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 寝耳に水だった。合歓に纏わる話題である事は何となく想像していたが、読書をやめる様促して欲しいとは、まるで想定していない頼み事であった。

「お嬢さんが最近、体調を崩しがちなのはすでに知っていると思うが、その原因について詳細を知ってはいないと思う。新羅君、彼女が話した…文章が生きていると言う話についてどう考える」

「考える、ですか」

 荒唐無稽な絵空事。もしくは空想家の陳腐な妄言。言葉の主が合歓でなかったなら、そう答えていたと思う。ただ、彼女がそう言った以上、自分に見えない世界が彼女に見えていると言う事なのだろう。

 共感ができるでもなし。見えぬ世界を共有出来るでもなし。だからそもそも、考えるもなにもない。

「わかりません。そうなんだな、と思ってます」

 空を見上げて何とする、みたいな哲学の話をしているわけでもない以上、思う所はただそれだけ。計り知れぬ、見えぬ世界があると言う事実がそこにはあるだけだった。

 この答えもまた、想定していなかったらしい。森先生は少しばかり呆気に取られている様子だった。

「信じているのかい?その話を」

「信じては…どうでしょう、わかりません。ただ、疑ってはいないです」

 この話題に森先生は興味がある様だった。次の言葉を口にせず、こちらが話すのを待つ姿勢を作っていた。そんな様に…改めて、自身の思考を言語化しようと試みる。


「合歓の話してる内容が丸っ切り真実なのか、何か心の調子が良くなくて見えてる幻なのか、自分にはわかりません。自分に見えないものについて共感も出来ません。けど、見えないものがあり得ない、と断言できるほど学がある訳でもないですし…本人が見えると言っているってことは、そう言う世界があるんだろうと思ってます」

 少しの間。考えを巡らせているその様子に、何かおかしな事を言ってしまっただろうか、と申し訳なさを感じる。しかし、そんなこちらに向けて次に放たれたのは

「前々から思っていたけれど、新羅君は少し珍しい見方で世界を視ているね」

更に想定していなかった言葉だった。

 馬鹿にされている…と言うわけではない事だけわかる。しかしその真意を測りかね、首を傾げる。

「そんな君にだから、私もを話そうと思ったのだけど…私の人を見る目も中々捨てたものではないな」

言葉には僅か、満足げな気配を感じた。森先生は、真っ直ぐこちらに向けていた視線を外し、遠く見える曇天へとそれを向けた。

「彼女の言っている事…あれは全て真実なんだ。ただし、順序は逆。文章が生きているのではなく、彼女が読み解く事で物語が命を持つ…あれはそう言う現象なんだ」

 すっ、と森先生が指を指す。向けられたその先に視線を向ける。見えたのは合歓の…久世の屋敷。

「久世の家には昔から数代に一度、そういう体質を持った子供が生まれる。人の生み出した空想の世界を現実へ繋げる、橋渡しの読人。私の家は昔から久世の一族と懇意にしていてね、そうした体質を持って生まれた子らの教育をしている家系なんだ」

 名家である、という漠然とした情報を除けば、久世の家について自分が知っていることなど皆無である。とは言え元より狭い村。そんな異質な話、とんとこれまで聞いた事がなかった事に違和感を覚える。

「この体質には一つ、大きな問題があってね。書冊…文章に吹き込まれる命は、無から生まれる訳じゃない。お嬢さんの命を切り分けたその断片が物語として命を持つ。言い換えればこの体質は、書を読めば読むだけ死に向かう病の様な物なんだ」

 ここまで聞いて。話の頭で願い出された言葉と併せて、違和感の原因に思い至る。詰まる所、この体質が大きな問題となった事がないのではないか。

 本を読む事を止める様に促す。つまりそれは、と言う事なのだろう。

 異質な体質。その原因や由来までを知る由は自分にはないが、明確に対処方法が存在するのであれば、それらはなんら危惧する様な話ではない。


 ただ。

「この話、当然合歓は知っているんですよね」

 先生が頷く。その表情は暗く、困り果てている様に見えた。

「体質と内容、その全てをお嬢さんには伝えてある。けれど何故か頑として、書を読む事を止めようとはしないんだ。理由を語る事はないし、ご家族の誰が言い聞かせてもそれは変わらなかった」

 合歓は、自身の世話をしてくれている人等に申し訳ないと口にしていた。そうした負担や不安を周囲に与えながら、それでも読む事を辞めないとするならば、そこには必ず何か理由がある筈だった。

 そしてもう一つ、奇妙に感じた事。それは、と言う事。

 本人をふん縛って…は些か乱暴だとしても、それこそ屋敷に保管されている書冊を片っ端から焼き払ってしまえばいいのではないか。

 思うは易し。この程度の思考が未だ為されていないという事は、それが出来ない理由があるという事。もしくは、やらない理由が同じ様に。


「…すみません、先生。多分、力になれないと思います」

「…何故だい?」

 責めるでもなく、ただ問われる。視線は真っ直ぐにこちらを見据えている。この眼は、知っている。対等な人間に率直な疑問をただ投げかけている顔。邪気の無い、混じり気のない信頼の眼差し。故に言葉は慎重に、思いが正しく伝わる様に言葉を選ぶ。

「合歓は自分よりもずっと聡い人間です。全部の事情を聞かされて、理解して、それでも辞めないって言うなら、多分そこには何か理由がある筈だと思います。自分で選んでそうしているんだと思います」

 返答はない。表情は相変わらずやや暗く…それ故に自分の言葉が、真実とあまり遠く離れていない事を確認する。

「のっぴきならない何かに強要されているのであればその限りではないけれど…選んでそうしているのであれば、無責任に止めろとは、自分には言えません」

「その結果、彼女の命が喪われるとしてもかい?」


 買い被りだ。自分の言葉に、聡明な合歓の意思を覆すほどの重さなどありはしない。伝えようが伝えまいが、結果は寸分変わらないだろう。

 けれど。もし自分の言葉に、期待されているだけの何か、力の様なものがあったとしても。

 脳裏に浮かんだいつかの景色。無数に散らばる空想の海を楽しげに航海するその姿に、嘘はなかったろう。


「言い方がよくありませんでした。自分は、言いたくありません。本当にすみません」

 深々と頭を下げる。

 森先生が合歓を大事に思っているであろう事は、言葉の端々から伝わってくる。そんな想いに応えられない…応えない事を選んだ事実だけ。その一点において、言い逃れできぬ程の申し訳なさを感じた。


 幾ばくかの沈黙。先にそれを破ったのは、先生だった。

「謝らなければならないのは私の方だ」

 見れば。その表情に先程までの暗さはなく、代わりに、こちらを心配そうに見つめる、いつもの柔らかさがそこにあった。

「仮に彼女が亡くなったとして、その責任の一端すら君にはない。だというのに、まるで押し付け、責め、恫喝するような言葉で君の選択を縛ろうとしてしまった。本当に申し訳ない、許して欲しい」

 真っ直ぐな謝罪。謝られるほどの事は何もされていない身の上としては恐縮してしまう。

「君の言うとおり、彼女はひどく賢い。その賢さ故に、選ばなくとも良い選択を自ら進んで拾ってしまっている。思い上がりだが、私はそんな彼女の命を救おうなどと考えていたのだけれど…確かに、尊重すべきは彼女自身に他ならないのだろうね」

 そこまで大それた話ではないのだけれど。思いが正しく伝わった事に胸を撫で下ろす。そんな自分の姿に向けて、先生が笑みを浮かべる。まるっきり、憑き物が落ちた様な優しい笑顔だった。

「しかし、新羅君は肝が据わっているね。お嬢さんの話然り、私の話も大概荒唐無稽だったろうに」

「それはまぁ、村の他の大人達が同じ話をしてきたら、多分信じなかったと思います。先生が話したから、なんとなく納得しただけですよ」

 本当のところ、聞かされた話がどこまで真実なのかを確かめる術はない。であるならば、信じる。自分には及びもしない世界があって、そうした中で生きている人等がいるのだと、信じる事を選ぶ。自分にできる事といえば、良いとこその程度のものだった。

 だから。


「嬉しい限りだ。新羅君は言葉ではなく、私を信用してくれたのだね」


破顔し向けられたその言葉に。何か一つ、想いに応えられたのではないかと、嬉しくなった。




 

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