであなたを待っている人がいるわよ。」
彼女の言い方や表情は優しい。
だが薄く酷薄なものが見えた。
残酷なものも美しく変えてしまう何かだ。
子羊が彼の肩をどんと押す。
西村川が優雅に扉を開けるとそこには薄暗い世界が広がっていた。
その果ては見えない。
遠い所に赤く染まった空が見える。
ちらちらと揺らめく炎の前に人影が見えた。
「行けよ。」
と子羊が彼を蹴り出し、扉はすぐに閉められた。
ドキノは地面に倒れた。
そして前を見た。
人の足がある。
どこかで見たような靴だ。
遠い昔、
子どもの頃、家の玄関に置いてあったくたびれた男物のズックだ。
踵は潰れている。
彼はゆっくりと体を起こした。
そして知っている顔が彼を見下ろしていた。
「親父……、」
だがその言葉を聞いても立っている男は身動きしなかった。
「子羊さん、やっぱりちゃんと説明しないとだめよ。」
「嫌ですよ、あんな奴らと慣れ合いたくないんです。」
「でもどうしてこうなったかは知らないと、
今みたいに結局失敗するわよ。」
西村川が落ちた鋏を拾って丁寧に拭いていた。
「でも全然説明しなくてもちゃんと仕事をする奴はいます。」
「そうだけど、そんな人は特別よ。滅多にいないし。」
「でも俺は俺のやり方を続けます。
と言う事でこれからもよろしくお願いします。」
「もう。」
彼女は少しふくれて言った。
「あなたもいつまでもこんな事をしていると
年季奉公が終わらないわ。
それに配達のお仕事もしなきゃならないわよ。」
「構いません。以前のように配達します。」
子羊はそう言うと表情を変えず裏口から出て行った。
彼の後ろに見えた景色は石畳の道で両脇には石造りの壁だ。
西村川は呆れた様子でそれを見て、
鳥の鋏で糸を切った。
「歪んでいないみたい。良かったわ。」
金の鳥が少しきらりと光る。
「さあ、私もお仕事をしましょう。」
彼女はさっき裁断した布に待ち針を打ち始めた。
この会社では昔から噂がある。
ここは午前10時が始業だ。
社員は午前9時頃からやって来る。
だが午前9時前には絶対に誰も来ない。
ただ子羊だけは午前8時前に来る。
それは昔から変わらない。
そして午前9時前に来た者は社内で何かを見るらしい。
薄暗い中で死んだはずの者が仕事をしているのを。
噂だ。
でも社員は皆午前9時前には来ない。
それはただの慣習だろう。
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