遠方より

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「先生の書いた本が読みたいわ」

 大きな眼を爛々と輝かせてそう言った彼女の顔を、今でも鮮明に覚えている。

 数代振りに誕生した、異端の者。無機な言葉に命を与え、対価として自身の生涯を切り落としていく。そんな少女はしかし、底抜けに利発で、そしてまた余りにも聡く…そして芯から強い人間であった。


 書冊とあれば何でも進んで読み進めた彼女だが、とりわけ創作…物語への入れ込み方は凄まじいものがあった。側から見ればそれは最早執着と言い換えてもいい熱の入れようだった。

「私が書いたのは幾つかの簡単な教本です。お嬢さんのお好みでは無いと思いますよ」

 知識の倉庫としての書物。そこに空想の入り込む余地は無く、であるならば彼女の心を惹きつけるものなどありはしないだろう。そんな私の浅薄を、彼女は溌剌と一蹴に付す。

「ただの知識ではなく、先生が学んだ事を改めて伝え直すために書いた本なのでしょう?それならそれは、正しく冒険譚に他ならないでしょう。先生のこれまでの積み重ねを切り取ったものなのだから」


 良し悪しを問わず。稚拙老巧に関わらず。或いは描かれる事柄の如何に依らず。書冊とはそれを書いた者の、生涯の回顧録であると。もしくは辿り着いた今現在の己の写鏡なのだと、彼女は言った。理想論と言えばそれまで。寧ろそれは、真実から程遠い物であるように思えた。

 虚偽の流布を目的とした、悪意に塗れた書。その程度ならまだ良い方で、徒に書かれただけの散文…伝えたい言葉の一編すら有りはしない、雑多の寄せ集め。そうした物こそは世に多くあり、身を切りながら言葉を紡ぐ本物の物書きなどそういるものでは無い。

 そう、長らく考えていた。そんな私の考えを覆したのもまた、彼女だった。

「伝えたい事を持ち合わせない言葉なんてないよ。悪意に塗れていても、憐憫に爛れていても、ただただ梼昧とうまいであったとしても。そこには必ず意味があるし、産み出した人の想いの一片は必ず介在する。だから底抜けの馬鹿らしさだって、愛しいばかりだよ」

 彼女は恐らく、平等に愛していた。紡がれた言葉越しに垣間見える人の心の片隅を、例外なく一律に。分け隔てないと言えば聞こえはいいが、それはつまり特別な感情を抱かないという事。

 その違和感の正体に気付くのに、それ程の時間は要らなかった。


 教育係として久世の家に来てから二度目の春先。その日の修学に使う資料を持って部屋に入ると、いつも通り部屋で待っていたお嬢さんの頬が真っ青に腫れていた。

「いやー、思いっきり殴られちゃった」

 慌てて冷やした手拭いで頬を冷やしながら事情を問い詰める私に、お嬢さんは平然と…恐ろしい事に僅かな笑みすら浮かべながら、そう応えた。

「父様の憤りは、まぁ理解出来るからね。あまり責める気にもならないよ」


 お嬢さんは、自身の見えている世界を偽る事を頑として拒んだ。その目に映るもの等を、まるで無いかの様に扱う事を、決して自らに許さなかった。それは確かに美徳ではあったのだろう。だが、同じ世界を共有する事の叶わない周囲の人間からすれば、言い表される不可視の景観と、そこに生きる少女の姿はただひたすらに奇異であるばかりだった。

 久世の現当主は、自身の家系に生まれるとされる異端について極めて懐疑的であった。私が教育係として登用される際にも一悶着あった程であった。そんな、周囲からの理解出来ないという軋轢は、その当時において既にどうにもならないほど根深いものとなっていた。

「心配しないで、先生」

 その表情は常と変わらぬ利発さを保ち…故にこそ、酷く危ういものに見えた。そして言葉は続く。

「人の心は難しいね。多くの書物の中に表れる心を幾ら読み解いても、刻一刻と揺らぎ続ける生きた感情を理解するのは、本当に難しい。仕方がない事なのだろうけれど」


 物語とは、読み解く者の解釈次第で広大な拡がりを有する…けれど緻密に組み上げられた、閉じた世界。一方で人の心は揺らぎ、移ろい、時として酷く乱雑な代物である。そんな、認めることすら憚られる様なを、彼女は遥か幼い時分から痛いほど理解していた。理解して、故にこそ…理解される事を諦めていた。

「見えない物を認めるというのは、本当に難しい事なんだね。分かっているから尚の事、分かって欲しいとは言えないよ。立場が逆だったら、私は私の言葉を信じなかっただろうし」

 共感は、共有の後にある。事柄を同じ場所、同じ目線で見る事…それが叶わないのならば、同じ景色を思い描く事。それなくして相互の理解が深まることはない。で、あるならば。彼女が自らを理解してほしいという、あまりにも細やかな望みすら放棄してしまった事を、一体誰が責められるというのか。


 いっそ、軽薄に。見えるものから目を瞑ってしまえば、あるいは彼女の生涯に待ち受ける苦難の諸々は取り除けたのかもしれない。だが、彼女はそれを拒んだ。

 見える世界を否定する。それは彼女にとって、自ら愛してやまなかった物語の存在の否定に他ならなかった。それだけが、どうしても出来なかったのだろう。




 彼女が亡くなってから五年程経った頃。

 都の一角で教鞭をとっていた私の元に、一通の文が届いた。そこに書かれていたのは角張った、少し癖のある…けれど一文字一文字丁寧に書いたであろう事が伝わってくる文章。記された言葉を読んで、知らず笑みが。望郷とは違う、もっと刹那的な想い出を呼び起こされた綻びが溢れた。


 忘れた事などなかった、懐かしい顔。彼は、確かにそこに居た。

 少女の抱える底の見えない絶望も、諦観も。まるで意に介さなかった少年が、一人、居た。


 

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