3
深い暗闇。四方を生い茂る、背の高い木々に囲まれた獣道の中途。晴天の夜空にはちらほらと淡く星が瞬いている。その煌めきはほんの細やかなものではあったけれど、遮る光の無い今、その輝きは驚く程に鮮明だった。
遥か遠く。手の届かない場所で確かに存在した光。その輝きを、莫大な光の本流が塗り潰した。
枠取られた視界を覆うその光は、極めて緩い速度で上空を遊泳していた。光は直線的な現象ではなく、生き物然とした不規則さと、実存としての確かな質感を伴って夜空を縦断していた。
それが、この世の物でない事は明らかだった。その確信の根拠を挙げればきりが無いが、有無を言わせぬ理由を一つ選ぶならば、その体躯の巨大さ。突如視界を奪ったその姿は、枠取られた夜空を丸々埋めて尚全容が見えない。
また当然、その全身から溢れ出す光もまた同様に、到底この世のものとは思えぬ物だった。
光の色味は河原で見る蛍に近しいものだが、その光量はその比ではない。そして不思議なのが、それだけの光はしかし、周囲を照らす事をまるでしなかった。暗闇は暗闇のまま、忽然と遊泳するその巨躯だけがぽっかりと輝いているその様は、正に異質。夜が夜のまま、太陽を内に抱え込んでいる様な奇妙な風景だった。
「スイショウイサナ」
声が、聞こえる。先生の声だ。
「山二つにまたがる程の巨躯を有し、大陸から大陸へと遊泳を続ける。夜になるとその身体は強い翠の光を放つ」
聞こえて、しかし。目の前の光景から視線を外す事ができない。
異質も、異端も関係ない。今目の前に広がるのが現か幻かなど瑣末な事。そんな確信で満ちる程に、上空を往くその姿は美しく、壮大だった。
その姿はしかし
「かつて。北の大地に住まう数え切れぬほどの人間を殺め、村々を七つ滅ぼした存在だ」
人が触れてはならぬ禁忌そのものだった。
「久世の蔵書にも記されている存在だ。新羅君も読んだだろう」
頷くことすらままならぬまま、内心で頷く。
今より二百年ほど前、忽然とその姿を現したスイショウイサナは、正しく荘厳なる神の化身として奉られた。
異次元の巨躯。幻想的な光。それらはあまりにもわかりやすい、この世ならざる物だった。
けれど。あれを祀り上げた殆どの人間は滅ぼされた。崇拝の対象ですらあった、巨大な異形によって。
スイショウイサナの光は、命を根絶やしにする猛毒だった。
寒気。降る雪は翠の光に触れると、それと同質の特性を持って大地へ届いた。その雪に触れたが最後…瞬く間に大地は枯れ、命は絶えた。
そこに、あれ自身の意思が介在していたかを確かめる術はない。あるのは、結果滅んだというだけの事実。善も悪もない…あれはただ、悠然と生きていただけなのだ。
蔵書の内でも異彩を放つ、絵空事めいた存在。理屈もわからぬまま目撃したそれは、けれど、ただただ美しいばかりだった。
「少し前、都の外れで観測の報せがあってね。この村の頭上を通過する事が予測できていたから…実際のところ、新羅君に呼ばれずとも私は遠からずここに来ていたんだ。今回は一際頃合いがよかったのだがね」
ようやっと見やれば、先生もまた空へと視線を送っていた。その顔に、禁忌を恐れた怯えの色は無く…あったのはただ、壮大さに感動し、心揺れる気配ばかりだった。
「あれらは本来、人の目に映るものではない。様々な要因が重なって、時折姿を見せるばかりの、実存する蜃気楼の様なもの」
目を細め、尚光を。この世ならざる光が、その眼に煌めく事はない。それでも、その表情を緩ませ…そして、自戒を示すが如く締め、目を閉じる。
「生きる事それ自体に貴賎はない。世界の内で生きている限り、種各々の命もまた然り。けれど、それはあくまでも神仏の視点だ。私達は他の命を蔑ろにしなければ、ただ生きることすらままならない獣でしかない。あの光にとって私達が、路傍の石ですらないのと同じ様に。あれそのものが、人に対して明確な悪意を持っているわけでも無いだろう。ただ同じ世界に在るだけで、交わることの無い隣人。争いも、その果ての滅びもただの結果でしかない」
恐ろしさは受け取る側の感情。圧倒的な存在に対しての恐怖も、壮大さに打ち震える感動も、等しく同じ場所にある。それは確かに、物語の世界そのものだった。
「紡がれる、語られるは全て結果でしかない。手にした命をただ生きている、その存在を初めから無かったことにする事こそは傲慢の極みだ。なればこそ、私は救世の選び取った結果のこの世界が間違っているとは考えたくないんだ」
人を愛し、人に為った、人ならざる者。
救世が何を想い、考え、選び取ったのか。本当の意味で理解が出来る日は、きっとこないだろう。けれど、先生の言葉は心の深いところへするりと落ちていった。
「合歓も、そう思っていたと思います」
彼女が見てきた世界の、ほんの一欠片。自分はそこに立ち入った訳ではない。通り掛かりふと見かけただけの、まるで無縁の人間。それでも。広がる壮大な光景が、何の根拠も理由付けもないまま永久に失われる。それは、それだけは、間違いだという確信があった。
仲がいいかと訊かれると、正直答えに困る。家が近所だったので、姿を見掛ければ声は掛けたし、そこそこに言葉も交わしたが、では友人なのかと自問すると…微妙なところだ。
けれど。
自らの人生に嘘が混じらぬ様に、偽る物のない様に。書冊を尊ぶ様に。自らの人生を尊ぶその姿には、一片の曇りもなかった。
そんな彼女ならば。生まれ落ちるよりも先に殺められる命…それらが紡ぐはずだった物語の喪失を是とはしなかった。だからこそ彼女は、その命を賭して蔵書を読み解き続けたのだろうから。
共感は、共有の後にある。共有は体験と共にある。
物語とは世界。共有し得ない体験を知識として遺し、見知らぬ世界の住人を理解するための足掛り。
生前の彼女は、蔵書が創作ではなく、ただの現実である事を知っていた。それでも彼女はそれらを『物語』と呼んだ。
刻まれた言葉には、それを記した人等の心が宿る。それが現実でも、空想でも。
一冊の書冊に。或いは一編の詩に。もしくは一行の文節に。ともすれば、たった一つの単語ですら。受け取った人のその数だけ、異なる意味を持ち得る。
殺める為で無く、活かすために。超然の者共をただ恐れ、滅びを齎す悪鬼と定めるのでは無く。同じ世界に存在する並列な生き物として、折り合いを付ける為の術を築き上げる為に。彼女はその異能を以って、短い生涯を完遂したのだ。
「あぁ…それはとても嬉しい言葉だな」
先生の顔が、今度こそただただ柔らかく綻ぶ。人間溢れる優しい微笑みがそのまま、彼の合歓に対しての罪悪感の裏返しの様に思えた。
彼は知っていた。合歓の異質も、この世界の真実も。そして、選択した。世界を拾う為に、合歓に命を賭けさせた一派の一人でいることを。それならば確かに、その心に薄寒い後ろ暗さを抱え込むのも仕方の無い話だろう。
だけど、知っている。本当にただそれだけならば、あの日自分に合歓の説得など頼むはずがなかった。彼もまた、善悪を超えた共生の困難に心を痛めていたのだろう。
「あ」
ふと、声が漏れた。上空の光が突如薄暗くなっていく。その変化ははじまってしまえばあっという間。見る間に輝きはなりを潜め、辺りは来た時と同じ、変わり映えのない夜の闇の中。先程までの荘厳な光景が全て幻だっかの様な、日常。
「重なった時間が終わったんだ。さっきも言った通り、元来あれは人の目に映る代物では無いからね」
再び訪れた沈黙を払う先生の言葉を受け…けれど視線は未だ頭上へ。もう見えなくなった光を無意識に探していた。
「あれが合歓や先生に見えている世界なんですね」
先生が頷く。
「お嬢さんや私の様に、元よりああした者共を視る事に長けた人間というものは、意外といるものなんだよ。今回は、本当に色々な要素が重なって新羅君に今の景色を共有する事ができたが…正味もう一度、というのは難しいね」
言葉に、思わず笑みがこぼれる。この反応が意外だったらしい。
「知的興味を惹く光景だと思ったのだけど、そうでもなかったかな?」
「まさか」
そんな訳がない。あれは未知の権化の様な存在だった。知る喜びと無縁の人間ですら、一度見ればもう一度を望んで然るべき光景だった。ただ、だからこそ。
「一度だけでも十分です。この光景は、死ぬまで忘れる事はないんですから」
本心から、そう思う。何があろうと、この先の人生で今し方目に焼きついた景色を思い返さない日など、もう二度と来ない。
それに何より。本来共有できる筈のなかった景色を共有するする事ができた。知らぬ世界の一片を垣間見る事ができた。壮大な景色よりも何よりも、今はただ、それが嬉しかった。
「そうか」
短く答え、先生はそれ以上を語る事はしなかった。その代わり、自身もまた、上空へと視線を送った。
今はもう見えない、異質な光。けれど先生の目には未だ映し出されているであろう光。今ここに立つ二人の世界は分断している。けれど、見つめている先は互いに一緒だった。
…ここに合歓がいたら。やはり同じ様に空を見つめていただろう。時間すら忘れて、それこそ食い入る様に。目を閉じ、その姿を想像する。想像して…笑ってしまう。
どれだけ悲壮な背景を知っても。強靭な覚悟の有無を語られても。あれを見つめる合歓の顔は、満面の笑み以外全く思いつきもしなかった。
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