23. 世間知らず

 翌朝は気持ちがいい目覚めだった。昨夜は先生の指南『新妻の心得』を受けた後、刺激が強すぎて脳みそがショートしてしまった。マルセラには会えなくて申し訳なかったけれど、そのまま眠ってしまったらしい。


 服も下着も替えられていたけれど、今更もう、それをどうこう言う気はない。誰がしてくれたとしても同じこと。先生との進展はない。


 行きたいところを聞かれて、今日は庶民の生活を見たいとお願いした。だからここに連れてきてもらったのだ。


 人が生活する場所には市が立つ。この街の市場は、外観は重厚な石造りの二階建て建築。中は吹き抜けで、ストールと呼ばれるテント風の店が所狭しと立ち並ぶ。

 国では顔が知られていて、とてもじゃないけれど市場になんていけない。だから、これは初めての体験だ。


「オリーブ美味しそう!こんな風に色で分けて売ってるのね。全然知らなかったわ」


「収穫時期が違うんだよ。緑は未熟な実で、黒いほど熟れていると言えばいいかな」


 先生は、店主のお婆さんと談笑してから、緑・茶色・黒のオリーブをのせた小さなお皿をうけとった。これも素朴なアズレージョだった。


「綺麗なお嬢さんに味見してもらいたいって」


 先生はそう言って、黒いオリーブをつまんで私の口の前に持ってきた。『はい、あーん』っていう新婚さんシチュエーション。私は口を大きく開けて、オリーブに口をつけた。先生の指をちょっと舐めてしまったけれど、どう考えても口に放り入れてくれない限り、つまんでいる指も咥えてしまう。


 先生は私が口に入れた親指と人差し指を、自分の舌でペロッと舐めた。間接キス? いやいや、オリーブは塩水に漬けてあるから、指で持ったら汚れる。深い意味はない一連の流れ的な動作。それでも、昨夜あの舌と指に触れられたことを思い出して、顔が火照ってきてしまう。


「すっごく美味しいわ! ジルも食べてみて」


 今度は私がお皿から茶色のオリーブをちょいっとつまんで、先生の口元に持っていった。先生とは身長差があるので、塩水が少し指を滴り落ちた。


 先生もやっぱり私の指をちょっと舐めるようにして、オリーブを口に入れた。そして、そのまま私の手を取って、指に流れた塩水も舐め取った。思わず止めてしまった息が、大きな吐息となって出てしまう。


「本当だね。いい塩梅だ。ワインが飲みたくなるね」


 先生は何食わぬ顔でそう言った。私だけじゃなく、周囲にいた人がみんな、店主のお婆さんまで、照れて目をそらしているというのに。その余裕はなに? それだけ場数を踏んでるってこと?


「ジルは何色のオリーブが好きなの? 未熟なの? 熟成したの?」


「そうだな、どれも好きだけれど、若い実がいいかな。噛み締めたときの歯ごたえがたまらないからね」


 これは絶対にわざと意味深に言ってる! 私だけじゃなくて、周囲の人たちだって言っていることは理解できるのに。若い妻を溺愛しているプレイ? なぜノリノリ? こっちは顔から火を吹きそうなのに!


「私も緑は好きよ。じゃあ、最後の一つは分けましょう。半分だけかじってね!」


 負けてばかりはいられない。私だって先生をドギマギさせてやるんだから! 私は緑のオリーブを前歯で軽く噛んだまま、先生の口元に近づけた。さあ、どうする?


 さすがにこれは無理だろうと思ったのに、先生は一枚上手だった。私に口づけてオリーブを奪ったあと、口の中で半分に噛み切って、半分だけ私の口に戻してきた。


 周囲のあちこちからからかいの野次がとぶ。先生はそれに笑いながら適当に答えて、真っ赤になっている私を抱き寄せた。先生に挑戦するなんて、馬鹿なことをしてしまった。こんな風にお仕置きをされるなんて!


「恥ずかしくて、もうここには来れないわ」


 先生のがっちりと腰を抱えられて歩きながら、私は熱くなった頬を両手で隠すように包んだ。先生は昨日とはうってかわって上機嫌だ。何がどうなってるの?


「ティナが挑発したんだろう。妻の望みなら、夫は受けて立たないと。みなも僕の勇姿を讃えてくれていたよ。こんな若くて美人な妻を連れているんだから、ちょっとしたパフォーマンスをするのも一興だろう」


「信じられない。あんなに人がいっぱいいるところで!」


「じゃあ、人のいないところならいいのかな?」


 何を言うの! 先生、ちょっと変だよ。いくら設定とは言え、これじゃあ本当に新婚バカップルみたいじゃない! ドキドキしすぎて心臓が痛い。


「もう、ジルは黙ってよ! あれは豆? 乾燥して売っているものなの?」


「ティナ、豆は保存食だよ。乾燥させてから挽いて粉にしたり、水で戻してから調理するんだ。食卓にはそのまま出たりしないから、知らなかったんだね」


 大小色とりどりの豆を、おじさんが升で計るのを見ながら、私は自分の世間知らずにあきれてため息をついた。

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