晩春にて
1
晩春。
咲き誇る桜も既に遠く。青葉繁るその様は、既に夏の景色そのもの。幾分か冷たさの名残を含んだそよ風だけが、過ぎ去る春の気配を淡く残していた。
差す日差しは暖かく。吹く風の涼しさと相まって、なんとも穏やかな気候に、思わず一つ、欠伸をする。
机の隅に山ほど積まれた書冊をちらと見やって、僅かに眉を顰める。…これを明後日までに読み解かねばならぬという事実に辟易とする。読むのは一向に構わないから、せめてもう何日か猶予が欲しかった。
…いっそ今日はこのまま寝てしまおうか。邪な誘惑に抗うか、身を任せるか。考えあぐねている最中
「先生!お待たせいたしました!」
そんな和やかさとは全くもって不釣り合いな、
視線を上げる。そこには、最近ではもうすっかり見慣れてしまった顔があった。
「待ってはいないし、そもそも約束もしていないぞ。全く、勝手に出入りしやがって」
呆れた様に皮肉を口に。とはいえ、そんな言葉が響くわけでもない事はわかりきっている。ずかずかと入り込んできた、天真爛漫の化身の様な自称生徒に向けて座布団を一枚投げ渡す。
「そんな邪険にしないでくださいよ。可愛い生徒が足繁く通ってきてるんだから、ほら。そこは優しく迎え入れないと!」
満面の笑みに悪びれた様子は微塵もない。図々しい事この上無い。座布団やっただろ。
「では可愛い生徒。自分は今日明日中にここにある書冊の評論を纏めねばならんのだ。お前に物を教えてやれる時間は、ない。日を改めてくれ」
「これ全部ですか?」
「そうだ」
「はぁぁぁ、それはまっこと、大変そうですね」
「そうだろう」
「じゃあ、出来るだけ静かにしてますね!!!」
早速煩い。何がじゃあか。
生憎と本当に時間は無い。しかし、この子が大人しく帰る事は無いだろう。…微睡んで、この子が訪れるであろう時間までに仕事を進めておかなかった自分が悪い。観念のため息を一つ。そんなこちらの様子に、相変わらず満面の笑みを向けてくる。その笑顔たるや、最早ほとんど陽の光そのものだった。
「にしても随分多いですね、本。誰の作品ですか、これ」
ぱっ、と。弾ける様に切り替えて問うてくる姿に、全く敵わんと、最早頭を抱える気にもならなかった。
「
「———」
…沈黙が長い。何かと見やればそこにあった笑顔の質が変わっていた。満面の笑みは一転、奇妙なにやけ顔に変わっていた。
「どういう感情なんだそれ」
「誇らしいのです」
鼻息荒く断言された。
「都の最先端を直走る作家が、わざわざ評論を依頼に来るとは!やはり私の先生は一味も二味も違うなぁ、と」
過大評価が過ぎる。今度こそ本当に溜息を深くつく。
「以前にも言ったと思うが、自分の評論なんてのは全くもって素人同然なんだ。有難い事に仕事として成立する程度には評価を受けているが、特別飛び抜けているわけではないんだよ」
不服そうなむくれ顔に、尚言葉を続ける。
「そもそも、創作された物語を批評するという事自体が本来はばかげた話な訳だ。本当はもっと学のある人間がやるべきだというのに」
言葉に。むくれ顔がまたしても一転。疑問を孕んだ表情を作る。
「批評がばかげている、とは?」
しまった、と。率直に思った。
普段の姿から見落としがちだが、この子は極めて賢い。聡く、真摯でもある。時折今の様に、こちらの本質に近しい…漏れ出た言葉を見逃さない。こうなると、こちらとしても真摯に答えざるを得ない。
本来自分は人に物を教えるほど大それた人間では無い。そんな人間の言葉ですら、聡いこの子の大きな影響元になってしまう可能性があるという事に、大きな緊張が伴うのだ。
「……あくまで自分の持論だがな」
溜息をもう一つ。
それでも答えぬわけにもいかぬと、慎重に言葉を選ぶ。
「批評がばかげている、というのは確かに思っている。ただそれは作品そのものではなく、紡がれた物語に対してだ」
「話の内容って事ですか?」
「そうだ。書が作品である以上、技術の差というのはどうしたって存在する。言葉選び、文章、構成…まぁ、様々だな。それらを以て作品毎に優劣をつけるというのは仕方が無い。人目に触れる場所に自身の言葉を置く以上は避けられぬ事だからな。だが、そこに描き出される物語に優劣はない。壮大であれ、陳腐であれ。現実的でも絵空事でも。それらは一様に、書き手の心の一編だ。それらに貴賤はないし、優劣をつけるなどとは全く、馬鹿げている…と、自分は思っているという話だ」
思わず喋りすぎた。途中慌てて言葉を切る。しかし、帰る言葉はなく、また少し沈黙が場を覆う。…まずいことでも言ったろうかと、ややバツの悪い気分に苛まれていたところ
「なるほど!わかりました!!」
えらいでかい声と共に、再びの笑顔が咲いた。今の文脈でわかったとは、果たして。そんなこちらの困惑をないがしろに、高らかに言葉は続く。
「人の心に優劣がない様に、描き出された世界もまた同じく、という事ですね。確かに、心の在り方それそのものを批評するというのは倫理的にも大分良くないですしね!」
…伝えたかった事から、思った以上に距離が無いその答えに、ちょっと笑ってしまう。
そして。彼女は
「心、心…風景…うん、確かに。物語の中にはそれを書いた人の世界が描かれているのですね!」
なんとも、懐かしい言葉を口にした。
「映し出された心の一編を陳腐と見るか、それとも壮大と思うか。それらは結局受け取る側の解釈次第って事ですもんね。立っている場所、見る角度で捉えられ方が変わる…確かに、まるでこの世界みたいです!物語は世界、という事ですね!」
あぁ、全く。本当に、えらく懐かしい言葉達だ。
「——そうだな。物語は世界。確かに、その通りだ」
言葉を口にし、噛み締め、反芻する。なるほど確かに、それは昔聞いた言葉だった。
「…?どうされました、先生。何かおかしな事言いましたか?自分」
気付けば浮かんでいた笑みに、首を傾げる。その姿に、首を振る。
「すまない、おかしくなんてない。…昔、自分の知り合いが同じ様な事を言っていてな。それをふと、思い出したんだ」
自称生徒の目が見開かれる。
「先生のご友人ですか!それは是非ご挨拶せねば…」
この自称生徒は、自分の何目線なのであろうか。
「残念だが、今は遠方に在ってな。会う予定も暫くはないな」
「あれ、それは寂しいですね」
言いながら。しかし尚、この話題についての興味が尽きないらしい。物好きめ。
「ね、先生。どんな方なんですか、その方」
「どんなって…」
問われて、考える。
遠い記憶の中に残る鮮明な姿。今もありありと映るその姿をしかし、一言二言で言い表すのは些か困難だ。その出自から末期…そこから続く及びもしない生涯においても。
「先生?」
呼び掛けられて、顔をあげる。自分で思っていた以上に熟考していたらしい。こちらを見るその顔には、若干の申し訳なさが滲んでいた。そんな表情に、こちらこそは申し訳なさを感じる。
「そんな顔をしないでくれ。別に、尋ねられた事が嫌だった訳じゃない。ただ、そいつは中々に波乱に満ちた人生を生きててな…そのせいもあって、どうにもどんな人間かと問われると回答が難しかっただけだ」
言って、我ながらぎこちなく笑みを作る。そんな笑顔でも本心は通じたらしく。言葉を受けて、再び笑みの花が開く。その顔を見て、ふと
「けど、そうだな」
この子の様なものにこそ、彼女の生きた世界の話をしてあげるべきなのだろうと。霞かからぬ記憶の姿に想いを巡らせながら、そう思った。
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