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 今にして思う。

 あの時森先生が言う通り、強く止める様促していれば、或いは何か結果が変わったのだろうか。それともやはり大した差なども無く、訪れる結末は寸分違わなかったのだろうか。その答えが詳らかになる事は、生涯ない。残されたのは、選んだ事実の先に迎え入れられた結果だけ。そこに伴った感情だけ。

 説得の打診から一年程。いよいよ合歓の衰弱は深刻なものとなっており、とんとその姿を見かける事は無くなった。

 縁側の下。幼き時分からずっと、彼女のお気に入りだったその場所はしかし、今や居着く人も無く。乾いた風に吹かれる人の影なきその景観は、ひどく寂しげなものに見えた。


 生き方を尊重する、と。自分の選んだ選択を、森先生はそう評した。であるならば。若い身空で死に向かうその背中を追い縋り、引き止めようとする事はでは果たして、彼女を軽んじていただろうか。否、だと思う。或いは、その背中を引き留める事を選ばなかった自分こそは、ひどく冷徹で冷酷な人間に思えて仕方がなかった。

 逡巡する。合歓の命が喪われたその時、自分は後悔するのであろうか。物語の世界に引き篭もっていないで外へ行こう、と。その手を引くべきだったと思い悩むのだろうか。

 否、だと思う。そう思いたかった。

 彼女は何かから逃げ出して…書冊の内、綴られた物語の世界を拠り所にしていたわけではなかった。ただひたすらに、多くの人達が生み出した空想の海に思いを馳せるばかりだった。時に胸を弾ませ、時に哀愁に浸り。感情を揺らし、心を震わせる。

 選ばなければならなかったのだと思う。

 何等かの事情があったとしても、自ら開いた頁を閉じる選択が残された中で、それでも物語を読み解く事を…命を遺す事を選んだ。限られた二択の中から選び取った生き方を…命を賭けた選択を、ただ生き永らえることの方が大切だ等と安い言葉で蔑ろにする事は、どうしても出来なかった。

 そんな。選び取った生涯に従ずるを選んだ事を妨げなかった自分の選択が間違っているとは、どうしても思えなかった。


 だから。

 待ち受けるとされる最期、この胸に去来するのは、僅かばかりの寂寥だけであれば良いと思った。




 


 打診から二年程が過ぎた、ある雪の日。

 薄曇りの空は沈み込む様に低く、見上げた先の閉塞感はさながら行き詰る水底を彷彿とさせる。大粒の雪がしんしんと降る最中、吐く息は白く、呼吸の度、それらはなにかの狼煙の如く宙に昇り、帰る。

 先程まで雪かき作業に精を出していた住人達の姿は既に無く、周囲に人の気配は無くなっていた。雪の折り重なり積もる音は、まるで骨の軋む様で。空気の伴う冷たさに似た、冷え切った沈黙を僅かばかり彩る。

 指先の感覚は既にまるでなく。痛いほどにかじかんだ身体を引き摺りながら雪かきを続ける。

 仕事の都合で丁度親父が家を空けていた。本当は今すぐ家で休んでしまいたいところだったが、ここでさぼると明日の自分が苦しくなる。とはいえ、あまり無理をして体調でも崩そうものなら、それこそ大問題だ。

 もう少ししたら家で休もう。作業を続けようとした、そんな時。静寂に小さく、掠れた様な足音。顔を上げると、そこには森先生が立っていた。


「こんばんは、新羅君。…少し良いかな」

 どうされたんですか、こんな時間に。口に出そうとした言葉はしかし、実際に口から出る事はなかった。


 穏やかな声色と、表情。その中に僅かな哀しさと…何か一つ、大きな仕事を終えた後の様なゆるい疲労の色が見えた。その表情で、理解した。




 来るべき最期が来た。

 先生は、それを報せに来てくれたのだ。

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