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山道を抜けた先。都から幾分離れたその村は、記憶の中に残る景観を丸っ切りそのまま残した、変わらぬ懐かしい姿を未だ保っていた。
まばらな住人の幾人かと鉢合わせる度会釈をするが、それを返してくれる者は皆無だった。これは仕方がない。当時殆どの時間を久世の本邸で過ごしていた上、そもそもが余所者。私を記憶に留めている人自体が先ず多くは無いだろうし、覚えていたとしても、決して好印象として脳裏に刻まれているわけではあり得ないのだから。
寂寥感は特に感じず。寧ろ彼女と過ごした、僅かながらも長い年月ばかりが景観には満ちており、心に仄か回顧の念を催させる。
歩みを進める事暫し。本当に懐かしい、久世の本邸、その正面で足を止める。
結局。お嬢さんが亡くなった後、彼女の親族はこの村を離れた。風の噂では、南方に在る本家の邸宅に移住したらしい。その理由を知る者はいないし、当時の親族の複雑な心中を思うと、それを一概にお嬢さんが亡くなったことと結びつけるのは些か乱暴であるかもしれない。ふと、当時…お嬢さんが亡くなった当時の状況を回想しながら、私は僅かに眉を顰めてしまう。
あれは、一種の狂乱だった。
異質な物として外部との交流を能動的に促すことはせず、かと言って完全に隔離する程の蛮行に及びもしなかった。そもそも彼等親族のお嬢さんに対しての取り扱いは、最初から最期まで矛盾だらけだった。そしてそれはそのまま、彼等がお嬢さんに向けていた感情の混乱そのものであった。
共有不可能な世界を生きる異質な娘を異端と蔑み、その生き方それ自体を糾弾しながら…しかしたった一人の愛娘として確かに愛情を手元に残していた、その矛盾。
彼等を肯定する事は出来ない。共感できぬあらゆるを排斥する事を是とするならば、それは最早人間ではない。地の獄の悪鬼にすら劣り、理性の一片も無い、あまりに檮昧とうまいな獣。それが我が子ならば尚の事。
では。無条件に彼等を責められるかと言えば…心象的に、それは極めて難しい様に思う。
肯定出来ぬ、とは。理性を得た人間としての物差。しかし事生き物という、もっと根源的な括りで話をするならば。群の規律を掻き乱す異端を排除しようとするのは、或いは当然の行動である様に思う。
自分と同じ形をして、寝食を共にし、同じ土地で生活を送りながら…しかし見えている世界がまるで違う、理解の及ばない存在。それは確かに、恐怖の対象だろう。
実際の所。では彼女に何か問題があったのかと言えば、そんな事は全くなかった。実害がある訳でもなく、自身の見ている世界への共感を周囲に強要することもしなかった。そんな無害さに向けられたのはしかし、悪意。理解出来ぬと言う一点に集約された、根拠のない恐怖。
醜い。あまりに醜悪な人の心。そう断じながらしかし、その愚かしさに共感出来てしまう自分の汚らしさに辟易する。そしてその汚らしさすら、人と交わりながら生きる上である程度必要な物と割り切れてしまう、自身の理性にも。
「先生!」
思考の泥沼に嵌る寸前、掛けられた声にふっと我に帰る。声の方へと向き直ると、そこに、懐かしい姿があった。
「お久しぶりです、先生」
「あぁ、本当に久しぶりだね。また会えて嬉しいよ」
かつて少年だったその顔からはあどけなさがすっかり抜け落ち、代わりに精悍さが色濃く現れていた。背もずいぶん高くなり、今や私が見上げる側となっていた。それでも粗野粗暴な印象を受けないのは、その瞳に確と知性の光が宿っていたからだった。
「自分も、お会い出来てうれしいです。どうぞ、お入りください」
招き入れられるまま、戸をくぐり室内へ。そこに広がっていたのは、あの雪の日に招き入れられたときのままの景観だった。不変である事を美徳とするつもりはないが、そこには確かに、得難い懐かしさがあった。
そしてそれは、家主にも同じ事が言えた。背格好、持ち得る知己こそ成長してはいたが、彼の根幹はまるで揺らぐことなく、出会ったあの頃のままであった。
誰にも言ったことがない。本人は勿論、お嬢さんにも。そして恐らく、誰しもが気付いていない。
鎹新羅は、異質な少年だった。
お嬢さんの異端とは、そもそも生まれ持った奇怪な体質による部分が極めて大きい。その体質こそが彼女の生涯を大きく決定付け、それに伴う形で彼女自身の人格を形成した。彼女の達観も、諦観も。初めからそこにあった訳ではなく、確かな理由の基積み上げられた産物であった。
彼は、そうした明確な理由が存在しないまま、ただただ異質だった。家庭環境に大きな問題があるでも無く、心身共に秀でもしなければ取り立てて周りと違う何かも無い。貧困に喘ぐ程ではないが、湯水の様に持て余す裕福さとは無縁。有体に言えば、普通。異質さを形成する根拠が、彼の周囲にはどうしても見付けられなかった。
にも関わらず。彼には明らかな異質さがあった。閉塞的な村の、閉鎖された人間関係の中でのみ生きてきた彼はしかし、ありのままを受け止める事について、極めて秀でていた。
共有できない世界を、共感しないまま、尊重する。理解とは程遠い所にありながら、その在り方をただ認める。言葉にすれば全く簡単な、或いは誰にでも出来る話。だが、そんな小さな当たり前を為すことが出来ない故に、防がれることのなかった争いは数知れず。…少なくとも私は、彼と同じ生き方を彼以上に体現出来ている人間と出会ったことがない。
世界の共有は出来ない。故にそこに生きる者に共感する事は出来ない。だから理解など到底出来ない。認識できるのは自分とは違うという事実のみ。—だが、排さない。理解出来ぬ者への恐怖は、彼にはない。
理解出来ぬ以上、異質を受け入れる事はしない。ただ、受け止める。違う者らがちがうまま、同じ地平に立って生きているのだと自覚している。
それは最早超然とした、神仏の目線に近いものだった。
彼もまた、彼女を理解などしていなかった。それは恐らく、この世界において彼女自身以外の誰にも出来ない事だ。
しかし、彼だけがこの村で唯一。彼女の存在を何の疑いもないまま受け入れていた。
それは彼女にとって、ひどく得難いものであるに違いなかった。
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