24. 将来の夢
「私、本当に何も知らないのね。情けないわ」
「仕方ないだろう。気にすることはない」
「見たことがあっても、知ろうとしなかったことや見逃していたことがいっぱいあるの。ジルがいなかったら、興味どころか疑問すら持たなかった。自分の世界だけで物事を考えて……」
「君はまだ若い。これから色々と知る時間はある」
「でも、それじゃ、ジルに追いつけないわ!」
口を尖らせてそう言うと、先生は私の手をとってその指先に優しくキスをした。どこであっても、先生の唇が触れると全身に震えが走る。
「ティナ、急いで大人にならなくていい。十六歳には年相応の楽しみも喜びもある。それを放棄する必要はないんだ」
「でも、私は……」
そのとき、すぐ近くで誰かが悲鳴をあげた。花屋の娘さんが苦しそうに胸を抑えて、フラフラと倒れ込む。それをお爺さんが抱えながら、必死に助けを呼んでいた。
次の瞬間には、先生は二人に駆け寄っていた。お爺さんさんから事情を聞きながら、娘さんを地面に横たえる。
「心臓だ! 救急隊を呼んでくれ!」
誰かが走っていき、先生は娘さんの衣服をくつろげてから、しばらく脈を見ていた。娘さんが動かなくなったとき、先生は彼女の体を仰向けにしてから、口元に耳を当てた。
呼吸を確認してる? あの子、死んじゃったの?
先生は着ていたジャケットを脱いでから、娘さんの胸に両手を当てて、体重をかけるように何度も押した。彼女の胸が上下する。そうしてから、また口元に耳をつけたかと思うと、娘さんの鼻をつまんで顎を上に突き出させると、そのまま口づけた。
キス……じゃない。医療行為だ。息を吹き込んでいる。呼吸をさせているの? 話には聞いたことのある人工呼吸。
二回ほど娘さんの胸が上下に動くのを確認したあと、再び胸を規則正しい感覚で押し続ける。ある程度がたつと、また人工呼吸を繰り返した。
先生の額には汗が流れているのに、私は足がすくんでしまって動けず、それを拭いてあげることもできない。ただ、呆然と見ているだけ。
やがて、先生がホッとしたような表情をして、娘さんの脈を取り出したころ、救急隊員が到着した。彼らは先生から説明を聞いたあと、娘さんを手早く担架に乗せて運んでいった。
「ティナ、放っておいてすまなかった」
ジャケットを拾ってから、先生は手の甲で汗を拭いながら私のほうに駆け寄ってきた。命を救えたことへの喜びなのか、先生はとても清々しい顔をしていた。
「あの子、大丈夫よね? 死んだりしない?」
「心臓に持病があるそうだ。いつもは薬を服用しているらしいけど、今日はピルケースを忘れてきたそうだ。危なかったけれど大丈夫。助かるよ」
私は先生の腕を掴んだ。自分の手がブルブルと震えている。あれが先生の世界。一瞬の判断ミスが死につながってしまう。先生がいなかったら、あの子は死んでしまっていたのかもしれない。
「先生、ごめんなさい。私、何も手伝えなくて。先生のお仕事のことも考えず、こんな風に私に付き合わせて。どうしよう、先生のいない王宮でもし誰かが……」
「ティナ、落ち着くんだ。僕の留守はサラが引き受けてくれている。大丈夫だから気にしなくていい」
「でも、先生にとっては、こんな時間は無駄よ」
「君と過ごす時間が、僕にとって無駄だと思うかい? 医者だって人間だよ。癒しを得る時間も必要なんだ」
先生は優しい。昔からずっと優しかったし、いつも私の我儘を聞いてくれた。私のために特別に時間を作ってくれたし、仕事の邪魔をしても相手をしてくれた。
それが、どれだけ先生の負担になっていたか。考えてもみなかった。私が無駄にさせた時間を、先生は別のところで穴埋めしなくちゃいけなかったんだ。
「先生。私、勉強します。先生みたいに、人の役に立てるように」
「ティナには、ティナにしかできない仕事があるだろう?」
「他国に嫁いで、子を成すことですか? そんなの、私の望みじゃないんです」
「それは避けて通れない運命だ。だから、こうしてその準備を……」
政略結婚は避けられない。本当にそうなの?
「先生、私、看護師になりたい」
「看護師? なぜ急にそんなことを。さっきは怖かったんじゃないのか?」
怖かったのは、何もできなかったから。ただ見ているだけしかできなかったから。何でもいいからできることがあれば、先生の手伝いができた。
もし私が看護師だったら、先生が大変なときに助けてあげられる。先生の負担を軽くしてあげられる。先生に必要としてもらえる!
「大事な人を失ったときに後悔したくない。お母様が辛かったのは、ニコライ伯父様に何もできなかったと思ってるからよ」
私はあの日のことを思い出していた。
この茶番のような閨房指南は、お母様の兄、私の叔父、アレクセイお兄様の義父であるニコライ元皇帝陛下の死がきっかけだったのだ。
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