8. 乙女の葡萄

 先生は周囲なんて気にしない様子で、ポートワインも、たぶんキスも楽しんでいる。それだけで、こんな恥ずかしい思いも、かなり報われる。


 石造りの家や蔵に挟まれた細い小道を登る。丘の上にあるワイナリーの試飲が終わったときには、先生も私も、ワインと何度も味わったキスのせいで、ほろ酔い気分だった。


「ぶどう園があるね。外の風で、少し酔いを冷ましてから戻ろう」


 先生は私の手を引いて、畑の中へと入っていった。ぶどうの木は先生の背より少し高いくらい。一人で中に入ったら、迷ってしまいそう。食べごろの葡萄から芳醇な甘い香りが立ち上る。


「ワインはね。穢れなき処女だけが素足で踏んだ葡萄で造るんだ」


「それは、恥ずかしい感じですね」


「宗教的な意味合いが強いんだろうね。神殿に仕えるものは、みな純潔を守っているだろう。そういう風習みたいなものだよ。今は形だけだ」


 良かった。あるときから突然足踏み参加不可になったら、ぶどう園で働く娘さんたちはさぞ恥ずかしいだろう。人権侵害だ。


「ティナが葡萄を踏んでいたら、周りの男たちは浮足立つだろうね。我先にと求婚者が押し寄せそうだ」


「先生こそ、そんなところに行かないでくださいね。先生に摘み取られたら、足踏みできる乙女がいなくなっちゃう。ワイナリーの経営者が困るでしょ?」


「僕はそんなに飢えてないぞ。だが、興味はあるな」


「え? 乙女の収穫に?」


「まさか。東洋には口噛み酒というのがあるんだ。原料を口で噛んで吐き出したもので造る酒だね。口噛みも処女だけに許される役目だよ。どんな味がするのか、気にならないかい?」


 人が噛んで吐いたものなんか、気持ち悪い。アルコールになれば殺菌されるかもしれないけど。そう思っていると、先生は白ぶどうを一粒摘んで、口に入れた。


「よく熟れている。食べ頃だね。口を開けて」


 先生が葡萄を一粒つまんで、私の口の前に持ってきてくれた。これは、『はい、あ~ん』ってやつ? 指南だ。絶対にそうだ! 少しは成長しているところを、先生にアピらないと!


 私が口を開けると、先生がそっと私の口に葡萄を運んだ。私は先生の指ごと葡萄を口に入れて、先生の指から吸い取るように葡萄を奪った。

 どう? 私もやればできるの。少しは恋愛の達人に近づいた? 教え甲斐のある弟子だと思ってもらえる?


 先生の顔は夕日の逆光になってよく見えないけれど、声には熱が籠もっていた。


「ティナは悪い子だな。僕に挑むなんて、まだまだ早い」


 先生はそう言うと、もう一粒、私の口に葡萄を運ぶ。そして、今度はすぐに指を抜かず、そのまま私の舌を撫でた。背筋がゾクゾクと泡立ち、体の芯がきゅうっと締め付けられた。思わず葡萄を噛み締めてしまい、口の端から甘い汁が滴った。


 噛んだ葡萄を飲み込む暇もないうちに、先生は私の顎に伝う汁をペロっと舐めてから、唇を重ねる。そして、上手に舌をつかって、私の口の中で噛み潰された葡萄を掻き出し、自分で食べてしまった。


 あまりの早業に動けないまま、私は先生に抱きしめられていた。どうしよう、もう足が……。立っていられない。


「思ったとおりだ。乙女が噛んだ葡萄は美味しいよ。ワインよりも酔わされる」


 私を支えるように抱えた先生は、耳元でそう囁いた。


 こんなのダメ。こんなことをされて、溺れない女性なんていないと思う。先生はいつも、こんな風に恋愛をしているの? こうやって女を口説いているの?


 どす黒い嫉妬が、胸の奥から湧き上がる。嫌だな。先生が誰かにこんな風にキスするなんて。私だけを見てほしい。私だけに触れてほしい。

 感じたことがないような欲望が、私の全身を支配した。先生が全部ほしい。もっと深く繋がりたい。


 私が先生の首に腕を回すと、先生は私を強く引き寄せて、激しい口づけを落とした。このまま先生とどこまでも流されてしまいたい。


 夜の帳が降りて、ぶどう園にライトアップの明かりが灯る。夢中になって互いの唇を貪っていた私たちは、その光で我に返った。


「先生、私……」


 先生が好き。先生に愛されたい。先生も同じように思ってくれているよね? そう言おうと思ったのに、先生は全く違うことを言った。


「いい指南ができたね。もうキスは教えることはないようだ。合格だな」


 違う。私は先生に溺れたけど、先生は私に流されなかった。このキスは失格。だって、私にとっては愛情表現だったのに、先生にとっては単なる指導の域を出なかったんだもの。


「はい。ご指導ありがとうございます」


 そう答えるしかない。先生は、きっちりと線を引いた。先生の反応は愛じゃなくて指南だって。


「遅くなったね。歩いて帰るのは無理だ。馬車を呼んでもらおう」


 足元が暗いからと、先生は手をつないで出口まで歩いてくれた。その手をギュッと握ってみたけれど、握り返してはくれなかった。そうして私たちは無言のまま、馬車で屋敷に戻ったのだった。

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