第4話 一夜明けて、グッドモーニング

 昨夜の喧騒も夢の奥底へと沈み、祐介が微睡みの中で静かに目覚めると眼前には見知らぬ女性が祐介と御互いが見合う形で横になっている。何処からか射し込んでいる朝陽が柔らかな金色の髪と陶器の様な白い肌を目映く照らしていて、祐介を堪らなく惹き付ける。

 

「これは……夢か?」

 

 夢でなければ妄想の類いかもしれぬ、どう考えても自身の様な者の横には凡そ似つかわしくない程の美女である。祐介は惹き付けられるままにその輪郭を優しく指で触れた。その指に少しひんやりとした感触が伝うと女性はくすぐったそうにやんわりと微笑んだ。

 

「何だよぉ……祐介ぇ……」

「ん……ん? あ、そうか、俺は昨日……」

 

 意識が急速に覚醒していく、帰り道に異世界へと迷い混んだこと、異世界のパチンコ屋に意気揚々と入店したこと、偽札騒動を引き起こした事、単眼巨漢な店員達、やたら安い居酒屋、メルの住むアパート……そして昨夜の騒動。

 

「そうか……ここはメルの部屋か……昨日メルが大騒ぎして、隣の人が怒鳴り込んで来て、そして……」

 

 ここで祐介はくるりと寝返りを打つようにして顔の向きを変えた。記憶が確かなら、そこには──

 

「………………何だよ」

「レレレ、レイゼちゃん……っ!?」

 

 竜人であるレイゼが真顔で祐介を見ていた。先程メルの顔を指で触れていたのを見られていたのか、その視線は冷ややかである。

 

「お前まで私をちゃん付けで呼ぶんじゃねぇ、レイゼでいいよ。そんで、あれか? 私の顔も触るのか?」

「い、言わないでくれ。俺も寝ぼけていたんだ」

 

 昨夜は結局玄関から雪崩れ込んできたレイゼを宥めて、喚くメルを抱き抱えたり、暴れそうなレイゼを抑えたりしていて、最終的にレイゼが「怒鳴り込みに来るのも面倒だからここで寝る」と言って隣で床についたのだ。そして狭い布団を三人で共有しながら今に至ると、祐介は全てを思い出していた。

 

「……触らないのか?」

 

 レイゼの視線は変わらず祐介の目を真っ直ぐ捉えていて、その真意が計りかねない。しかし、レイゼの何処か拗ねたようなその物言いに祐介がすっと指を差し出し、軽く頬を撫でた。

 

「ん……おはよ」

 

 満足気にレイゼが微笑む、昨夜の怒号がこの可憐な少女から放たれたとは誰も思うまい。祐介も「あぁ、おはよう」と返すと、後ろからモゾモゾと何かが動く。

 

「あぁーーっ!? レイゼちゃんが祐介といちゃいちゃチュッチュしてるぅ! このままアタシの部屋を汚す気だーーっ!」

「うるせぇ、ボケッ! 汚す間もなく汚いんだよ、アホッ! ちっとは掃除しろ!」

 

 これ見よがしに立ち上がり、指で差しながら糾弾するメルに対してレイゼもガバッと立ち上がって言い返す。可憐な少女はもう居ないのである。

 

「うぅ……レイゼちゃん酷い! 祐介ぇ、今の話を聞いたろ? アタシの部屋を掃除してくれぇ……!」

「……自分でしろ」

「掃除したらパチンコで勝てるっていうならやるけどね!」

 

 清々しい程のパチンコ脳のメルは置いといて、佑介は話を切り出した。

 

「とりあえずは……食事にしないか? 色々話をしたいし……あとメルは服を着ろ、いつまでも下着姿でうろうろしないでくれ」

「ん……ん! あれか、興奮し過ぎてあれなのか。人間は大変だものなぁ! うんうん、わかるわかる」

「はい、メルの戯れ言は無視します。レイゼもとりあえず食事でいいか?」

 

 メルは「酷いっ!」と言いながら服を探し始めた。部屋中の其処らに服が散らばっているのだろう、ごそごそと手を伸ばしている。そしてレイゼは「んー」と少し考える素振りを見せると「祐介がそう言うのなら、それでいいよ」と笑った。

レイゼのその屈託の無い笑顔に祐介は逆に頭を抱える事になる。昨夜はメルに怒りを覚えていたとはいえ、今朝のこの態度はどうなのだろう。それともこの従順とも言える態度が彼女の素なのかもしれない。祐介は色々考えながら恐る恐る口を開いた。

 

「俺が言うならって……どゆこと? もしかして俺って昨日何かした?」

「……え、もしかして昨日の事を覚えてないの? あんなに……いや、言うのも恥ずかしいから言ーわない!」

 

 ぷいっと顔を背けたレイゼを見ながら、祐介は必死に昨夜の事を思い出していた。しかしレイゼに「あんなに……」と言わせる様な事はしていない……筈である。

 

「ぼ、僕はレイゼさんに何か失礼な事をしましたでしょうか?」

 

 レイゼの思わせ振りな態度に思わず祐介は畏まる。

 

「えぇー、本当に覚えてないのか? 昨日は私の体をあんなに激しく抱き締めてたのに……」

 

 レイゼの言葉に祐介はホッと緊張感を和らげた。その言葉には心当たりがある、昨夜の最後は暴れようとするレイゼを抱き抱えて抑えていたのだ。あの時激しかったのは祐介自身では無くむしろレイゼの抵抗である。

 

「準備出来たぞー! 飯、飯、飯ぃー! レイゼちゃんも早く準備しなよー!」

「ん、あぁ……私も着替えてくる。それじゃ祐介、後でな」

 

 部屋から出ていくレイゼに軽く手を上げて応えると、メルが不満そうに口を尖らせる。

 

「なーんか祐介とレイゼちゃん、仲良くなってない? 一晩でこんなに打ち解けるって……レイゼちゃんに何かした?」

「してないしてない。あれだろ、昨日メルの代わりに必死で謝ったのが認められたんじゃないのか? 怒るレイゼを宥めるのに100回は謝ったぞ」

「えぇー? アタシは謝る事なんて何もしてないぞ」

「それはしてた! 完全に酔っぱらいの絡み方してたよ!」

「そんなに酔ってないって、記憶もちゃーんと残ってるし」

 

 祐介はメルのその物言いに「それなら尚更悪いわ!」と一刀両断して立ち上がった。外からレイゼの呼ぶ声が聞こえたからである。

 二人が外に出ると、レイゼが部屋の前で待っていた。

 

「あれ、レイゼちゃん?」

「……なんだよ?」

「なんか今日、いつもよりお洒落じゃない?」

「私はいつもちゃんとしてるんだよ! ずぼらなメルと一緒にすんな!」

 

 言われて見てみると、インナーに軽く羽織った程度のラフな格好であるメルに対してレイゼは暖色系のワンピースに合わせた色合いの小物を取り入れて全体のコーデをしていた。ワンピースの裾から僅かに見える尻尾の先にもリボンが付いている。そうか、尻尾のある人達にとってはそこも当然お洒落の対象になるのだな。祐介は感心して頷いた。

 

「なに頷いてんだよ、文句あんのか!?」

「いや、素直に可愛いなって思って。ごめん」

「…………ふんっ!」

 

 鼻息を荒くしてそっぽを向いたレイゼを前に祐介は失言だったかなと肩を落とした。すると隣に立っていたメルがくいっくいっと祐介の服を軽く引っ張り、次にレイゼの尻尾を指で差した。

 

「ほら見て、小刻みに揺れてるでしょ? あれはね、レイゼちゃんが本当は凄く嬉しがってる証拠なんだよ?」

「だぁぁーーーっっ! メルゥ! 余計な事言ってんじゃねぇ! あーもう、さっさと行くぞ、ボケッ!」

「ぐしし……もぅ! レイゼちゃんったら可愛い! さ、アタシ達も行こ!」

 

 言われるがままに二人の後を付いていく祐介。三人の頭上には異世界であるにも関わらずお天道様が凛然と輝いている、今日は何が起きるのであろうか。祐介は漠然とした期待が胸の奥底から沸き上がっているのを感じた。

 暫くして三人は近くの喫茶店へと入るとカランカランと耳馴染みのある鐘の音が店内に響いた。メルが店員に目配せすると、三人は店の奥へと案内された。

 祐介が先ず四人掛けのテーブル奥に座ると対面にメル、隣にはレイゼが座る。椅子は少し特徴的な形をしており、背凭れの下半分はごっそりくり貫かれている。レイゼの様な尻尾を持つ亜人にも配慮しているのだろう、思えばパチンコ屋の椅子も似た形をしていた。

 三人が椅子に腰掛けると、店の店主なのだろうか、老齢の紳士が三人に水と手拭きを配ると軽くお辞儀をして去って行った。

 

「祐介は何を飲むんだ? ほら、これに書いてあるから」

「ん、あぁ……そうだなぁ……」

「コーヒーは苦いから余りお勧めしないぞ。このいちごミルクは甘くて美味しい、ソーダって付いてる飲み物はしゅわしゅわして口の中が痛くなるんだ、知ってたか?」

「……そうなのか、それは危ないな」

「な、祐介もそう思うだろ? 私はこのいちごミルクにする! 祐介もいちごミルクにしたらどうだ? 甘くて絶対に美味しいぞ?」

「レイゼがそこまで勧めてくれるなら、それを頼むよ」

「よしよし、素直な奴は好きだぞ。それで、メルは決まったのか?」

 

 隣に座ったレイゼが甲斐甲斐しく祐介の世話をするのを見て、メルが怪しげに二人を見詰める。

 

「……私はいつもと同じしゅわしゅわーの痛い奴を頼むけど、レイゼちゃんさぁ、一体どうしたの?」

 

 どうやら本格的にこれはおかしいと、メルは続けた。

 

「いつものレイゼちゃんならさぁ、『人間が如き劣等種は水でも飲んでろ、カスッ! とっとと上座から失せて地べたで命乞いしろ!』とか言って一蹴するじゃん。そんな優しくするなんて何か怪しいよ……昨日、やっぱり祐介と何かあった?」

 

 祐介はその言葉を聞いて己の位置が上座に位置しているのに気付いた。あくまで順番に奥から席に着いたつもりだったが、これはマズイと椅子を引いて立ち上がろうとした。

 

「祐介、待て待て。祐介が上座でも私は別に気にしないから、ほら座って」

 

 レイゼが祐介の服を引っ張って座らせる。

 

「メル! 私がいつそんな言葉を使ったんだよ! 祐介が怖がるから変な言い掛かりは止めろよ!」

「えぇー、使ってたじゃん。この前なんてレイゼちゃんの尻尾を踏んだ獣人を『劣等種は道端で踞ってろ、このザコッ!』って足で文字通り一蹴してたじゃん。あの獣人、壁にぶち当たってピクピクしてたよ?」

 

 祐介は自身の膝がカクカクと震えるのを感じていた。昨夜、アパートの前でぶん投げられたのを顧みると竜人という種族が相当な強さなのは間違いないだろう。正座だ、直ちにこの上座から退いて端で正座をするべきかも知れぬ。祐介はまた立ち上がろうとした。

 

「いいから、祐介にそんな事はしないから座ってろ。メルも余計な事は言うなって!」

「それなら何でそこまで祐介に優しいの? どうせならアタシにも優しくしてよ!」

「……いや、私はメルに大分優しくしてるつもりだけどな。んー、昨日さ、祐介が私を激しく抱いたわけよ」

 

 その言葉でメルが祐介を激しく睨む。まるで「やっぱり何かやってるじゃん」とでも言いたげな視線に祐介は慌てて首と手を振った。祐介には激しく抱いたつもりは無い、正確には激しく暴れまわるレイゼを必死に抱き抑えていたのだ。

 

「それでなー、うー、何て言うかさぁ……」

 

 レイゼは祐介をちらちらと窺いながら言いにくそうに言葉を濁す。メルは口を尖らせて不満そうにしながらも、祐介にメニューの一つを指差しながら言った。

 

「祐介、アタシこのしゅわしゅわの奴ね。入り口にマスターが立ってるから行って注文してきて。ほら行った行った!」

 

 要するに二人で話をするから席を外せという事である。祐介も日本ではそれなりの経験を積んできているのだ、文句等出る筈も無い。すっと席を立って入り口へ向かおうとする。

 

「レイゼはいちごミルクだったな? 行ってくるよ」

「うん、悪いけど頼むな。話は直ぐ終わると思うから」

 

 席の関係上、祐介が入り口へ向かうにはレイゼの後ろを回らなければならないのだが、レイゼの座っている椅子から可愛いリボンの付いた尻尾が垂れている。これをもし踏んでしまえば文字通り一蹴されてしまうだろう、祐介は大きく迂回しながら入り口へと向かった。

 

「……メルが余計な事を言うから祐介がいらん気を使っただろうが!」

「でもあれは事実だしぃ、それでそれで──」

 

 祐介は入り口近くのカウンターの中にひっそりと佇み、グラスを丁寧に拭いているマスターに声をかける。こういう所は此方の世界も変わらないものなのだろう。

 

「マスター、注文いいですか? いちごミルク二つとメルティソーダをお願いします」

「……畏まりました、ふふ……しかし追い出されてしまいましたな」

「えぇ、まぁ女性同士の話もあるんでしょう。少しここで待たせて貰ってもいいですか?」

 

 渋味のある声でマスターが「勿論ですとも」とにこやかに言った。滑らかに進む一連の会話にまるで自身が馴染みの客になった様な安心感を覚える。

 

「お客様はいちごミルクでしたな、良ければここでお出し致しますがいかがなさいますか?」

「いえ、あの二人を待ちますよ、怒られそうですし。それより、何か食べ物は注文出来ますか?」

「えぇ、メニューはこちらになります。ですが、朝はお飲み物を注文してくださったお客様に無料で軽食をお付けさせて頂いておりますよ」

 

 成る程、だから二人は飲み物しか選ばなかったのだなと祐介は得心した。日本でいう所のモーニングサービスである。

 

「……楽しみにさせて貰いますね」

「ははは、ご期待に添えるように努力させて頂きますよ」

 

 マスターの言葉は固い物言いが多かったが雰囲気そのものはとても柔らかく、二人には穏やかな時間が流れる。暫くその空気に浸っていると、やがてメルが祐介の隣にやって来て「ごめん祐介、待たせたね」と肩を叩いた。祐介は振り向き、メルの顔を見てピタリと動きを止めた。

 

「ん、祐介、どしたの?」

「いや……メルが余りにも邪悪な顔をしてたから、何かなって……」

「んまっ! 祐介ったらこんな美人を捕まえて邪悪って何だよ!」

 

 バシンと肩を強目に叩かれて衝撃で身体がよろけるが、祐介はそれでもお構い無しにメルを疑うような目付きで睨み付ける。

 

「なぁメル、何か良からぬ事を企んでないか?」

「いやいや、パチンコを打つ事が悪い事なのかよ! 飯食ってパチンコ打って飲んで寝る! これの何が悪いんだ!?」

「悪……くはないけどそれは少しも良くはないだろ!? はぁ、レイゼも待ってるしとりあえず戻るか……」

 

 祐介が立ち上がり、マスターに軽く頭を下げると「お飲み物は直ぐにお持ち致しますので」とにこやかに応えてくれた。

 

「祐介、席を立たせた様で悪かったな」

「気にする事は無いよ、俺もマスターと話せて楽しかったよ」

 

 二人が席に戻ると、直ぐにマスターが飲み物を持ってやって来た。祐介とレイゼの前にはいちごミルクが、メルの前にはメルティソーダが置かれる。

 

「ぐししし……これだよこれこれ! ビールを飲むにゃまだ早いけどソーダに時間は関係ないもんね!」

「毎回毎回、そんなしゅわしゅわした奴をよく飲めるな、喉が痛くならないのか?」

「痛いぐらいが気持ち良いんだもーん! くぅぅ……喉奥にガツンとくるわぁ……っ!」

「しゅわしゅわがそんなにいいもんかな、私にはこのいちごミルクの方がよっぽど良いけど。祐介はどうだ、しゅわしゅわは飲めるのか?」

「ん? そうだな、一応は飲めるけど今はこのいちごミルクの気分かな」

「そうだろそうだろ、私はいつもいちごミルクの気分だ!」

 

 三人が談笑しているとマスターが「失礼します」と料理を乗せたトレーを持ってきた。モーニングサービスなのだろう。

 

「……こちら和風ハンバーグステーキセットでございます」

 

 鉄板プレートの上に乗せられたハンバーグがジューッと音をたてながら勢いよく肉汁を迸らせる。メルとレイゼは「お、来た来た」等と言いながら手際よく紙ナプキンで準備をするが、祐介だけは「……え?」と事態を上手く飲み込めないまま呆然としている。

 

(和風ハンバーグステーキセット? 誰も頼んでないけど三つも持ってきたよ? ど、どういう事!?)

「お客様、油が跳ねますので紙ナプキンの着用をお願いします」

 

 混乱したままの祐介はそれがまさか自身の事だとは思えない、朝に喫茶店でいちごミルクを頼んだら和風ハンバーグステーキセットが付いてきたなんて話は日本でも聞いたことが無い。

 

「どうした祐介、仕方の無い奴だな。もうほら、こっちを向いて!」

 

レイゼがくいっと祐介を自分の方へ向けると、手際良く紙ナプキンを祐介の胸元に当てた。それを待ってから置かれた和風ハンバーグステーキから立ち上る独特な油を纏った様なねっとりとした熱気が食欲をそそるが、祐介は「こんなの絶対おかしいよ……」と小さく呟く。

 

「あ、バカ祐介! それは言っちゃ──」

「──お客様、今なんとおっしゃいました?」

「あの……飲み物にサービスで付く軽食にしてはこれはちょっとおかしいかもって、いえあの駄目とかでは全然無いんです! そういう意味ではなくてですね」

 

 祐介は慌てて否定した。料理が駄目な訳ではない、飲み物の値段だけでこれはむしろお得なセットといえるだろう。祐介のおかしいという言葉はあくまで褒め言葉の延長線上の意味であった。その言葉にマスターはわざとらしく顎に手を当てて唸るように言った。

 

「うちのモーニングサービスがおかしい……? それって……量が少なすぎるって意味、だよな?」

「そうは言ってないです」

「ふふふ……ちょっと待ってな、腹ぁ一杯食わせてやる!」

「言ってないって言ってるでしょ! マスターの方こそちょっと待ってくださいよ!」

 

 祐介何処かうきうきした様子で引き返すマスターを呼び止めるが、マスターは厨房へ向かう途中で一瞬立ち止まり、振り向き様に親指を立ててニカッと笑い厨房へと入っていった。

 

「えぇ……俺、何かまずい事を言ったのかな?」

「……祐介は悪くないよ。ここのマスターはさぁ、祐介みたいなサービスに吃驚した人に滅茶苦茶サービスするのが楽しみなんだってさ」

「ま、飲み物代以外は取られないし、マスターも客が食べられるギリギリを狙って料理を作ってくるから大丈夫。でも気合いを入れて食べないと……出ちゃうよ?」

「出ちゃうのかぁ……っ! 出ちゃうのは流石に困るぞ!」

「私も少しなら手伝えるし、本当に食べられないのなら残しても大丈夫だから。祐介、頑張れー!」

 

 メルとレイゼは祐介の状況をむしろ楽しんでいる様子であるが、祐介は大きく深呼吸をして気を落ち着けていた。朝から妙な事になったが、肝心なのは安く食事が出来るということ。ただこれだけだ。

 

「よし、先ずはこの和風ハンバーグステーキからだな。俺の腹とあんたの料理……勝負だぜ、マスター!」

 

 ──決着が付いたのはそれから一時間程経ってからである。

 

「ありがとう御座いました……」

 

 カランカランと入店した時と同じ鐘が鳴り響く。店内から頭を下げて三人を見送っているマスターの顔はにっこりと満足気であった。店の奥にある皿の量を見ればその理由もわかるであろう。

 

「……うっ、ぷ……や、やばかった」

「祐介、ほら背中を摩ってやるから……」

 

 塀の壁に片手を付き、残った手を胸の辺りに持ってきてぷるぷると震える祐介の背中をレイゼがゆっくりと摩る。祐介の胃の中にはいちごミルクから始まり、和風ハンバーグステーキセット、謎の唐揚げ、スモークチャーハン、酸辣湯麺が納められている。最後におまけとして出された大きいプリンパフェだけは二人に食べて貰ったのはメルとレイゼが食べたそうにしていたからである。

 全てを食べ終えた時にマスターが嬉しそうに拍手をしながら「本日のお代は頂きません、勿論お連れ様方もです」と言うから祐介達は一銭も支払わずに出てきたのだが、喫茶店から数歩でこの有り様である。祐介は込み上げる異物感を必死に抑えている。

 

「ひだ、左に戻してくだ……さい……ぐっぷ」

「ぶひゃひゃひゃ! 祐介、お前一体何を言ってるんだ、ふひひ……! 左で戻す気かよぉ! 駄目だこれ、笑っちゃう……っ!」

 

 祐介は馬鹿笑いをしているメルに「昨日お前が言っていたんだぞ」と言いたかったが、今は口から出そうなっているのを抑えるので精一杯である。

 

「祐介、大丈夫か? ほら、本当に辛かったら戻してもいいから」

 

 隣で爆笑しているメルに対して、レイゼは献身的に祐介の背中を摩ってやったり、水を買ってきてやったりと甲斐甲斐しく世話を続けている。

 

「レイゼ、ありがとう。大分良くなってきたよ。しかしあそこのマスターは商売する気があるのかな? モーニング代だけでも赤字だろうに、今日に至っては全員がタダだぞ?」

「道楽でやっているって言っていたからね、楽しければいいんじゃないかな?」

「気楽そうで羨ましいことだな。でもまぁ安いし料理は美味いしでこっちとしてはありがたいか。さて、お腹は膨れたけどこれからどうする?」

「あん? そんなの決まってるだろうが!」

 

 メルは右手を軽く握ってクイックイッと捻っている、パチンコのハンドルを握る素振りである。

 

「今日こそはあの店を潰してやるんだ! アタシの右手であの店の玉を全部出してやる! 祐介、準備はいいかぁ!?」

 

 握り拳を掲げたメルが勢いもそのままに駆け出そうとしたが、祐介はそれを止めてレイゼの方を見た。

 

「俺達はパチンコを打ちに行くけれど、レイゼはどうする? 俺達と一緒に打つか?」

 

 レイゼは首を振る。

 

「いや、私は一旦里に帰るからさ。ここで別れるよ」

「それなら仕方ないか レイゼには色々世話になったな。助かったよ、ありがとう。俺が苦しんでいる横で爆笑してた奴とは大違いだ」

「それって誰の事だよぉ? おん?」

「そうやって睨みながら聞く辺り、メルも誰の事か分かってるだろ?」

「はっ、まさかっ!? うおぉぉーーーーっ! マスターの野郎、ゆ、許せねぇーっ!」

「お前じゃい!」

 

 祐介は言葉と一緒にメルの額に向けてデコピンを放つが「あらよっと!」とメルは華麗に身を翻して避けた。ご丁寧にペロッと舌まで出している。

 

「すばしっこい奴め……」

「ふふふ……あまりメルに調子を合わせると大変だぞ? さてと、私はもう行くから……おーい、メル! さっきの話、忘れるなよ!」

「あいよぉ、このメルちゃんにまっかせといてぇ! おらぁ、祐介ぇ行くぞぉ!」

 

 メルが祐介の手を引き強引に引っ張って行く。

 

「お、おいメル、引っ張るなよ! それじゃレイゼ、気を付けてなー!」

 

 祐介はメルに引っ張られながらもレイゼに手を振って別れを告げる。レイゼは微笑みながら手を振り返してくれたが、少し寂しげな雰囲気を纏っており祐介の足を自然に止めようとする。

 

「レイゼ──」

 

 その声はきっと届いてはいなかったのだろう。身を翻して歩き出したレイゼとの視線はもう交わる事は無く、そして彼女が此方を振り返る事は無かった。声を掛ければ振り返ってくれるのだろうか、しかし遂にその思いが喉を通る事は無かった。

 

「おらぁ! 祐介、行こうぜ!」

「わかったわかったからそんなに引っ張るなって、まだ腹がパンパンなんだよ! 出ちゃうだろうが!」

「そんな一銭にもならんもん出すなぁ! 玉だ玉玉、玉を出しまくれぇ! 今日は勝つぜぇぇーーーっ!」

 

 メルが引っ張っていくその先には昨日のお店がある。メルにとっては今日こそは店を潰すと意気込みであるが、祐介にとっては次こそは何か打ちたいという気持ちであった。二人の考えには誤差があるが、勝ちたいという根底の思いは誰もが一緒なのである。

 始めは引き摺られていた祐介も次第に自分の足で歩くようになっていた、店までにはまだ少しの距離がある。その道程が幸福の階段となるか、断頭台への階段となるかは玉を打つまでわからない。

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