第30話 遠い記憶の残滓

 到底人の足で登れるほど易くない断崖絶壁の奇岩の上に、みすぼらしい修道院が建てられている。

 石を積み上げて作られたその修道院の周囲には、若干の樹木が少ない緑をつけていた。かろうじて命が育める程度の土はあるらしい。

 この奇岩の上から眼下を臨むと、平地に草原が大きく広がり、白い羊が草を食んでいる姿が点々と見えるくらいだ。

 遮るものがない岩の上は地上よりも風の威力が強く、また気温も低い。空も雲も手が届きそうな気がするほど、地上よりは空の方に近さを感じるような場所だった。

 小さな鐘の音が岩の上に鳴り響き、子供たちの元気な声が鐘の音に重なる。

 昼食の時間を知らせる鐘の音だ。

 小さな窓がいくつかある薄暗い食堂に、真っ白な子供たちの姿が粗末なテーブル前に並び、元気に皿の中身を啜っていた。

 よく見ると、それが服ではなく、白い翼だと気づく。

 大きくはないが、鳥が備えているような美しい白い翼。子供たちの背には、折りたたまれた翼が生えている。

 アイオン族。

 有翼人種と言われる、背に翼を持ち、自由に空を翔ることのできる種族だ。

 男女共にそれぞれ美しい容姿を持ち、華奢な身体つきをしているのが特長である。しかし翼を仕舞ってしまえば、外見ではヴィプネン族と見分けがつかない。

 アイオン族の子供たちは生まれてから翼は常に出しっぱなしで、7歳になると己の意思で自由に出し入れが可能になる。

 翼をしまう時は空気に溶けるようにして掻き消えていく。そして広げるときは背から生えてくるのだ。

 とくに背中に翼を仕舞っているような膨らみは見られず、どうやって生えてくるのか他種族からは不思議がられていた。しかしアイオン族にしてみればそれが当たり前のことなので、特別気にかける者などいない。

 この修道院にいる子供たちの年齢は様々だった。まだ7歳にも満たない子供が多く、翼は出しっぱなしになっていたし、7歳以上の子供も出したままでいた。


「おまえ、こっちにくんなよ」


 茶色い髪をした少年が、隣に座る金髪の少女の足を蹴った。

 裸足でも蹴られれば痛い。少女は鈍い痛みに、僅かに顔を歪めた。


「さっさとあっちいっちゃえー!」


 そうだそうだ!と、テーブルのあちこちで声が上がる。そしてテーブルを小さな掌で叩く音も加わった。


「お食事の時は、静かになさい」


 老いた修道女がやんわりと嗜めると、「だって先生」と不満の声が返される。


「こいつボクの隣に座るんだよ。感染っちゃうじゃないか」


 本気で嫌そうな顔をする少年の肩に、修道女はそっとなだめる様に手を置いた。


「大丈夫ですよ。アレは、病気ではないのですから」


 少年の心配をぬぐい去るような、温かな笑みを浮かべる。しかし少女に向けられる目には、厄介者を見るような、労りの欠片もない色があからさまに浮かんでいた。


「早く食事をすませて、部屋へお行きなさい」


 そっけなく修道女から言われると、少女は皿に残るスープを急いで口に入れて、飲み込む前に椅子を降りた。

 食事が終わったら、手を合わせて「ごちそうさま」と挨拶をしなければならないのだが、それをしなかった少女を誰も咎めなかった。


「早く出て行け」


 食堂にいる全ての者の目がそう語っていた。




 追い立てられるように食堂から出てきた少女は、食堂よりもさらに薄暗い部屋に入ると、後ろ手に扉を閉めた。

 明かりとり用に小さく四角くくり抜いた窓代わりの穴があいているだけの、元々納屋に使っていた狭い部屋。ひんやりと冷たく、子供には牢獄を思わせる部屋だ。

 少女のためにあてがわれた特別な個室。

 ここは修道院とは名ばかりの、男女が同衾する小さな孤児院である。幾人かの修道女と、身寄りのない孤児たちが一緒に暮らしている。

 孤児たちは男女別々の大部屋で寝起きしているが、少女は個室を与えられていた。

 別に少女の待遇が特別なものではなかったが、物心が着く頃になると、この部屋で寝るよう修道女たちから言いつけられている。

 ほかの孤児たちが、少女と一緒だと嫌がるからだ。

 少女は粗い毛で織られた毛布の上にうずくまるように座ると、感情の色の伺えない黄緑色の瞳を前方にひたと据えた。

 その瞳は薄暗いこの部屋ではない、別の場所を視ていた。

 黄緑色の瞳に虹色の光が広がる。部屋の中の空気が振動し、小さく透明な波紋が空間に広がった。

 やがて少女の周りには不可思議なものがいくつも現れ、少女の周りを楽しげに飛び始めた。

 それは青い色の蝶の羽をしているが、大人の人差し指くらいの大きさしかない女の身体の背にあるのだ。

 ヒラヒラと羽を動かすたびに、青い光の粒子がキラキラと舞った。

 それまで感情の色も見えなかった少女の顔に、子供らしい明るい笑みがゆっくりと広がっていった。

 突然現れた白銀の毛並みを持つ仔犬が、それを見上げて嬉しそうに尻尾を揺らす。

 少女は仔犬の頭を優しく撫でる。掌に伝わる毛皮の柔らかさと温もりが、少女の表情を和らげた。


「ひとりでも、さみしくないもん」


 囁くように、小さな声で少女は呟く。仔犬はその言葉を悲しむように、少女の足に頬を何度も擦り付けた。


「フェンリルといっしょだから、さみしくないよ」


 言葉を少し訂正しながら、少女は再び仔犬の頭をそっと撫でてやった。


「フェンリルも、あるけらのこたちも、アタシをいじめないもん」


 心がチクチクと痛む。言葉に出して言っても言わなくても、常に心が痛かった。

 物心着く頃には、少女はいじめられていた。大人の修道女たちも、孤児たちと一緒になっていじめるのだ。


 ――なんでいじめるの?


 いじめられる原因が、当初は判らず少女は困惑した。

 他の孤児たちと一緒に寝起きさせてもらえない、食堂に行くとゆっくり食事をさせてもらえない。

 そして、片方しか翼がないことを、罪悪のように責め立ててくる。

 そう、少女が片翼であることが、いじめの最大の原因だった。

 アイオン族はその背に2枚の翼が生えているのが特長だ。翼は飾りではなく、鳥のように自在に飛ぶことができる。その翼が片方しかない者は、アイオン族にとって障害者ということになる。

 本来なら守られるべき存在なのに、どういうわけか少女はそのことでいじめを受け続けていた。

 それは、何十年も前に撤廃された、悪しき法の名残だ。いつまでも暗い影を国民に落とし続けている。少女はその最大の被害者といってもいい。

 そんなことは、少女には判らない。判っていることは、心が痛い。それだけだった。




 夕食を知らせる鐘が鳴り、少女は部屋を出た。

 出される食事は最低限飢えを凌げる程度しかない。育ち盛りの孤児たちにとっては物足りないくらいだ。動いていなくてもお腹はすいてしまう。

 食堂へ向かおうとしたが、部屋のそばにスープの皿と小さなパンが置かれているのに気づき、少女は昏い視線を落とした。

 食堂へは来るな、ということだ。

 昼間騒ぎ立てられたことを思い出し、少女はすぐ納得する。あんなふうな騒ぎがあったあとは、きまってこうして部屋の外に食事が置かれるのだ。

 少女は無言でその皿とパンを拾うと、部屋に戻り扉を閉めた。そして小さなため息をついてその場に座り込み、冷め切ったスープをすすった。

 夜になると一気に冷え込むので、温かいスープが飲みたかった。でもこうして食べ物を与えられるだけマシなのだ、ということを少女は判っている。

 仔犬が労わるように、少女の足に顔を擦り付ける。それがこそばゆくて、少女は目を細めた。




 消灯時間が過ぎた頃、少女はそっと部屋を出て、真っ暗な廊下を危なっかしく歩きながら火の落ちた台所に入る。流し台にスープ皿を置いて、近くにある木箱を引っ張ってきてその上に立つ。貯め桶から水を汲んで、洗い布で丁寧に皿を洗う。ちゃんと洗って皿を返しておかないと、今後食事がもらえないのだ。

 夜半にもなると一気に気温が下がり、水は滲みる様に冷たくなる。少女はヒリヒリと手に感じる冷たさに白い息を吐きかけながら洗った。

 皿を拭いて棚に入れ、木箱を元の位置に戻し、少女は台所を後にする。そしてその足で浴場へ向かい、真っ暗な脱衣所で粗末な服を脱いだ。

 子供には大きすぎる鏡の前で、少女は複雑な色を表情に浮かべると、身体を後ろに向けた。

 肩ごしに、鏡に映る自分を見る。

 右側に生えた翼、そして左側には――

 ちぎり取られ、毟られた翼のような残骸があった。

 少女は今にも泣き出しそうな目をして、その無残な左側の翼を見つめる。

 毎日こうして鏡の前で、自分の左側の翼を見る。それは、いつか真っ白い、右側と同じ翼が生えてくるのではないか。そう期待するからだった。

 しかし少女の願いを裏切るように、翼にはなんの変化もない。確認するたびにがっかりするだけだった。

 この修道院の子供たちは、いつも口々に言う。


 ――お前は病気持ちなんだ。

 ――感染ったらどうするんだよ。

 ――あっちいけよ。

 ――不細工で目障りだ!


 子供たちの言葉には容赦がなかった。それにもまして修道女たちの目も、子供達と同じような意味を滲ませて少女を見ていた。

 少女は脳裏に浮かんだそれらの言葉を払拭するように頭を振り、下着も脱いで洗い場に入り、冷め切った湯を身体にかけた。




 3種族共に崇める神は2柱で、太陽の女神ソールと、月の男神マーニである。地域によっては性別が異なることもあるが、太陽と月を神格化して崇めることに変わりはない。

 太陽の女神ソールを崇めるこの修道院では、朝食のあとに女神ソールへの祈りの時間がある。これには少女も強制的に参加させられる。そして次は、孤児たちの勉強の時間が昼まで行われていた。

 しかし少女は、この勉強に加えてもらえない。覗くことすら禁止されていた。

 孤児とはいえ社会で独り立ちできるように、最低限の読み書きや計算を教えてもらえる。13歳になれば働けるようになるので、孤児たちは13歳になるまでは修道院で育てられ、そして独立していく。

 修道院でいじめられ、嫌われる少女の将来を心配する者など誰もいない。

 何故なら少女は実の両親に捨てられ、そのことは惑星ペッコでも有名な事件として知れ渡っているのである。

 哀れみ、同情する者は1人も現れなかった。アイオン族の種族統一国家イルマタル帝国ですら、少女の引取りを拒否したのだ。

 少女にはレア中のレアとされる召喚〈才能〉スキルがある。召喚〈才能〉スキルを持つ者は家族ごと国に保護され、裕福な暮らしと安全を生涯約束されるのだ。それは、3種族共通の取り決めとなっている。にもかかわらず、少女はどこにも引き取られなかった。

 それは全て、少女が片翼の欠陥をもって生まれてきてしまったからである。


「アイオン族は完璧であらねばならない! 欠陥品はクズ同然であり、アイオン族を名乗るのもおこがましいのである。飛ばない鳥を鳥とは言わないであろう!! 予の治める国にそんな欠陥品はいらぬ、アイオン族の面汚しは即刻排除すべし!!」


 皇帝アルファルドが敷いた悪習、40年以上も続いた悪法が撤廃された今も、惑星ペッコに暮らすアイオン族の心に深く根付いている。

 召喚〈才能〉スキルを持って生まれてきた、貴重な存在であるはずなのにだ。

 両親から拒絶され捨てられた赤子を死なせるのは、さすがに寝覚めが悪かったのだろう。病院から無理矢理押し付けられ、修道院は不承不承引き取ったのだった。

 少女が13歳になれば、堂々と追い出すことができる。

「置いてもらえているだけありがたいと思え」「食わせてやっているだけ感謝しろ」それが修道女たちの本音なのだ。

 アイオン族は美醜をとにかく重んじる種族である。惑星ペッコ以外の他惑星で暮らすアイオン族はそこまで酷くはないが、本星のアイオン族は貫いていた。

 勉強の時間、少女は薄暗い自分の部屋にいた。そして、仔犬のフェンリルから、色々な言葉を教わっていた。

 教科書も、ノートも、鉛筆も、黒板もない。それでも、少女は新しい言葉を教わると、それだけで楽しかった。


「あるけらに、いこう」


 少女はそう言うと、目を前方に据える。黄緑色の瞳にまといついている虹色の光が、ジワジワと輝きを強めていった。そして、少女の右側の翼にも散りばめられている虹色の光彩が、同じように強く光った。

 そして少女の意識は、ここではない別の世界へと飛んでいた。

 少女の意識は、その世界で同じように形となっていく。そして仔犬のフェンリルも、同じように形となって少女に付き従った。


「あそびにきたよー」


 嬉しそうな少女の声に反応して、あちこちから光の玉が現れ、少女の周りを楽しそうに飛び交った。

 柔らかな光と、モコモコとした白い雲が、どこまでも続いていく。

 やがて、ゴツゴツとした岩山と、黒い大きな雲が広がる場所に出た。


「それー」


 少女は目の前に現れた、黒いゴワゴワしたモップのようなものに飛びついた。


「なんじゃあ……いたずらっ子がきたかー」


 黒いモップのようなものが揺れると、あたりに紫電の光が舞い踊る。稲妻だった。


「キャハハッ」


 それを見て、少女は楽しそうに笑い声を上げた。

 別の世界では無垢な笑顔を浮かべ、明るい笑い声を発する少女。しかし薄暗い部屋の中では、殺伐とした子供らしからぬ表情を浮かべているだけだった。




 ある日、裏庭の岩の上に座り少女はぼんやりと空を眺めていると、修道女に声をかけられた。


「キュッリッキ」


 しかし少女は反応しない。

 修道女がもう一度強く名を呼ぶと、少女はハッとしたように顔を向けた。


「ごめんなさい、クリスタさま」


 少女は慌てて岩から降りて、クリスタの前に立った。

 クリスタと呼ばれた修道女は、眉間に皺を刻んだ顔に不快感を貼り付けたまま、キュッリッキと呼んだ少女を見おろした。

 この修道院の院長である。そして、少女――キュッリッキの名付け親でもあった。


「明日、急遽カステヘルミ皇女殿下がお見えになることになりました。殿下は当修道院に多大なご寄付を約束してくださっております。そして視察のために、御足をお運びになります」


 ありがたいことです、とクリスタは深く頷いた。そしてクリスタは厳しい表情になると、キュッリッキを鋭く睨みつけた。


「いいですか、あなたは明日、殿下がお帰りになるまで、部屋を一歩も出てはなりませんよ」


 どうしてですか? とキュッリッキは言わなかった。

 以前もどこかの貴族の貴婦人がやってくるというので、同じように部屋にこもっていろと言われたことがあるからだ。

 片翼の奇形児と有名なキュッリッキは、他の同族たちにとって、不快感の塊とみなされているからである。

 それを骨の髄まで思い知っているキュッリッキは、黙って頷き、そして俯いた。




 翌日、皇女御一行様が訪問した合図の鐘の音が、奇岩の上に鳴り響いた。

 キュッリッキは言われた通りに、部屋の中でおとなしくしていた。しかし昼近くになり急に尿意をおぼえ、我慢しきれず部屋を出てトイレに駆け込んだ。

 幸い誰ともすれ違わず、無事用を足せて部屋へ戻る途中、運悪く皇女御一行と廊下でばったり出くわしてしまった。


「あっ」


 突然現れた孤児に、先頭を歩いていたカステヘルミ皇女が、面白そうにキュッリッキに目を向けた。


「お前はさっきの子供たちの中にいなかった。どこに隠れておいでだった?」


 咎めるでもなく怒っているふうでもない。ただ不思議そうに訊ねられ、キュッリッキはしどろもどろに辺りをキョロキョロ見回した。

 皇女の背後に控えていた修道女たちの表情が、みるみる怒りの色に染まっていく。


「えっと…えっと」


 本当に慌てふためいて困り果てるキュッリッキに、カステヘルミ皇女は面白そうに笑い声を立てた。


「おおかた、つまみ食いでもしておったのであろう」


 愉快そうに言われ、笑われたことにキュッリッキは真っ赤になって俯いた。


「おや?」


 カステヘルミ皇女はキュッリッキの背に視線を向け、不快そうに眉を寄せた。


「お前、みっともない翼をお持ちだね。そして虹の光彩を持つもう片方の翼…。もしや数年前に噂になった、召喚〈才能〉スキルを持つあの奇形児か?」


 言って修道女たちを振り返る。修道女たちは恐縮しながら汗を浮かべていた。


「さようでございます、殿下」

「本当に虹の光彩を翼にもまとわせているのだな。珍しいものを見た」


 そう淡々と言って、カステヘルミ皇女は歩き去ってしまった。


 後に残されたキュッリッキは、ホッと胸をなでおろした。しかしその晩すぐに院長室に呼び出され、厳しい叱責と体罰を受けた。


「もしお前のせいでご寄付をいただけなかったら、明日から子供たちをどう食べさせてやったらいいのか、困るところだったよ!」


 鬼のような形相のクリスタは、黒い革の鞭でキュッリッキの身体中を打ち叩いた。打つ力に加減はなく、渾身の力を込めて振るい続けた。ビシッ、ビシッと耳に痛い音が室内に鳴り響く。


「ごめんなさい、ごめんなさい!」


 身体を丸め、キュッリッキは痛みに耐えかねて泣きじゃくった。やめて欲しくて必死に謝る。叩かれるたびに、焼けるような信じられない痛みが襲い掛かった。しかし院長もそれを見るほかの修道女たちも、冷たくキュッリッキを見下ろすだけだ。

 裂けた傷口から血が滴り落ちるほど、散々鞭打たれた。

 小さな身体が血の塊になるほど打って、クリスタはようやく落ち着きを取り戻した。足元には、ぐったりとしたキュッリッキが転がっている。


「さっさと起きるのです! この愚図っ」


 つま先で腹を蹴られて、キュッリッキは失いかけた意識を取り戻す。

 血まみれの弱った手足に必死に力を込めて、何度も倒れながら起き上がる。涙と血でぐじゃぐじゃになった顔をクリスタに向けると、まるで穢らわしいものでも見るような目で見返された。


「部屋へお戻りなさい、この欠陥品」


 最後に心に深い傷をつけられ、キュッリッキは手当を受けることなく、重い足を引きずり何度も転倒しながら部屋に戻った。

 院長室を後にするとき「死んじゃえばいいのよ…」と囁きあう声が、露骨に背中に投げつけられた。容赦のない言葉の数々に、キュッリッキの心はますます傷ついた。




 薄暗い部屋に戻ると、キュッリッキは毛布の上にドサッと倒れた。

 夜気の冷たさに小さな身体は冷え切り、傷口もじくじく痛んで、あとから涙がぽろぽろ頬をつたった。

 傷が痛んで悲しいのか、修道女たちの心無い仕打ちが悲しいのか、自らの境遇が悲しいのか。あまりにも悲しいことばかりで見当もつかない。

 暫くすると、突如室内に柔らかな光が満ちて、そこに1人の老人が姿を現した。


「なんと、惨いことをする…」


 老人はその場に座ると、キュッリッキの小さな身体を膝の上に抱き上げた。

 傷ついた身体にそっと手をあてると、柔らかな白い光が小さな身体を包み込む。


「…あったかいの」


 キュッリッキは小さく目を開けると、顔を上げて老人を見上げた。


「ティワズさま…」


 老人は優しく微笑むと、キュッリッキの頭を優しく撫でた。


「もう、いたくないの。ありがとう」


 キュッリッキがそう言うと、老人は小さく頷き、キュッリッキを毛布の上にそっと戻した。

 傷だらけで血まみれだった小さな身体は、どこにも傷跡がなく、切り裂かれた粗末な服も元通りだった。

 やがて老人は空気にかき消えるように姿を消していた。

 しばらくの間キュッリッキは動かず、じっと横たわっていた。

 身体の傷は癒えていたが、心の傷は少しも癒えていない。小さな心は無惨なほどに傷だらけなのだ。

 動かないキュッリッキの鼻を、仔犬がペロリと舐めた。


「くすぐったいの」


 こそばゆくって、キュッリッキはクスクスと笑った。

 仔犬はもう一度キュッリッキの鼻を舐めたあと、胸のそばで丸くなった。

 寄り添ってくれる仔犬のぬくもりだけが、キュッリッキの心に優しかった。


「ありがとう…フェンリル」

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