6.3. 意地


 幼い兄が目の前に居る。

 丘の上の公園で、一緒に遊んでいる。


 次に、小学校に一緒に通っていた時期の光景。

 男友達と一緒に走った野原。

 マナと一緒に読んだ本。幼いユウキは少し寂しそうにしていた。


 ――これは夢だ。


 それが幻の景色であると、マオカは霞のかかったせかいの中で自覚した。

 まるで『迷宮』の中のように、思い出の中に迷い込んでしまったのだ、と。


 気が付いた時には兄がいた。マオカの思い出と呼べる景色の中には常に兄の姿があった。

 最初に泣かされたのはいつだろう。最初に話した言葉はなんだったろう。

 酷く曖昧で抽象的で、思い返すたびに詳細は変わってしまう。

 それでも、胸を張って妹である、と言えた。

 記憶なんて曖昧で、マオカ自身もいい加減なところがあるから仕方ない、と。兄も笑っていた。


 ただ、今はそれがいい加減で当たり前で。

 『迷宮』と言う誰かの記憶から作り出された存在の一部でしかない自分にとって。

 思い出も、継ぎ接ぎだらけの創作物ではないか、と不安に襲われた。


 幼い兄は笑っている。

 その笑顔の底が見えなくて、マオカは夢を自ら断ち切った。


◆◆◆


 その日、マオカの目覚めは最悪であった。


「朝、か」


 疲労の残る体を持ち上げてベッドから出る。時計を見ると学校がはじまる時刻はとっくに過ぎていたけれど、焦る気力もわいてこなかった。

 カーテンを開いて空を見上げる。モザイクの空には相変わらず朝も夜もなかった。


「行かないと」


 どこに、と言う自分への問いかけは無視した。


 階段を下りて居間に入る。

 食卓の上は綺麗に掃除されていて、昨日まであれだけ賑やかだった声はなくなっている。

 マオカは空腹であったが、ご飯を作る気力も残っていなかった。

 買い置きの雑な食事で済ませると、よれよれの服から着替えて外に出る。

 どこに行く気力もない。

 ただ、なんとなく思いついた方向に脚を向ける。


 気が付けば、丘の上の公園にいた。

 人の気配はない。ここに来る間にも、すれ違う人は居なかった。


「そりゃそうか、『迷宮』の中だもんね」


 頭上に広がるモザイクの空は心も蝕んでいた。

 

 この世界は『迷宮』だった。

 自分は『迷宮』の中で生まれた存在で、本当の人間ではなかった。

 突如突き付けられた事実に、マオカの脳は深く考えることを拒んだ。

 自分自身が何者であるか、それを一つ一つ明らかにしていけば、その存在が酷く不安定であることを認めてしまうから。


「……次はどこに行こう」


 立ち止まっていると余計なことを考えてしまう。

 だから、逃げ出した。


◆◆◆


 次にマオカが立ち寄ったのは学校だった。

 校舎につけられた時計を見ると、とっくに放課後の時間だった。

 部活に出てくる生徒も居ない。

 亡霊のような足取りで、校舎を徘徊する。

 昇降口を、廊下を、教室を――


 そして、体育館裏を――


 そこで、人影を見つけた。


「……先輩」

「やあ、久しぶりだね、マオカ君」


 少年が、誰かを待っていた。

 ポケットには少しだけ汚れた便箋が覗いている。 


「あの……先輩は」

「待ってるんだよ、この手紙の主を」


 この状況で、何を言っているのだろう、と誰もが思うだろう。

 現に、マオカも彼が正常であるか疑った。


「本気ですか?」

「そうだね……何が起こっているか僕には分からない。

 分からないなりに日常をおくろうとしたけれど、周りはこの様子だろ。一種の現実逃避だと思う」


 正常である、と言うのは誤りであった。


「でも、僕は待たないといけない。待つと言う目的がある限り、正常であることが出来る」


 正常であろうとしている、と言うのが正しかった。


「みんな姿が見えなくて心配だよ。それに、マナさんは大丈夫かな」

「……マナは……」


 ――帰ってこない。

 その言葉を飲み込んで、目を見開く。口を開く。


「絶対に、戻ってくる」


 かわりに口から出たのは、吃驚するくらい空虚な強がりだった。


「そうか、待ってるよ」


 だけど、その強がりが跳ね返って来た。

 空虚な強がりに、確かな期待の言葉が返って来た。


 消えかけていた炎に熱がこもる。

 残っていた気力をかき集めると、光が見えた気がした。


「はいっ!」


 踵を返して走りだす。

 何か出来ることが無いか。何か残っていないか。

 あるとしたら――仲間たちと一緒にいた場所だ、と。


◆◆◆


 鏡峰家に戻ると、捜索ははじまった。

 マオカが最初に手を付けたのは居間。何か書置きでも残っていないかとテーブルの下から棚の上まで隅々まで確認する。


「他に何か残してそうなところと言えば」


 家にいた皆の行動を思いだす。

 アイリンはキッチンで料理を作ったりする時以外はどこにいたか。

 ズィーアが息抜きをする時はどうしていたか。


「アニキの部屋だ」


 階段を登って廊下を走る。

 主の居ない部屋に勝手に入ると、机の上にはメモが残っていた。

 筆跡は兄のものだった。


『もし、諦めきれないなら。宝石の導きに従うんだ。

 『迷宮』の主に『心残り』があるのなら、同じように道を拓いてくれる』


「うわ、ヒントすくなっ! アタシじゃなきゃ分からないよ」


 酷く端的で抽象的な言葉。

 だが、マオカには心当たりがある。


 自分の部屋へと駆け込むと、クローゼットを開く。

 学校の制服のポケット。『迷宮』の探索の時に使っていた服。

 そこに残された、黄金の宝石――はない。


「うわ、どこに落としたの?」


 焦る彼女に視界に、黄金の光が入った。床に落ちた宝石が輝いている。

 ここにある、と主張するように輝いている。


「さて」


 両手で包み込むと、祈る様に目を閉じた。


「アンタもさ、悔しいでしょ。まだ全部終わってない。始まってすらいない」


 それは、友達に向けた言葉。

 友達の残った心に向けて告げる、少女の気持ち。


「アタシも同じなんだ。足は動く、手は動く、口だって動く。だから、最後まで足掻いていたい」


 それは、自分の中に残る後悔。

 まだ自分は終わっていないのに、物語が終わってしまうのは悔しい。


「アンタだって、まだここに在るのに、何も出来ない」


 それはまだ終わりではない。

 最後の最後まで走り抜けられていない。

 『迷宮』の中に残った、二つの心残り。


「アタシが代わりに連れていく。だから、一緒に足掻こう!」


 光が溢れ出した。

 白い光は世界を塗りつぶしていく。

 マオカの中に恐怖はなかった。

 ただ、決意だけが残っていた。


 光が収束した時、彼女の視界に飛び込んできたのは、星のまばらな夜空。

 そして――


「うわ、本当に109って看板なんだ」


 二股に分かれる広い道路の真ん中。テレビの中でしか見たことのない、都会の建物の前だった。

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