第9話 狐とメガ盛り丼

 朝6時半。


 いつもはスマホのアラームで起きるのだが、今日はその前に目が覚めた。まだ朦朧とする意識の中、かすかな「匂い」を感じたのだ。


 これはきっと鰹出汁。ふくよかな風味が心地よく、ほのかな甘みも匂いとなって漂っている。その次に感じたのは、濃厚なコクのある匂い。これはきっと味噌だ。鰹出汁の風味と相まって旨みのある匂いとなり、微睡まどろみの中で唾を飲んだ。


 ……ん?待てよ。


 これを作っているのは、もしや。


 よろよろとキッチンへ向かうと、可愛いエプロンを身に付けた虎之介が小皿を片手に味見をしていた。そのエプロンは先日、てっちゃんから助けてくれたお礼にとプレゼントされたもの。デフォルメされたクマのプリントが可愛く、俺も色違いで貰った。


「起きたか、大史。おはようさん」

「おはよう。もしかして、みそ汁作ってる?」

「おう。お前の『れしぴのーと』ってやつを拝借して作ってみたんだ。まぁ、字が汚すぎて解読するのに時間がかかったが」

「それはすまんかった」

「いつも作ってもらってばっかりじゃ、気が引けるからな。気に入ってくれたなら、毎朝オレがみそ汁作ってやるよ」

「そのセリフ、プロポーズみたいだな。だが、すまん。俺は女性が好きだ」

「ぷろぽ……なんのことを言ってるのか分からんが、朝メシにするぞ」


 虎之介、お前ってヤツは。

 妖怪のくせに義理人情に厚く、人間よりも人間らしい。他人に干渉せず、希薄さのある現代では、虎之介のような存在は時には暑苦しく思われるだろう。


 だが、俺はそんな虎之介が羨ましく感じる。


「みそ汁、美味いじゃん」

「そうだろう? 我ながら上手く作れた」

「じゃあ、明日から毎朝頼むよ」

「任せろ。こうやって頼られるのは気分がいいな」


 みそ汁には玉ねぎとワカメ、油揚げ入り。水加減もちょうどよく、ふっくらと炊けている白米に、不格好な目玉焼きにはベーコンが敷かれている。誰かにメシを作ってもらうなんて久し振りで、少しだけ祖父母を思い出して胸が詰まった。


「……」

「おい、どうした? あ、目玉焼きか。これはその、卵がうまく割れなくてだな……」

「下手くそ」

「こ、これから練習する」

「冗談だよ。ありがとな、虎之介」

「お、おう」


 作ってもらうメシがこんなにも美味いとは。温かみのある料理は心を満たしてくれる。多分、これは『幸せ』の一種なのだと思う。お客さんもこんな気持ちで俺の料理を食べていてくれたら、嬉しいことこの上ない。


 そんなことを考えていると、俄然やる気が出てきた。


「よし。虎之介、今日も夜まで頑張るぞ」

「ずいぶんと気合が入っているな。もちろんだ」

「そういえば、才雲さんから貰ったヤマさんのウロコはどうした?」

「神棚にお供えしといたぞ」

「おま……また罰当たりなことして……神様に恨みでもあるのか?」

「恨みなどない。神ってのは、三種の神器とやらが好きだろう? 3つ集めれば、でっかい龍が出てきて願いを叶えてくれるかもしれないぞ」

「いや、いろいろ間違ってるし漫画の読み過ぎ。アレを三種の神器と呼ぶんじゃないよ。河童の化身カツラと蛇のウロコと……あと1つ集めても、ただのゴミじゃねぇか」

「分かってないな、大史は。価値のあるものは千差万別。神にとっては嬉しいお供えかもしれないだろ?」

「それなら、お前はそれらをお供えされて嬉しいか?」

「オレなら……怒り狂ってこの店を潰すと思う」

「俺も同感だよ」


 虎之介、さっきまでのセンチメンタルを返してくれ。

 

 この日の夜営業は客足が少なかった。

 昼過ぎからどしゃ降りの雨となり、雷が響くほど大荒れの天気。時刻は20時半、今日はもう店じまいをしようとした時だった。


 ——— ガラッ


 勢いよく戸を開け店に入ってきたのは、最近よく来るお客さんだった。


「もぉ~、びしょ濡れなんだけど~。最悪」

玉藻たまもさん、いらっしゃい。タオル貸そうか?」

「いいの? 助かるー。ありがとね」


 長身でスラッとしたその人にタオルを貸すと、銀髪のショートヘアをガシガシっと拭った。見かけによらず、男らしい一面もあるものだ。


「とりあえず、ビールちょうだい。あと、いつものヤツもね」

「はいよ。いつもの『メガ盛り』でいいんだよね?」

「もちろん」


「ほれ、瓶ビールとグラスな。一杯目、注いでやろうか?」

「え、虎ちゃん優しい~。じゃあ、お願いしようかしら。もしかして、虎ちゃんってばアタシに気があったりして?」

「ねぇよ。男なんぞに興味はねぇ」

「もぉ~いけずっ」


 この玉藻さんという人は、話し方が独特ではあるが男性である。

 中性的な見た目で、女性と言われれば女性でも通るほどの美貌の持ち主。しかし、特徴的な低めの声で男性だと分かる。ジェンダーレスが認識されてきた昨今、性別を判断するのは難しいが、俺の中では玉藻さんは玉藻さんという人として認識している。


 玉藻さんはネイリストをやっていて、いつも仕事帰りに寄ってくれる。細身でありながら大食いな彼のために、特別メニューを考案したのだ。


 そして料理を待っている間、玉藻さんの愚痴を聞くのは虎之介の役目である。


「ぷはぁ~。やっぱり仕事の終わりのビールは染みるわ。ねぇ、虎ちゃん聞いてくれる? 今日はお客で自己中な高飛車女が来てさ、完成間近でやっぱりデザインを変更したいとか言って、最初からやり直しさせられたのよ。もちろん初めは断ったのよ? そしたら急に逆ギレし出して、オーナー呼んで来いって大騒ぎ。次の予約もあるのに仕方なく相手をしたんだけど、挙句の果てに料金をタダにしろとか言うの。信じられる?」

「大変な客を相手にしてたんだな。そんな人間は出禁にすればいいじゃないのか?」

「アタシもそう思ったんだけど、そのお客、オーナーの知り合いなのよ。だから邪見にもできないし、他のスタッフもうんざりしちゃって。大体さ、最近店に来るお客って、承認欲求が強くて、なんでも自分の思い通りになると思ってる勘違い女が多いのよ。アタシ、こういう人種大っ嫌い。もっと素朴で純粋な女の子っていないのかしら。虎ちゃんもそう思うでしょ?」

「まぁ、うん。……ところでよ、出てるぞ」

「え、なにが?」

尻尾しっぽ


 玉藻さんの背後から、もふもふの大きな尻尾が顔を出していた。

 彼もまた、人間社会で生活する妖怪なのだ。


「あらヤダ! 興奮するとつい出ちゃうのよね~」

天狐てんこであるあんたが、なんでわざわざ人間社会で働くんだ? 1000年以上も生きてりゃ、もっと他の楽しみが見つかるだろうに」

「長く生きてるからこそ、弱くて儚い存在の人間が好きなの。中にはどうしようもない人間だっているけど、それは妖怪も同じでしょ? まぁ、働いていれば嫌なことだってたくさんあるけど、それも踏まえて小さい楽しみを見つけながら人間として生活することで、生きてるっていう実感が沸くのよ」

「まぁ、分からんでもない」

「ふふっ。そうでしょ?」


 俺としては妖怪として生きるほうが楽な気がするが、妖怪はなぜか人間に興味と憧れを持ち、人間と同じように生きたいと言う。俺には理解しがたい考えだが、ほんのひと時の『楽しみ』を求めるとは、実に人間らしいと思う。


「玉藻さん、お待たせ。から揚げ&焼き鳥&ポークステーキのメガ盛り定食ね」

「これこれ! アタシにとって日々の楽しみといえば、この定食なのよね~。この肉肉しさ、ビジュアルが最高過ぎる! SNS用に写真撮ってもいい?」

「もちろん」


 玉藻さんがスマホの連写機能でパシャパシャと写真を撮っていると、閉店間際の時間だというのに店の戸が開いた。


「こんばんは! 夜分遅くにすみません」

「お、てっちゃん。どうしたの?」

「実は近所の人から野菜をたくさんもらったので、お裾分けに来たんです。もしよかったら使ってください!」

「こんなにたくさん? 嬉しいよ、ありがとう。最近は野菜も高いから、すごく助かる」

「えへへ。喜んでもらえてよかったです!」


 ——— カランカラン……

 音のするほうを見ると、床に箸が転がっている。


 その主と思われる玉藻さんは口元を押さえながら、てっちゃんを見つめてわなわなと震えていた。


「はわ……じ、か、かわ……」

「ど、どうした?」

「じ……」

「じ?」

「じ……地味すぎて可愛い! 今どきこんな洒落っ気のない女の子がいるなんて新鮮! それにふわっと香ってきたお線香の匂い……そうだわ、これはまさしく! 心のふるさと、おばあちゃん家の匂い……あぁ、好き」

「は?」


 己の内側を恥じることもなく、つらつらと言葉を並べた玉藻さんは、一目惚れをした恋する乙女のような眼差しだった。


 蛇と狐の妖怪に好かれてしまったてっちゃん。

 彼女を巡るバッチバチの恋が、今まさに始まろうとしている。

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