5
「あぁ、ありがとう」
自宅に招き入れお茶を出す。先生は簡潔に礼を述べ…しかしそれを口に運ぶ事はしなかった。外の冷え込みはなお一層深く。対比として、囲炉裏の弱い火ですらひどく暖かなものとして感じられた。
雪に濡れた服を着替え終わり、囲炉裏を挟んで対面に腰を下ろす。
チラチラと揺れる囲炉裏の火を見つめながら、互いに何かを口にするわけでも無く。柔らかな光に照らされる互いの表情を見据えるでも無く。長い、長い沈黙だった。
ふと。遠く夜の彼方、一際大きな雪の落ちる音が聞こえる。家屋の屋根か、木に降り積もったものか。雪は、更に強くなっている様だった。
「止みませんね、雪」
我ながら、とても人に向けた物とは思えぬほどに小さな、呟きに近い声だった。けれど、長く場を満たしていた静寂を破るには十分過ぎるものだった。
「この村に来てから一番の大雪だね。元々雪の少ない土地の育ちだったからかな、何年経っても雪掻きが上手くならなくて参るよ」
気恥ずかしげに小さな笑みを浮かべる。
「コツがあるんですよ。良ければ今度お教えしますよ。来年の冬までには上達すると思うので」
言うと。笑みに、僅か淋しそうな色が浮かぶ。
「ありがとう。ただ、しっかり覚えられる程練習は出来ないかもしれない」
言葉に。本来、彼が自分を訪ねてきた理由へ思考が向かう。
「私はお嬢さんの教育係だからね。教える相手が居なくなれば、長くここにはいられないよ」
重い、重い、言葉を口にした。
「——そう、ですか」
咄嗟に口から出たのは、余りにも呆気ない一言だった。
悲しいには、悲しいのだと思う。二度と逢えないという事実は、ただそれだけで悲嘆に暮れるには十分過ぎる理由になるのだとも思う。ただ、打ちひしがれて身を震わせる程の衝撃を受けたかと言えば…実際のところそうでもなかった。
この最期はわかっていた事だ。青天の霹靂が如く、突然に降って湧いた訃報ではない。そしてその過渡についても、既に自分はおおまかな流れを知っていた。
「—先生はすぐに発たれるんですか?」
言葉にすることが難しい感情の振れからは目を逸らし、目の前の疑念を口にする。
「葬儀と、それに纏わる諸々が終わったらだから…年明けは待たずに出発する事になるだろうね」
「それは…淋しくなります」
本心からの言葉だった。とても親しいと言う間柄ではなかったけれど、一方的に尊敬の念を抱いていた人の突然の出立に物悲しさを感じていた。
「私もだよ。…新羅君のことだから気付いているだろうけれど、私はこの村の人達からは余りよく思われていないところがあってね。新羅君の様に、真っ直ぐな人付き合いを育んでくれる人は私にとってとても貴重だったんだ。今更になるけれど、本当にありがとう」
村の住人の、小さくない侮蔑の感情。村の大人達が嫌い、なんてことは無かったけれど。彼らが先生に向けていた、それらの負の感情は好きになれなかった。それらに晒される先生には申し訳ない気持ちを抱きつつ…けれど自分は何も出来なかったし、しなかった。そんな自分に向けられた買い被りすぎな言葉に、申し訳なさは肥大するばかりだった。
「村の連中が先生を悪く言ってるのは、知ってます。それに対して自分は、そうした状況を変える様な事を何もして来ませんでした。…勝手な話なんですけど、自分は先生を尊敬してます。尊敬してる先生が侮辱されている事をしっていながら、なにも解決しようとしなかったんです。だから本当に、そんな風に頭を下げていただける様な人間では全くないんです、自分は」
けれど。そんな自分の後ろ暗さを、先生はとても強く否定する。
「多くを変える為に声を挙げる事は必要だ。ただそうすると、多くの場合声を挙げた当人は心無い言葉に晒される。酷い時にはその後何年にも渡って人生を苛む要因になり得る程の痛みを被る。見て見ぬ振りが、
先生が一通の封書を差し出してくる。
「これは…」
受け取りながら、問い掛ける。けれど実際のところ、聞かずとも、それが何なのかはわかっていた。
「お嬢さんから君へ。自分が亡くなったら君に渡す様頼まれていたんだ。勿論、内容まではわからないけれど」
持てば僅か、文字通り風に飛ばされそうな重さしか持たないその文はけれど、強く自身を主張する確かな重さを持っていた。
ここに記されたのは、正に最期の言葉。二度と出会うことの無い、別れの文。
「—先生は、本を書いた事はありますか」
ふむ、と。記憶を辿る仕草を挟んで、口を開く。
「創作としての物語は経験がないが、職業柄幾冊かの教本を執筆した経験はあるね。誰かに宛てた文章も同じくかな」
自分は文盲だった。
取り立てて学が必要な人生ではなかったし、それは周りの大人達も同様であった。誰かに宛てた文を書いた経験すら、自分にはなかった。
「合歓が言っていたんです。本の中には世界があるって」
「荒唐無稽な冒険譚、世界のこれまでを記した歴史書、知識を蓄えた教本。切り取られた一瞬と、連綿と続く永遠が言葉…文章という同じ枠組みの中で絶えず存在している。彼女は、それら書き連ねられた文章を、書き手各々の世界と表現していました」
「それは、なるほど。彼女らしい表現だ」
微笑みを浮かべるその姿は、慈愛に満ちていた。
「私の考えだから全てを鵜呑みにしてほしくはないのだけれど」
そしてその上で、先生は丁寧に言葉を選んでいく。
「特に創作…所謂物語についてはそうである様に感じるのだけど…多くの場合、紡がれる物語には読み手に向けて伝えたい何かを内包している。それらは普遍的な愛憎であったり、私たちの生きる生涯への問い掛けだったり至極様々だ。物語という空想の世界を創造し、その世界を通じて現実の世界へと自身の想いを投げ渡すんだ。そしてそれらは正に、書き手の人生を構成する一瞬を切り取って生み出され、或いは永劫遺り続ける。けれどそれは、何も本だけの話では無い」
先生が文を指差す。
合歓から託された最期の言葉。
数多の世界を永く漕ぎ続けて来た彼女が、自分に宛てた、これもまた確かに、世界の一片。
「—先生」
「なにかな」
柔らかな面持ちに、言葉を。伴って大きく頭を下げる。
「自分に字を教えてください。この文が読める様、お願いします」
言葉と共に、くすりと。先生の顔が綻ぶ。
「本当に君達は素敵な関係だ」
意味がわからず当惑する。先生は受け取る仕草で手を差し出してくる。
「もし君が不快で無いのならば、その文、私が読んで伝えることも出来るんだよ。君が今からわざわざ字を…言葉を覚える必要があるのかな」
有難い申し出ではあった。けれど
「自分で読みたいんです。別に多分、聞かれて不味いことなんかひとつもないだろうけれど、それでもこの文は…この文だけは、自分が直接読まなければと思うんです」
誰かの産み出した世界を泳ぎ往くには、船がいる。あらゆるを持たず、徒手空拳のまま数多広がる物語の海原を進む事はできない。伝えたいと願われた言葉を汲み取るためには、等しく、読み解く自身にもその術が備わっている必要がある。
伝聞に否定的なわけでは無い。ただそれは本筋では無い。言葉は確かに、自分へと宛てられた。
ならば往かねば。水平線の彼方、程遠い世界の末端まで届く様に。それは確かに、受け取った自分にしか出来ない事だった。
「おかしい、でしょうか」
向けられる笑みに悪意はさらさら感じられない。それでも僅か不安を感じ、問い掛ける。その言葉は
「そんなことはない。ただ…お嬢さんは、神羅君ならきっと自分で読むと言って聞かないはずだと断言していた。それがすこしだけ可笑しかったんだ」
そうやって。今は亡き姿に、先回りで否定されていた。
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