9. 私を温めて
港街観光の翌日は、日帰りで古都を訪ねることになった。頂上にある大陸で最も古い大学を中心に、丘全体が一つの街になっている。
「僕の母校だ。国立大学だから、平民でも入れる」
「じゃあ、そこから留学を?」
「ああ。十七のときかな」
「十七歳でもう大学院って。先生、飛び級したんだ! すごいわ」
「そんな大層なことじゃない。でも、ティナに褒められると自慢したくなるね。僕も若い頃はなかなか優秀だったんだよ。今じゃ、脳みそが退化していくだけだが」
気まずかったのは、ワイナリーからの帰り道だけだった。屋敷に戻って夕食をとる頃には、私たちはすっかり元の関係に戻っていた。むしろ、あのぶどう園の出来事のほうが、夢だったのかもしれない。
「先生は今も優秀よ。学会でたくさん論文も発表してるし。本当は病院で臨床や研究が希望なんじゃ? 王宮医なんて、つまらないでしょ」
前々から気になっていたことを口にした。王族の主治医になることは、名誉ではある。でも、診察する機会は限られているし、最先端技術を試すこともない。もちろん、王宮医療が遅れては困るので、定期的に研修には出ているけれど。
「僕は今の仕事に満足しているよ。おかげでこんな美味しい食事を、こんな可愛い奥さんと一緒に食べられる。役得だ」
お世辞でも、可愛いと言われて嬉しかった。それに、食事が美味しいのは事実だった。
屋敷の夕食に出されたのは、この国の郷土料理。バカリャウと呼ばれる干した塩漬け鱈を水で戻したもの。じゃがいもと一緒にホワイトソースをかけた料理は絶品だ。この鱈はコロッケに入れても美味しい。
豚肉とあさりの炒めものも、どんどん食べられてしまう。魚介類と野菜の煮込みは素朴だけれど、パプリカの味付けが優しい。
そして、デザートは超有名スイーツ。パステル・デ・ナタ。エッグタルトというのか、カスタードタルトというのか。シナモンをかけていただくのが、この国の食べ方らしい。
「よく食べたね。この国の料理は、本当に君の口に合うんだな」
「どれもすごく美味しいわ。私、ここなら永住できる! ねえ、先生。ここでずっと一緒に暮らしましょうよ! きっと楽しいわ」
「おやおや、ティナはお菓子で酔ったのかい? お父上が聞いたら卒倒するだろうね。それに、君が嫁ぐ国にも美味しいものはたくさんあるよ。ひよこ豆やクスクスは女性のファンが多いね」
思い切って言ってみたのに、軽くかわされてしまった。そうだよね。これは先生の任務で、この関係は偽装。ずっと一緒になんて言われても、冗談以外には取られなくて当然だ。
先生はポートワインを一本開けて飲んでいた。きれいな琥珀色。たぶん、一番最初に試飲したヴィンテージだ。
「先生、私もちょっと味見したい」
「そうだな。屋敷の中なら、酔ってもいいだろう。未成年だが、見咎める人もいないしね」
先生はそう言ってウィンクすると、グラスに少しだけポートワインを注いでくれた。私は受け取ったグラスをちびちびと舐める
分かっていたことだったけど、ちょっと期待してしまった自分が恥ずかしい。また、キスで飲ませてもらえたら……なんて、ずうずうしい願望だった。
夕食が終わって、私たちは寝室に戻る。部屋の真ん中にある天蓋付きの大きなベッドを見て、私は急に恥ずかしくなった。昨夜は先生と一緒にここに寝たんだ!
「慣れないことばかりで疲れたろう。メイドを呼ぶから、支度をして先に休みなさい」
「先生は? 寝ないの?」
「僕は少し仕事があるんだ。隣室でそれを片付けてから寝るよ」
向こうの部屋には、予備の簡易ベッドがある。先生はきっとそこで寝るつもりなんだ。今夜は別々。当たり前のことなのに、なんだかすごくがっかりしている自分がいる。
「分かりました。あまり無理しないでね」
「大丈夫だよ。僕のことは気にしないでいい」
先生は私の額にチュッと口づけると、呼び鈴を鳴らしてメイドを呼んでから、次の間に入ってしまった。食後に強いお酒を飲んだせいか、ベッドに入っても体は火照ったままだった。なかなか寝付けない。
隣りのドアから漏れる光で、先生がまだ起きているのはわかっていたけれど、夜中にそのドアをノックする勇気はなかった。冷たく追い払われたら、ショックが大きすぎる。
そうしているうちに、私は眠りに落ちた。
どのくらい眠ったのか。誰かがベッドに腰掛けて、私の額の髪をサラサラとかき分けて、頭を撫でてくれている。
この匂いは先生? 先生だわ。私の様子を見に来てくれたの?
私が身動きをすると、先生は私の頭から手を離して、立ち上がろうとした。え、どこに行くの? ここにいて! 私の手が無意識に先生の腕を掴む。
「起こしたかい? すまないね。あんまりよく眠っているので、少し心配になったんだ。お酒なんて飲ませてしまったし、悪酔いしていたら……」
「大丈夫です。でも、少しだけ寒いの」
本当は寒くなんてない。これは先生を引き留めるための小さな嘘だった。
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